ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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Nous sommes si accoutumés à nous déguiser aux autres, qu'enfin nous nous déguisons à nous-mêmes.

フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー
『考察あるいは教訓的格言・蔵言』(箴言119)


第3話「我々は他人の前で自分を偽ることに慣れすぎているあまり、ついには自分自身に対しても自分を偽るようになる。」

四月の空は、まるで作り物のように青く澄み渡っていた。

 

しかし竜宮院聖哉にとって、この空の青さすらも、運営側が意図的に設定した環境シミュレーションの一部ではないかという疑念を拭いきれずにいた。窓ガラスの屈折率、降り注ぐ紫外線の量、風の向き。それらすべてが、生徒の精神状態に影響を与えるための隠しパラメータである可能性はゼロではない。

 

「……異常なし」

 

午前五時。聖哉は自室のベッドから音もなく身を起こすと、昨晩仕掛けたナイロン糸のトラップを一つ一つ解除していった。ドアノブ、窓枠、換気扇の隙間。すべてに変化はない。目視での確認に加え、床に撒いておいた微細な片栗粉の粒子も乱れてはいなかった。

 

完全な密室。絶対の安全。

 

しかし、聖哉の表情に安堵の色は浮かばない。彼はすぐさま冷水で顔を洗い、筋力トレーニングを開始した。無音の腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。それぞれを千回ずつ。汗が床に落ちる音すらもコントロールし、呼吸を極限まで抑制する。もし隣の部屋や上下の階に高感度の振動センサーが設置されていれば、毎朝のルーティンから彼の身体能力を逆算される恐れがあるからだ。

 

トレーニングを終えると、彼は朝食の準備に取り掛かった。

といっても、調理の必要はない。購入したカロリーメイト系の栄養食を半ブロックと、無料の乾燥パンを二切れ。そして浄水タブレットを溶かした水道水。味覚の歓びなどというものは、とうの昔に脳の片隅に追いやられている。食事とは、生存に必要な栄養素を胃壁から吸収させるための作業に過ぎない。

 

(炭水化物、タンパク質、ビタミン、ミネラル。最低限の生命維持にはこれで十分だ。クラスの連中のように、朝からカフェで高カロリーなサンドイッチを頬張る必要などない)

 

パサパサとしたパンを水で流し込みながら、聖哉は脳内の情報端末をアップデートする。

入学から二週間が経過した。

この二週間で、聖哉が収集したデータは、彼の当初の仮説を裏付けるものばかりだった。

 

1年Dクラスは、緩やかに、しかし確実に腐敗しつつあった。

 

授業中の私語、居眠り、スマートフォンの操作。果ては遅刻や無断欠席。茶柱佐枝という女教師は、それらの規律違反を一切咎めようとしない。ただ黒板に向かい、淡々とチョークを走らせるだけだ。

 

(放置。完全な放置だ。教育機関としての本来の機能すら放棄している)

 

聖哉はノートの端に、授業中のクラスメイトの違反行為を正の字で記録し続けている。須藤健の居眠り(累計24回)、池寛治の私語(累計38回)、山内春樹のスマホ操作(累計41回)。彼らは自分たちが自由を謳歌していると錯覚しているが、聖哉の目には、屠殺場に向かって陽気に行進する豚の群れにしか見えなかった。

 

(十万ポイントという餌を与えられ、理性を失った家畜たち。茶柱は注意しないのではない。注意する必要がないから放置しているのだ。なぜなら、すべての行動は監視カメラと教師の目を通じて『査定』されているからだ)

 

一ヶ月後、五月一日。

その日が最初の審判の時になると、聖哉は確信していた。十万ポイントの無条件支給など、あり得ない。彼らの放蕩の代償は、次回のポイント支給額の大幅な減額、あるいはゼロという形で突きつけられるはずだ。

 

(問題は、それが『個人査定』なのか『クラス単位の連帯責任』なのか、ということだ)

 

もし個人査定であれば、聖哉は何も気にする必要はない。彼はこの二週間、誰よりも早く登校し、背筋を伸ばして教師の目を見つめ、一切の私語を発することなく完璧な授業態度を維持している。

だが、もし連帯責任だとしたら。

あの豚どものマイナス査定が、自分にも降りかかってくるとしたら。

 

「……吐き気がするな」

 

無意識のうちに漏れた呟きを、聖哉はすぐに飲み込んだ。舌打ちすらも記録されている可能性がある。彼は自らを律し、ブレザーに腕を通した。

 

 

 

 

