ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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Gli uomini hanno meno respetto a offendere uno che si facci amare,

ニッコロ・マキャヴェッリ
『君主論』


第16話「人間は、愛する者よりも恐れる者を容赦なく傷つける。」

【視点:竜宮院聖哉】

図書室の閉架書庫、その最奥部。埃とカビの匂いが混じる澱んだ空気の中、自作のオーバーライド・デバイスが発する冷却ファンの微かな駆動音だけが、俺の鼓膜を静かに叩き続けている。

モニターには、学園内のメタデータが数列の滝となって流れ落ちていた。

 

Dクラスを恐怖で掌握したあの日。俺は全科目で100点満点を叩き出した。

 

だが、その事実がそのまま学園の公式システム――掲示板に掲載されれば、他クラスからの不必要なヘイトと探りを受けることは自明の理だ。突出した個は、常に群れの標的になる。それは生存戦略において最も愚かな下策である。

 

ゆえに、俺は事前の準備(レディ)を怠らなかった。

Dクラスの担任である茶柱佐枝に対し、俺は多額のプライベートポイントを支払った。この学校におけるポイントは、文字通り命であり、万能の通貨だ。ルールの範囲内であれば、テストの点数すら買える。ならば、その逆――公式記録の表示の偽装も、ポイントの力と教師の権限によって可能であると俺は推論し、実証した。

 

結果として、Dクラス以外の生徒や他クラスの担任が閲覧できる公式データ上において、俺の成績は『全科目65点から70点前後の、極めて平凡な平均層』へと改ざんされている。

真実を知るのは、俺に直接採点結果を突きつけられたDクラスの生徒たちと、茶柱のみ。

 

そして、Dクラスの生徒たちが俺の情報を他クラスに漏洩する確率は0%に固定されている。

彼らの首には、見えない首輪が巻かれているからだ。

三馬鹿をはじめとする一部の生徒の私物に仕掛けた高周波発生装置はもちろんのこと、俺は彼らに対し

 

「竜宮院聖哉の真の成績や行動について、他クラスの生徒に一文字でも漏らせば、即座に手元の『退学の証拠』を学校側に提出する」

 

という明確な箝口令を敷いた。

 

「……さて。防御の壁は厚くした。次は、外周の堀を埋める作業だ」

 

俺はデバイスのキーボードを操作し、暗号化された通信ラインを開いた。

接続先は、Aクラス。いや、正確には、Aクラスの支配者である坂柳有栖の手足として動く、一つの『部品』だ。

 

 

『……もしもし。私だけど』

 

数回のコール音の後、不機嫌そうな少女の声がスピーカーから響いた。

神室真澄。坂柳有栖の側近であり、万引きの弱みを握られて使役されている、扱いやすい駒だ。

 

「遅い。コールは2回以内に取れと指示したはずだ」

 

『ふざけないでよ。寮の共有スペースにいたの。いきなり出られるわけないでしょ。……で? 坂柳からは、あんたのサポートをしろって言われてるけど。何を手伝えばいいわけ?』

 

彼女の声には明らかな苛立ちが混じっていた。当然だ。自分の主である坂柳ですら一目置く、得体の知れないDクラスの男から直接命令を下されているのだから。

 

「簡単な配達だ。明日の昼休み、Cクラスの伊吹澪がよく利用する特別棟の屋上付近へ行け。そこで、彼女が視認できる位置に、俺が指定する『ある物』を落としてこい」

 

『……ある物?』

 

「明朝、お前の靴箱の奥に黒い小箱を入れておく。中身を確認する必要はない。ただ落とし、伊吹がそれを拾うのを確認したら、すぐに立ち去れ。接触は一切禁ずる」

 

『……わかったわよ。それだけでいいのね』

 

「ああ。だが、もしお前が中身を開けたり、伊吹と接触したりすれば、俺はお前が先週、駅前のコンビニで隠匿した商品のリストを学校に提出することになる。慎重に行動しろ」

 

『っ……! あんた、なんでそれを……!』

 

「通信を切る」

 

プツン、と意図的に通話を切断する。

 

