【視点:茶柱佐枝】
竜宮院聖哉が教室を掌握したあの日から、1年Dクラスの空気は一変した。
奇跡の退学者ゼロに沸いた歓喜は、わずか数時間で底なしの管理社会への恐怖へと塗り替えられたのだ。
職員室に戻った私の手元には、竜宮院から提出された一枚の『要望書』がある。
そこには、自由人の極みである高円寺を除く、Dクラスの生徒全員が署名・捺印した(させられた)、驚くべき契約の内容が記されていた。
「……プライベートポイントの譲渡、および一括管理。さらに、放課後の教室使用権の独占……」
彼は、私が教えた「ポイントで買えないものはない」というルールを、文字通り暴力的なまでに忠実に実行していた。
高円寺に対しては計算不能な不確定要素として、今はあえて隔離して放置する判断を下したのだろう。
こんなものを見せられて、あいつらは納得したのか?
どうやったかは見当もつかないが、あの日以降、私が教室を出た後の監視カメラにどうも違和感がある。
彼はおそらくクラス全員の弱みを握り、将来のAクラス昇格を人質に、全生徒の財布と行動の自由を、自身の管理下に置くことに成功したのだろう。
「あの男……一体、何を作るつもりだ」
窓から見えるDクラスの教室には、次々と備品が運び込まれていた。
学校指定の業者を通じて発注されたのは、学習机ではなく、プロ仕様の清掃用具、最新の監視カメラ、そして……用途不明の大量の電子部品だった。
今、Dクラスは教室ではなく、竜宮院聖哉の実験室へと作り変えられようとしていた。
【視点:堀北鈴音】
「……これで満足かしら?」
私は、放課後の教室で、聖哉から渡された『Dクラス管理マニュアル:第1版』を机に置いた。
そこには、毎朝の点呼、1分単位のスケジュール管理、そして全生徒のポイント消費申請のフローが完璧に構築されていた。
「満足という言葉は、結果が100%に達した時のみ使う。今の進捗は……68%だ」
聖哉は、教室の天井に怪しげなセンサーを設置しながら、振り返りもせずに答えた。
彼は、中間テストの一件で復帰した高円寺くんを除くクラス全員のプライベートポイントを巻き上げ、自分たちの贅沢のためではなく、この拠点の要塞化に注ぎ込んでいた。
「竜宮院くん。あなたがクラスを導くというのなら、せめてみんなに最低限の生活を……。今日、池くんが『うまい棒一本すら買えない』って泣きついてきたわよ」
「生存に必要なカロリーは計算済みだ。余計な嗜好品は判断力を鈍らせる。それよりルンバ、お前の今日の巡回ノルマが終わっていないぞ」
「ルンバって呼ぶのをやめなさい! 私はあなたのパートナーとして……!」
「……ああ、訂正しよう」
聖哉は脚立から降り、氷のような瞳で私を射抜いた。
「お前はパートナーではない。俺の命令を物理現象として実行する端末だ。……そうだな。これからは、より効率的な『自動走行掃除機』としての自覚を持ってもらう必要がある」
彼は、カバンから一冊のノートを取り出した。
そこには、私の歩き方、掃除の角度、さらには『効率的なゴミの発見方法』が、エンジニアの設計図のように詳細に記されていた。
「明日から、お前の全ての挙動をこのマニュアル通りに矯正する。……準備はいいな、ルンバ」
私は、目の前の男が慎重という名の狂気に取り憑かれた怪物であることを、改めて思い知らされた。
反論する言葉すら、喉の奥で凍りつく。
(……兄さん。私は、とんでもないものを呼び覚ましてしまったのかもしれないわ……)
【翌日の放課後】
竜宮院聖哉は、白手袋をはめた手で精密なレーザー距離計を操り、堀北鈴音の頭頂部から床までの距離を測定していた。
「……0.3ミリの誤差。ルンバ、お前の右膝の角度が甘い。これでは排熱効率が悪化し、緊急回避時の初動に0.02秒の遅延が出る」
「……ねえ、竜宮院くん。さっきから言おうと思ってたんだけど」
堀北は、手に持った雑巾を握りしめ、プルプルと震えながら彼を睨みつけた。
「なぜ私が、あなたの前で空気椅子をしながら、この角度で固定されなきゃいけないの?」
「掃除機に発言権はない。お前は今、新型の吸気フィルターのテスト中だ。無駄な二酸化炭素を排出するな」
聖哉は冷淡に言い放つと、今度は彼女の背後に回り、分厚いタブレットに何らかの数値を入力し始めた。
「……あ、綾小路くん。見てないで助けてくれないかしら」
「悪いな堀北。俺は今、あいつに『動いたら即座に退学届が提出されるトラップ』を仕掛けられている。視線すら動かせないんだ」
教室の隅で、置物のように直立不動を貫く綾小路清隆が、感情の消えた声で答える。彼の足元には、微弱な電流が流れる謎のセンサーが張り巡らされていた。
そこへ、カツン、カツンと小気味良い足音が響く。
「あらあら、随分と、衛生的な教室になりましたね。ふふ」
杖をつき、優雅な微笑みを浮かべた坂柳有栖が教室に入ってきた。その隣で、アタッシュケースを持たされた神室真澄が、開いた口が塞がらないといった様子で教室内を見渡す。
「……は? ちょっと、何これ。宗教? 警察の取り調べ?」
神室の視線は、まず空気椅子で顔を真っ赤にしている堀北に、次に置物と化した綾小路に、そして防護服のような異様な威圧感を放つ聖哉へと向けられた。
「っ……!」
その瞬間、堀北の空気が変わった。
膝の角度がどうこうといったレベルではない。兄の背中を追う者として、彼女が最も警戒し、そしてその実力を認めざるを得ないAクラスのリーダー登場だ。
(よりによって、こんな……掃除機扱いされている現場を見られるなんて!)
