ジャン=ポール・サルトル
『実存主義とは何か』
【視点:綾小路清隆】
八月。
抜けるような青空と、眼下に広がる紺碧の海。
学校が手配したという超大型の豪華客船は、太平洋の波を切り裂きながら優雅に航行していた。甲板には水着姿ではしゃぐ生徒たちの歓声が響き、船内のビュッフェには一流シェフによる料理が山と積まれている。どこからどう見ても、これは真夏の楽園そのものだった。
だが、オレの意識は、そんな平和な空気の裏側に潜む微かな違和感を正確にトレースしていた。
「……おい、綾小路。このライフジャケットを着用しろ。そしてこの発信機を防水テープで右足首に固定するんだ」
プールのデッキチェアで微睡もうとしていたオレの頭上から、一切の感情を排した冷徹な声が降ってきた。
見上げると、そこには真夏の太陽の下だというのに、首元までボタンをきっちりと閉めた長袖の制服姿の男――竜宮院聖哉が立っていた。
その制服は一見普通だが、オレの目には、生地の下に防刃・断熱仕様のインナーアーマーを着込んでいることがはっきりと見て取れた。明らかにシルエットが通常より分厚い。
「……何故だ。今はただのクルージング中だぞ。船が沈むとでも言うのか」
「この船が沈没する、あるいはシージャックに遭遇する確率が0.0001%でも存在する以上、対策を怠る理由は存在しない。俺はすでに、この船に搭載されている救命艇のすべての固定ワイヤーの腐食度を光学スキャンでチェックし終えた。右舷の3番ポートにある救命艇だけが、メンテナンス不良により投下時に0.2秒の遅延が生じる。万が一の時は左舷から脱出するぞ」
オレは小さくため息をつき、彼から渡されたオレンジ色のライフジャケットを受け取った。断れば、彼が力ずくでオレにそれを着せ、さらに追加で拘束具まで使用してくることは火を見るより明らかだったからだ。
「お前は、このバカンスを信じていないんだな」
「当然だ。一学期に1クラスあたり数百万ポイントという莫大な予算を動かすこの学校が、単なる慰安旅行のためにこれほどの経費をかけるなど、論理的に破綻している。これは間違いなく、次なる盤面への輸送プロセスに過ぎない」
竜宮院は、サングラスの奥で海上の水平線を睨みつけた。
「到着地点は、おそらく携帯の電波が届かない絶海の孤島。そこで何らかの極限状態――サバイバル試験が課されると見るのが妥当だ。どいつもこいつも、水着と浮き輪しか持っていない能天気な連中ばかりだ。平和ボケした豚どもの群れだな」
「……お前のあの常軌を逸した物資は、どうしたんだ? 船への持ち込み荷物は、事前に学校側から厳しく制限されていたはずだぞ」
オレの問いに、竜宮院は口角をわずかに引き上げたように見えた。だが、その笑みには一切の温度がなかった。
「その程度の検問、予測できない俺ではない。俺の物資はすべて、完璧かつ『合法的』な手順で、すでにこの船の特別貨物室に搬入済みだ」
その時だった。
船内放送のスピーカーから、チリッ、とノイズが鳴り、教員の事務的な声が響き渡った。
『全生徒に連絡します。これより一時間後、本船は目的地の島へ到着します。生徒は全員、制服に着替えた上で、メインホールに集合してください。携帯電話等の私物は、すべて自室に置いておくこと。繰り返します――』
歓声に包まれていた甲板の空気が、一瞬にして凍りついた。
生徒たちの顔に、戸惑いと不安が広がる。
「……始まったな」
オレはライフジャケットを脱ぎ、ゆっくりと立ち上がった。
竜宮院は何も言わず、ただ眼下に迫りくる緑豊かな無人島の島影を、獲物を捕捉した鷹のような鋭い視線で見つめていた。
*
【視点:茶柱佐枝】
「……以上が、今回の無人島サバイバル特別試験の基本ルールだ」
メインホールに集められた1年生全員を前に、Aクラス担任の真嶋がマイクを通して宣告した。
ざわめき、悲鳴、そして絶望。
さきほどまでビュッフェで談笑していた生徒たちの顔は、今や死人のように青ざめている。
ルールは至ってシンプル。
・期間は1週間。
・各クラスに300のSポイントを支給する。
