フリードリヒ・ニーチェ
『善悪の彼岸』(第146節)
【視点:茶柱佐枝】
四月の教室は、いつだって不快な熱気を孕んでいる。希望、期待、あるいは根拠のない万能感。そういった十代特有の、青臭く、そしてひどく脆い感情の塊が、密閉された空間の中で発酵し、むせ返るような匂いを放っている。高度育成高等学校、1年Dクラス。私が担任を受け持つことになったこのクラスもまた、歴代のDクラスがそうであったように、愚かしくも滑稽なまでに普通の四月を謳歌していた。
教卓から見渡す四十人の生徒たちは、私にとっては四十個の評価対象でしかない。彼らは気づいていない。自分たちが今、どのような場所に立たされているのかを。月に十万ポイントという、高校生にとっては破格の仮想通貨を与えられ、彼らは完全に理性を失っている。授業中の私語、スマートフォンの操作、堂々たる居眠り。中には、すでにポイントを使い果たし、月末までどうやって過ごすかという低次元な悩みに直面している者さえいる。愚かだ。ただひたすらに、救いようがないほどに。
だが。私はチョークを持つ手を止め、黒板に背を向けたまま、視線だけを教室の後方へと滑らせた。この泥水のように濁ったクラスの中に、明確な異物が二つ、いや、正確には二つの深淵が存在している。
一人は、綾小路清隆。
事前の入試データ、面接の記録、すべてにおいて「完璧なまでに平均的」な数値を持っていた少年。しかし、その平均値はあまりにも作為的だった。全教科五十点。それは、すべての問題の正答と誤答を完全にコントロールできなければ不可能な芸当だ。彼は自らの意思で、Dクラスという最底辺の吹き溜まりに身を潜めようとしている。その淀んだ瞳の奥に、どのような怪物を飼い慣らしているのか。私にもまだ、測りかねている。
そして、もう一人。窓際の最後列。竜宮院聖哉。
彼の存在は、綾小路とはまた別の意味で常軌を逸していた。入学から三週間。彼は一度として、授業中に私語を発したことがない。居眠りもしない。姿勢を崩すこともない。まばたきの回数すら、一定のリズムを保っているのではないかと思わせるほどに、彼の行動は機械的で、完璧に統制されている。不気味なのは、彼のその完璧さが、優等生であろうとする承認欲求から来るものでは決してないという点だ。
彼は、怯えている。いや、怯えているという表現は正確ではないかもしれない。彼は、この学校というシステムそのものを、極めて冷徹な目で解剖しようとしている。先日、私がわざと授業終了のチャイムから三分間、無言で教卓に立ち続けたことがあった。他の生徒たちが戸惑い、ざわめき始める中、竜宮院だけは私の視線の動き、呼吸のテンポ、そして教室の四隅に設置された監視カメラのレンズの向きを、交互に、瞬時に、計算し尽くされた眼球運動で確認していた。
(彼は、気づいている。この学校の『ルール』に)
おそらく、五月一日のポイント支給日を待たずして、彼はSシステムの真実にたどり着いている。だが、彼は動かない。誰かに教えることもしない。ただひたすらに自己防衛の壁を高く厚く積み上げ、他者との接触を拒絶している。
「……さて、今日の授業はここまでだ」
私は抑揚のない声で告げ、教室を出た。廊下を歩きながら、私は薄暗い愉悦を感じていた。五月一日。彼らが絶望の淵に突き落とされるその日。あの二人の異物が、どのような反応を示すのか。あるいは、示さないのか。この退屈な教師生活に、ほんの少しだけ、スパイスが加えられたような気がした。
【視点:堀北鈴音】
他者との馴れ合いは、思考を鈍らせる毒でしかない。私は昔からそう考えていた。兄の背中を追いかけ、ただひたすらに自分を高めるためだけに時間を使ってきた私にとって、このDクラスの有様は地獄以外の何物でもなかった。
「ねえねえ、今日カラオケ行かない?」
「いいね!私、ポイントまだ五万も残ってるし!」
休み時間になるたびに繰り広げられる、猿山の猿のような騒々しい会話。彼らは、なぜ自分たちがDクラスに配属されたのか、その意味を微塵も考えようとしない。十万ポイントという餌に群がり、ただ消費を繰り返すだけの家畜。私は文庫本に目を落とし、周囲のノイズを意識からシャットアウトした。しかし、どうしても視界の端に入り込んでしまう存在がある。
隣の席の男、竜宮院聖哉。
彼もまた、私と同じように他者との接触を拒絶している。しかし、私の孤立と彼の孤立は、根本的な性質が異なっていた。私の孤立は、他者を不要と切り捨てることによる結果だ。だが、彼の孤立は、他者を脅威とみなし、徹底的に排除するための手段であるように見える。
先日の体育の授業での五十メートル走。彼の走りは、明らかに異常だった。彼は七秒五という、極めて平均的なタイムでゴールした。しかし、彼の身体の動き――足首のバネ、膝のクッション、腕の振りの角度――それらすべてが、物理法則に反しているかのようにちぐはぐだったのだ。彼は、全力で走っているフリをして、意図的に筋肉の出力を抑え込んでいた。それも、コンマ一秒の狂いもなく七秒五というタイムに合わせるために。
(なぜ?なぜあそこまでして、自分の能力を隠蔽する必要があるの?)