教室に入ると、すでに喧騒が始まっていた。

 

「なあなあ、昨日カラオケでオールしてさぁ! ポイントまだ七万もあるぜ!」

 

「マジで? じゃあ今日の放課後、駅前の新しいカフェ行こうよ!」

 

浮かれた声が交差する中、聖哉は誰とも目を合わせることなく、窓際の最後列――自分の席へと一直線に向かった。

隣の席では、堀北鈴音がすでに背筋を伸ばし、分厚い文庫本を開いていた。彼女もまた、この浮かれた空間において孤立を保っている。しかし、聖哉のプロファイリングによれば、彼女の孤立は「他者を見下していることによる拒絶」だ。聖哉の「リスク排除のための遮断」とは根本的に種類が違う。

 

(警戒レベルB。知能は高いが、協調性の欠如が弱点となる。彼女がいじめの標的にされた場合、隣の席である俺にまで火の粉が飛ぶ確率が7%上昇する。必要最低限の壁は構築しておくべきだ)

 

聖哉が席に着き、カバンからノートを取り出したその時だった。

 

「あ、あのさ、竜宮院くん。おはよう!」

 

ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

顔を上げると、クラスのアイドル的存在である櫛田桔梗が、人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。彼女の背後では、池や山内といった男子生徒たちが、羨ましそうにこちらを覗き込んでいる。

 

(櫛田桔梗。警戒レベルB。来たか、不確定要素)

 

聖哉の全身の筋肉が、無意識のうちに戦闘態勢へと移行する。しかし表面上は、一切の感情を排した無表情を貫いた。

 

「……おはよう」

 

「竜宮院くんって、いつも朝早いよね。偉いなぁって思って見てたんだ。ねえ、もしよかったら、今日のお昼、一緒にお弁当食べない? 平田くんたちも誘ってさ!」

 

誰もが断れないような、完璧に計算された角度の笑顔。クラスの融和を図るための、善意に満ちた提案。

だが、聖哉の脳内アラートはけたたましく鳴り響いていた。

 

(なぜ俺を誘う? 俺はこれまで一度も誰とも会話を交わしていない。目立たないよう、空気と同化するよう努めてきた。それにもかかわらず、わざわざ接触を図ってくる意図は何か? 俺の情報を引き出すためか? あるいは、俺を特定のグループに組み込み、何らかの陰謀のスケープゴートにするつもりか?)

 

「断る」

 

聖哉の口から出た言葉は、氷のように冷たく、短かった。

櫛田の笑顔が、ほんの一瞬、コンマ数秒だけ引きつったのを聖哉は見逃さなかった。

 

「え……? あ、ごめんね、いきなりだったから……」

 

「俺は食事中、誰とも会話をしない主義だ。咀嚼と嚥下のプロセスにおいて他者の声帯から発せられる音波は、胃液の分泌を阻害し消化不良を引き起こすリスクがある。加えて、君と俺との物理的距離が現在八十センチしかない。飛沫感染のリスクを考慮し、最低でもあと一メートル二十センチは後退してほしい」

 

「……えっと、ひまつかんせん……?」

 

櫛田の顔に、明確な困惑と、そして微かな苛立ちが浮かぶ。

 

「言葉の通りだ。君が未知のウイルスを保持していないという証明がなされない限り、俺は君との接触を最小限に留める。用件が済んだのなら、速やかに離れてくれ」

 

教室の一部が、水を打ったように静まり返った。櫛田に対するあまりにも無慈悲な拒絶。池や山内が「お前、櫛田ちゃんに向かってなんだその態度は!」と立ち上がりかけるが、聖哉が視線だけで彼らを射抜くと、その底知れぬ眼光の冷たさに怯み、言葉を詰まらせた。

 

「そ、そっか……ごめんね、竜宮院くん。また今度誘うね……!」

 

櫛田は無理やり笑顔を取り繕うと、足早に自分の席へと戻っていった。

 

(……これでいい)

 

聖哉は再びノートに向き直った。クラスでの孤立は、彼が望むところだ。余計な人間関係は、裏切りやトラブルの温床にしかならない。

 

 

 

 

そのやり取りを、斜め前の席から静かに観察している男がいた。

綾小路清隆だ。

 

(相変わらず、徹底しているな……)

 

綾小路は、教科書に視線を落としたまま、心の中で独りごちた。

竜宮院聖哉という男の異常性は、日に日に明白になりつつある。彼は決して目立とうとはしていないが、その過剰なまでの自己防衛本能が、逆に彼を強烈な異物として際立たせていた。

 

(櫛田の誘いをあそこまで徹底的に拒絶する理由。ただの人間嫌いというわけではない。彼は、他人と関わることによって生じるバタフライ・エフェクト的なリスクすらも恐れているように見える。あるいは……櫛田の裏に気づいているのか?)