・このポイントを使って、テントや食料、簡易トイレなどの必需品を学校から購入し、サバイバルを行う。
・試験終了時に残ったSポイントが、そのままクラスポイントに加算される。
・リタイア者が出た場合や、環境を汚染するなどのペナルティを犯した場合は、激しい減点が課される。
・最終日に他クラスの『リーダー』を言い当てればボーナスポイントを獲得できる。
極限の状況下における、集団の統率力と忍耐力を試す試験だ。
私は、自身の受け持つDクラスの生徒たちを見渡した。平田洋介を中心に、どうにかパニックを抑えようとしているが、大半の生徒は絶望に打ちひしがれている。
だが――ただ一人。
教室の最後方で、竜宮院聖哉だけは、腕を組んだままピクリとも表情を変えていなかった。
それどころか、彼の足元には、なぜか巨大な黒いジュラルミンケースと、厳重にテーピングされたコンテナボックスがいくつか置かれている。私物持ち込み禁止のこの場で、だ。
真嶋が、その異常な荷物に気づき、眉をひそめて声を荒らげた。
「おい、Dクラスの竜宮院。その荷物はなんだ。事前の通達で、私物の持ち込みは一切禁止だと伝えたはずだ。直ちに没収する」
真嶋が近づこうとした瞬間、竜宮院は静かに一歩前に出た。
「没収の権限は、あなたにはない。真嶋先生」
ホール全体が、静まり返った。
一介の生徒が、特別試験のルールを司る教師に対して、明確に反論したのだ。
「……なんだと?」
「学校側が提示した就学規約、第14条第3項。『ただし、生徒の生命維持、および重大な疾患の治療において不可欠と判断された医療的・心理的支援物資については、担当教員の承認と適切なプライベートポイントの支払いを条件に、特例として試験エリアへの持ち込みを許可する』。……違いますか?」
真嶋の顔が、わずかに引きつった。
確かにそのルールは存在する。過去に持病を持つ生徒が参加した際のための、極めて例外的な救済措置だ。
竜宮院は、懐から数枚の書類を取り出し、真嶋の胸に突きつけた。
「これは、Dクラスが提出し、すでに学校側の正式な受理を終えた『特別医療措置申請書』だ。ここにいる櫛田桔梗は、大自然の環境下において極度のパニック障害を引き起こす『空間恐怖症』の診断書が出ている。彼女の精神を安定させるための絶対的な条件として、完全防音・空調完備の特殊テントが必要だ。また、佐倉愛里は重度の『紫外線アレルギー』であり、彼女のための全身を覆うチタン製防護スーツと、専用の浄水フィルターが不可欠である」
「な、なんだと……? んな馬鹿な話があるか!」
真嶋が書類をひったくるように奪い、目を通す。
そこには、都内の最高権威を持つ医療機関の診断書(極めて精巧に偽造されたものか、あるいは彼自身の異常な情報収集能力で何らかの弱みを握り発行させた本物か)が添付されており、さらに一番下の決済欄には。
【承認者:Dクラス担任 茶柱佐枝】のハンコが、くっきりと押されていた。
一斉に、他の教師たちと生徒たちの視線が私に突き刺さる。
私は、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ただ押し黙るしかなかった。
(……ああ、押した。押すしかなかった)
私は脳内で、数日前の出来事を反芻していた。
放課後の進路指導室。竜宮院は、Dクラスの総資産である数百万のプライベートポイントをちらつかせ、私にこの書類へのサインを迫ったのだ。ルールに則った、正当なポイントによる取引。もし拒否すれば、彼は別の手段――おそらく私の過去や教員としての立場を脅かす何か――で私を論理的に破壊しにきていたはずだ。
「……茶柱先生。これは、事実ですか」
真嶋が、震える声で私に確認を求めた。
「……ええ。書類に不備はない。Dクラスの生徒の健康と生命を守るため、私は担任としてそれを承認し、必要なポイントもすでに徴収済みだ」
私がそう宣言した瞬間、竜宮院はパチン、と指を鳴らした。
