閑話「世界の歪み」
【視点:冥王ハティエス】
「……くっくっく。素晴らしいのである。これほどまでに濃密な絶望と屈辱の芳香、神界が健在であった頃すら嗅いだことがないのである」
光も音も吸い込まれる、絶対的な虚無に包まれた冥界・六道宮の最深部。
玉座に深く腰を掛けた朕は、宙に浮かぶ巨大な水晶球――現世の事象を映し出し、魂のエネルギーを抽出する観測鏡を、細めた眼で見つめていた。
ハティエスの口角は、歓喜と抑えきれない興奮によって、歪な三日月の形に釣り上がっている。
水晶球の中では、かつて己の暴力と知略に絶対の自信を持っていたCクラスの独裁者・龍園翔が、完全な論理と過剰なまでの防壁の前に手も足も出ず、這い蹲って降伏の言葉を口にする瞬間がリプレイされている。
その瞬間、彼の魂から迸った強烈な自己否定、プライドの崩壊、そして未知に対する本能的な恐怖のエネルギー。それらが『HP(恥ずかしみポイント)』という名の莫大な概念エネルギーに変換され、枯渇しきっていた冥界のエネルギー・タンクへと、ナイアガラの滝のごとく流れ込んできていた。
「よくやっておるぞ、竜宮院聖哉よ。そちは自分が『リスタルテの魂を修復するため』という、朕が与えた偽りの条件のために動いていると信じ込んでおるのである。だが、そちのその病的なまでの慎重さと、他者の尊厳を塵芥のごとく踏みにじる徹底した管理能力こそが、我が冥界を潤す最高の搾取システムとして機能しておるのである」
ハティエスは玉座の肘掛けを指先で叩きながら、水晶球に映る高度育成高等学校の全景を見下ろした。
聖哉はこの世界を、単なる魔力のない知略の世界だと認識している。
だが、それは半分正解で、半分は致命的な誤り。
メルサイスによる世界の捻曲化は実力至上主義の世界にも影響を及ぼしている。
本来であればただの優秀な高校生に過ぎないはずの生徒たちの悪意や知力が限界まで引き出され、知略の世界として歪みが発生している。
「龍園翔の知恵が回るようになったことなど、その副産物に過ぎないのである。……真に恐るべき怪物どもは、まだ牙を隠したまま、そちの構築するシステムを内側から食い破る時を待っておるぞ、勇者よ」
水晶球の光が、朕の邪悪な笑みを青白く照らし出す。
さあ、もっと踊るがよい。もっと藻掻くのである。
そちの完璧な論理が、捻じ曲がった世界の狂気に触れてどのような化学反応を起こすのか。さぁさ、朕をさらに楽しませてたもれ。
*
【視点:竜宮院聖哉】
Dクラスの教室。
ホームルーム開始のチャイムが鳴る直前の喧騒の中、俺は自席でノートPCを開き、昨日届いた『対ヒグマ・対毒蛇用フルカバー防護スーツ』の耐衝撃テストのシミュレーションを実行していた。
俺が構築した強固な恐怖の支配により、Dクラスの生徒たちは俺から半径2メートルの空間を不可侵領域として認識し、誰も近づこうとしない。無駄なノイズが排除された、極めて快適な作業環境だ。
だが、このクラスにはたった一人だけ、俺のコントロールを完全に逸脱している論理的バグが存在する。
「ふはははは! 今日の私も、窓から差し込む太陽の輝きすら霞むほどの美しいね。まったく、この罪作りな美貌には自分でも呆れてしまうよ、ビューティフルだ!」
教室の後方。窓際の席で、手鏡を覗き込みながら高笑いをしている男――
高円寺六助。
基礎身体能力、学力ともにAクラスのトップ層すら凌駕するポテンシャルを秘めていながら、その行動原理が完全に「己の美学と気分」のみに依存している異常者。
「……ふむ」
高円寺がふと手鏡を下ろし、その傲慢な視線を真っ直ぐに俺へと向けた。
俺はタイピングの手を止めず、視線だけを動かして彼を観察する。
「相変わらず、周囲に分厚いチタンの壁でも築いているかのような息苦しいオーラだね、
『パーフェクトボーイ』」
「……」
パーフェクト・ボーイ。
いつからか、この男は俺のことをそう呼ぶようになった。俺が常に『レディ・パーフェクトリー(準備は完全に整った)』な状態を追求していることを、その野生の勘とやらで見抜いているのだろう。
俺は高円寺を支配の対象としていない。
なぜなら、彼には脅迫も利益も一切通用しないからだ。仮に彼を退学の危機に追い込んだとしても、「この学校が俺の美しさに相応しくなかっただけのことさ」と笑って退学を受け入れるだろう。完全に管理不能な乱数発生器である。
「君のその、すべてをコントロールしようとする貧乏くさい執念。美しくないとは言わないが、あまりにも窮屈でエレガントさに欠けるね。大自然の雄大さ、予測不能なカオスを楽しむ余裕というものがない」
