ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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L'enfer, c'est les autres.

ジャン=ポール・サルトル
『出口なし』(Huis Clos)


第11話「他人は地獄である。」

「勇者様」――。

 

その四文字が、印刷室の重苦しい空気の中に溶け落ちた。

俺の脳内にある数千の論理回路が、一瞬にしてショートを起こす。

指先に残る、特殊温度揮発インクの感触。暗視ゴーグルの緑色の視界。それら全てが遠のき、俺の意識はあの地獄へと引き戻された。

 

救済難度SS+『捻曲イクスフォリア』

 

俺が一度失敗し、そして二度目も命を削って救ったはずの世界。

その記憶は、この平和な学校のシステムとは決して交わらないはずのものだ。

 

(なぜだ。なぜこの女が、その名を知っている。監視カメラ? 盗聴? ……否、物理的な手段で到達できる情報ではない。俺のステータスは完全に偽装されている。スキルの痕跡も残していないはずだ)

 

「……ッ、……ぁ……」

 

喉の奥から、乾いた音が漏れる。

慎重すぎると笑われるほど、俺は準備を重ねてきた。だが、これは準備で防げる事態ではない。

 

物理法則の根底が、足元から崩れ去っていく感覚。

リスタルテ。ロケットの中の彼女を救うための通貨を得る場所。それが、この高度育成高等学校だと確信していた俺の前提が、音を立てて砕け散る。

 

その時、背後から無機質な声が聞こえた。

 

「……おい。お前、様子がおかしいぞ」

 

綾小路清隆だ。

 

彼は俺の異変を心配しているのではない。暗闇の中、俺の呼吸の間隔が0.3秒乱れ、指先が微かに痙攣を始めたことを、ただの現象として報告しているだけだ。

 

「心拍数が120を超えたな。今の坂柳の言葉に、そこまでの反応を示す理由があるのか。……それとも、あの『勇者』という呼び名には、俺には理解できない特殊なコンテキストが含まれているのか?」

 

綾小路の目は、俺を救おうとも、支えようともしていない。

彼はただ、俺という得体の知れない存在が、坂柳有栖という別の怪物に触れた際にどのような化学反応を起こすのかを、興味深く、そして徹底的に冷淡に観察していた。

 

俺は壁に手をつき、荒い呼吸を整える。

(……落ち着け。……レディ・パーフェクトリーだ。……まだ、詰んではいない。何を考えているかわからんが、何かカマをかけている可能性も……)

 

だが、ドアの外からの杖の音は、俺の微かな希望を粉砕するように再び響いた。

 

「ふふ。聖哉くん、そんなところで立ち往生していていいのですか? あなたがこの学校に持ち込んだ『慎重さ』の化けの皮が、少しばかり剥がれ落ちているようですよ。

 

 

 

 

……捻曲イクスフォリア。その歪んだ世界で、あなたが最後に見た景色……私は、それを共有できる数少ない人間の一人かもしれません」

 

坂柳の声には、確かな悦びが混じっていた。

それは、自分と同じ、あるいは自分を超える異常者がこの箱庭に存在することを確認した、捕食者の歓喜。

 

「……何が目的だ。……お前は、何を知っている」

 

俺の声は、自分でも驚くほど低く、殺意に満ちていた。

懐のタクティカル・ナイフ。これを投げれば、ドア越しでも彼女の急所を貫ける。

だが、その行動が慎重さの欠如であることは、俺の理性が辛うじて警告していた。

 

「お前、やめておけ」

 

綾小路が、俺の腕の筋肉の弛緩を察知し、短く言った。

彼は俺の前に出るわけでもなく、ただ暗闇の中で、影の一部となって言葉を投げる。

 

「今、お前がそれを抜けば、この学校でのオレたちの立場は終わる。坂柳はそれを待っている。感情に任せた行動は、お前が最も嫌う非効率な選択だろ」

 

綾小路の言葉には、温度が一切なかった。

彼は俺の過去にも、俺が抱える絶望にも興味がない。

 

 

ただ、「俺がここで暴れることが、彼自身の平穏を損なう」という点においてのみ、彼は俺の行動を制止しているに過ぎない。

 

(……そうだ。……こいつは、こういう男だった)

 

俺はナイフから手を離した。

 

 

 

 

「……撤退だ、綾小路」

 

俺は、絞り出すように言った。

インクの調整も、マークシートの解析も、もはや続行不可能だ。

この状態で作業を続ければ、必ずミスをする。俺の脳は今、坂柳有栖という巨大なバグの処理に全リソースを奪われている。

 

