ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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閑話「それぞれの準備」

【視点:綾小路清隆】

 

7月。

中間試験を退学者ゼロで無事に乗り切ったDクラスは、それ以降目立ったトラブルもなく、来るべき夏休みへの期待で浮き足立っていた。

 

だが、オレの意識は、そんな平和な教室の空気からは完全に乖離していた。

放課後のケヤキモール。オレは少し離れたベンチから、ホームセンターの大型カートを三台も連ねてレジに向かう男の背中を、無表情のまま観察していた。

 

竜宮院聖哉。

 

彼がカートに積み上げている物資のリストは、この平和な日本の高校生活において、常軌を逸しているとしか表現しようがなかった。

 

携帯型浄水器五十個。軍用パラコード二千メートル。高カロリーのサバイバルレーション(五年保存可能)を段ボール十箱。大型の熊撃退スプレーダース買い。さらには、日本の気候ではまず遭遇しないであろう熱帯性の毒蛇用の血清キットまで。

それらを大量のプライベートポイントで平然と決済していく彼の姿は、まるで明日から第三次世界大戦の最前線に赴く傭兵のようだ。

 

「……ねえ、綾小路くん」

 

いつの間にかオレの隣に立っていた堀北鈴音が、呆れ果てたような、それでいて微かな恐怖を孕んだ声で呟いた。

 

「彼はいったい、何を始めようとしているのかしら。先週は寮の自室のドアにチタン製の補強板を溶接していたという噂も聞いたわ。……Dクラスを武装蜂起させて、この学校を武力制圧する気?」

 

「まさか。あいつがそんなリスクの高い無駄な真似をするはずがない。……だが、あの物資の偏り方は異常だ。あれは完全に『過酷な大自然での長期サバイバル』を想定した備えだ」

 

オレの言葉に、堀北が眉をひそめる。

 

「サバイバル? バカバカしい。私たちは学生よ。もうすぐ夏休みだし、学校が手配した豪華客船でのクルージング旅行があるって、クラスの女子たちがはしゃいでいたわ。海とプールとバイキング。サバイバルの要素なんて、どこにもないじゃない」

 

「普通に考えればな。……だが、彼には『この学校が、ただのバカンスを生徒に与えるはずがない』という確信があるんだろう」

 

オレは竜宮院の異常なまでの疑り深さを脳内でトレースした。

 

豪華客船での旅行。それが学校側の公式発表だ。だが、竜宮院はその甘い言葉の裏に潜む最悪の可能性――船が難破する、あるいは無人島に強制的に降ろされてサバイバル試験が始まる、といった極限状況を『100%発生する確定事項』としてシミュレーションしているのだ。

 

(……それにしても、熊撃退スプレーはやりすぎだ。この学校の敷地内はおろか、日本の近海にある島でヒグマに遭遇する確率など天文学的数字だぞ)

 

「レジ袋は不要だ。……代わりに、この防水防炎仕様のチタン製コンテナボックスにすべて収納してくれ。隙間には緩衝材としてこの滅菌ガーゼを敷き詰めろ。1ミリのズレも許さん」

 

遠くで、店員に無茶な要求を淡々と突きつける竜宮院の声が聞こえた。店員は泣きそうな顔でコンテナにパラコードを詰め込んでいる。

 

「……あれは、もはや病気ね。彼がDクラスを支配しているという事実が、時々夢なんじゃないかと思えてくるわ」

 

「だが、あの異常なまでの準備が、Cクラスの龍園を完全に沈黙させたのも事実だ」

 

オレの言葉に、堀北は小さく息を飲んだ。

 

そう、あの中間テスト以降、Cクラスは不気味なほど沈黙している。龍園は相変わらず暴君として振る舞っているが、その足元――石崎や伊吹たちの目に宿る光は、完全に死に絶えているのだ。

竜宮院聖哉は、すでに何かを終わらせ、次なる盤面(無人島でのサバイバル)に向けて異常な速度で作業を進めている。

 

オレは、静かに立ち上がり、ベンチを後にした。

彼のあの常軌を逸した準備の数々。それが本当にただの杞憂で終わるのか、それともこの学校の歪んだシステムを完璧に読み切った正解なのか。

それを確かめる日は、そう遠くないはずだ。

 

 

 

 

【視点:佐倉愛里】

 

「ひっ……!」

 

ケヤキモールの裏路地。人気のない薄暗い通路で、私は持っていたデジタルカメラを胸に抱きしめ、壁際まで後ずさった。

目の前に立っているのは、家電量販店でよく接客をしてくれていた店員さん。

でも、今の彼の目は、いつもの優しい店員さんのものじゃない。血走り、粘着質で、私のすべてを剥き出しにするような、恐ろしい目。

 

