【視点:竜宮院聖哉】
「……」
菜種油ランプの炎が、わずかに揺れた。外の風のせいではない。テントの布地は、この程度の隙間風を通さないよう二重に縫い直してある。揺れの原因は、俺自身の呼吸のリズムがわずかに乱れたことだった。
俺は数秒、綾小路の顔を観察した。表情に変化はない。だが、それこそが答えだった。単なる推測でこの台詞を口にしたのなら、俺の反応を窺うための些細な揺らぎが、目の動きのどこかに出るはずだ。ない。奴は最初から答えを知っている人間の顔をしていた。
「肯定も否定もしない、というのが正解らしいな」
「……ああ、その通りだ」
俺は静かに認めた。この局面で否定すれば、綾小路は俺の言葉そのものの信頼性を疑い始める。一度失った信頼性は、今後のあらゆる駆け引きのコストを跳ね上げる。安いものではない。嘘は、それを見破られなかった場合にのみ利益を生む。見破られる確率が高い嘘は、負債でしかない。
「なら、次の質問だ。お前はなぜ、まだ試験官に報告していない」
無人島試験のルールは単純だ。敵クラスのリーダーを特定し、正式に申告すれば、莫大なポイントが動く。綾小路が佐倉の名を握った時点で、Dクラスの脱落は、計算上ほぼ確定していたはずだった。俺の防衛陣地も、備蓄も、佐倉を守る隔離室も――すべてが無意味になる分岐だ。三十秒前まで、俺はその分岐の確率を4.7%と見積もっていた。今、目の前の現実がその数字を嘲笑っている。
「ポイントより、優先順位の高いものがあった。それだけだ」
「……何を知りたい」
俺は、自分の声にわずかな硬さが混じるのを、隠しきれなかった。声帯の震え幅は0.数ヘルツ単位で制御できる自信があったが、今のは違う。制御の外側から出た音だった。
「お前が、佐倉愛里だけを、複製も代替も用意せずに守っている理由だ」
俺の思考は、一瞬、完全に静止した。
左手が、無意識のうちにロケットへ伸びかける。その動きを、寸前で止めた。今この場で見せていい仕草ではない。テントの中の空気が、急に薄くなったように感じた。二酸化炭素濃度に変化はないはずだ。これは、純粋に俺の内側の問題だった。
「……合理性だ。他に理由はない」
言葉にしてから、自分でも分かった。これは嘘ではない。だが、事実の半分しか含んでいない。半分の真実は、綾小路のような人間には、嘘よりも雑に見えるだろう。
案の定、奴は追及しなかった。ただ、静かに俺を見つめたまま、それ以上何も言わなかった。追及しないという選択そのものが、俺の答えの不完全さを見抜いたという意味だと、俺には分かった。追い詰めることも、逃がすこともせず、ただ観測する。それが一番、怖い。
これまで俺が相手取ってきた人間は、必ずどちらかだった。真実を暴こうとする者か、真実から目を逸らそうとする者か。綾小路清隆は、そのどちらでもない。真実を知った上で、あえてその場に置いたまま立ち去る。まるで、標本を殺さずに観察箱へ戻す研究者のように。
「今日はここまでにしよう」
綾小路は椅子から立ち上がり、テントの入口へ向かった。
「一つだけ言っておく。オレはこの情報を、報告する気はない」
「……理由は」
「お前という人間を、消費して終わらせるには惜しい。まだ、観察する価値がある」
その言葉には、脅しの響きも、同情の響きもなかった。ただ、事実を述べているだけの声だった。だからこそ、俺の中で何かが冷たく沈んだ。
布の入口が閉じ、月明かりが遮断される。
俺は一人、ランプの炎を見つめたまま、動けずにいた。
この二年間、誰にも見せたことのない場所に、初めて他人の指先が触れた。それも、優しさからではない。純粋な計算の結果として。俺は栄養ゼリーの封を切ったが、口へ運ぶ手が、いつもより遅かった。
Project Ouroborosの再計算が必要だ。綾小路清隆という変数は、これまで「排除すべき脅威」として設計に組み込んでいた。だが、奴が佐倉の情報を握りながら報告しなかったという事実は、その前提そのものを揺るがす。奴は俺を壊したいわけではない。理解したいのだ。
――理解されることと、支配されることの、どちらがより危険か。
俺はまだ、その問いに答えを出せずにいた。
【視点:綾小路清隆】
竜宮院のテントを出て、オレは陣地の外周を歩きながら、今しがたのやり取りを反芻していた。夜露が芝を湿らせ、足音を余計に吸い込んでいく。
これまでオレが対峙してきた人間は、皆どこかで自分自身を偽っていた。堀北は強がりを、龍園は虚勢を、坂柳は余裕を。だが竜宮院聖哉という人間は、偽りではなく、計算そのもので自分を構成している。その計算の中に、たった一つだけ、計算で説明のつかない項目が混じっていた。それが今夜、初めて表面に浮かんだ。
「合理性だ。他に理由はない」――あの一言に至るまでの、コンマ数秒の沈黙。あれは、答えを探す沈黙ではなかった。答えを削る沈黙だった。奴は本当のことを言おうとして、途中でそれを止めた。言葉を選ぶ人間と、言葉を削る人間は、外見上よく似ているが、内側の動きは正反対だ。
つまり、佐倉愛里を守る理由には、竜宮院自身が語りたがらない部分がある。
(合理性で説明のつく行動に、隠す価値はない)
竜宮院は、これまでオレの前で一度も言葉を詰まらせたことがなかった。質問には常に即答し、しかもその即答は、後から検証しても矛盾を含んでいなかった。今回だけは違う。「合理性だ」という結論に至るまでに、明らかな遅延があった。処理落ちではない。何かを選別し、切り捨てる作業が挟まっていた。