「妥当な判断だな」

 

綾小路は即座に応じた。

彼には、俺を見捨てるという選択肢も常に用意されているだろう。もし坂柳がドアを開け、この場が発覚すれば、彼は俺を身代わりにして自分だけ逃げ切る算段を既に整えているはずだ。

 

「明日、放課後ですね。……楽しみにしておきますよ、勇者様。……ふふ」

 

杖の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。

俺と綾小路は、印刷室の闇の中で、互いの距離を保ったまま立ち尽くしていた。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

入学式以来、もはやパラノイアと呼ぶべき彼の病的な慎重さをみてきたが、

竜宮院聖哉という男が、ここまで脆い一面を持っているとは思わなかった。

 

 

坂柳有栖が放った、いくつかの単語。

 

 

『勇者』、『イクスフォリア』。

 

 

それらが何を意味するのか、今のオレには分からない。だが、竜宮院の反応を見る限り、それは彼のアイデンティティの根幹に関わるトラウマか、あるいは秘匿された重大な過去であることは明白だ。

 

 

(……竜宮院聖哉。お前は、ただの慎重な学生ではないな。……そのロケットの中に入っている肖像画。そして、坂柳の態度。……お前たちは、オレの知らない場所で、同じ地獄を見てきたということか)

 

オレは、壁際で荒い呼吸を繰り返す竜宮院を、視界の端で捉え続ける。

彼を部品として利用する価値はまだある。だが、その部品に致命的な亀裂が入った。

もし彼が使い物にならなくなれば、オレは別のルートで中間テストを乗り切る必要がある。

 

「……竜宮院。先に行くぞ。……お前の『完璧な準備』とやらに、坂柳という因子は含まれていなかったようだが」

 

オレは、突き放すように言って、ドアへと向かった。

彼を励ますつもりも、寄り添うつもりもない。

ただ、彼の失態を指摘することで、彼がどのような自己修復能力を見せるのかを確認したかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……待て。……綾小路」

 

聖哉の声が、暗闇の中で鋭さを取り戻しつつあった。

その瞳は、まだ充血していたが、そこに宿る光は先ほどまでの絶望ではない。

極限の混乱の先で、彼の中の慎重が、狂気的なまでの防衛本能へと変質していた。

 

「……プランΩだ。……これより、全リソースを坂柳有栖の『解析』と『無効化』に回す。中間テストの優先順位を2位に下げる」

 

「ほう。……テストで赤点を取れば退学だぞ。それはお前の目的に反するんじゃないのか?」

 

「退学? ……そんな些細なリスク、坂柳というバグを放置することに比べれば無視できる。……俺は、レディ・パーフェクトリー以外の結末を認めない。……綾小路、お前も協力しろ。これは依頼ではない。……俺が沈めば、お前も引きずり込む」

 

オレは、一瞬だけ足を止めた。

竜宮院の目は、本気だった。

彼は自分の破滅を盾にして、オレをこの狂気のゲームに強制参加させようとしている。

 

(……やれやれ。面倒なことになったな)

 

「考えておくよ」

 

オレはそう言い残し、印刷室を出た。

廊下には、坂柳が残したかすかな香水の匂いだけが漂っていた。

 

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

 

自室に戻った俺は、即座にメインサーバーのセキュリティレベルを最大まで引き上げた。

手が震えている? 違う。これは、武者震いだ。

 

(坂柳有栖……。お前が俺を『勇者』と呼ぶなら、俺は『勇者』としてお前を葬る。……お前が知るイクスフォリアの記憶が、どこから来たものであれ、俺の救済を邪魔する者は、神であっても許さない)

 

俺は、デスクの上に数枚の設計図を広げた。

 

それは、本来この学校では必要のないはずの兵器の設計図だった。

学校の購買部で買えるもの。

寮の清掃用具。

理科室から盗み出した試薬。

それらを組み合わせ、俺は坂柳有栖専用のトラップを構築し始める。

 

「……リスタ。……俺を、信じろ」

 

俺はロケットを握りしめた。

俺が失ったのは、ほんの一瞬の冷静さだ。

だが、その代償に、俺は手に入れた。

 

この学校という箱庭が、かつてのイクスフォリアと同じ、あるいはそれ以上の悪意に満ちた世界であるという確信を。

 

(明日。屋上。……そこがお前の、最後の場所になる。……)

 

俺の瞳から、人間らしい感情が消え、冷徹な攻略者の色彩が戻る。

 

 

 

 

 

 

 

夜明けが近づいていた。

だが、俺にとっては、これが本当の戦いの始まりだった。

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