ブレーズ・パスカル
『パンセ』(断章414)
四月の終わり。
それは多くの人間にとって、新しい環境への適応期間が終わり、春の柔らかな陽光と共に訪れる弛緩の季節である。高度育成高等学校1年Dクラスの生徒たちもまた、その例に漏れなかった。十万ポイントという、高校生にとってはあまりにも過分な電子マネーの残高は、彼らの脳内から危機感という原始的なアラートシステムを完全に破壊していた。
放課後の教室は、さながら終わらない祝祭の準備室のようだった。池寛治や山内春樹といった男子生徒たちは、最新のゲーム機の話題で大声を上げ、軽薄な笑い声を窓ガラスに反響させている。軽井沢恵を中心とする女子のグループは、カフェでの新作フラペチーノや、週末に予定しているショッピングモールでのブランド品巡りの計画に花を咲かせていた。彼らの目に映るこの学校は、楽園だ。何もしなくても毎月十万円が手に入り、欲しいものは何でも買える。授業中は適当に居眠りをし、スマートフォンをいじっていても、教師である茶柱佐枝はただ冷たい視線を向けるだけで、決して彼らを咎めようとはしなかった。
だが、教室の最後列、窓際の席に座る竜宮院聖哉にとって、その光景は地獄の釜の底で踊る亡者たちの狂乱にしか見えなかった。
(……愚かだ。あまりにも、救いようがない。救済難度が判定できない世界というのもうなづける)
聖哉は、ノートの隅にミクロの単位で記述された暗号を走らせながら、視界の端でクラスメイトたちの罪を計上し続けていた。
池寛治。
本日の授業中の私語、十四回。居眠り、二回。
山内春樹。
スマートフォンによるゲームプレイ時間、計百二十四分。
須藤健。
教師に対する反抗的な態度、三回。いびきを伴う睡眠、一回。
これらのデータは、単なる観察記録ではない。彼らに下されるであろう罰の重さを推測するための、重要なパラメータだ。
(この学校のシステムが、生徒の素行をポイントという形で評価していると仮定した場合。現在のDクラスの残存価値は、すでにマイナスに振り切れている可能性が高い)
聖哉はシャープペンの芯をミリ単位で調整し、ノートに新たな仮説を書き加えた。
『事象C:五月一日を以て、Dクラスへのポイント支給額がゼロになる』
この事象が発生する確率を、聖哉は現時点で92.8パーセントと見積もっていた。残りの数パーセントは、退学者が出る、あるいはクラスそのものが解体されるといった、より破滅的なシナリオだ。ポイントがゼロになった瞬間、この楽園は一瞬にしてスラムへと変貌する。十万ポイントを前提とした生活水準に脳を書き換えられた生徒たちは、飢餓と絶望に直面し、必ずパニックを起こす。
(食料の略奪。いじめ。金銭の強要。そして、裏切り。それが、追い詰められた人間の必然的な行動パターンだ)
聖哉のベッドの下には、すでに数ヶ月を生き延びるためのカロリーメイトやサプリメント、浄水タブレットが完璧に隠匿されている。だが、それだけでは不十分だった。もし、彼が食料を持っていることがクラスメイトに知れ渡ればどうなるか。あるいは、知られずとも、健康そうな顔色をしているだけで、
「あいつは何か隠し持っているのではないか」
という疑念を抱かせることになる。嫉妬と飢餓感に狂った群衆ほど、厄介なものはない。かつてイクスフォリアで、絶望した民衆が暴徒と化す様を嫌というほど見てきた。彼らは理屈では動かない。ただ、自分より恵まれている(ように見える)存在を引きずり下ろすためだけに、残虐性を発揮する。
(だからこそ、俺は『最弱』にならなければならない。誰からも搾取する価値がないと思わせるほどの、絶対的な弱者に)
「竜宮院くん。ちょっと、いいかな?」
思考の海に沈んでいた聖哉の鼓膜を、甘く、そしてひどく人工的な周波数を持った声が叩いた。顔を上げると、そこには櫛田桔梗が立っていた。クラスのアイドル的存在であり、誰に対しても分け隔てなく接する、天使のような少女。
彼女のショートボブの髪が春風に揺れ、愛らしい笑顔が聖哉に向けられている。しかし、聖哉の脳内アラートは、最高レベルの警報を鳴らしていた。