隠すという行為そのものが、そこに合理性以外の何かが存在する証拠だ。おそらくは、過去に佐倉を巻き込んだ何らかの出来事――竜宮院の完璧な計算モデルの中で、唯一、処理しきれずに残っている変数。
報告しなかった理由を、オレは奴に「観察する価値」とだけ伝えた。半分は本当だ。だが、もう半分は違う。
この情報を今すぐ使えば、Dクラスの脱落と引き換えに、確実な得点が手に入る。だが、それは奴という個体を解剖する機会を、自ら手放すことと同義だ。竜宮院聖哉のような変数は、破壊するより先に、限界まで観察し尽くす方が得るものが大きい。
(急いで壊す価値のある敵ではない。ゆっくり分解する価値のある敵だ)
オレは足を止め、闇に沈む黒いテントを振り返った。
竜宮院聖哉。お前の檻の設計図には、たった一箇所、お前自身の手で埋められない空白がある。
その空白の形を、これから少しずつ、確かめていく。急ぐ必要はない。相手が逃げ出す場所は、この島のどこにもないのだから。
Project Ouroboros――竜宮院という檻そのものを、外側からではなく、檻自身が持つ内側の亀裂から崩していく計画。今夜手に入れたのは、その亀裂の正確な座標だった。
【視点:龍園翔】
深夜二時。俺は誰にも告げず、陣地の西側へ向かって歩いていた。
見張り小屋の交代表は、頭に叩き込んである。今の時間帯なら、この経路を通っても発見される確率は低い――そう計算してから、自分で笑いそうになった。確率を数字で語るのは、あいつの真似事だ。だが、今この瞬間だけは、その真似事すら、自分の意思でやっている。
紙切れに書かれていた文字が頭から離れなかった。「西側、防犯システム未確認」。竜宮院に報告すれば、また一つ、あいつの評価が上がるだけだ。だから、確かめるだけにする。誰にも言わず、自分の目で。
以前の俺なら、こんな面倒な真似はしなかった。欲しいものがあれば力ずくで奪い、邪魔者は黙らせる。それだけで十分だった。だが今の俺には、力ずくという選択肢そのものが、あいつの手のひらの上の一手として処理される。だから今夜は、静かに歩くことを選んだ。
木々の間を抜けると、確かに、他の区画に比べて見張りの密度が薄い一帯があった。落とし穴の数も少ない。偶然か、それとも竜宮院自身がまだ手を回しきれていない死角か。
(……本当だったか)
心臓が、久しぶりに自分の意思で動いていることを訴えるように鳴っていた。
誰かに命令されたからじゃない。誰かに脅されたからでもない。ただ、確かめたかったから、ここに来た。それだけの理由で身体が動くのが、こんなにも新鮮だとは思わなかった。
引き返す途中、遠くで見張りの交代する足音が聞こえ、俺は反射的に木の陰に身を沈めた。息を殺し、足音が遠ざかるのを待つ。心臓の音がうるさいくらいに響いた。
見つからなかった。あいつのシステムに、俺の今夜の行動は、まだ記録されていない。
自分の寝床に戻るまでの帰り道、俺はずっと考えていた。この西側の死角を、いつか本当に使う日が来るのかどうか。今はまだ、その答えを出す必要はない。答えを持たないまま歩けるということ自体が、今の俺にとっては十分すぎる収穫だった。
紙切れを胸ポケットに戻しながら、俺は小さく笑った。ずいぶん久しぶりに浮かべた、心の底からの笑みだった。この情報を今後どう使うかは、まだ決めていない。決めていないということ自体が、今の俺には贅沢品だった。
【視点:冥王ハティエス】
水晶球の中、竜宮院聖哉が一人、テントの中で立ち尽くしている。
朕は、その光景を何度も巻き戻して眺めていた。
「……あの男が、あそこまで言葉を選ぶ姿を見たのは、初めてであるな」
『陛下、あれは……嘘、ではないんですよね?』ドゥエが首を傾げる。
「嘘ではない。だが、真実でもない。人間はそれを誤魔化しと呼ぶのであろう」
朕は玉座の肘掛けを、指先で軽く叩いた。カツ、カツ、と規則正しい音が、玉座の間に響く。
『でも陛下、綾小路の方はどうなんです? あいつは全部見透かした上で、あえて泳がせてますよね。あっちも十分、恐ろしい気がしますが』ドゥエが控えめに尋ねる。
「無論だ。あの小僧もまた、朕の食卓を潤す上等な客の一人よ。だが今宵の主役は聖哉の方だ――器の外側ではなく、器そのものにひびが入った日として、記録するに値する」
完璧であろうとする者が、初めて誤魔化しという不完全な手段に頼った瞬間――それは、朕にとって極上の一皿に等しい。恥辱でも絶望でもない、もっと繊細な味わい。人間はこれを「動揺」と呼ぶらしいが、朕にはむしろ「綻び」という響きの方がしっくりくる。
「龍園翔の小さな冒険も、悪くない味であったぞ」
傍らでウノポルタが咳き込みながら帳面を繰る。「へ、陛下……両方合わせて、本日の恥辱換算値は過去最高を更新しております……」
「よい。実によい」
朕は満足げに水晶球を撫でた。
勇者よ。お前が積み上げてきた完璧という名の城壁に、今宵、二つ目の穴が空いた。一つはお前自身の口から。もう一つは、お前が完全に支配したはずの獣の足から。
綻びは、もう止まらぬ。
『はい、陛下』ドゥエが恭しく頭を垂れる。
朕は水晶球の光を、静かに絞った。
――さあ、次は誰の番であろうな。