神室真澄が坂柳に隠れて行っている常習的な万引き。その証拠など、俺は持っていない。だが、彼女の行動パターン、瞳孔の動き、坂柳との力関係を分析すれば、彼女が「現在進行形でストレス発散のための窃盗を続けている」という推論は容易に立つ。カマをかけたに過ぎないが、彼女の反応からしてビンゴだったようだ。

 

これで、伊吹澪という龍園の支配における最大の特異点へ、俺の用意した餌を送り込む手筈が整った。

 

物理的暴力による支配は、必ずどこかに摩擦を生む。

 

龍園のやり方は、野生動物の群れのボスのそれだ。強き者が弱き者を食らい、恐怖で縛る。

だが、伊吹澪は群れに迎合しない。彼女は龍園の暴力を渋々受け入れているだけで、心までは屈服していない。彼女のプライドを刺激し、龍園への疑心暗鬼を増幅させる情報を与えるだけで、Cクラスの内部から勝手に亀裂は走る。

 

「……だが、龍園翔。お前はただの獣ではない。知性を備えた怪物だ。これしきの揺さぶりで崩れるほど、安い作りはしていないだろう」

 

俺はロケットペンダントを服の上から強く握りしめた。

金属の冷たい感触が、俺の理性を極限まで研ぎ澄ませていく。

まだだ。まだ、レディ・パーフェクトリーには程遠い。

 

 

 

 

【視点:櫛田桔梗】

 

スマートフォンの画面には、一通の匿名メール。

そして、そこに添付された一つの音声ファイル。

 

『……だから! なんで私が、あんなキモい連中のために……!』

『……死ね、死ね死ね死ね死ね! 堀北も、綾小路も、みーんな退学になっちゃえばいいのに!!』

 

裏庭で、私が誰もいないと思って吐き出した、心の奥底の真っ黒なヘドロ。

「善人」という完璧な仮面の下に隠し持っていた、私の真の顔。

それが、あまりにもクリアな音声で録音されていた。

 

 

 

(間違いない……。竜宮院くん、だわ)

 

 

 

最初は、あの場に現れた綾小路清隆を疑った。

でも、違う。彼は私の本性を見たが、録音などしていなかった。それに、彼の性格からして、こんなねちっこい脅迫を仕掛けてくる理由がない。

ならば、誰が?

私に「Dクラスの馬鹿どもを強制的に勉強させて、赤点を回避させろ」などという、私自身には何のメリットもない(むしろ私の本性からすれば真逆の)命令を下した犯人は、誰なのか。

 

その答えは、中間テストの直後、あまりにも凄惨な形で示された。

 

『全員、その場から動くな。動いた者の足の腱を、物理的に切断する』

 

病人のフリをして、いつも教室の隅で寝ていた男。

 

竜宮院聖哉。

 

彼が、全科目100点満点というバケモノみたいな成績を叩き出し、さらに私たちの不正の証拠をすべて握り潰して、Dクラスを文字通り支配したあの日。

彼のあの冷たく、人間を人間として見ていない、機械のような瞳を見た瞬間……私の脳裏で、すべての線が繋がった。

 

あの裏庭で、綾小路くん以外にもう一人、息を潜めていた人間がいたのだ。

 

いや、息を潜めていたというより、最初からそこを監視下に置いていたと考えるべきだ。

彼は、Dクラスの全員の行動を、思考を、弱点を、すべて把握している。

 

病人のフリなんていうのは、私たちを油断させるための単なる偽装。彼はその実、底なしの深淵のような目で、私たちが互いに足を引っ張り合う様を観察していたのだ。

 

「……ふふっ、あははははっ!」

 

恐怖の極致に達した私の口から、乾いた笑い声が漏れた。

怖い。恐ろしい。自分の存在意義である誰からも好かれる天使という仮面を、いつでも引き剥がせる権利を、あの男に握られている。

逆らえば、即座にこの音声データが学校中にばら撒かれ、私は破滅する。

でも。

 

(でも……それって、逆に言えば……)

 

私は、狂ったように笑いながら、自分の顔を手で覆った。

 

(あのバケモノにとって、私は「使える駒」だってことじゃない……?)