「愛里ちゃん……ずっと、ずっと見てたんだよ。君のブログも、写真も……全部。俺だけが、君の本当の美しさを知ってる。だから、俺と一緒に……」

「こ、こないで……っ! お願い……!」

 

足が震えて動かない。声も出ない。

誰か、助けて。綾小路くん。

心の中でそう叫んだ、その時だった。

 

『ターゲット、隔離エリアへの侵入を確認。……これより、物理的および社会的無力化プロトコルを実行する』

 

路地の頭上から、合成音声のような無機質な声が響いた。

次の瞬間。

 

バサササササッ!!!

 

「うおっ!?」

 

空から、黒い巨大な網――マグロ漁船で使われるような、太いワイヤーが編み込まれた超重量級の捕獲ネットが、男の頭上へと正確に投下されたのだ。

男は悲鳴を上げる間もなく、その重みとワイヤーの拘束力によって、アスファルトの上に無様に押し潰された。

 

「な、なんだこれ!? 取れねえっ! 痛ぇっ!」

「……拘束完了。続いて、化学的消毒フェーズへ移行」

 

コツ、コツ、と。

路地の奥から、足音が近づいてくる。

現れたその姿を見て、私は自分の目を疑った。

 

鮮やかな黄色の、完全密閉型・対生物兵器用ハズマットスーツ。

背中には巨大なボンベを背負い、顔は分厚いガラスのバイザーで完全に覆われている。まるで映画のパンデミック処理班だ。

 

 

 

「りゅ、竜宮院……くん……?」

 

「佐倉。そこから動くな。この男は未知の病原菌や寄生虫、あるいは発情期の動物特有のフェロモンを散布している可能性がある。念のため、お前も後で次亜塩素酸のプールに五時間ほど沈める必要があるな」

 

「えっ!? や、やだ!?」

 

竜宮院くんは防護服のまま、網の中でもがく男の前に立ち、手にしたスプレーのノズルを向けた。

 

「な、なんだお前! 警察を呼ぶぞ!!」

 

「……警察? それはお前のセリフではない」

 

プシューーーーーーッ!!

竜宮院くんがノズルを引くと、男の顔面に大量の白い粉末が噴射された。

 

「ギャアアアッ!? な、なんだこれ! 目がッ!!」

 

「ただの工業用消臭剤と消毒用アルコールの混合粉末だ。貴様の不純な体臭と粘着質な呼気が、我がDクラスの貴重な資産に付着することを防ぐための初期対応に過ぎない。……さて、本題に入ろう」

 

竜宮院くんは、防護服のポケットから一枚のタブレットを取り出した。

 

「貴様が佐倉をストーキングしている事実は、二週間前から俺の構築した『全方位不審者監視AIシステム』によって捕捉済みだ。貴様の自宅のPCのハードディスク、裏アカウントのDM履歴、果ては過去五年間のケヤキモールでの購買履歴まで、すべて取得した」

 

「な、なにを……デタラメを……!」

 

「デタラメかどうかは、今貴様の勤め先である家電量販店の店長、実家の両親、そして管轄の警察署のサーバーに送信予約されているこのデータ群を見ればわかるだろう」

 

竜宮院くんがタブレットを操作すると、男のポケットに入っていたスマートフォンが、狂ったように着信音を鳴らし始めた。

 

「さあ、選べ。このまま社会的に完全に抹殺され、刑務所の中で余生を過ごすか。……それとも、今すぐこの場で退職届を書き、明日の朝一番の飛行機で日本の裏側へ移住し、二度と日本の土を踏まないと俺の靴を舐めて誓うか」

 

「あ、あ、あああ……っ」

 

男は網の中で、完全に発狂したように震え上がり、泣き喚き始めた。

ストーカーの狂気すらも瞬時に冷却する、桁違いの執念と準備による、完全なる社会的圧殺。

 

「……竜宮院くん。あの、そこまでしなくても……その、助けてくれたのは、ありがとう、だけど……」

 

「勘違いするな、佐倉」

 

竜宮院くんは、バイザー越しの無機質な目で私を見た。

 

「お前が精神的ショックで学校を欠席した場合、Dクラスの平均点が0.04%低下するシミュレーション結果が出た。俺の目的はAクラスでの卒業であり、そのためには0.01%のマイナス要因すら許容できない。……ただそれだけの理由だ。お前を助けたわけではない。数値を維持するためのメンテナンスだ」

 