堀北は屈辱に顔を歪めたが、聖哉の指示(空気椅子の固定)を無視すれば『即座に廃棄(退学)』されるという恐怖が、彼女の動きを封じていた。彼女にできるのは、冷汗を流しながら坂柳を睨みつけることだけだった。
「……堀北さん? そんなところで何をしているのですか。新しいエクササイズ? それとも、Dクラス独自の掃除機の真似事でしょうか」
坂柳が楽しそうに目を細めて煽る。
「……違うわ、これは……っ」
言い訳しようとする堀北の眉間に、聖哉のレーザーポインターが照射された。
「私語を慎めルンバ。吸引力が落ちているぞ」
「坂柳か。……そのケースの中身はなんだ。生物兵器か? それとも小型戦術核か?」
聖哉は、瞬時に堀北を盾にするような位置取りに移動し、懐から銀色のスプレーを取り出した。
「ふふ、ただの紅茶セットですよ。勇者様とお茶会を楽しもうと思いまして。……神室さん、展開して」
「……はいはい。ったく、なんで私がこんなこと……」
「……勇者?」
その言葉に、堀北の眉がピクリと動いた。
坂柳の言葉遊びに、彼女の理性が違和感を検知したのだ。
この男の実力は異常だ。だが、『勇者』という呼称は、まるで彼の「別の世界の実績」を知っているかのような、奇妙な実感を伴って響いた。
「ねえ、竜宮院くん。……なんであなたが、Aクラスの坂柳さんから『勇者』なんて呼ばれているの? あなた、裏で一体何を……」
坂柳の言葉の真意を探ろうと、堀北が聖哉に(空気椅子をしたまま)鋭い視線を送る。
しかし、聖哉は彼女のツッコミを完全にスルーした。
「勘違いするな。俺は勇者ではない。……俺は、0.00%の敗北も許さない、『準備完了(レディ・パーフェクトリー)』の概念そのものだ。……神室といったか、お前はやはり普通だな。そのケースの開け方、0.2秒のロスがある」
「いちいち言い方がキモいなこいつ、ほんとに中間テスト満点とれたのかよ」
神室がしぶしぶケースを開けると、中から最高級のティーセットが現れた。しかし、聖哉の目は一切笑っていない。
「神室、そのカップの洗浄状況を報告しろ。滅菌処理は済んでいるのか? 300度以上の高温で1時間以上の煮沸、および紫外線照射によるウイルス不活化プロセスを完了させているか?」
「はあ!? 普通に洗ったに決まってんでしょ!」
「……やはりな。お前は『普通』という不確定要素に身を委ねた。ルンバ、この女を教室から排除しろ。除菌スプレーを浴びせてからだ」
「やめて、私は掃除機じゃないし、神室さんにスプレーをかける気もないわ!」
堀北がようやく空気椅子を解いて立ち上がると、聖哉は即座に彼女の眉間を指差した。
「勝手に動くな。再起動が必要か?」
「な、……っ!」
「ふふ、相変わらず素敵な警戒心ですわね。でも安心してください。この茶葉は、私が自ら産地を視察し、収穫から包装まで監視カメラで24時間チェックさせたものです。毒物の混入確率は、計算上0.0001%以下ですよ」
坂柳の言葉に、聖哉は一瞬だけ瞳を細めた。
「……甘いな。その0.0001%が、悲劇を生む。俺は、その残りの確率を潰すために、自作の『全自動毒物検知・中和攪拌機』を開発済みだ」
聖哉がカバンから取り出したのは、プロペラが高速回転するミキサーのような謎の機械だった。彼は坂柳が注いだばかりの最高級紅茶に、その機械を突っ込み、爆音とともに攪拌し始めた。
「あっ、私の紅茶が……!」
神室の叫びも虚しく、優雅なお茶会は一瞬にして科学実験室のような騒音と機械音に包まれる。
「……良し。毒性は検知されなかった。だが、念のため、この『聖なるプロテインパウダー』を混ぜておこう。これで栄養バランスも完璧だ」
真っ白になった紅茶(のような液体)を、聖哉は満足げに飲み干す。
その横で、坂柳は一切表情を崩さず、楽しそうにクスクスと笑っていた。
「素晴らしい。やはり、あなたこそが私を退屈から救ってくれるナイトかもしれませんね、勇者様」
「勘違いするな。お前もまた、俺の計画を乱す潜在的なバグに過ぎない。……ルンバ、何を見ている。早く床のポリマーコーティングをやり直せ。坂柳の杖の接地面積から、床の摩耗率を再計算しろ」
「……。もう、好きにすればいいわ」
堀北は、もはや怒る気力もなく、聖哉に渡された業務用ポリッシャーを静かに起動させた。
夕暮れの教室に、ポリッシャーの回転音と、聖哉の「準備は完璧だ」という呟きだけが虚しく響き渡っていた。
【視点:綾小路清隆】
(……誰か、助けてくれ。足の裏が、痺れてきたんだ)