 

彼が私を即座に退学させなかったのは、私の表の顔が持つ統率力や情報収集能力を、彼自身の目的のために利用するためだ。

だったら、私はその役割を完璧に演じてみせる。

彼が私を脅迫していると気づいていないフリをしながら、彼の指示を120%の精度でこなし、彼にとって絶対に手放せない右腕になってやる。

 

男なんて、結局は女の扱いに隙ができる生き物だ。

あの冷血漢がどれだけ慎重だろうと、私が彼にすり寄り、彼の絶対的な支配に心から服従する忠実な犬を演じ続ければ、必ずどこかで綻びを見せる。

 

「……待っててね、竜宮院くん。私を脅したこと、絶対に後悔させてあげるんだから」

 

私はベッドから起き上がり、鏡の前で完璧な天使の笑顔を作った。

恐怖は、怒りへ。そして、どす黒い執念へと変わっていく。

彼が私の首輪を握っているなら、私はその首輪の鎖を伝って、彼の心臓に毒針を突き立ててやる。

 

 

 

 

【視点:龍園翔】

 

「……おい、石崎。お前、何か隠してねえか?」

 

Cクラスの教室。

パイプ椅子に深々と腰掛けた俺は、目の前で直立不動になっている石崎の顔を、じっくりと観察した。

 

「ひぃっ!? な、隠してるって、何をですか龍園さん!」

 

「俺の口座に、毎月律儀にポイントを振り込んでるよな? その振り込みの際、端末の挙動がおかしかったことはねえか?」

 

「えっ? いや……特には……ただ、たまに通信が遅いというか、ボタン押してから確定するまでに、一瞬『ん?』ってなることはありますけど……」

 

「……なるほどな」

 

俺は舌打ちをし、パイプ椅子の背もたれに体重を預けた。

確信に変わった。

俺の端末で起きた、あの0.5秒のラグ。あれは単発のバグじゃねえ。

誰かが、俺のプライベートポイントのやり取りを、その『通信の瞬間』を狙って監視している。

 

「ポイントそのものを奪うわけじゃねえ。ただ、『誰が俺に貢いでいるか』という相関図を吸い上げてるんだ。趣味の悪い覗き魔だぜ」

 

「の、覗き魔……? 誰がそんなことを……」

 

「決まってんだろ。Dクラスの裏で糸を引いてる、正体不明のネズミ野郎だ」

 

俺は立ち上がり、黒板の前に歩み寄った。

 

チョークを手に取り、大きく「Dクラス」と書き殴る。

 

「よく考えろ。今回のDクラスの成績、明らかに異常だ。赤点退学者がゼロってだけでも笑えねえ冗談だが、学年全体の平均点から逆算すると、あいつらの中に『満点に近い点数』を叩き出した奴がいないと計算が合わねぇ」

 

「え? でも、掲示板の成績発表じゃ、Dクラスの奴らは確かに想定以上に高い平均点でしたよ? 特に飛び抜けてる奴なんて……」

 

「そこが最大の違和感なんだよ、石崎ィ」

 

俺はチョークを叩き割り、石崎を睨みつけた。

 

「あんな不良品の集まりがというのは置いておいても、200cptが特別付帯されるなんて普通じゃねことが起きてるに決まってんだろうが。少なくともこの学校において、特定のクラスだけを優遇したルールはねぇはずだ。となると、平均点だけでいえばAクラスのほうが上な以上、クラス全体の動きじゃねぇ特殊なやつが存在してねぇと話が合わねぇ。」

 

「ど、どういうことですか……?」

 

「誰かが全科目満点でも取らないと話が合わないってことだ。だが、その『誰か』の個人の成績だけが、表向きは平均点に『改ざん』されている」

 

「か、改ざん!? そんなこと、できるんすか!?」

 

「プライベートポイントを使えば、教師を動かすことくらいできるだろうよ。……つまり、そのネズミ野郎は、自分の圧倒的な実力を隠すために、わざわざ自腹を切ってまで『凡人』を演じてやがるんだ」

 

「で、でも龍園さん、俺Dクラスのやつらからそんな頭のいいやつの話一回も聞いたことないっすよ」

 

俺の口角が、自然と吊り上がる。

ククッ、最高じゃねえか。

ただの優等生じゃない。ただの天才でもない。

クラス全員に相当な圧力の箝口令を敷き、自分の能力を隠蔽し、裏から完全に支配している独裁者。

 

