ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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Il n'y a pas de hasard dans ce monde, il n'y a que la nécessité et notre ignorance.

ポール=アンリ・ティリ・ドルバック
『自然の体系』


第12話「この世に偶然などない。あるのは必然と、そして無知だけだ。」

特別棟の屋上。吹き抜ける夜風は、肌を刺すように冷たい。

 

竜宮院聖哉は、右手の内に隠し持った急造の対人無力化ガジェット『ケルベロス』の起動スイッチに指をかけたまま、7.5メートル先の坂柳有栖を凝視していた。

 

「……お前は、何を知っている」

 

絞り出すような声。

 

印刷室で彼女が放った言葉。

『勇者』。

『捻曲イクスフォリア』。

 

それは、この魔法も神も存在しないはずの物理法則の箱庭において、絶対に出現してはならない単語だった。

聖哉の脳内で、最悪のシミュレーションが暴走を始めていた。

 

(この学園の背後には、神界の管理を逃れた魔王軍の残党がいるのか? それとも、この世界そのものが、俺を絶望させるために構築された罠なのか?)

 

もしそうであれば、もはやAクラス卒業などと言っている場合ではない。

今すぐこの学校の基幹システムを物理的に破壊し、理事長を含む中枢の人間を徹底的に排除しなければならない。

 

だが、坂柳有栖は、聖哉の全身から放たれる実体を持った殺意を浴びながらも、杖を両手で持ち、上品に、そして心底楽しそうに微笑んでいた。

 

 

「ふふ。そんなに怖い顔をしないでください、勇者様。……あるいは、別の呼び方がお望みですか? 例えば……『被検体コード・SSプラス』、とか」

 

 

「……ッ!」

 

 

聖哉の指先がピクリと動いた。

だが、彼女の言葉のニュアンスに、聖哉の極限まで研ぎ澄まされた論理回路が、わずかな「違和感」を感知した。

(被検体コード……? 魔王や神々が、そんな無機質な単語を使うか?)

 

「……お前、俺の素性をどこで知った。誰から聞いた」

 

「誰からも聞いていませんよ。私はただ、視ただけです。……この高度育成高等学校の、Sシステムの深層データベースに刻まれた、酷く雑なハッキングの痕跡を」

 

坂柳は杖をコン、とコンクリートの床に突いた。

その澄んだ音が、屋上の緊張感を少しだけ中和する。

 

「……どういう意味だ」

 

「私はこの学校の理事長の娘という立場にあります。ですから、システムの裏側を少しばかり散歩する権限を持っているのです。……4月。新入生のデータが登録された際、あなたのファイルだけが、極めて異質なエラーを吐き出していました」

 

坂柳は、夕闇に沈みゆく空を見上げながら、まるで詩を朗読するように言葉を紡ぐ。

 

「通常の生徒データとは異なる、不可解なメタデータの残骸。……そこには、復元不可能な言語配列と共に、いくつかの読み取れる英単語が残されていました。

 

『Origin:Twisted Ixphoria』。

 

『Class: Hero』。

 

……そして、『Difficulty: SS+』」

 

 

聖哉の呼吸が、一瞬だけ止まった。

彼の脳裏に、転移直前のイシスターの言葉が蘇る。

 

『……あなたのデータを、この世界のシステムに強制的に適応させます。神の力と物理世界の法則の擦り合わせには、多少の無理が生じるかもしれませんが……』

 

(……あの駄女神。……やはり、痕跡を残しやがったのか)

 

聖哉の内に渦巻いていた狂気的な被害妄想が、急速に冷え、絶対零度の論理へと回帰していく。

 

つまり、坂柳有栖は「異世界の住人」でも「魔王の使い」でもない。

 

彼女はただ、イシスターがSシステムに戸籍をねじ込んだ際に生じたバグデータを、持ち前の天才的な頭脳と特権階級のアクセス権で偶然拾い上げた、純粋なこの世界の住人に過ぎないのだ。

 

「……最初は、誰かの悪質な悪戯か、あるいはあなたが重度の妄想癖を抱えた特待生なのだと思いました。イクスフォリアという架空の紛争地帯か何かをでっち上げ、自分を勇者と名乗る……そんな滑稽なデータだと」

 

坂柳はそこで言葉を区切り、聖哉の目を真っ直ぐに射抜いた。

彼女の瞳には、一切の侮蔑はなく、ある種の敬意すら含まれていた。

 

