ウェルギリウス
『アエネーイス』(第2巻49行)
「担任の茶柱佐枝だ。この学校はクラス替えはない。これから3年間、お前たちとは付き合っていくことになる。まずは入学おめでとう」
1年Dクラスの教壇に立ったその女教師は、およそ祝福の言葉を口にしているとは思えないほど、酷薄で事務的な響きを持った声でそう告げた。 窓際最後列の席に座る聖哉は、瞬き一つせず、その女の喉仏の動き、重心の掛け方、視線の配分、そして言葉の裏に隠された意図をスーパーコンピューターのような速度で解析していた。
(クラス替えがない、だと? つまり、この教室にいる39人の未知数――いや、無能である可能性が高い爆弾たちと、3年間の運命を共にしろということか)
聖哉の脳裏に、最悪のシミュレーションが駆け巡る。
もしこの中に、放火魔がいたら? もしこの中に、借金を抱えてクラスの連帯責任を問うシステムが存在したら?
神界での戦いならば、無能な味方は最悪「置いていく」か「囮にする」ことができた。だが、この『高度育成高等学校』という箱庭のルールにおいて、「Aクラスで卒業する」という目的を達成するためには、クラスという単位自体が評価対象になる可能性が極めて高い。
(最悪だ。スライムに木の枝を持たせて、魔王の軍勢に正面突撃させるようなものだ。いや、スライムの方がまだ統制が取れる分マシかもしれない。人間は裏切り、怯え、そして最も致命的なタイミングで取り返しのつかないミスを犯す)
かつて、捻曲イクスフォリアで犯した、たった一度の計算違い。
消えかけたリスタルテの魂の感触が、聖哉の右手に蘇る。彼は机の下で、己の太ももを爪が食い込むほど強くつねった。痛覚によって、狂いそうなほどのプレッシャーと後悔を強制的に抑え込む。
油断はしない。一切の妥協はしない。このクラスメイト全員が、自分を陥れるための刺客であると想定して動く。
「この学校の仕組みについて説明する。手元にある学生証を通してみろ」
茶柱の指示に従い、生徒たちが配られたばかりの端末を操作する。聖哉もまた、指紋や生体データが不必要に抜き取られないよう、衣服の袖越しに最小限の接触で画面をタップした。
「10万……? 嘘だろ、10万ポイント振り込まれてるぞ!」
「1ポイント1円って……マジで10万円じゃん!」
教室の空気が、爆発的な歓喜に包まれた。
無理もない。たかが高校生に、無条件で月10万円相当の金銭が与えられたのだ。浮かれるのが普通の反応だろう。
だが、聖哉の眼光は絶対零度まで冷え切っていた。
(罠だ。確定でトラップだ)
聖哉は端末の画面を睨みつけながら、脳内で凄まじい速度の論理展開を行っていた。
(政府主導の学校とはいえ、全校生徒に毎月10万円を無条件で支給する? そんな非合理的な経済システムが成立するはずがない。考えられる可能性は3つだ)
第一の仮説。これは『前借り』である可能性。
新入生を油断させ、この10万ポイントを浪費させた後、次月から法外な利子をつけて返済を要求するシステム。払えなければ退学。悪徳金融の常套手段だ
第二の仮説。通貨価値の崩壊。
『1ポイント=1円相当』というのは、あくまで『外の世界』の基準、あるいは『現在』の基準に過ぎない。明日になれば、水一杯が1万ポイントになるようなハイパーインフレがこの閉鎖空間内で引き起こされる可能性が85%以上ある
第三の仮説。評価システムとの直結。
無条件で与えられたように見せかけ、実はこのポイントの『消費行動』こそが、生徒の自制心や計画性を測るテストになっている。使い込んだ者から順にマイナス査定を受け、最終的にDクラスごと切り捨てられる
いずれにせよ、今この瞬間に歓喜の声を上げている級友たちは、聖哉の目には毒の入ったご馳走に群がる哀れなゴブリンにしか見えなかった。
「……愚かだ」
誰にも聞こえない声で、聖哉は微かに呟いた。