しかも、そいつは俺の口座の動きを監視するために、学校のネットワークに何らかの物理的な干渉を行っている。

中央サーバーを直接書き換えるような派手な真似はしていない。そんなことをすれば一発で退学だからな。

わざわざ通信の経由地点で『遅延』を発生させているということは……そいつは、この学校のLAN回線のどこかに、物理的な盗聴器を仕掛けている。

 

「……ゲームの始まりだな」

 

俺はポケットから自分の端末を取り出した。

 

「石崎。今から俺は、お前以外のダミー口座を三つ用意して、それぞれにランダムな時間帯で1ポイントずつ振り込みを続ける」

 

「えっ? ダミー口座?」

 

「ああ。もしネズミ野郎が、俺の『すべての取引』にラグを発生させて監視しているなら、ダミー口座への無意味な取引にも食いつくはずだ。逆に、お前らとの取引だけを監視しているなら、ラグの発生パターンに法則性が出る」

 

相手は、俺の資金源と手駒を洗い出そうとしている。

 

ならば、わざと偽の取引データを大量に流し込んで、相手の監視システムをパンクさせてやる。あるいは、その監視の法則性から、相手が『どういうプログラム』を組んでいるかを逆算してやる。

 

「それに加えて……伊吹たちを泳がせる」

 

「伊吹を? どういうことすか?」

 

「あいつは俺に反抗的だ。ネズミ野郎が俺のクラスを崩そうとするなら、必ずあの女のような『不満分子』に接触を図る。伊吹の動向を、影から小宮と近藤に監視させろ。伊吹に近づく不審な影があれば、そいつがネズミだ」

 

俺は窓ガラスに映る自分の顔を見た。

ひどく獰猛な、飢えた獣の顔をしてやがる。

 

「……隠れん坊は終わりだ、Dクラスのボス。お前がどれだけ周到に罠を張ろうと、俺はその罠ごと、お前の首根っこを食いちぎってやるよ」

 

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

 

図書室の閉架書庫。

モニターに映し出された、Cクラスのポイント移動ログ。

突如として、龍園翔のアカウントから、存在しないはずのダミー口座に向けた微細なポイント移動が、不規則なタイミングで連続発生し始めた。

 

「……ほう」

 

俺は冷たい声で呟き、キーボードから手を離した。

 

(ダミートランザクションによる、監視網の攪乱。ならびに、プロトコルの法則性の逆探知か)

 

俺が仕掛けた『Project Tartarus』の存在に気づいただけでなく、それがメタデータの抽出であることを正確に見抜き、偽のデータを流し込むことでこちらの分析を妨害してきた。

さらに、俺が物理的なルーターやサーバーの中継点にデバイスを仕掛けていることすら、論理的な帰結として導き出しているはずだ。

 

(……素晴らしい。龍園翔。お前は、俺が想定した【難易度SS】の敵として、申し分のない思考能力を持っている)

 

馬鹿な敵は、無軌道に暴れるだけで御しやすい。

だが、賢い敵は、自ら『ロジック』というレールの上を走ってくれる。

奴が俺の監視網を攪乱しようとしている時点で、奴の行動リソースの大部分は情報戦へと割かれている。

つまり、堀北や綾小路といったDクラスの生徒たちに対する、直接的かつ暴力的な接触の確率は、現時点で限りなく低下したということだ。

 

俺の狙い通り。

龍園の意識をネットワーク上に釘付けにし、その間に物理空間での包囲網を完成させる。

 

「だが、油断はしない。龍園が伊吹澪を囮として使い、俺の接触を待つ可能性も考慮すべきだ」

 

俺はすぐさま、神室真澄に送った指示のルートを見直した。

神室には落とし物をさせるだけで、直接的な接触はさせていない。仮に龍園の手駒が伊吹を監視していたとしても、神室の自然な行動(ただ歩いていて物を落とすだけ)に違和感を抱くことは不可能に近い。

 

(……いや、待て)

 

立ち上がりかけた足を止め、俺は再び暗闇の図書室で思考の海へと深く潜行した。

脳内の演算回路に、一つの致命的なエラーが点滅していたからだ。

 

(もし龍園が、伊吹を監視する過程で神室の不自然な通過に気づき、彼女を力尽くで捕縛・尋問した場合はどうなる?)

