【視点:神室真澄】
川の水は、思っていたより冷たかった。
膝まで浸かって、ジャージの肩にこびりついた蛍光ピンクの粉を必死にこすり落とす。石鹸もタオルもない状況で、こんな原始的な方法しか思いつかない自分に苛立った。
「……落ちない」
こすっても、こすっても、皮膚に薄く染み込んだ粒子は完全には消えない。おそらく暗闇の中で紫外線を当てられれば、いまだにうっすら発光するはずだ。
(どうしよう。坂柳に、失敗したって言わなきゃいけない)
胃の底が重くなる感覚を覚えながら、私はスマホを取り出した。呼び出し音は一回で切れ、いつもの涼しい声が耳に届く。
『お帰りなさい、真澄さん。ずいぶん川遊びを楽しんできたようですね』
「……は?」
心臓が跳ねた。見られていたのか、それとも――
『あなたの声、少しだけ上擦っていますね。息もまだ整っていない。それに、さっきから電話の向こうで水の跳ねる音がずっと混ざっている……道理で、戻りが遅いわけです』
坂柳有栖は、電話の向こうで小さく笑ったようだった。
「……悪いけど、あの陣地、頭おかしいわよ。罠だらけ。リボン結ぼうとした瞬間、蛍光塗料をぶちまけられた」
『ふふ、それは重畳。むしろ、それこそが今回、私が最も知りたかったデータです』
「は?」
『あなたが無事に成功していたら、それは彼の陣地に隙があるという、つまらない結論にしかならなかった。でも、単なる使い走りの神室さんですら即座に検知され、マーキングされて追い返された。――彼の警戒網は、本物です』
私は言葉を失った。最初から、私が失敗することまで織り込み済みだったということか。
『ご苦労様でした。その塗料、しばらく落ちませんから、当分は長袖で過ごすことをお勧めしますよ』
通話は、あっさりと切れた。
私は濡れた腕を見下ろし、深いため息をついた。
「……ほんと、揃いも揃って、頭のネジが飛んでる連中ばっかり」
川岸の石を一つ、意味もなく蹴り飛ばす。
坂柳に命じられるがまま、こんな無人島の泥まみれの陣地に忍び込んで、待っていたのは蛍光塗料と、電話越しの種明かしだけ。骨折り損もいいところだ。だが不思議と、腹の底に残っているのは怒りよりも、薄気味悪い納得のほうだった。
(あの人も、あの人で、頭のネジが違う方向に飛んでるけどね……)
坂柳もまた、竜宮院という異物を「極上の観察対象」としか見ていない。神室にとっては命懸けの偵察が、あの二人にとってはただのデータ収集の一環に過ぎない。
川の水を軽く払い落とし、私は暗い森の奥へと視線を向けた。
*
【視点:龍園翔】
夜の陣地の隅、見張り番を装いながら、俺は誰もいない暗闇に向かって静かに拳を握っていた。
竜宮院からの定時報告の指示は、あと十分後だ。今日の「成果」――橋本との接触経路、Bクラスのメモの件――全部、あいつに報告する義務がある。
だが。
俺は、ポケットの中の小さな紙切れを指先で確かめた。
橋本が慌てて逃げる直前、地面に落としていったものだ。竜宮院の首輪越しの指示にも、監視マイクにも、拾った瞬間は捉えられていなかったはずだ。中身はまだ見ていない。
(報告するか、しないか)
竜宮院に見つかれば、間違いなく制裁が待っている。だが、あいつに全部差し出せば、俺の中に残った最後の一欠片まで、あいつのものになる。
石崎もアルベルトも、もう完全に牙を抜かれている。だが今夜、俺だけは知っている。この紙切れの存在を、あいつはまだ知らない。
たったそれだけのことが、ひどく甘美だった。
(俺は、あいつの駒だ。……だが、駒だろうが何だろうが、気に入らねえ手にゃ牙の一本くらい隠しておいたっていいだろうがよ)
俺は紙切れをポケットの奥深くにねじ込み、何事もなかったかのように歩き出した。
背後で、見張りに立っていたはずの石崎が小さく欠伸を漏らす音が聞こえる。あいつも、アルベルトも、竜宮院の恐怖に飼い慣らされたまま、今夜この紙切れの存在に気づく気配はない。
それでいい。今はまだ、これでいい。
反逆と呼ぶには、あまりに小さな一歩だ。それでも、この一歩だけは、竜宮院聖哉の完璧な計算式の外側にある。
*
【視点:竜宮院聖哉】
俺は、回収した蛍光塗料の付着サンプルを、簡易分光分析器にかけていた。
粒子の組成、拡散パターン、そして風向きから逆算した侵入経路。すべてのデータが指し示す答えは、一つしかなかった。
「……坂柳有栖、か」
やはりな、と俺は独りごちる。想定していたシナリオの、上から三番目。驚きはない。驚いている暇があるなら、次の準備に回すべきだ。