「……勘違いするな、高円寺六助。貴様の頭頂部に新種の寄生虫が付着していないか、目視でスキャンしていただけだ。お前という乱数が俺のシステムに混入することは、宇宙の真理としてあり得ない。……念のため、後でお前の席の周囲に生石灰と高濃度アルコールを撒いておく」
「ははは! 独自のスキンケアの提案かい? 私の肌は常にパーフェクトな潤いを保っているからね、遠慮しておこう!」
会話すらまともに成立しない。論理的フィードバックの完全な断絶。
俺はノートPCの画面に、高円寺の顔写真と共に『対応プロトコル:完全隔離・無視』という文字列を表示させた。
彼に干渉はしない。だが、万が一彼が俺の計画を物理的に阻害する動きを見せた場合のみ、即座に頸椎を破壊して意識を刈り取る予備の予備の迎撃プログラムを常時バックグラウンドで走らせておくことにした。
*
【視点:一之瀬帆波】
「あ、竜宮院くん! 奇遇だね!」
休日のケヤキモール。
私は、ホームセンターから巨大なコンテナボックスをいくつも運送業者に手配し終えたDクラスの竜宮院聖哉くんを見つけ、いつものような明るく人懐っこい笑顔で駆け寄った。
Bクラスのリーダーとして、他クラスの動向には常に気を配っている。
中間テストでDクラスが異常なクラスポイントを取得した件、
【私は竜宮院くんがその黒幕だと、プロファイリングのなかで理解した】
よって、私は彼と友好的な関係を築くため、ごく自然なタイミングを装って声をかけたのだ。
だが。
「……ストップ。そこから半径3メートル以内に侵入するな」
竜宮院くんは、振り返るなり、絶対零度の声で私を制止した。
その手には、空港の保安検査場にあるような棒状の金属探知機が握られている。
「えっ……? りゅ、竜宮院くん?」
「所属と氏名、および俺に接触を試みた真の目的を3秒以内に簡潔に述べろ。3、2……」
「わ、わわっ! 私はBクラスの一之瀬帆波だよ! たまたま見かけたから、挨拶しようと思っただけで……!」
私が慌てて両手を振ると、彼は金属探知機を私に向けたまま、まるで無機質なロボットのように私を上から下までスキャンし始めた。
「……心拍数に微細な揺らぎはあるが、極度の緊張状態にはない。瞳孔の開き具合から見て、直接的な攻撃の意志は認められない。……だが、その過剰なまでの友好的なオーラは、極めて不自然だ」
「ふ、不自然かなぁ? 同じ学年なんだし、仲良くしたいなって思うのは普通のことだと……」
私は表面上、戸惑いと怯えの表情を作って見せた。
だが――私の内側で、極めて冷静な観察眼が彼の異常性を正確に捉え始めていた。
(……この人、ただの慎重な性格ってレベルじゃない。私の顔だけじゃなく、肩の筋肉の弛緩状態、足の重心の置き方、さらには周囲の監視カメラの死角まで、瞬時に視線でトレースしている……。まるで、いざという時に私の骨を折る手順を確認しているような、冷たすぎる目)
「ここは実力至上主義の学校だ。クラス同士が限られたポイントを奪い合う弱肉強食のサバンナだぞ」
竜宮院くんが、氷のように冷たく言い放つ。
「その最前線で、他クラスの、しかも素性の知れない男に対して無防備に笑顔で近づくなど……完全に高度な罠であるか、さもなくば危機管理能力が完全に欠如した知的障害のどちらかだ」
「ち、知的……っ!?」
「もしお前が後者であり、その異常なまでの善意でクラスをまとめているのだとしたら……いずれお前は、他者の悪意に足元をすくわれ、Bクラスごと自滅するだろう。俺のシミュレーションでは、お前のその無防備さが致命傷となる確率が98.7%だ」
私は、彼のあまりにも容赦のない言葉に、思わず言葉を詰まらせたように口元を抑えた。
「俺はお前のような偽りの善意を振りまく人間を信用しない。お前と関わることは、俺のシステムにとって無駄なノイズとなる。二度と俺に話しかけるな」
そう言い残し、彼は私に背を向けて去っていった。
私は、彼が完全に視界から消えるまでその場に立ち尽くしていた。
(竜宮院聖哉。……あなたは確かに恐ろしい。私を善意に溺れる愚か者だと切り捨てるその冷徹な論理も、きっと正しいのでしょうね)
私は、少しだけ俯き、唇の端に微かな笑みを浮かべた。
彼の言う通り、善意だけではこの学校は生き残れない。
でも、私はBクラスの誰も退学させない。誰一人欠けることなく、Aクラスへ上がってみせる。その基本原理を貫くためなら、私はどんな泥水だってすするし、清濁だって併せ呑む。
(あなたが私のやり方をノイズだと切り捨てるなら、それでいい。私はこれからも、この無防備な善意の仮面を被り続ける。でもね……)
私は、彼の消えた通路の奥を見据えながら、静かに、そして確固たる意志を持って思考を結んだ。