すると、Dクラスの男子生徒たち――須藤、池、山内らが、死んだような魚の目で立ち上がり、重いコンテナを担ぎ上げた。彼らの首元には、チョーカーのような黒い装置が巻かれているのが見えた。
中に入っているのは、医療物資などという可愛らしいものではない。
軍用の強靭なパラコード、高カロリーのサバイバルレーション、熊撃退スプレー、さらには有刺鉄線のロールまで。
「すべて、櫛田と佐倉の心理的安心感を担保するためのプラシーボ効果を目的とした支援物資だ。彼女たちは、これだけの強固な防衛設備がなければ夜も眠れず、心肺停止に至るリスクがある。……文句があるなら、彼女たちが現地で死亡した際の全責任を、あなたが負うという一筆を今ここで書いてもらおう」
完璧な論理のすり替え。
ルールの穴を悪魔的なまでに拡大解釈し、合法的に試験の前提を破壊する暴力。
他クラスの生徒たちが、ぽかんと口を開けてその光景を見つめている。
彼らは300の限られたポイントで、これから水一滴、トイレ一回にすら頭を悩ませるサバイバルを強制されるのだ。
だが、Dクラスは、すでに試験開始前から、プライベートポイントの暴力とルールの悪用によって、完全に盤面を制圧しにかかっていた。
「……Dクラスの出発を許可しろ」
竜宮院の冷たい宣告とともに、Dクラスの生徒たちは、完全に竜宮院の恐怖支配に呑み込まれており、誰も声を発することなく、軍隊の行軍のように整然と船を降りていった。
*
【視点:堀北鈴音】
炎天下の無人島。
指定されたベースキャンプの候補地である川辺の開けた場所に到着するなり、Dクラスの異常な光景はさらに加速した。
「須藤、池、山内。貴様らは指定したポイントの周囲に深さ1.5メートルの塹壕を掘れ。ペースが1秒でも遅れれば、首元のデバイスから脳髄を揺らす高周波を流す」
竜宮院くんは、日差しを完全に遮断する漆黒のテント(医療用という名目で持ち込まれた特殊素材)の前に折りたたみ椅子を展開し、そこから一切動かずに冷酷な指示を飛ばしていた。
「ひぃっ! ほ、掘る! 掘るからスイッチだけは押さねえでくれっ!」
須藤くんが、普段の粗暴な態度など微塵も残っていない、完全に調教された怯えきった犬のような顔でスコップを振るう。彼ら三馬鹿は、中間テストで退学の危機を竜宮院くんに救われた代償として、プライベートポイントの全権を握られ、さらにあの不気味な首輪まで装着させられている。
「竜宮院くん。……いくら何でも、これはやりすぎではないかしら」
私は、有刺鉄線を木の幹に巻きつけている平田くんたちを一瞥し、竜宮院くんに抗議した。
「私たちはサバイバル試験に来ているのよ。他クラスとのポイント競争が主軸である以上、これほど目立つ要塞を築けば、他のクラスから警戒され、リーダーを特定されるリスクが高まるわ」
「黙れ、堀北。お前のその安易な予測は、前提条件からして間違っている」
竜宮院くんは、手元のタブレットから視線を外すことなく言い放った。
「この島にはヒグマ、毒蛇、あるいは未知の寄生虫が生息している可能性がある。さらに、飢餓とストレスで暴徒化した他クラスの生徒が、夜闇に乗じて我がクラスの物資を強奪しに来る確率は、俺のシミュレーションでは99.8%だ。その物理的な脅威から防衛するためには、この塹壕と鉄条網による絶対防衛圏の構築が最低限の準備に過ぎない」
「暴徒化って……私たちは高校生よ? 先生たちも監視しているはずだわ」
「監視カメラの死角はすでに計算済みだ。……それに、お前はすでに俺のプランAにおいて過去問を正当化するためのスピーカーとして利用されただけの、終わった部品だ。二度と俺の構築するシステムに、その貧弱な思考で意見するな。次口答えをすれば、お前の髪をすべて刈り上げ、紫外線対策の反射板として利用する」
その一切の感情を含まない、絶対零度の宣告に、私は背筋が凍るのを感じて口をつぐんだ。
彼は本気だ。
クラスメイトを人間として見ていない。ただの肉の塊、ポイントを稼ぐための労働力、あるいは防波堤としてしか認識していない。
(……綾小路くん。あなたは、この怪物をどうやって止めるつもりなの……?)