(櫛田桔梗。警戒レベルB。自己顕示欲の塊にして、全方位への過剰な同調行動。人間の精神構造上、あそこまで他者に合わせ続けることは不可能だ。必ずどこかに、強烈な反作用――ドブ泥のような悪意の溜め池が存在する)
「……何だ」
聖哉は、彼女から物理的に距離を取るため、椅子を静かに20センチ後方へとずらした。これによって、彼女の腕が急に伸びてきたとしても、喉笛をかき切られるリスクを最小限に抑えることができる。櫛田は、聖哉が距離を取ったことに微かに眉を動かしたが、すぐにその表情を完璧な笑顔で上書きした。
「あのね、もうすぐ五月になるじゃない?だから、クラスのみんなで親睦会をやろうって話になってるの。ケヤキモールのカフェで、みんなでケーキでも食べながら。竜宮院くんも、いつも一人でいるし、この機会にどうかなって思って」
親睦会。
ケーキ。
カフェ。
その単語の羅列を聞いた瞬間、聖哉の胃の奥で冷たい嘲笑が渦を巻いた。
(数日後には地獄に落ちるというのに、最後の晩餐を楽しもうというのか。しかも、その資金は学校から前借りしているだけの架空の数字だというのに)
「断る」
聖哉は、一拍も置かずに短く答えた。
「え……?」
櫛田の笑顔が、ほんのコンマ数秒だけ硬直した。彼女の計算において、ここまで無下に断られるというシナリオは存在していなかったのだろう。
「でも、クラスのほとんどの子が参加するんだよ? 平田くんも来るし、竜宮院くんだけ仲間外れになっちゃうのは、私、すごく嫌だな……」
「仲間外れで構わない。俺は、お前たちと馴れ合うためにこの学校に来たわけではない。それに……」
聖哉は、櫛田の瞳の奥――その笑顔の裏側に張り付いている、どす黒い何かを真っ直ぐに見据えた。
「得体の知れない食べ物を、口に入れる趣味はない」
「得体の知れない……って、ただのカフェのケーキだよ?」
「そのケーキの製造過程で、毒物や遅効性の薬物が混入されていないという保証がどこにある。あるいは、その親睦会と称する集まりの中で、俺の飲み物に誰かが何かを混ぜる確率を、俺はゼロだと断言できない」
「……え?」
櫛田は、完全に言葉を失った。目の前の男が、何を言っているのか理解できないという顔だ。いや、理解した上で、その常軌を逸した妄想狂ぶりに戦慄しているのかもしれなかった。
「会話は以上だ。俺のパーソナルスペースから退出してくれ。お前の吐き出す二酸化炭素で、周囲の酸素濃度が低下している」
聖哉はそう言い放つと、再びノートに視線を落とした。櫛田は数秒間、その場に立ち尽くしていた。彼女の握りしめられた拳が微かに震えているのを、聖哉は視界の端で正確に捉えていた。
(怒り。屈辱。そして、自分の思い通りにならない異物に対する破壊衝動。……やはりな。この女の裏側には、底なしの悪意がある。不用意に近づけば、スキャンダルをでっち上げられて社会的に抹殺される)
「……そっか。残念だけど、また今度誘うね」
櫛田は、無理やり貼り付けたような笑顔を残し、その場を立ち去った。彼女が教室を出て行く後ろ姿を見送りながら、聖哉は脳内の仮想デスクトップを展開した。
(櫛田桔梗への対抗策のフェーズを移行する。
彼女が俺に対して敵対行動――虚偽の暴行被害の訴え、あるいは持ち物の窃盗と隠匿――を起こす確率は、今回の接触で75パーセントに上昇した。すでに準備してある『櫛田桔梗の捏造音声データ』の解像度をさらに高め、いつでも学校の裏掲示板にタイマー送信できるよう、サーバーの設定を再確認しておく必要がある)
相手が悪意を持って近づいてくる前に、相手の社会的な息の根を止める準備をしておく。それが、聖哉の基本戦術だった。
*
(堀北鈴音 視点)
隣の席の男――竜宮院聖哉。
入学して約三週間。私は、この男の存在に言い知れぬ不気味さを感じ続けていた。
私は他人と群れることを好まない。馴れ合いは弱者の証明であり、真の実力者は孤高であるべきだという信念を持っている。だから、クラスメイトが十万ポイントという大金に浮かれ、猿のように騒いでいる様を、私は冷ややかな目で見つめていた。しかし、竜宮院聖哉は違う。彼は、私と同じように孤立している。