そう言い残し、彼は男を網ごと引きずって、ゴミ処理場の方へと消えていった。

私は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

彼が私を助けてくれたヒーローなのか、それともストーカーよりも恐ろしいバケモノなのか、私にはもう、わからなくなっていた。

 

 

 

 

【視点:伊吹澪】

 

図書室の閉架書庫。

窓のないその密室は、機械の排熱と、息が詰まるほどの沈黙に支配されていた。

パイプ椅子に座らされているのは、私と石崎、アルベルト。

そして私たちの前には、かつてCクラスの絶対的な暴君であった龍園翔が、まるで電源を切られたロボットのように、壁のシミを見つめていた。

 

「……全員揃ったな」

 

部屋の奥、無数のモニターの光に照らされたデスクから、竜宮院聖哉が振り返った。

 

「さて、本日はお前たちCクラスの定期メンテナンスと、今後の運用方針についてのブリーフィングを行う」

 

「……ふざけんな。誰がお前の指図なんか」

 

私は、喉の奥から絞り出すように睨みつけた。

あの日。体育館裏で龍園がこの男に完全に屈服したあの日から、私たちの世界は反転した。

石崎は怯えきって龍園の腰巾着を演じ続け、龍園自身もこの男の操り人形としてCクラスのトップに座り続けている。アルベルトは、まだ龍園への忠誠心が残っているのだろう。

 

だが、私は違う。私は龍園に従っていたわけじゃない。ましてや、こんな得体の知れない他クラスの男の支配下に入る義理なんて、どこにもない。

 

「私は降りる。お前が龍園をどうしようが勝手だが、私を巻き込むな。次にあごで使おうとしたら、学校側に全部――」

 

「――伊吹澪。お前はまだ、自分が鳥籠の外にいると錯覚しているようだな」

 

竜宮院が、キーボードを一度だけ叩いた。

瞬間、私の制服のポケットに入っていたスマートフォンが、けたたましいバイブレーションを鳴らした。

画面を開くと、そこには見知らぬファイルが表示されている。

 

『Cクラス・プライベートポイント不正横領に関する調査報告書』

 

「な、なんだよ、これ……」

 

「読めばわかる。それは、龍園翔が主導したとされるポイントの横領・及び他クラスに対する脅迫行為の全記録だ。……ただし、その主犯格の欄を見てみろ」

 

私は息を呑み、画面をスクロールした。

そこにあったのは。

 

【主犯・システム偽装実行犯:伊吹 澪】

 

「……は? な、なにこれ。私、こんなこと……」

 

「お前の端末のMACアドレス、過去の通信ログ、そしてお前自身がケヤキモールで使用したポイントの履歴。それらを俺の構築したAIで改ざんし、お前が裏で龍園を操り、Cクラスの資金を私物化していたという完璧な証拠を作り上げた。……そのファイルは、すでに学校の理事会と生徒会のサーバーの奥深くに、時限式の暗号化ファイルとして埋め込んである」

 

竜宮院は、まるで明日の天気を語るような平坦な声で、私の首に死神の鎌を突きつけた。

 

「お前が俺の支配から逃れようと反逆の意志を見せた瞬間、あるいは学校側に駆け込んだ瞬間、その時限暗号は解かれ、お前はCクラスを裏で食い物にしていた極悪人として即座に退学処分となる。龍園はただお前に操られていた被害者として処理されるだろう」

 

「っ、てめえ……!!」

 

私は思わず立ち上がり、竜宮院に掴みかかろうとした。

だが、その前に龍園が、私の腕を無言で、だが異常なまでの力で掴んで引き留めた。

 

「……やめとけ、伊吹。無駄だ」

 

「龍園……っ! お前、これでいいのかよ! こんな奴の言いなりになって!」

「……」

 

龍園は答えない。

 

「理解したか、伊吹。お前たちはすでに、俺が設計したシステムに組み込まれた歯車だ」

 

竜宮院は、再びモニターに向き直った。

 

「石崎は俺の監視カメラとして機能しろ。龍園は引き続き恐怖の暴君を演じ、他クラスのヘイトと情報を集めるタンクとなれ。そして伊吹。お前は龍園を嫌悪する孤高の存在という現在のスタンスを崩すな。いずれ、他クラスへの工作員として、その立ち位置を利用させてもらう」

 

「……悪魔」

 

「褒め言葉として受け取っておこう。……メンテナンス終了だ。解散しろ。そして、各自の役割を完璧に演じ続けろ。1ミリの狂いも許さん」

 

私は、血が出るほど唇を噛み締めながら、重い足取りで図書室を後にするしかなかった。

 