もし彼が本気で走れば、おそらく六秒を切る……いや、それ以上のタイムを叩き出していたはずだ。それほどの圧倒的な身体能力を秘めながら、彼はなぜ、この底辺のDクラスでモブを演じようとしているのか。
彼を観察していると、時折、背筋に冷たいものが走る感覚に陥る。彼は休み時間、一切席を立たない。トイレに行く回数、タイミングすらも、他の生徒と被らないように計算されているフシがある。水筒から水を飲むときでさえ、彼は水筒の飲み口を唇に直接つけず、わずかに浮かせて流し込んでいる。まるで、自分のDNA情報をどこにも残さないようにしているかのように。
(異常すぎる。彼の過去に何があったのかは知らないけれど、彼はこの学校を、戦場か何かだと勘違いしているのではないかしら)
私はため息をつき、ページをめくった。彼に関わるつもりはない。私には私の目的がある。Aクラスに昇格し、兄に認められること。そのためには、隣の異常者など気にしている暇はないのだ。だが、私がページをめくるその微かな摩擦音にすら、彼が耳をそばだて、私の心理状態を推測しようとしていることに、私はまだ気づいていなかった。
【視点:櫛田桔梗】
洗面所の鏡の前で、私は自分の顔をじっと見つめていた。口角の角度、目の開き具合、声のトーン。どれをとっても完璧。誰もが好意を抱かずにはいられない、理想の「櫛田桔梗」。しかし、鏡の奥の私の瞳には、どす黒いヘドロのような感情が渦巻いていた。
「……むかつく、むかつく、むかつくむかつくむかつく!!!」
私は声を殺して叫び、洗面台の縁を力いっぱい叩いた。痛みが走るが、それ以上に心の奥底で煮えたぎる苛立ちのほうが大きかった。
竜宮院聖哉。
あの男の顔を思い出すだけで、吐き気がしてくる。入学当初から、私はクラスの全員と仲良くなるために、一人ひとりに丁寧に接してきた。池くんも、山内くんも、須藤くんも、平田くんも、みんな私に好意を向けてくれた。堀北さんのような手強い相手はいるけれど、それは時間の問題だと思っていた。だが、あの竜宮院という男は違った。
『飛沫感染のリスクを考慮し、最低でもあと一メートル二十センチは後退してほしい』
『君が未知のウイルスを保持していないという証明がなされない限り、俺は君との接触を最小限に留める』
(は……?何あれ。頭おかしいんじゃないの!?私がウイルス!?この私が!?毎朝一時間かけてスキンケアして、完璧な清潔感を保ってるこの私に向かって、ばっちいものを見るような目を向けた……!)