「でも、入学式の日。あなたを見た瞬間に、私のその考えは間違いだと気づきました。……あなたは、いつも病人のふりをして、クラスメイトの死角に潜んでいる。ですが、時折見せるその目は、机の上の勉強や、子供騙しの喧嘩しか知らない人間のそれではありませんでした」

 

彼女はゆっくりと歩み寄り、聖哉との距離を5メートルまで詰めた。

 

「……本物の、死線。本物の、地獄。……あなたが『イクスフォリア』という場所で何を見てきたのか、それが現実のどこの国なのか、私には分かりません。ですが、あなたがその地獄で何か大切なものを失い、そして再びそれを取り戻すためにこの学校へやってきた……そのことだけは、理解できます」

 

聖哉は、制服のシャツの下にある、リスタルテの遺髪が入ったロケットペンダントの重みを意識した。

 

(……こいつは、どこまで視えている?)

 

異世界という概念までは到達していない。だが、俺が背負っている目的の重さの本質は、完全に見抜かれている。

 

「……それで? そのバグデータを拾ったお前が、俺に何の用だ。学校側に通報して、俺を退学にでもするか?」

 

聖哉はガジェットの起動スイッチから指を離さず、しかし声のトーンを意図的に一段階下げた。

 

「まさか。そんな退屈なことを私がするはずがありません」

 

坂柳はクスクスと笑いながら、首を振った。

 

「私は退屈しているのです、聖哉くん。……この学校には、優秀な生徒がたくさんいます。ホワイトルームの最高傑作である、あそこの階段下で聞き耳を立てている綾小路くんのような、作られた天才もね」

 

その言葉に、聖哉の眉が微かに動く。

彼女は、綾小路の正体すらも把握している。

 

「ですが、あなたは違う。あなたは人間の科学や教育が作ったものではない。……絶望という名の炉で鍛え上げられた、純粋な『狂気』です。……私は、あなたに興味があるのです。あなたがその過剰なまでの『慎重さ』で、この学校のシステムをどうハッキングし、どう破壊し、どう支配するのか……それを、一番近くの特等席で見たいのです」

 

坂柳の提案。

それは、脅迫ではなく、純粋な共犯の持ちかけだった。

 

「……俺はお前を信用しない。人間は裏切る生き物だ」

 

「ええ、人間は裏切ります。ですから、私を信用する必要はありません。ただ、『利用』してください。……私はAクラスのリーダーです。私の持つ情報網と権力は、あなたが安全にAクラスで卒業するための、最強の『道具』になるはずですよ?」

 

彼女は自らの両手を広げ、無防備な姿勢を晒した。

 

「さあ、私の提案を拒絶し、今ここで私をその隠し持った凶器で排除しますか? それとも……私を、あなたの『準備』の一部として組み込みますか?」

 

風が、二人の間を吹き抜ける。

聖哉の脳内で、数十万通りのシミュレーションが駆け巡った。

坂柳をここで排除するリスク。彼女の背後にある理事長の権力。退学処分の確率。

そして、彼女の知力と権力をリスタルテ救済のためのツールとして活用した場合の、Aクラス卒業確率の劇的な上昇。

 

(……彼女は、異世界の真実を知らない。だが、俺の異常性を完全に受け入れ、その上で共犯を望んでいる。……そして何より、彼女の持つAクラスの権限と情報は、俺の『プランΩ』を完璧なものにするための、決定的なピースになり得る)

 

聖哉はゆっくりと、右手をポケットから出した。

ケルベロスの銃口は、すでに安全装置がかけられていた。

 

「……一つだけ、条件がある」

 

聖哉の声は、凍てつくような冷たさを取り戻していた。

 

「俺の過去、および俺のデータに関する一切の情報を、今後誰にも漏らすな。もしお前がその契約を破り、俺の卒業に1ミリでも支障をきたす行動を取った場合……」

 

聖哉の瞳の奥で、魔王すらも震え上がらせた本物の殺気が、一瞬だけ爆発した。

 

「……俺はお前を、社会的な死はもちろん、物理的な塵すら残らない方法で完全に消去する。……理事長の娘だろうが、関係ない。この学校ごと、焼き払う」

 

その言葉に含まれる絶対的な決意と暴力性に、坂柳は一瞬だけ息を呑んだ。

彼女の背筋に、これまでの人生で味わったことのない、純粋な恐怖と……そしてそれを上回る圧倒的な愉悦が駆け抜ける。

 