だが、それは「他人を寄せ付けない」というよりも、
「他人を人間として認識していない」
かのような、圧倒的な断絶だった。授業中、彼は常にノートに何かを書き込んでいる。だが、その文字は日本語でも英語でもない。奇妙な記号の羅列だ。一度だけ、彼が席を立った隙にそのノートを盗み見ようとしたことがあった。しかし、私が視線を向けた瞬間、彼は信じられない速度で席に戻り、ノートを閉じた。
その時の彼の目は、まるで私の心臓を氷の刃で貫くような、絶対的な殺気を帯びていた。
『俺の所有物に、二度と視線を向けるな』
言葉には出さなかったが、彼の態度は明確にそう告げていた。
それだけではない。彼の行動には、いくつもの不可解な点がある。体育の授業での出来事だ。五十メートル走のタイム計測。彼は、ごく平均的な男子のタイム――7秒3――で走り抜けた。だが、私は気付いてしまった。彼の走るフォームは、あまりにも美しすぎた。頭の位置が1ミリもブレず、腕の振り、足の回転、すべてが完璧な力学に基づいていた。それなのに、タイムは平凡。
(あえて、手を抜いている……? それも、周囲に絶対にバレないように、筋肉の出力を極限までコントロールして?)
なぜそんなことをする必要があるのか。実力至上主義の学校において、己の能力を隠すことに何のメリットがあるというのか。そして最近、彼の様子がさらにおかしい。授業中、彼は時折、微かに顔をしかめ、額に脂汗を浮かべていることがある。呼吸も浅く、どこか体調が悪いように見えるのだ。
だが、その「体調の悪さ」すらも、私には作られたものに見えて仕方がなかった。
人間が本当に苦しんでいる時、あそこまで規則的な呼吸を保てるだろうか。彼の苦悶の表情は、まるで精密なロボットが
「苦痛」
というプログラムを実行しているかのような、ひどく人工的なものに感じられた。
(竜宮院聖哉。あなたは一体、何を企んでいるの?)
私は、斜め前の席で常に気配を消しているもう一人の不気味な男――綾小路清隆と共に、竜宮院への警戒心を強めざるを得なかった。このクラスには、得体の知れない怪物が潜んでいる。
*
(綾小路清隆 視点)
世界は、思っていたよりもずっと複雑なレイヤーで構成されているらしい。
オレは、昼休みの静かな図書室で、哲学書のページをめくりながらそんなことを考えていた。ホワイトルームという、純粋な能力のみを追求する無菌室から、この高度育成高等学校という雑多な人間関係の吹き溜まりにやってきた。オレの目的は、あくまで平穏な高校生活を送ることだ。目立たず、平均点を維持し、誰の記憶にも残らないモブキャラクターとして三年間をやり過ごす。
そのための偽装工作は、完璧に行ってきたつもりだ。テストの点数はすべて50点に調整し、運動能力も平均値に合わせた。だが、オレの平凡を嘲笑うかのように、このクラスには強烈なノイズが存在している。
竜宮院聖哉。
彼という存在は、オレの観察眼をもってしても、完全には読み切れない。彼の警戒心は、病的なレベルに達している。購買で無料の品を買い占め、サバイバル物資を備蓄していることはすでに確認済みだ。彼はこの学校のポイントシステムの裏側に、入学初日で気付いていた。そこまではいい。オレと同じ結論に達した人間がいたというだけの話だ。だが、彼の行動はそこから常軌を逸し始めている。
最近、オレは彼が放課後にドラッグストアに向かい、奇妙なものを購入しているのを目撃した。
『胃薬』
『制汗スプレー(無香料)』
『ファンデーション』
そして『食用のクエン酸』。
一見すると、ただの日用品の買い出しだ。だが、これらを組み合わせることで何が起こるか。オレは脳内でシミュレーションを行った。
(ファンデーションで顔色を悪く見せる。制汗スプレーで本来の体臭を消し、代わりにクエン酸と何かを混ぜ合わせた液で……胃液の匂い、つまり嘔吐の匂いを意図的に作り出す?)