 

神室真澄は、坂柳有栖の指示により俺の存在――Dクラスの裏に潜む特異点としての竜宮院聖哉という固有名詞――を明確に認知している。

 

そして、彼女は決して口の堅い忠臣ではない。万引きという弱みを握られ、嫌々ながら坂柳に従っているだけの脆い駒だ。龍園の容赦のない暴力や精神的拷問に直面すれば、彼女は数分と持たずに俺の名前を吐くだろう。

 

「Aクラスという看板は、龍園翔には通用しない」

 

俺は呟き、冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。

危なかった。Aクラスの生徒には手を出さないだろうという、根拠のない希望的観測。それがどれほど愚かで致命的な隙であるか。

神室が俺を知っている。それはつまり、俺の情報が外部に漏れる導火線に、すでに火がついているも同然の状態なのだ。

 

(ならば、プロトコルを修正する。神室が口を割り、龍園が『竜宮院聖哉』という名前にたどり着くこと自体を、作戦の【前提条件】として組み込む)

 

俺は再びオーバーライド・デバイスを起動し、新たなトラップの構築を開始した。

 

龍園が俺の名前を知った後、俺に直接的な物理攻撃を仕掛けてくる前に、奴の視線を完全に逸らし、あるいは自滅へと誘導するための【二重の罠】を用意しておく必要がある。

神室が吐いた情報すらも、俺が用意した「偽の真実」へと繋がるように、データを書き換え――

 

 

 

 

その時だった。

 

 

 

 

『――ピッ、ピピッ』

 

自作の独立型PCに接続された、微弱電流感知式アラームのモニターが明滅した。

図書室の閉架書庫。その入り口付近に仕掛けておいた赤外線センサーが、何者かの侵入を感知したのだ。

時刻は午後7時を回っている。図書室の一般利用時間はとうに終了しており、司書も帰宅しているはずだ。

 

俺は即座にモニターの電源を落とし、呼吸音を殺した。

防音タクティカルスーツの吸音性能により、俺の衣擦れの音すら空間から消え失せる。右手に、対人無力化ガジェット『ケルベロス』を密かに構える。

 

足音が近づいてくる。

ゆっくりと、しかし迷いのない足取りだ。

暗視カメラの映像を腕時計型のサブモニターで確認する。映し出されたのは、小柄な少女のシルエット。

その顔を見て、俺は僅かに眉をひそめた。

 

 

 

 

 

「……いるんでしょ? 竜宮院くん」

 

 

 

 

 

 

暗闇の書庫に、甘ったるい、しかしどこか芯の冷え切った声が響いた。

Dクラスの天使。いや、底なしの悪意を隠し持つ猟犬――櫛田桔梗だった。

 

彼女は周囲を見渡し、ふふっと微かに笑った。

 

「隠れなくてもいいよ。……私にあの音声を送りつけて、脅迫してきたの、竜宮院くんでしょ?」

 

(……ほう)

 

俺は暗闇と同化しながら、彼女の行動を分析した。

俺が脅迫者であることに気づいたこと自体は、驚きに値しない。中間テストで俺が全科目満点を取り、圧倒的な暴力と証拠でクラスを支配した事実を見れば、消去法で俺に行き着くのは当然の帰結だ。

問題は、彼女が「気づいた上で、たった一人で俺の拠点(と彼女が推測した場所)に接触してきた」ことだ。

 

 

「私、考えたんだ。ずっと怯えて、誰が犯人かビクビクしながら学校生活を送るなんて、私の性に合わないって」

 

櫛田は、虚空に向かって話しかけるように言葉を続ける。その声からは、表向きの『善人』のトーンが完全に消え失せ、冷酷で利己的な本性が剥き出しになっていた。

 

「ねえ、竜宮院くん。あなたがDクラスを裏で支配したいなら、私、あなたの右腕になってあげる、それともカラダを好きにさせてあげたほうがいい?」

 

「……」

 

「私の情報網と、誰にでも取り入れる愛想の良さ。これ、すごく便利でしょ? 堀北さんみたいに不器用じゃないし、綾小路くんみたいに無気力でもない。あなたが私にあの音声を突きつけて首輪をつけたままにするなら……私は、その首輪を喜んで受け入れてあげる。だから、私を使って」