思い出すだけで、腸が煮えくり返る。私は誰にでも愛されなければならない。誰からも好かれなければならない。私の秘密を知る者以外からは、絶対に。それなのに、あの男は私を明確に拒絶した。それも、クラスメイトが見ている前で。私のプライドはズタズタに引き裂かれた。
「……絶対に許さない」
私は鏡に向かって、冷たい声で呟いた。今はまだ動かない。彼がなぜあんな異常な行動をとるのか、情報が少なすぎる。それに、彼を無理に孤立させようとしなくても、あの態度のままならいずれクラスで浮き、自滅するはずだ。でも、もし彼が私の理想のクラスを作る上で邪魔になるようなら。
(その時は、徹底的に潰してやる。泣いて謝っても許してあげないんだから)
私は深呼吸を繰り返し、再び完璧な笑顔を顔に貼り付けた。よし。今日も私は、誰よりも可愛くて優しい櫛田桔梗だ。洗面所を出る時、私の足取りは軽く、そしてひどく冷たかった。
【視点:竜宮院聖哉】
四月二十五日。午後十一時四十五分。自室の完全な暗闇の中で、俺はベッドの上に胡座をかき、意識の海へと深く潜行していた。呼吸は一分間に三回。心拍数は通常の四十パーセントまで意図的に低下させている。これは睡眠による無防備な時間を極限まで削り、深い瞑想状態によって脳髄の疲労のみを回復させるための、俺独自の休息法だ。視覚を遮断し、聴覚と触覚に全神経を集中させる。窓の外を走る車のエンジン音、隣の部屋(山内春樹の部屋だ)から漏れ聞こえる微かなテレビの音、水道管の中を水が流れる微かな振動。そして、自室のドアノブから窓のサッシに張り巡らせた三十本のナイロン糸の、張力の状態。すべて正常。異常なし。だが、俺の脳内スーパーコンピューターは、常に最悪のシミュレーションを回し続けていた。
(五月一日。あと六日後に迫った、運命のターニングポイント。俺の予測が正しければ、こ
の日にクラスの連中は地獄を見る)
俺の脳内には、すでに三千パターンのシミュレーション結果が構築されていた。
事象A:十万ポイントが全額支給される。(確率:0.0001%未満。論外だ)
事象B:個人査定による減額。(確率:20%)
事象C:クラス連帯責任による全体減額。(確率:79.9999%)
事象Cが最も現実的かつ、最も危険なシナリオだ。俺の記録によれば、この一ヶ月間で1年Dクラスが犯した規律違反(遅刻、欠席、居眠り、私語、携帯いじり)の総数は、すでに千回を優に超えている。もし一回の違反につき百ポイントが減点されるシステムであれば、十万ポイントなどあっという間に底をつく。最悪の場合、Dクラスの来月の支給ポイントは「ゼロ」になる。ポイントがゼロになった時、あの豚どもはどう動くか。パニック、暴動、窃盗、いじめ、ポイントの奪い合い。原始時代のような弱肉強食の世界が、この閉鎖空間で展開されることになる。
(俺の備蓄は完璧だ)
乾燥パン、栄養ブロック、浄水タブレット、サプリメント。ポイントがゼロになろうが、俺は自室で三ヶ月間、一歩も外に出ることなく生存できるだけの物資をすでに確保している。さらに、現金化できないポイントの価値が暴落した際に備え、あらかじめポイントを日持ちする缶詰や生活必需品に変換し、ベッドの下の隠しスペース(床板を一部外し、ダミーのパネルで偽装してある)に備蓄してある。
だが、問題は飢えた豚どもが、俺の備蓄に気づいた場合だ。俺が一人だけ余裕の表情を浮かべていれば、必ず疑念を抱かれる。
「竜宮院はどうやって生活しているんだ?」
「あいつ、食料を隠し持っているんじゃないか?」と。
(リスクだ。果てしなく巨大なリスクだ)
対策はすでに講じてある。五月一日以降、俺は意図的に飢えと疲労で衰弱しているフリをする。頬をこけさせるための特殊なメイク(灰色のアイシャドウとファンデーションを混合したものを購入済み)、唇の乾燥を演出するためのベビーパウダーの塗布、そして歩行時のふらつきを完璧に演技するための、三半規管の一時的な麻痺トレーニング。誰よりも絶望し、誰よりも空腹で苦しんでいる「底辺の生徒A」を演じ切らなければならない。
(しかし、それを見破る可能性のある人間が、このクラスには複数存在する)
ターゲット1:堀北鈴音。
観察眼が鋭い。俺の身体能力の異常性に薄々感づいている。彼女が俺の衰弱の演技を見破った場合、それをネタに何かを要求してくる可能性がある。対策として、彼女の前では微小な胃液の逆流を引き起こし、本物の胃酸の匂いを嗅がせることで偽装を完璧にする。
ターゲット2:櫛田桔梗。
クラスのハブとなっている存在。俺はすでに彼女のプライドを傷つけ、明確に敵対視されている可能性がある。彼女が俺を孤立させ、スケープゴートにする確率は非常に高い。対策として、彼女の行動パターン、交友関係、一日のスケジュールをすべて暗記した。もし彼女が俺に対して明確な攻撃(デマの拡散、所持品の破壊など)を仕掛けてきた場合、即座に彼女の裏の顔を暴露するための音声データを捏造・合成し、学校の裏掲示板にタイマー送信でバラまくシステムを構築済みだ。