隣の席に座る黒髪の少女、堀北鈴音が、微かにピクリと肩を揺らした。彼女もまた、この10万ポイントという異常な支給額に対して、手放しで喜んではいないようだった。鋭い知性を感じさせる目が、疑念に細められている。
(堀北鈴音。警戒レベルB。状況を疑う程度の知能はあるようだが、孤高を気取っている分、隙が多い。背後から刺されるタイプだ)
そして、聖哉の斜め前の席。 目立たないように、まるで背景と同化するように座っている男子生徒。綾小路清隆。 彼もまた、歓喜の輪には加わらず、ただ静かに窓の外を見つめている。
(綾小路清隆。警戒レベルS。気配の消し方が尋常ではない。完全に訓練された人間のそれだ。彼がこの『罠』に気づいていないはずがない。……だが、なぜ動かない? なぜ周囲に警告しない? 意図的にクラスを崩壊させようとしているのか? それとも、ただの傍観者を決め込んでいるのか。どちらにせよ、最大の不確定要素だ)
聖哉はノートの端に、彼にしか解読できない暗号(神界の古代言語と日本語のアナグラムを組み合わせたもの)で、クラスメイトのプロファイリングを書き連ねていく。
・平田洋介:警戒レベルC。先ほどからクラスをまとめようと爽やかに振る舞っている。しかし、純粋な善意だけで動く人間など存在しない。承認欲求のバケモノか、重度のトラウマを隠しているか。集団心理を誘導する能力があるため、彼が扇動者に回った場合の被害は甚大。物理的な排除よりも、社会的な無力化の手段を講じる必要がある。
・櫛田桔梗:警戒レベルB。誰にでも愛想が良く、すでに男女問わず取り巻きができている。不自然だ。人間の精神はあそこまで全方位に好意を振りまける構造をしていない。あの笑顔の下には、泥沼のような悪意か、狂気的な裏の顔が潜んでいる確率が99.9%。不用意に近づけば、スキャンダルを捏造されて退学に追い込まれるリスクがある。物理的距離2メートルを維持。
・高円寺六助:警戒レベルA。入学初日から机に足を乗せ、鏡で自分の顔を見つめている。狂人か、それとも己の能力を完全に把握した上での傲慢か。筋肉の付き方を見る限り、基礎戦闘力は高い。予測不能な行動をとるジョーカー。もし彼が暴走した場合、背後から急所を突いて昏倒させるためのシミュレーションを3パターン構築しておく。
「この学校は実力至上主義だ。以上で説明を終わる」
茶柱はそれだけ言い残し、冷たい足音を響かせて教室を出て行った。 実力、という言葉の定義。学力か、身体能力か、それとも政治力や生存能力か。 すべてだ。 聖哉は確信した。この学校は、ありとあらゆる手段を用いて生徒をふるいにかける、一種の蠱毒の壺なのだと。
*
放課後。
生徒たちが10万ポイントという大金を手に、カラオケやカフェ、ショッピングモールへと雪崩れ込んでいく中、竜宮院聖哉は誰よりも早く教室を後にした。
向かった先は、学園の敷地内にある購買部。
自動ドアを抜け、店内を見渡す。 商品棚には、最新のゲームソフト、高価なブランド品、そして溢れんばかりの嗜好品が並べられていた。
(やはりな。これは浪費を誘発するためのトラップだ。欲望をコントロールできない弱者からポイントを巻き上げ、破滅させるためのシステム)
聖哉の視線は、そんな華やかな棚を滑るように通り過ぎ、店の最も奥、目立たない日用品のコーナーへと向けられた。 そこにあったのは、段ボール箱に無造作に入れられた、質素な品々。 『無料』と手書きされたポップ。 中には、ビジネスホテルのアメニティよりも粗悪な歯ブラシ、泡立ちの悪そうな固形石鹸、そして、パッケージすらされていない、ただカロリーを摂取するためだけに作られたような味気ない乾燥パン。
「……ビンゴだ」
聖哉の脳内に、冷たい閃光が走る。
(学校側がわざわざ『無料』の救済措置を用意しているという事実。これが意味することはただ一つ。この学校には『ポイントがゼロになり、飢える』状況に陥る生徒が確実に存在する、という前提だ)