 

綾小路は、ペンの尻で机を軽く叩いた。

 

(竜宮院聖哉。彼とは、いずれどこかで線を引かなければならない時が来るかもしれない)

 

 

 

 

三限目、体育。

グラウンドでの体力測定。本日は五十メートル走と、握力測定だった。

聖哉にとって、この体育の授業こそが最も神経をすり減らす時間だった。元の世界、あるいは捻曲イクスフォリアで鍛え上げられた彼の肉体は、すでに人間の限界を超越している。本気で走れば、世界記録など容易に塗り替えてしまうだろう。

だが、それは絶対に避けなければならない。

 

(目立つことは死を意味する。上位三割から五割。それが、最も注目を浴びず、かつ無能の烙印を押されない安全圏だ)

 

彼は事前に、日本の高校一年生男子の平均タイムと平均握力を頭に叩き込んでいた。五十メートル走ならば、七秒四から七秒六の間。

 

「次、竜宮院、平田」

 

体育教師の声がかかる。

聖哉はスタートラインに立った。隣には、クラスのまとめ役である平田洋介が爽やかな笑顔

を浮かべている。

 

「よろしくね、竜宮院くん。お互い頑張ろう」

 

「…………」

 

聖哉は無言で会釈だけを返し、クラウチングスタートの姿勢をとった。

 

(平田洋介。警戒レベルC。運動神経は良好。彼に勝つ必要はない。俺はただ、七秒五でこの五十メートルを駆け抜ける精密機械になればいい)

 

「位置について……ドンッ!」

 

ピストルの音とともに、平田が鋭く飛び出す。

聖哉は、あえて反応速度を〇・二秒遅らせた。地面を蹴る力を通常の五パーセントに抑え、歩幅を狭くし、腕の振りに無駄な力みを持たせることで素人感を演出する。

彼の脳内では、ストップウォッチが完璧な精度で時を刻んでいた。

 

(三秒、四秒、五秒。平田との距離が開く。六秒。ここから少しだけペースを上げる。七秒……ゴール)

 

「平田、六秒八! 竜宮院、七秒五!」

 

教師がタイムを読み上げる。

 

(計算通りだ。完璧な中庸)

 

息一つ乱していない聖哉は、ゆっくりと歩きながら呼吸を整えるフリをした。

しかし、その様子を鋭い視線で追っている者が二人いた。

 

一人は堀北鈴音。

 

(竜宮院くん……今の走り、何かがおかしい。足の接地時間、重心の移動。あれほど無駄のないフォームで走っていたのに、タイムが遅すぎる。まるで、見えないブレーキを引きずりながら走っているような……)

 

そしてもう一人は、木陰から静かにグラウンドを見つめていた綾小路清隆だった。

綾小路の目は、聖哉の筋肉の収縮、呼吸の深さ、そして何より、走り終えた後の瞳の揺れのなさを正確に捉えていた。

 

(……完璧にコントロールされた手抜きだ。しかも、息一つ乱していない。彼の基礎身体能力は、おそらくオレと……いや、それ以上かもしれない)

 

次の瞬間、不意に聖哉が木陰の方へと顔を向けた。

数十メートル離れた場所から、二人の視線が空中で交錯する。

聖哉の目は、冷たく、感情の欠片もなく、綾小路を射抜いていた。

 

(綾小路清隆。俺の歩法を見ていたな。あの男もまた、先日の小テストで全科目きっちり五十点を取っていた。意図的な点数調整。俺と同類か、あるいは……システム側の監視者か)

 

聖哉は視線を外し、何事もなかったかのようにクラスメイトの群れへと戻っていった。

 

(警戒レベルをSからSSに引き上げる。綾小路清隆。奴の背後は絶対に取らせない。もし奴が敵対行動に出た場合、一撃で大動脈を……いや、この学校のルールでは殺人は退学だ。社会的抹殺、あるいは証拠を残さない完全な無力化の方法を再構築する必要がある)

 

五月一日まで、あとわずか。

 

Dクラスという泥船の中で、竜宮院聖哉はたった一人、完璧な救命胴衣を何十重にも着込みながら、来るべき嵐の到来をじっと待ち構えていた。

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