ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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Fear always springs from ignorance.

ラルフ・ワルド・エマーソン
『The American Scholar』


第21話「恐怖は常に無知から生じる。」

【視点:綾小路清隆】

 

無人島サバイバル試験、2日目の早朝。

まだ太陽が昇りきらず、森の木々が青白い靄に包まれている午前4時。

オレの意識は、設定していた体内時計の働きにより、静かに、そして完全に覚醒した。

 

支給された寝袋の中で、微かに視線だけを動かす。

Dクラスの防衛陣地は、一晩の間にさらなる変貌を遂げていた。

 

「……第3セクター、掘削終了しました。竹槍の角度、規定通り30度に設定完了です……」

 

「よし。次は第4セクターだ。ペースが遅い。このままでは日の出までにカモフラージュが間に合わない。急げ」

 

泥にまみれ、虚ろな目をした池と山内が、無言でスコップを動かしている。その傍らでは、暗視ゴーグルとタクティカルベストを装着した竜宮院聖哉が、一切の疲労を感じさせない冷徹な声で指示を飛ばしていた。

彼の指示に従い、陣地の周囲には深さ3メートルに及ぶ落とし穴がいくつも構築され、その表面は周囲の植生と完全に同化するよう、緻密な計算のもとに枝葉で偽装されている。

 

(……本気でこの島を要塞化するつもりか)

 

オレはゆっくりと身を起こし、寝袋を畳んだ。

無人島試験における基本ルールは、島に点在する『スポット』を占有し、ポイントを稼ぐこと。そして、他クラスの『リーダー』を隠匿しつつ、敵のリーダーを言い当てることだ。

通常の思考であれば、朝一番で探索部隊を編成し、スポットの確保と他クラスの動向を探るのが定石だろう。

 

だが、竜宮院はその定石を完全に無視している。

 

「綾小路。起きているな」

 

背後から、感情の抜け落ちた声が掛かった。

振り向くと、竜宮院がクリップボードを片手にオレを見下ろしていた。

 

「ああ。探索部隊の編成か?」

 

「探索などしない。その発想自体が、この試験における最大の罠だ」

 

竜宮院は、タブレットの画面をオレに向けた。そこには島の地図と、各クラスの予想される初期配置がマッピングされている。

 

「スポットを占有するためには、リーダー専用のキーカードを使用する必要がある。つまり、スポットを巡る動きそのものが、リーダーの特定に繋がる致命的なリスクを孕んでいる。さらに、ジャングル内を移動すれば、熱中症、毒虫によるアナフィラキシーショック、他クラスによる物理的な伏兵に遭遇する確率が飛躍的に跳ね上がる」

 

「……だから、引きこもるというのか?」

 

「『絶対防御』と言え。俺たちは、事前に茶柱から許可を得た医療用偽装物資と備蓄食料により、この島で1週間、水と食料に困ることなく生存できる。Sポイントを消費して物資を買う必要がない以上、我々のポイントは初期値の300から一切減らない。他クラスがスポットで稼ぐポイントなど、環境ペナルティや体調不良者によるリタイア減点で相殺される。我々が動かず、ただ他クラスが自滅するのを待つのが、最もリスクの低い最適解だ」

 

完璧な論理だ。

特別試験のルールそのものを否定し、自陣を不可侵の領域と化すことで、Sポイントの変動をゼロに固定する。相対的な勝利をもぎ取る、最も冷酷で確実な手段。

 

だが、オレは彼の言葉の裏に潜む違和感を正確に読み取っていた。

 

「……理にかなってはいる。だが、お前はそれだけのために、これほどの過剰な防衛網を敷いているわけではないだろう」

 

オレの問いに、竜宮院はわずかに目を細めた。

 

「どういう意味だ」

 

「お前の目は、ポイントの温存や他クラスの自滅だけを見ている人間のそれではない。もっと根源的な、システムの破壊……あるいは、お前自身が想定している『最悪のシナリオ』に怯えているようにすら見える」

 

一瞬の沈黙。

森の冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。

 

「……お前は、見えている情報だけで世界を測ろうとする傾向があるな、綾小路」

 

竜宮院はタブレットをしまい、冷たく言い放った。

 