10万ポイントは、毎月振り込まれない。 あるいは、何らかのペナルティによって全額没収される。 その最悪の事態を、学校側はすでに想定し、最低限の生存ラインだけをこの『無料コーナー』として提示しているのだ。
聖哉は、あらかじめ用意してあった大容量のリュックサックを肩から下ろし、迷うことなく行動を開始した。
まず、無料の乾燥パン。棚にある約50個すべてをリュックに叩き込む。
無料の歯ブラシ、30本。固形石鹸、30個。
(衛生状態の悪化は病気を招く。病気による欠席が退学のトリガーになる可能性は非常に高い)
さらに、彼は手元の10万ポイントの使い道についても、極限までリスクを計算していた。
(価値が変動する前に、絶対に価値が毀損しない物理的な生存物資に一部を変換しておく必要がある)
彼は店内を素早く移動し、以下の物資をカゴに入れた。
・マルチビタミン・ミネラルのサプリメント(3ヶ月分)
・カロリーメイト系のバランス栄養食(20箱)
・浄水タブレット
・常備薬(風邪薬、胃腸薬、鎮痛剤)。
・文房具コーナーにあった、規定サイズギリギリのハサミとカッターナイフ、および強度の高いナイロン糸
(これらは本来の用途を偽装しつつ、いざという時のトラップ作成や、最悪の場合の自己防衛に使用する)
レジに向かう。 店員は、聖哉が持ち込んだ大量の無料品と、偏りすぎたサバイバル物資を見て、明らかに訝しげな表情を浮かべた。
「あ、あの……無料の商品は、お一人様何個までという制限は特にありませんが……常識の範囲内で……」
「常識の定義とはなんだ?」
聖哉の冷たく、そして有無を言わせぬ圧を伴った声に、店員はヒッ、と息を呑んだ。
「ルールブックに個数制限の明記はないはずだ。あれば見せてくれ」
「い、いえ、ありません……」
「なら問題ない。会計を頼む」
消費ポイントは、しめて5,800ポイント。
残高は94,200ポイント。
(これで、最低3ヶ月は外部からの補給を絶たれても生存が可能になった。だが、まだ足りない。寮の部屋の構造を確認し、防衛線を構築しなければならない)
リュックサックを背負い、ずっしりとした重みを感じながらコンビニを出る聖哉。
その異常な買い占め行動の一部始終を、少し離れた雑誌コーナーの陰から、静かに観察している一対の目があった。
*
(清隆 視点)
それはまるで、底の抜けたバケツにひたすら水を注ぎ続けるような、ひどく徒労感に満ちた、しかし奇妙な切迫感を伴う光景だった。 オレ――綾小路清隆は、手に取った適当な雑誌のページをめくるふりをしながら、竜宮院聖哉という男の異常な行動を観察していた。
オレの高校生活は、もっと静かで、春の夜の霧のように曖昧で平穏なものになるはずだった。 いや、そうなるように自らデザインしたつもりだった。 しかし、どうやらオレに配られたカードは、ひどく癖の強いものばかりらしい。 隣の席の堀北鈴音は、見えない茨の鎧を纏って他人を威嚇する不器用なハリネズミのようなものだ。彼女の思考は読みやすく、対処も容易い。
だが、あの竜宮院聖哉という男は違う。
彼は、この平和な日本という国の、平和な高校のコンビニエンスストアの中で、たった一人だけ見えない塹壕の中に身を潜めているようだった。
彼の目は、冷えたビールを飲むときのような個人的な実感の欠如と、同時に、明日世界が滅亡すると知っている預言者のような狂信的な光を帯びている。
無料の乾燥パンを、親の仇でもとるかのようにリュックサックに詰め込むその姿。 10万ポイントという大金を手にしたばかりの、普通の高校生が取る行動ではない。 彼は、気づいているのだ。 この学校が提示した10万ポイントという数字の不自然さに。 そして、その裏に隠された飢えや破滅といったペナルティの存在に。
(驚いたな)