(本物の証拠を掴むより、完璧な捏造データを突きつける方が、この学校では致命傷になる)
ターゲット3:綾小路清隆。
……最大のイレギュラー。俺は暗闇の中で、ゆっくりと目を開いた。あの男だけは、底が見えない。全科目五十点という点数調整もさることながら、俺の手抜きを見抜いたあの視線。気配の消し方。重心の置き方。あれは、武術の達人か、あるいは俺と同じように地獄を生き抜いてきた人間の歩法だ。
(奴は、俺と同じカテゴリーに属する存在かもしれない)
もし綾小路と敵対することになったら。俺の脳内で、綾小路清隆との戦闘シミュレーションが始まった。物理的な戦闘になった場合、俺の基礎ステータスであれば、彼を〇・三秒で制圧することは可能だ。頸動脈への手刀、あるいは膝裏へのローキックからの関節技。だが、ここは学校だ。暴力は即、退学に繋がる。退学になれば、リスタルテの魂を救うという俺の目的は完全に潰える。
(ならば、合法的に、かつ社会的に奴を抹殺する手段が必要だ)
綾小路の弱点は何か。奴は目立つことを極端に嫌っている。それは俺と同じだ。ならば、奴
に最も効果的な攻撃は
「奴をクラスの中心、あるいは学校全体からの注目の的に引きずり出すこと」
だ。
俺は脳内の仮想ホワイトボードに、綾小路清隆の社会的包囲網の設計図を描き始めた。奴の指紋が付着したペン、奴の足跡のサイズ、奴の購買での購入履歴。あらゆる情報を収集し、いつでも奴に天才のレッテルを貼り付け、舞台のド真ん中に引きずり出す準備をしておく。
(準備だ。準備がすべてだ。まだ足りない。もし綾小路が俺の思考を先読みしていたら?ならば、先読みの先読み、そのさらに裏をかく三重のフェイクを用意しなければならない)
夜は長い。俺は再び目を閉じ、無限に広がる最悪の可能性の枝葉を一つ一つ、丹念に剪定し始めた。
ReadyPerfectly.
その言葉を心の中で呟ける日まで、俺に安息の眠りは訪れない。
【視点:綾小路清隆】
深夜。オレはベッドの中で、静かに天井の木目を数えていた。
ホワイトルームでの生活に比べれば、この学校のベッドは雲のように柔らかく、環境は天国のように快適だ。しかし、この快適な環境の中にあって、オレの直感は微かなノイズを受信し続けていた。竜宮院聖哉。彼の存在が、オレの平穏な日常計画に、想定外の波紋を広げつつある。今日の体育の授業。彼のあの走りは、芸術的なまでの偽装だった。筋肉の収縮率、骨格の連動、呼吸のタイミング。すべてを緻密に計算し、平均的な高校生の全力疾走というプロ
グラムを肉体で出力していた。
(あれは、素人の真似事じゃない。プロの……いや、兵器の動きだ)
オレは左手で右の手首を掴み、脈拍を確認した。正常。竜宮院聖哉は何者なのか。彼は何を恐れ、何と戦っているのか。あの異常なまでの警戒心。櫛田に対する異常な拒絶反応。あれは単なる人間嫌いではなく、他者との接触によって生じるあらゆる不確定要素(病原菌の感染から、心理的な依存、裏切りのリスクまで)を論理的に排除した結果の行動だ。
(もし、五月一日にこのクラスが崩壊の危機に直面したとき、彼はどう動く?)
おそらく、彼は動かない。自分一人だけが生き残るための、完璧なシェルターをすでに構築しているはずだ。問題は、そのシェルターの強固さが、逆に目立ってしまう可能性があるということだ。クラス全体が飢えと絶望に苦しむ中、ただ一人、無傷で生き残っている存在。
それは、沈没船の中で一人だけ豪華な救命ボートに乗っているようなものだ。必ず、他者からの嫉妬と攻撃の対象になる。
(彼がそこまで計算していないはずはない。とすれば、彼は『無傷ではないフリ』をするための偽装工作すら、すでに完了していると見るべきか)
だとしたら、面白い。
オレは暗闇の中で、ほんの少しだけ口角を上げた。あくまで傍観者を貫くつもりだ。平穏な日常を手に入れるためなら、Dクラスがどうなろうと知ったことではない。だが、竜宮院聖哉という男の異常なまでの防衛本能が、このクラスにどのような化学反応を起こすのか。
(彼を観察することは、オレ自身の『普通』を定義し直すための良いサンプルになるかもしれない)
竜宮院聖哉。
お前は、オレの敵か。それとも、この退屈な水槽の中で、唯一会話が成立する同類か。五月一日。その日が来れば、少しは答えが見えるかもしれない。オレは目を閉じ、規則正しい呼吸の波に意識を委ねた。
―――
四月の終わり。
見えない水面下で、それぞれの思惑が複雑に絡み合い、蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。誰もが仮面を被り、誰もが本当の自分を隠し、ただその日が来るのを待っている。沈黙の四月が終わりを告げようとしていた。破滅の足音は、もうそこまで近づいている。