「この島には、Cクラスの龍園、Aクラスの坂柳、Bクラスの一之瀬といった、イレギュラーな要素が存在する。彼らが極限状態に置かれた時、学校のルールという薄皮一枚の枷など簡単に引きちぎる。俺は『ルールを守って勝利する』のではない。『ルールが破壊された無法地帯』においても、100%生存し、蹂躙する準備をしているだけだ。……お前は俺の指示通り、陣地内の薪割りと、東側フェンスの張力テストを行え。余計な思考はノイズだ」

 

竜宮院はそれだけ言い残し、再び陣地の巡回へと戻っていった。

オレは、渡された手斧を軽く握りしめ、彼の背中を見送った。

 

(ルールが破壊された無法地帯、か)

 

彼のその異常なまでの警戒心は、確かにこの狂った盤面においては強力な武器となる。

だが、同時にそれは致命的な弱点にもなり得る。

すべてをコントロールしようとする者は、コントロールできない事象に直面した時、その論理の脆さを露呈する。

 

オレは、静かに思考のギアを一段階上げた。

竜宮院の『絶対防御』の網の目を掻い潜り、この無人島試験における真の勝者となるための別ルートの構築。

それは、彼に悟られることなく、他クラスのリーダー情報を掌握し、最終日に盤面をひっくり返すこと。

 

「……さて。どう動かすか」

 

オレは、薪を割る単調な作業をこなしながら、脳内で島全体の巨大なチェスボードを展開した。

 

 

 

 

【視点:一之瀬帆波】

 

「……嘘、でしょう?」

 

午前7時。

太陽が完全に昇り、じっとりとした熱気が島を包み込み始めた頃。

私は、Bクラスの偵察部隊として神崎くんたち数名と共に森を抜け、Dクラスの拠点候補地とされる川辺を見下ろす崖の上に立っていた。

 

双眼鏡越しに見えるその光景は、私たちの常識を根底から覆すものだった。

 

「なんだ、あれは……。軍事基地か?」

 

神崎くんが、隣で息を呑むのが聞こえた。

川辺の開けた土地は、完全に伐採され、周囲には深々とした塹壕と、幾重にも張り巡らされた有刺鉄線。中央には巨大な黒いテントが鎮座し、その周囲を、疲れ切った表情のDクラスの生徒たちが、一定のルートで巡回している。

 

「……無人島試験で、あんな設備を作れるポイントなんてあるはずがない。いや、そもそも学校側があんな物騒な資材を用意しているわけがない」

 

「うん。間違いなく、彼らが持ち込んだものだね」

 

私は双眼鏡を下ろし、静かに分析を始めた。

Bクラスは、クラス全員の団結力でポイントを節約し、協力して島を乗り切る方針を固めている。他クラスへの妨害工作は行わず、堅実にスポットを回る正攻法だ。

 

だが、目の前の光景は、そんなまともな競争を鼻で笑うかのような暴力的な異物だった。

 

「竜宮院聖哉くん……。彼が、Dクラスを完全に掌握したという噂はやっぱり本当だったんだね」

 

私は、黒いテントの前に立ち、タブレットで何かを監視している彼の姿を思い浮かべた。

入学当初、彼は目立たない病弱な生徒を装っていた。しかし、裏ではあの暴力の化身である龍園くんすら屈服させ、恐怖でクラスを支配する冷酷な独裁者。

 

(無防備な善意の塊であり、Bクラスごと自滅する)

 

彼が私をそう評価していることは、彼とのわずかな接触の中で痛いほど感じ取っていた。

 

「一之瀬。どうする。あんな要塞、迂闊に近づけば何をされるかわからない。監視カメラらしきものも設置されているぞ」

 

神崎くんの警戒はもっともだ。

 

「……撤退しよう。Dクラスは、今回の試験において『一切動かない』つもりだね。スポット争いには参加せず、ポイントの消費をゼロに抑えて逃げ切る構えだと思う」

 

「なら、放置でいいということか?」

 

「彼らが動かないということは、彼らのリーダーもあの要塞の中に引きこもっているということ。……最終日にリーダーを当てるボーナスポイントを狙うなら、あの鉄壁の防御を内側から崩す手段を見つけないといけないね」

 

私は、笑顔の仮面の奥で、冷徹な計算式を組み上げていた。

私は、クラスメイトを誰一人見捨てない。その絶対の目的のためなら、手を汚すことも、悪魔の盤面をひっくり返すことも辞さない。

 