オレは心の中で、ひっそりと感嘆した。 世界のねじ巻き鳥が、どこかで間違ったゼンマイを巻いてしまったような違和感。 彼が買っていったもの――ビタミン剤、保存食、そしてハサミやナイロン糸。それは単なる学生生活の準備ではない。あきらかにサバイバル、あるいは戦闘を想定したチョイスだ。 かつてオレがいたあの場所――ホワイトルームの人間とも違う。あそこの人間はもっと無機質で、命令に忠実な機械だった。 だが竜宮院からは、自らの意志で世界の全てを疑い、自らの意志で地獄を生き抜こうとする、歪なまでの強迫観念を感じる。
(竜宮院聖哉。彼もまた、オレと同じように何かから逃れてきたのか、あるいは、何かを守るために戦っているのか)
深入りするつもりはない。 僕の目的はあくまで、目立たず、平凡な高校生活を全うすることだ。 しかし、彼のような異物がクラスに存在する以上、完全な平穏を維持するのは難しいかもしれない。 オレは雑誌を棚に戻し、最低限の日用品だけをカゴに入れてレジへと向かった。 竜宮院聖哉という男に対する警戒度を、オレの脳内でひっそりと一段階、引き上げながら。
*
(聖哉 視点)
学生寮。1年Dクラスの男子に割り当てられた自室。
ドアを開けた瞬間、聖哉は室内の空気を肺の奥深くまで吸い込み、異常な匂い――化学物質、薬品、あるいは他人の体臭――がないかを確認した。
問題ない。
部屋に入るなり、荷物を下ろすよりも先に、ドアの鍵を二重にロックした。 そして、購入したばかりのナイロン糸を取り出し、ドアノブから窓のサッシにかけて、目に見えないほどの細さのトラップ線を張り巡らせる。これで、夜間に何者かが侵入しようとすれば、糸が引かれて机の上に置いた空き缶が落ち、警告音を発する仕組みだ。
(まだだ。これだけでは足りない。盗聴器と隠しカメラの探知が先だ)
聖哉はスマートフォンを取り出し、動画撮影モードにして部屋を暗くした。赤外線カメラのレンズの光を、スマホのカメラ越しに探すためだ。
ベッドの裏、コンセントの隙間、換気扇の奥。
這いつくばり、指先を黒く汚しながら、1ミリの隙間も見逃さずに部屋中を探索する。
結果として、盗聴器などは見つからなかったが、聖哉は微塵も安心しなかった。
(発見できなかっただけだ。最新式の、電源を必要としないパッシブ型の盗聴器が壁の中に埋め込まれている可能性は捨てきれない。室内での独り言は厳禁だ。重要な思考はすべて暗号化してノートに書き、書いた後は燃やすか飲み込む)
探索を終えた聖哉は、ようやく床に座り込み、リュックサックの中から無料の乾燥パンを取り出した。
パサパサとした、ダンボールを噛んでいるような食感。味は皆無。
だが、聖哉はそれを水で流し込みながら、静かに咀嚼した。
「……退学=リスタの消滅」
声に出さず、口の動きだけで彼は呟く。
イクスフォリアでの地獄。
もう二度と、あんな思いはごめんだ。
魔法もスキルも、ここにはない。あるのは、この鍛え抜かれた肉体と、狂気的なまでに研ぎ澄まされた警戒心だけだ。
聖哉は立ち上がり、シャツを脱ぎ捨てた。
鋼のように引き締まった筋肉が、部屋の薄暗い照明に照らし出される。
彼は床に手をつき、腕立て伏せを開始した。
「1、2、3、4……」 無音のカウント。 魔法がないなら、肉体の限界値を引き上げるしかない。 いついかなる時、不意打ちを受けても即座に反撃し、相手の息の根を止める――いや、この学校のルールに則って無力化するためのフィジカルを維持しなければならない。
「……999、1000」
汗が床にポタポタと落ちる。
しかし、休むことなく彼は腹筋、背筋、スクワットへと移行していく。
この高度育成高等学校という箱庭は、狂っている。
ならば、それ以上の狂気と慎重さをもって、このシステムを破壊し、蹂躙し、完全支配する。
「Aクラスで卒業する」という条件をクリアするために、必要な犠牲は厭わない。
(準備を怠るな。常に最悪の、そのさらに底の底を想定しろ。レディ・パーフェクトリーに至る道に、終わりはない)
竜宮院聖哉の、終わりのない準備と監視の学園生活が、今、深い夜の闇の中で本格的に幕を開けた。