(もしあなたが、私の大切なクラスを壊そうとする最大の障害になるのなら。……その時は、最後の最後で、一切の容赦なくあなたを潰すよ)
【そして、どうしようもなくなった場合、クラスメイトを切り捨てるくらいの覚悟はあるよ】
無防備な少女の仮面の裏に隠した、
【本来持ち合わせることができなかった】
決して折れない強靭な刃。
私は、自分の心臓の奥底でそれが冷たく光るのを感じながら、ゆっくりと歩き出した。
*
【視点:櫛田桔梗】
「……嘘でしょ。何なの、これ……」
休日の深夜。Dクラスの女子寮、自室。
私は、ベッドの上に放り出されたそれ』見て、絶望のあまり頭を抱え込んでいた。
『夏季休暇・特別試験想定対応マニュアル(櫛田桔梗用・Ver.4.2)』
ページ数、実に500ページ超。
竜宮院くんから「今日中にすべて暗記し、明日実技テストを行う」と渡された、分厚すぎるバインダーだった。
中を開くと、そこには人間の正気を疑うような、常軌を逸した想定シミュレーションと私の行動指示がびっしりと書き込まれていた。
『状況A-45:無人島において、全長3メートル以上の毒蛇(ハブの突然変異種等を想定)に遭遇した場合。
指示:櫛田桔梗は直ちにDクラスの飲料水を確保している浄水器を守る盾となれ。左腕の肘から先を犠牲にして蛇に噛ませ、その間に右手で支給された抗血清キット(ページ210参照)を準備。毒が全身に回る前に自らの左腕を止血帯で縛り上げろ。……泣き喚くことは許可するが、浄水器に1滴でも血を飛ばした場合は連帯責任として退学処分とする』
「な、なんで私が腕を犠牲にしなきゃいけないのよぉっ……!」
私は声を殺して悲鳴を上げた。
他にも、『ヒグマ遭遇時の死んだふりにおける、心拍数を1分間に40回以下に落とすための呼吸法』だの、『他クラスの生徒が飢餓で暴徒化した場合の、笑顔を用いた心理的誘導と関節技による制圧手順』だの、およそ女子高生に要求されるレベルを何千倍も逸脱した狂気の指示ばかりだ。
(逃げたい。今すぐこの学校から逃げ出したい……ッ!)
でも、逃げられない。
私の本性を録音したデータは、彼の手によって学校のネットワークの深層に時限爆弾としてセットされている。私が少しでも彼に反逆するか、このマニュアルの暗記を怠れば、私の学校のアイドルとしての人生は一瞬で崩壊する。
「……あ、あはは……。覚えるしかないじゃない、こんなの。腕の1本や2本、くれてやるわよ、あのクソ野郎……!」
私は完全に心が折れ、涙と鼻水を垂れ流しながら、500ページのマニュアルを血走った目で読み込み始めた。
もはや私に自我はない。私は竜宮院聖哉という絶対的な神が設計した、生存のための極悪な歯車の一つに成り下がっていた。
*
【視点:坂柳有栖】
「……チェックメイト、ですね」
自室のテーブル。
一人で指していたチェス盤の上で、私は白のクイーンで黒のキングを追い詰め、静かに微笑んだ。
竜宮院聖哉。彼と同盟を結び、彼から渡された絶対生存マニュアルに従って完璧な体調管理を行う日々は、退屈なこの学校生活において極上のスパイスとなっている。
だが、私の関心は今、彼が完全に叩き潰したCクラスの龍園翔の過去の動きに向いていた。
お茶会のなかで、聖哉くんの発言をひとつひとつ思い出す。
(……聖哉くんとの抗争において、龍園くんが見せた動き。反応遅延からハッキングと認識するリテラシー、ネットワークの遅延を逆手に取ったメタデータの監視と攪乱、そのなかでの伊吹さん、真澄さんへの対処。……聖哉くんにまんまとしてやられたとはいえ、そもそもその動きは、私の知る『龍園翔』のポテンシャルを遥かに超えています)
私は、ティーカップを手に取りながら、目を細めた。
龍園くんは確かに狡猾で、暴力と直感を武器にする優秀な不良だ。だが、あのような高度な電子戦や、緻密な論理構築を単独で行えるほどの知能は、本来彼には備わっていないはず。
まるで、彼の中に眠っていた悪意と知略のパラメータが、何者かの手によって強制的に『限界突破』させられていたかのよう。
「……ふふっ。面白いですね」
この高度育成高等学校という箱庭。
表向きは、政府が設立した実力至上主義のエリート育成機関。
だが、その根底に流れるルールそのものが、私たちの与り知らないところで、何らかの意図を持って『ねじ曲げられている』のだとしたら?
「竜宮院聖哉。そして綾小路清隆。二つの極限の論理が衝突する時……Twisted Ixphoriaの本当の意味が、私にもわかるのでしょうか」
私は、盤面から転がり落ちた黒のナイトを指先で弄びながら、来たるべき夏の無人島での激突に、胸を高鳴らせていた。