私は、少し離れた場所で、与えられた雑用を淡々とこなしている綾小路くんに視線を向けた。彼は相変わらず無表情で、この狂った光景の一部として完璧に溶け込んでいる。
Dクラスは、もはや学校の生徒ではない。
竜宮院聖哉という独裁者が率いる、狂気の武装カルト集団に成り果てていた。
*
【視点:櫛田桔梗】
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ!」
炎天下の無人島。
私は、泥だらけになりながら、指定された深さ1.5メートルの塹壕を必死に掘り進めていた。
手には大きなマメができ、それが潰れて血が滲んでいる。
だが、スコップを止めることは許されない。
「櫛田。掘削のペースが予定より3秒遅れている。貴様の担当エリアの遅延は、Dクラス全体の防衛ラインの崩壊を意味する。……腕の筋肉が断裂しようが、骨が折れようが、掘り続けろ」
頭上から、冷酷無比な声が降り注ぐ。
見上げると、完全な迷彩服に身を包み、日傘の代わりに迷彩柄のパラソルを差した竜宮院くんが、ストップウォッチ片手に私を見下ろしていた。
「あ、あはは……っ! はいっ! 頑張りますぅっ! みんなのためだもんねっ!」
私は、顔面が引き攣るのを必死に抑え込み、最高のアイドルスマイルを貼り付けて返事をした。
(死ね!! 死ね死ね死ね死ね死ねええええええええっ!!! なんで私がこんなこと!?)
心の中では、彼を五等分にして海に沈める妄想を何千回と繰り返している。
だが、彼の手元には私の本性を録音したデータがある。さらに、私が少しでも反抗的な態度を見せれば、彼が事前に強制的に暗記させた『絶対生存マニュアル(Ver.4.2)』のペナルティ条項が適用され、社会的に抹殺されることが確定しているのだ。
「……周囲の警戒を怠るな。Cクラスの龍園が、必ず物理的な工作を仕掛けてくるはずだ。お前は俺の猟犬だ。不審な動きがあれば、即座に俺に報告しろ」
「は、はいっ! まかせて!」
「もし見逃せば、連帯責任として貴様の制服をシュレッダーにかけ、この島に自生するバナナの葉だけで過ごさせる」
「っっ!!? わ、わかりましたぁ!」
私は涙目でスコップを振るい続けた。
もう嫌だ。助けて、誰か。
Aクラスの坂柳さんでも、Bクラスの一之瀬さんでもいい。誰でもいいから、この悪魔を早く殺して!!