 

暗闇の中、俺は静かに立ち上がった。

彼女の提案の裏にある真意など、透けて見える。

恐怖に縛られるくらいなら、自ら俺の懐に入り込み、従順な犬を演じる。そうして俺の最も近くで弱点を探り、一瞬の隙を突いて俺を破滅させる。それが彼女の描いた生存戦略だ。

 

(愚かな。毒蛇を懐に入れるなど、慎重さに欠ける真似をするはずがなかろう)

 

だが、同時に俺の演算回路は最適解を弾き出した。

現在、龍園翔への対応策の構築が急務となっている。神室という不確定要素を抱える今、Cクラスの内部情報を直接掻き回し、龍園の思考を誘導するための高性能なスピーカーが一つ、手元に欲しいところだった。

 

俺は閉架書庫の奥から、ゆっくりと姿を現した。

 

「……随分と、安い売り込みだな。櫛田」

 

俺の低い声が響いた瞬間、櫛田の肩がビクッと跳ねた。

暗闇に慣れた彼女の目が、俺の姿を捉える。黒一色のタクティカルスーツに身を包み、一切の感情を排した瞳で見下ろす俺を。

 

「っ……竜宮院、くん。あなた、何者なの」

 

「俺の右腕になりたいと言ったな」

 

「え、ええ。そうよ。私なら、あなたの役に立てる。あなたが見えないところの人間関係だって、私が全部コントロールしてあげるわ」

 

彼女は必死に笑みを作ろうとしているが、声の震えは隠しきれていない。

俺は彼女の目の前まで歩み寄り、冷たく言い放った。

 

「却下だ。お前のような底の浅い人間に、俺の右腕は務まらない」

 

「……え?」

 

「お前は俺に従属するフリをして、俺の弱点を探ろうとしているだけだ。お前のその程度の思考回路など、0.1秒で看破できる」

 

櫛田の顔から、血の気が引いていくのがわかった。

 

「だ、だから何!? あなた、私の情報網が必要なんでしょ!? だったら……!」

 

「勘違いするな。お前の持つ情報など、俺の構築したネットワークの前では、路地裏の噂話にも劣る。だが――」

 

俺は右手に持っていたデバイスの画面を彼女に向けた。

 

そこには、Dクラス全員のスマートフォンのMACアドレスと、通信ログの一部がリアルタイムで表示されている。

 

「お前を『使い捨ての部品』として利用価値を認めることには、同意してやろう」

 

「……使い、捨て……?」

 

「そうだ。お前はこれから、俺の指示に従い、Cクラスのある人物と接触しろ。接触の口実、会話の内容、視線の向け方まで、すべて俺のスクリプト通りに行え。一文字でも間違えれば、あるいはお前が裏で不穏な動きを見せれば、即座にお前の音声データは全校生徒の端末へ強制送信されるシステムになっている」

 

俺はデバイスを操作し、櫛田の端末に一つのファイルを送信した。

 

「お前には、選択肢はない。俺の完璧な盤面の中で、最も醜く、最も滑稽に踊り狂え。それが、お前がこの学校で生き残るための、唯一の道だ」

 

櫛田桔梗は、画面に映し出された緻密すぎる行動指示書を見て、絶望に満ちた瞳で俺を見上げた。

もはや、反逆の意志すらへし折るほどの、徹底的な管理と支配。

彼女の首には、見えないどころか、重く冷たい鋼鉄の鎖が巻き付けられたのだ。

 

「……わかったわ。竜宮院くん」

 

彼女は、すべてを諦めたように、深く頭を下げた。

 

「……よし」

 

俺は彼女に背を向け、再びモニターへと向かった。

これで、Cクラスへの物理的な接触経路が確立された。龍園が神室の存在に気づき、俺の影を追う頃には、櫛田を経由した猛毒が、すでに奴の陣地に深く浸透しているはずだ。

 

(すべては、想定の範囲内へと収束していく)

 

俺はロケットペンダントを撫で、小さく息を吐いた。

 

「さあ、ゲームの続きを始めようか、龍園翔」

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