私たちは、完全に叩き潰されたのだ。

暴力でも、恐怖でもなく。

一切の隙を持たない完璧な論理と準備という、絶望的な檻によって。

 

 

 

 

【視点:坂柳有栖】

 

「ふふっ。相変わらず、可愛げのない方ですね。せっかくの休日、私がわざわざお茶にお誘いしたというのに」

 

特別棟の奥にある、教職員用のサロンを貸し切った一室。

私は、最高級のダージリンの香りを楽しみながら、向かいの席に座る男――竜宮院聖哉くんに微笑みかけた。

 

「茶など飲んでいる暇はない。お前からの呼び出しの裏に、Dクラス、あるいは俺のシステムに対する何らかの物理的・論理的攻撃の意図がないか、周辺3キロメートルの電波状況と不審人物の配置を三日徹夜してマッピングしていたところだ」

 

「あらあら。それはご苦労様でした。でも、今日は純粋な逢瀬ですよ?」

 

私が首を傾げて艶然と微笑むと、竜宮院くんはポケットから奇妙な黒い機械を取り出した。

ジジジ……と、小さなノイズが鳴る。

 

「……放射線量、異常なし。だが、紅茶の中に遅効性の神経毒が混入されているリスクは棄却できない。俺はこの持参した経口補水液(未開封・ロット番号確認済み)しか口にしない」

 

彼はそう言って、ペットボトルの水を真顔で飲み始めた。

私は、可笑しくて可笑しくて、声を上げて笑ってしまった。

 

「あはははっ! 本当に、あなたは傑作です! 勇者様というのは、皆そうして神経質に生きているのですか?」

 

「俺はお前を、Aクラスを支配する最重要パーツとして高く評価している。だからこそ、お前のその肉体的な脆弱性は、俺のシステムにとって大きな不確定要素となり得る」

 

竜宮院くんは、ドンッ、とテーブルの上に分厚いバインダーを置いた。

 

「なんですか?これは」

 

「『坂柳有栖・絶対生存マニュアル(全300ページ)』だ。お前の心疾患のデータ、基礎代謝、歩行時の関節への負担などをすべて計算し、1日の最適な摂取カロリー、睡眠時間、そして転倒時の受け身の取り方までを網羅している。……今すぐ熟読し、今日からこのスケジュール通りに生活しろ。1分でもズレたら、俺が直々に点滴を打ちに行く」

 

「……」

 

私は、そのバインダーの厚みと、彼の真剣すぎる表情を見て、思わず言葉を失った。

恋人同士のイチャイチャなんて甘ったるい次元ではない。これは完全な兵器のメンテナンス指示書だ。

 

私を女の子としてではなく、ただ純粋に壊れては困る便利な道具として、極限まで大切に(そして異常なほど過保護に)管理しようとしているのだ。

 

「……ふふっ。本当に、あなたは……私の心を揺さぶるのがお上手ですね」

 

私は、バインダーの上にそっと手を置いた。

こんなにもロマンチックの欠片もない、冷徹で狂気に満ちた気遣いを、私は生まれて初めて受けた。

 

「ええ、読ませていただきますわ。私があなたのシステムの中で、最高のパフォーマンスを発揮できるように」

 

「当然だ。お前が心不全で倒れでもしたら、俺の計画が0.5秒遅延する。それは絶対に許されない」

 

竜宮院くんは、表情一つ変えずにそう言い放った。

私は、窓の外に広がる夏の青空を見つめた。

 

Dクラスの裏ボスであり、Cクラスを完全に傀儡とし、Aクラスの私と同盟を結んだこの異常な男。

彼のその過剰なまでの防壁の前に、あの綾小路清隆はどう立ち向かうのか。

夏の無人島という、予測不能な大自然の盤面において。

 

「楽しみですね、聖哉くん。この箱庭が、あなたのその過剰な慎重さで、どう壊れていくのかが」

 

私は、残った紅茶をゆっくりと飲み干し、次なる戦いの幕開けを優雅に待ち焦がれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何を勘違いしている。まだ初期診断が終わっていない」

 

聖哉くんは、私のロマンチックな余韻をチェーンソーで真っ二つにするかのような、無機質で冷徹な声を落とした。

空になったティーカップをソーサーに戻そうとした私の手は、空中でピタリと止まる。

 

「初期診断、ですか?」

「ああ。さきほど渡した『絶対生存マニュアル』はあくまで机上のデータに基づいた予測値に過ぎない。俺のシステムにおいて、推測は無と同義だ。お前という重要パーツの現状の耐久値を、今ここで直接計測する」

 