*
【視点:龍園翔】
「……クソが。ふざけやがって……っ!」
うだるような熱気の無人島。
Cクラスが拠点として定めた薄暗い森の中で、俺は近くの巨木を力任せに蹴り上げた。
足の甲に激痛が走るが、俺の腹の底で煮え滾る屈辱と絶望の炎は、そんなものでは到底消えなかった。
体育館裏でのあの日。
俺は、竜宮院聖哉という絶対的な悪魔の前に、完全敗北を喫した。
暴力ではなく、一切の隙を持たない論理と、俺たちCクラス全員をいつでも退学させられる不正横領の偽造データという時限爆弾によって。
俺は今、表向きはCクラスの独裁者として君臨し続けている。
だが、その実態は、竜宮院のシステムに組み込まれた単なるタンクに過ぎない。俺が暴れれば暴れるほど、他クラスのヘイトは俺に向き、竜宮院の姿は完全に隠蔽される。
「龍園さん……これ、どうするんすか。Dクラスの連中、完全に要塞作ってますよ。あんなの、まともに攻め落とせねえ……」
石崎が、怯えきった声で報告してくる。
こいつは完全に心が折れ、ただの竜宮院の監視カメラとしてしか機能していない。
「……黙れ。わかってる」
俺は、ギリッと奥歯を噛み締めた。口の中に血の味が広がる。
この無人島試験。本来なら、俺は各クラスにスパイを送り込み、リーダーを特定して全ポイントをかっさらう完璧な計画を立てていた。
だが、それすらもすでに竜宮院の台本に組み込まれているのだ。
『伊吹を俺のクラスにスパイとして潜り込ませろ。適当な理由で喧嘩をし、Cクラスから追放されたという筋書きでな』
島に上陸する前、竜宮院から直接下された命令。
俺が自分の意思でスパイを送り込むのではなく、竜宮院の命令でスパイを送り込まされているというこの絶対的な屈辱。
もしこの命令に逆らえば、即座にあの退学爆弾のスイッチが押され、俺たちの学校生活は終わる。
「……伊吹」
俺は、少し離れた場所で不機嫌そうに座っている伊吹澪を呼んだ。
「お前は、竜宮院の命令通り、今からDクラスの陣地に向かえ。俺と揉めてクラスを飛び出したという体裁だ。顔に泥でも塗って、悲壮感を出して行け」
「……っ。ふざけんな。なんで私が、あんな化け物のところに自ら飛び込まなくちゃいけないわけ」
伊吹が、憎悪に満ちた目で俺を睨みつける。
「あの男は、私がスパイとして潜り込むこと自体を命令した張本人でしょ? 私がどんな演技をしようが、あいつはすべてお見通しの上で私を迎え入れるなんてそんなの、ただの生殺しじゃない!」
「ならどうする! ここで退学になるか!?」
俺は怒鳴り声を上げ、伊吹の胸ぐらを掴んだ。
「俺だってあのクソ野郎の手のひらで踊らされるのは反吐が出る! だが、今は耐えるしかねえんだ。奴の敷いたレールの通りに動き、奴が完璧にコントロールできていると錯覚する一瞬の隙を待つしかねえんだよ!」
俺の悲痛な叫びに、伊吹は唇を噛み締め、ゆっくりと俺の手を振り払った。
「……わかった。行くよ。でも、私は絶対にあの男に屈しない。あいつの首を掻き切るチャンスがあれば、その瞬間に刺す」
伊吹はそう言い残し、Dクラスの陣地がある方向へと歩き出した。
俺は、その背中を見送りながら、深く息を吐き出した。
(……竜宮院聖哉。お前は確かに完璧だ。俺たちを恐怖と論理で雁字搦めにした。だがな……)
俺は、この島を覆う、蒸し暑く不快な空気を見上げた。
(お前のその論理は、この剥き出しの自然と、追い詰められた人間の悪意の前でも、本当に完璧でいられるのか?)