坂柳有栖という存在は、既に一定の許容範囲内にある。理事長の娘という特権を使い、システムの深部を覗き見る力を持つ、この箱庭で唯一の観測者。彼女が動くたびに情報は漏れるが、その代わり、彼女自身が持つ権限と観察眼を、俺の計画の部品として組み込むことができる。
(想定内のリスクと、想定内のリターン。釣り合いは取れている)
だが、それよりも俺の思考を占めているのは、別の懸念だった。
――綾小路清隆。
あの申請書に、あまりにも自然に、あまりにも滑らかにサインをした。躊躇の一つもなく。
普通の人間なら、多少なりとも「これは何のためだ」と聞き返す。あるいは、サインする前に文面を二度読み返す。だが、あいつはそのどちらもしなかった。
(完璧すぎる。従順すぎる。……それ自体が、異常データだ)
俺は、リスタルテの遺髪が入ったロケットを、いつものように強く握りしめた。
この学校で、俺が唯一計算しきれていない変数。それが綾小路清隆だ。
坂柳のように、正面から挑んでくる敵なら対処のしようがある。だが、あいつは何も仕掛けてこない。何も欲しがらない。ただ、静かに、俺の作った盤面の外側から観察を続けている。
それこそが、最も恐ろしい。
「……いいだろう。お前がただの駒なのか、それとも別の何かなのか」
俺は、ペンを取り、新しい計画書の一枚目にタイトルを書き込んだ。
『プロジェクト・ウロボロス――第一段階、綾小路清隆の反応観測』
読み込むのは、綾小路清隆の反応パターン。予備の予備、そのまた予備を積み上げた末に確認すべき答えは、ただ一つ――あいつが本当にただの部品なのか、それとも別の何かなのか。
窓の外、無人島の闇の中で、俺は静かに次の罠を組み立て始めた。
計画書の余白に、俺はもう一行だけ書き加える。
『変数:綾小路清隆。観測対象を、俺自身の死角――すなわち他者との協働という選択肢――に限定的に置くことで、反応の純度を上げる』
これまで、俺は誰の力も借りずにこの箱庭を制圧してきた。だが、あの男の底を見るためだけに、一度だけ、その原則を曲げる価値があるかもしれない。
(……いや、まだ早い。予備の予備すら整っていない状態で、駒を増やすのは悪手だ)
俺はペンを置き、リスタルテのロケットに指先を這わせた。
慎重に。慎重すぎるほど慎重に。
それでも、いつかこの箱庭のどこかで、竜宮院聖哉という完璧なシステムと、綾小路清隆という測定不能な自由意志が、正面から衝突する日が来るだろう。
俺はその日のための準備を、また一つ、闇の中に積み上げた。
*
【視点:綾小路清隆】
竜宮院聖哉という男に対して、オレが取っている態度は単純だ。相手の求める通りに動く。
たとえば今日の、あの申請書。「リーダー権限移譲の事前申請書」という体裁を取った、意味の分からない書類。オレは中身を読まなかったわけではない。読んだ上で、迷わずサインをした。
(あいつは、オレが躊躇するかどうかを試している)
竜宮院聖哉の思考回路は、常に相手の反応速度と反応の質からデータを抽出しようとする。もしオレがここで一瞬でも眉をひそめれば、あいつはそこに隠された利害や、読み解こうとする意志を見出し、警戒レベルをさらに引き上げるだろう。
だから、オレは何も考えていないふりをする。ペンを渡されたら、ペンを取る。それだけの、空っぽの部品として振る舞う。
もっとも――完全な無関心を装うことにも、リスクはある。あまりにも滑らかな従順さは、それ自体が異常な反応として観測される可能性を、オレは織り込み済みだ。
(あいつは、きっとオレを新しい変数として扱い始める)
それでいい。竜宮院聖哉がオレという駒を分析対象に加えれば加えるほど、あいつの視線と処理能力の一部は、オレという的の中心に固定される。
視線が固定された的は、動かない的よりも扱いやすい。
オレは窓の外、闇に沈む森の輪郭を見つめながら、静かに次の一手を思い描いていた。
*
【視点:冥王ハティエス】
水晶球に映る光景を、朕は満足げに眺めていた。
竜宮院聖哉が、また一つ、新たな標的に狙いを定めている。あの綾小路清隆とかいう小僧。従順すぎるほど従順な駒でありながら、その従順さこそが聖哉の心を苛立たせ、掻き乱している。
「くくく……良い兆候であるぞ」
まだHPの量としては微々たるものだ。だが、聖哉のあの疑念、あの焦燥。それは、いずれ盤面全体を揺るがす巨大な恥辱の種になるだろう、と朕は確信していた。
龍園翔の胸に芽生えた、小さな反逆の火種にも、朕は気づいていた。
――こちらの方が、むしろ興味深いのである。
完全に支配されたと信じ込んでいた駒の中から生まれる、たった一欠片の自我。それが聖哉の完璧な管理体制にどんな亀裂を生むのか。
朕は玉座に深く腰掛け直し、その行方を静かに見守ることにした。