彼はそう言いながら、足元に置いていたジュラルミンケースのロックを厳重な手つきで外した。

中から出てきたのは、無数のクリップとコードがついた、異様な機械だった。

 

「それは……?」

 

「心拍、血圧、血中酸素飽和度、さらには自律神経系の乱れを非接触・低侵襲で同時測定する、俺の自作ガジェット『アスクレピオスMk-II』だ。指先と耳たぶにこのセンサーを装着しろ。さらに、この光学スキャナで網膜の毛細血管の血流を計測する」

 

言うが早いか、彼は私の手首をガシッと掴み、指先に小さなクリップを取り付けた。

さらに、私の顎を冷たい手でクイッと持ち上げ、彼自身の整った顔を異常なほど近づけてきたのだ。

 

「じっとしていろ。少しでも動けばデータに誤差が生じる。まばたきも極力控えろ」

 

彼の顔が、わずか数センチの距離にある。

真剣そのものの瞳が、私の瞳の奥を、まるで精密機械の基盤を覗き込むように凝視している。

彼の吐息が、私の前髪をわずかに揺らす。

 

そこに恋愛的な意味合いなど微塵もない。純粋なパーツの検品作業だ。

しかし、年頃の少女が、密室で同年代の、世間一般的にいうイケメンにここまで顔を近づけられ、顎を固定されている状況は、私の心臓の鼓動を不規則にさせるには十分すぎた。

 

「……ふふっ。近いですよ、聖哉くん。そんなに見つめられると……」

 

「黙れ。網膜の血流速度に急激な変化が起きた。脈拍も上昇傾向にある。やはりお前の心血管系システムは外的刺激に極めて脆弱だ。少し顔を近づけただけでこの有様とは……常にエラーコードを吐き出しているようなものだ」

 

ロマンチックの欠片もない言葉を吐きながら、彼はさらに顔を近づけ、私の瞳孔の収縮具合を小さなペンライトで執拗に確認し始める。

 

(この人、本当に私のことをただの壊れやすい道具としか見ていないのですね……)

 

呆れを通り越して、私はその徹底した冷徹さに、どこか心地よさすら覚え始めていた。

 

 

バンッ!

 

 

「おい坂柳! 例の件で報告が……って、は?」

 

教職員用サロンのドアが勢いよく開き、神室真澄が飛び込んできた。

そして、彼女は完全にフリーズした。

 

無理もない。

彼女の視線の先には、薄暗いサロンで、私がソファーに押し付けられるように顎を掴まれ、聖哉くんと唇が触れ合いそうなほど密着している姿があるのだから。

 

「あー。……えっと。……お取り込み中、だったか?」

 

神室の顔がみるみるうちに赤くなり、気まずそうに視線を泳がせた。

 

「ち、違いますわ真澄さん! これは単なる検品作業で……!」

 

「おい、Aクラスからの借用部品」

 

私が言い訳をするより早く、聖哉くんが氷のように冷たい声で神室を呼んだ。

 

「お前の無遠慮な入室のせいで、坂柳の心拍数がさらに異常値を記録し、貴重なデータが飛んだ。……だが、ちょうどいい。お前もそこに直れ。Aクラスというシステムの重要な歯車の一つであるお前の耐久値も、この際同時に測定しておく」

 

「はぁ!? なんでアンタに……いたっ!? ちょっ、なにするのよ!」

 

聖哉くんは瞬く間に神室の背後に回り込むと、彼女の首筋から肩甲骨にかけてのツボを、容赦なく、かつ的確に指圧し始めた。

 

「お前はCクラスの伊吹に対する工作で、過度な緊張状態にあったはずだ。僧帽筋が異常に硬直している。これが続けば判断ミスを誘発し、俺の計画が狂う。今ここで強制的に乳酸を分解する」

 

「ああっ!? ……んんっ、ちょ、そこ、痛……っ、やばっ、はぅっ……!」

 

容赦のない、しかし完璧にツボを捉えた指圧により、神室から普段の彼女からは想像もつかないような変な声が漏れる。

 

「どうだ。血流が改善され、神経の伝達速度が正常化していくのがわかるだろう。次は肩甲骨の裏側、菱形筋の疲労を取り除く。歯を食いしばれ」

 

「ひぃぃっ! やめっ、変な声出るからっ……ああっ!」

 

サロンに、神室の情けない悲鳴ともつかない声が響き渡る。

 

私は、センサーに繋がれたまま乱れた呼吸を整え、再び優雅に紅茶を淹れ直した。

そして、このシュールで、少しだけドキドキさせられる、最高に狂った光景を、特等席で楽しむことにした。

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