「……ふふ。……ええ、約束します、勇者様。……素晴らしいわ。あなたのその徹底した狂気、私が最後まで見届けて差し上げます」

 

坂柳は、聖哉に向けて優雅に一礼した。

それは、この魔法の存在しない残酷な現実世界において、最も異端な二人の天才が、絶対的な秘密を共有する同盟を結んだ瞬間だった。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

「……随分と、長話だったな」

 

屋上の扉が開き、階段を降りてきた竜宮院聖哉に、オレは静かに声をかけた。

彼の表情は、印刷室で見せたような焦燥や、先ほどまで発していた無差別な殺意は完全に消え去り、元の機械のように冷徹な病弱の生徒の仮面に戻っていた。

 

「……何でもない。ただの、情報の擦り合わせだ」

 

聖哉は、オレの顔を見ずに淡々と答える。

 

だが、オレの目をごまかすことはできない。彼の歩幅、筋肉の弛緩の度合い。それは、極度の緊張状態から解放され、新たな明確な道筋を見つけた人間の挙動だ。

 

(坂柳有栖を、殺さなかった。……いや、それどころか、何らかの取引を成立させたというのか?)

 

オレのホワイトルームでの経験に照らし合わせても、竜宮院聖哉という男の思考回路は予測が難しい。

彼は時に、オレ以上に冷酷に人間を切り捨てる。だがその根底には、オレには理解できない、何か狂信的な目的が存在している。

 

「……そうか。それで、お前のその『完璧な準備』とやらに、変更はあるのか? 中間テストの得点調整はどうする」

 

「……予定通り実行する。俺の目標はAクラスでの卒業だ。坂柳と何を話そうが、Dクラスという泥舟を底上げし、ポイントを搾取する計画に変更はない」

 

聖哉は立ち止まり、オレの方を振り返った。

その目は、以前よりもさらに深く、オレを機能としての部品として評価しているようだった。

 

「……綾小路。お前にも引き続き、仕事をしてもらう。……櫛田の管理と、堀北の誘導だ。……俺はこれから、少しばかり『大掛かりな仕掛け』の準備に入る」

 

「大掛かりな仕掛け?」

 

「そうだ。……この学校のシステムを、俺にとって最も都合の良い形に再定義するための、な」

 

それだけ言い残し、聖哉は暗い廊下を歩き去っていった。

オレは、彼の背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

 

(……やれやれ。竜宮院と坂柳。この学校における最大の爆弾二つが、どうやら導火線を繋ぎ合わせてしまったらしい)

 

オレの望む平穏な学園生活は、どうやらオレが思っていたよりも遥かに遠い場所にあるようだ。

だが、同時に興味も湧いていた。

 

あの竜宮院聖哉が、坂柳という天才を取り込み、このSシステムに対してどのようなアプローチを仕掛けるのか。

ホワイトルームでは決して見ることのできなかった、純粋な混沌の行き着く先を、オレはもう少しだけ特等席で観察してみることにした。

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

 

夜の学生寮。

俺は自室の机に向かい、新たな設計図と数式の束と向き合っていた。

 

坂柳有栖との会談は、俺の「プランΩ」を大幅にアップデートさせた。

彼女が異世界の真実を知る者ではなく、Sシステムのエラーログを読み解いた天才であったことは、俺にとって最大の僥倖だった。

 

神の干渉がない純粋な物理空間であるならば、俺の慎重は、100%の計算通りに機能する。

 

「……リスタ。見ていてくれ」

 

俺は、首から下げたロケットをそっと握りしめた。

冷たい金属の感触が、俺の論理回路をさらに冷却していく。

 

坂柳から提供されるであろうAクラスの情報網。

綾小路という異常個体の演算能力。

櫛田を通じたDクラスの統率。

 

これら全ては、俺がこの学園から概念エネルギーを搾取するための、巨大なポンプの部品に過ぎない。

 

「……中間テストでのDクラスの赤点回避は、もはや前提条件だ。問題は、その先……いかにして他クラスのポイントを合法的に、かつ再起不能なレベルで簒奪するか」

 

俺は、ノートの新しいページにペンを走らせる。

これまでの一匹狼としての隠密行動から、システム全体を盤面とした統治と支配のフェーズへ。

 

 

「「レディ・パーフェクトリー(準備は完全に整った)」

 

 

俺は静かに、しかし確かな意志を込めて呟いた。

この言葉は、防衛のための呪文ではない。

これから始まる、この学園全体を巻き込んだ完璧な蹂躙の、開始の合図だった。

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