「神崎くん。Cクラスの動向を探って。龍園くんが、あんな屈辱的な状況で黙っているはずがない。必ず、彼らはDクラスに対して何らかの物理的なアクションを起こすはず。……私たちは、その衝突の余波に便乗させてもらおうか」

 

私は、もう一度だけDクラスの要塞を一瞥し、森の奥へと踵を返した。

 

 

 

 

【視点:神室真澄】

 

「……あんた、本当に性格悪いよね。こんな湿気と虫だらけの島で、よくそんな涼しい顔して優雅に紅茶なんて飲めるわね。てか参加するとは思ってなかったわ。体調は大丈夫なの?」

 

Aクラスの拠点である洞窟。

私は、持ち込まれた折りたたみ式のテーブルで、ティーカップを傾けている坂柳有栖を呆れ顔で見下ろした。

 

「あら、真澄さん。環境の不快さと心の優雅さは比例しませんよ。それに、私はこの島での観劇を心から楽しみにしているのですから」

 

坂柳は、ふわりと微笑みながらカップを置いた。

Aクラスは、彼女の絶対的な統率のもと、最低限のポイントで快適な空間を構築し、すでに安定したルーティンに入っている。葛城たち一部の不満分子も、今は彼女の手腕に従わざるを得ない状況だ。

 

「で? その観劇とやらの主役は、やっぱりあの竜宮院なわけ?」

 

「ええ、もちろん。彼のおかげで私は体調面で万全の状態でこの試験に参加できてるのですから、彼のためだけに参加してるようなものですよ。ふふ、彼は今頃、自分の作った完璧な論理の城の中で、見えない敵の影に怯え、自らの精神をすり減らしているんでしょうね」

 

坂柳は、チェス盤の上のナイトの駒を指先で弄りながらクスクスと笑った。

 

「彼は『完璧』を求めすぎるがゆえに、世界に存在する『不合理』を許容できない。他者の悪意、自然の気まぐれ、そして何より……自分自身の予測を超えた盤面の変化を極端に恐れている。その恐怖こそが、彼のあの異常なまでの準備と行動の源泉ですわ」

 

「……意味分かんない。自分から勝手に怯えて、周りを巻き込んで要塞作ってるってこと?」

 

「まさにその通りです。そして、その要塞が強固であればあるほど、内側にいる人間には強烈なストレスがかかる。……そろそろ、彼が送り込んだ劇薬が効果を発揮する頃合いではありませんか?」

 

坂柳の言葉に、私は眉を顰めた。

 

「劇薬? 伊吹澪のこと?」

 

「ふふっ。竜宮院くんは、彼女を管理されたノイズとして陣地に受け入れました。通信ログを監視し、彼女の行動をすべて把握していると確信しているはず。ですが……」

 

坂柳は、ナイトの駒を前進させ、敵のポーンを弾き飛ばした。

 

「極限状態まで追い詰められ、すべてのプライドをへし折られた人間の最後の意地というものを、彼は計算式に組み込めているのかしら。……私は、そこが少しだけ気になりますね、ふふ」

 

 

 

 

【視点:伊吹澪】

 

(……殺す。絶対に殺してやる)

 

泥に塗れた塹壕の底で、私は手にできた豆を潰しながら、心の中で同じ言葉を何千回も反芻していた。

 

Dクラスの陣地に潜入して2日目。

私は、竜宮院聖哉から『労働力C-04』という屈辱的な呼称を与えられ、朝から晩まで穴掘りと罠の設置を強制されていた。

食事は、カロリー計算された固いレーションと、最低限の水分のみ。

少しでも動きが止まれば、監視している竜宮院の首輪(私にはデバイスが巻かれていないが、代わりにペイント弾を撃ち込まれる)による制裁が待っている。

 

龍園からの指示は一切ない。

私のスマートフォンは竜宮院に没収され、彼の構築した独自のネットワーク内でのみ、龍園への虚偽の報告を送信させられている。

 

『伊吹だ。Dクラスは完全に崩壊寸前。隙を見てリーダーのキーカードを奪取する』

 

竜宮院が書いたその台本通りのメッセージを送信するたび、自分がただの操り人形であることを思い知らされ、絶望で吐き気がした。

 

だが。

今日の昼過ぎ。

私は、塹壕の泥を掻き出している最中、足元に落ちていた「あるもの」に気づいた。

 