俺は、まだ諦めていない。
いつか必ず、あの悪魔の足元をすくい、その完璧な計算式を泥水でグチャグチャにしてやる。その反逆の炎だけが、今の俺を辛うじて立たせていた。
*
【視点:伊吹澪】
森の中を歩きながら、私は自分の心臓が早鐘のように打っているのを感じていた。
怒りではない。純粋な恐怖だ。
木々の隙間から、Dクラスの拠点が見えてきた。
そこは、もはやキャンプ場などではなかった。塹壕が掘られ、有刺鉄線が張り巡らされ、見張り櫓まで立っている。異様なまでの防衛陣地。
「……止まれ。そこから一歩でも動けば、致死量の唐辛子エキスを含んだペイント弾を顔面に撃ち込む」
不意に、木の上から声が降ってきた。
見上げると、迷彩服を着た竜宮院聖哉が、自作とおぼしき空気銃のようなものを私に構えていた。
「っ……! わ、私だ、伊吹だよ! 龍園と喧嘩して、追い出されて……」
私は、必死に台本通りのセリフを口にした。
だが、竜宮院は銃を下ろすことなく、冷酷な目で私を見下ろした。
「……台本通りのセリフご苦労。だが、貴様が森を歩いてくる間に、未知の寄生虫に感染しているリスク、あるいは龍園が貴様の衣服に発信機や遅効性の毒ガス兵器を仕込んでいるリスクは排除できない」
「なっ……! 毒ガス兵器って、バカじゃないの!? 私たちは高校生……!」
「黙れ。俺のシステムにおいて、前提を疑うことは呼吸と同じだ」
竜宮院は、木から軽やかに飛び降りると、私から数メートル離れた位置に立った。
「今から貴様を、あそこに用意した次亜塩素酸ナトリウムの消毒プールに三十分間沈める。その後、金属探知機と赤外線スキャナによる全身のスクリーニングを行う。……それが嫌なら、今すぐCクラスへ帰れ」
「…………っ」
私は、屈辱で涙が出そうになるのを必死に堪え、彼が指差した青いビニールシートで作られた不気味な水溜まりへと歩を進めた。
私がスパイとして潜入することすら、彼が書いたシナリオの一部。
私は、この悪魔の胃袋の中で、ただ消化されるのを待つだけの哀れな餌でしかないのだ。
*
【視点:竜宮院聖哉】
「……第一段階の防衛ラインは完全に構築された」
伊吹を消毒プールに沈めた後、俺はDクラスの陣地の中央、見張り櫓の上から全体を見渡した。
堀北は不満を抱えながらも沈黙し、櫛田は絶望の表情で塹壕を掘り続け、綾小路は俺の監視下で淡々と作業をこなしている。
伊吹というCクラスからの管理されたノイズの受け入れも完了した。
だが、俺の心に安堵はない。
この無人島という環境は、不確定要素が多すぎる。
天候の急変、野生動物の襲撃、そして何より、他クラスの生徒たちが極限状態に置かれた際に発露する非論理的な暴挙。
俺は、神界での経験から、絶対的な力や魔法が存在しない世界であっても、人間の悪意がシステムを破壊する可能性を誰よりも知っている。
(……龍園は俺の恐怖支配下にある。だが、あの男の魂に刻まれた反骨心までは完全に折れていないはずだ。必ず、予測の斜め上を行く泥臭い手段で俺の論理を突破しようとしてくる)
さらに、Bクラスの一之瀬帆波。彼女のあの過剰な善意の裏にある、自己犠牲を伴う狂気。
Aクラスの坂柳有栖。俺と同盟を結んでいるとはいえ、彼女もまたこの盤面を楽しむためなら平気で俺を裏切る可能性を持つ劇薬だ。
「……すべての生徒の行動パターンを、さらに三段階深くシミュレーションする必要がある」
俺はタブレットを開き、夜間の見張り当番のスケジュールをコンマ1秒単位で再計算し始めた。
俺の目的は、この無人島試験でポイントを稼ぐことではない。
この島にいるすべての敵対要素を完全に無力化し、Aクラスへの道を阻むすべての障害を物理的、論理的に粉砕することだ。
夏の無人島。
一切の油断も許されない、狂気のサバイバルが、今、完全に幕を開けた。