それは、泥にまみれた小さな防水ケースだった。

周囲を伺い、竜宮院の視線が別の場所に向いている一瞬の隙を突き、私はそれを拾い上げてポケットにねじ込んだ。

 

休憩時間。

監視カメラの死角となる仮設トイレの中で、私は震える手でそのケースを開けた。

 

中には、一枚の折り畳まれたメモ紙と、小さなUSBメモリのようなデバイスが入っていた。

メモには、見覚えのない端正な字で、こう書かれていた。

 

『竜宮院の監視システムには、午後2時45分から約120秒間だけ、冷却プロセスの再起動によるログの遅延が発生する。このデバイスを、彼のメインサーバー(黒いテント内のPC)の外部ポートに挿入しろ。そうすれば、お前の端末の偽造データは消去される』

 

「な、なんだこれ……!?」

 

私は息を呑んだ。

誰がこんなものを? 龍園か? いや、あいつにこんな真似ができるはずがない。

Dクラスの内部の人間? だが、あの要塞の中で、竜宮院の目を盗んでこんなものを仕掛けられる人間がいるのか?

 

(罠かもしれない。もしこれが竜宮院のテストだとしたら……見つかれば、私は今度こそ本当に退学にされる)

 

恐怖で心臓が破裂しそうだ。

だが、その時、私の脳裏に、消毒プールに沈められた時の屈辱と、竜宮院のあの見下すような冷たい視線がフラッシュバックした。

 

(私は……龍園にも、竜宮院にも、誰の言いなりにもならない……っ!)

 

時計を見る。

現在時刻、午後2時40分。

チャンスは一度きり。

 

私はデバイスを握りしめ、仮設トイレを出た。

目指すは、陣地の中央に鎮座する、あの忌まわしい黒いテント。

竜宮院は現在、外周のフェンスの点検でテントを空けている。

 

(やる。やってやる……!)

 

私は、息を潜め、周囲の監視カメラの死角を縫うようにして、黒いテントへと近づいていった。

これが、私という人間の最後の反逆だ。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

オレは、少し離れた木陰から、伊吹が黒いテントへと忍び込んでいく姿を静かに観察していた。

 

(……動いたな)

 

彼女が拾ったあの防水ケース。

もちろん、オレが仕掛けたものだ。

竜宮院のシステムの脆弱性――彼が自作した監視AIは確かに優秀だが、この炎天下の無人島という過酷な環境下において、熱暴走を防ぐための強制冷却プロセスが定期的に走るというハードウェア的な限界が存在する。そのタイミングを計算し、伊吹にデバイスを渡した。

 

だが、あのデバイスは、伊吹の偽造データを消去するものではない。

 

あれは、竜宮院のシステム内部にバックドアを形成し、彼の構築している『Project Ouroboros』の深部データ、そして何より、彼がこの試験で【誰をリーダーに設定しているか】という情報を、オレの端末に直接転送するためのトロイの木馬だ。

 

伊吹は、自身を解放するためだと思い込み、自らの意志でオレの罠を実行している。

竜宮院は、外部からの物理的・論理的な侵入には異常なまでの警戒を敷いているが、「自身の監視下にあり、完全に絶望しているはずの駒」が、システムの中枢に物理的干渉を行うリスクについては、計算の優先順位を下げているはずだ。

 

(完璧な防御とは、内側からの小さな綻びによって最も容易く崩壊する)

 

数分後。

伊吹がテントから出てきて、何食わぬ顔で塹壕の作業に戻っていくのが見えた。

オレの懐の小型端末(支給された携帯を改造したもの)が、微かに振動する。

 

データの抽出完了。

 

オレは、誰にも見られないよう慎重に端末の画面を開いた。

そこに表示された文字列。Dクラスの真のリーダーの名前。

そして、竜宮院が水面下で進めている、学校のシステムそのものを掌握しようとする異常な計画の片鱗。

 

「……なるほど。そういうことか」

 

オレは、液晶の光を消し、静かに息を吐いた。

竜宮院聖哉。お前は確かに恐ろしい男だ。

だが、お前のその完璧主義という名の病理は、すでにオレの手のひらの上にある。

 

無人島サバイバル試験、2日目・午後。

見えない水面下で、オレと竜宮院の、静かで決定的な盤面の奪い合いが始まった。

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