導き出された結論は、あまりにも異様だった。
彼は、『重病』あるいは『極度の衰弱状態』を偽装しようとしている。
なぜか。理由は一つしか考えられない。来るべきポイントゼロの日に備え、自分を『攻撃対象から外す』ためだ。飢えた人間は、弱者を狙う。しかし、それが『未知の感染症』や『限界まで衰弱して、いつ死ぬとも知れない不気味な存在』であった場合、人間は本能的な忌避感を抱き、距離を置く。彼は、クラスメイトの略奪から己の備蓄を守るため、自ら最底辺の、触れることすら躊躇われる汚物になろうとしているのだ。
(……オレが同じ人間に何度も驚くことがあるとはな)
オレは、微かに息を吐いた。
そこまでやるか。たかが高校のサバイバルにおいて、己の尊厳を完全に捨て去り、物理的・心理的な絶対防壁を構築する。その徹底ぶりは、ホワイトルームの教育理念すら凌駕する、ある種の狂気を感じさせた。
同時に、オレは竜宮院がオレに対して行っている対策の気配も感じ取っていた。
オレの机の周辺、微細な埃の配置が毎日変わっている。オレの靴の裏の摩耗具合、ゴミ箱に捨てたレシート。彼はおそらく、オレの生活痕跡を徹底的に収集し、オレの能力をプロファイリングしている。
そして、彼がオレに物理的な接触を試みてこないということは、彼はオレを『直接戦闘ではリスクが高い』と判断し、社会的な手段での無力化を計画しているということだ。
(あいつを敵に回すのは、非常に骨が折れそうだ)
オレは哲学書を閉じ、図書室を後にした。五月一日は、もう目の前に迫っている。その日、この学校の本当のルールが明かされた時、竜宮院聖哉という狂信者がどのような立ち回りを見せるのか。オレは、特等席でそれを観察させてもらうことにしよう。
*
(竜宮院聖哉 視点)
四月三十日。深夜二時四十五分。
寮の自室。
完全に遮光された暗闇の中で、俺は鏡の前に立っていた。いよいよ明日、五月一日。審判の日が訪れる。俺の予測通りであれば、明日の朝、クラスのポイントは一切振り込まれない。そして、担任の茶柱から、この学校の真のルール
――クラスポイントの増減と、退学のペナルティ――
が告げられるはずだ。その瞬間から、俺たちはクラスメイトではなく、限られた資源を奪い合う生存競争の敵同士になる。
(準備だ。最終リハーサルを行う)
俺は、机の上に並べた偽装キットに手を伸ばした。まずは、顔色の偽装。ドラッグストアで購入した、最も明度の低い、不健康な青白さを演出できるファンデーション。これを、首筋から顔全体、さらに唇にまで薄く、しかしムラなく塗り込んでいく。次に、目の下の隈。黒と紫のアイシャドウを微量に混ぜ、指の腹で目の下に擦り込む。数日間一睡もしていないかのような、深い絶望を刻み込む。
(まだだ。これではただの寝不足だ。病的な衰弱を表現するには、皮膚の質感を変える必要がある)
俺は、意図的に水分摂取量を極限まで減らしていたため、すでに皮膚はカサカサに乾燥していたが、さらにその上から微量のベビーパウダーをはたき、生気を完全に奪い去る。鏡に映っているのは、もはや高校生ではない。死の淵を彷徨う、重度の栄養失調患者の顔だった。
(視覚的偽装は完了。次は、嗅覚だ)
人間は、視覚よりも嗅覚によって本能的な嫌悪感を刺激される。俺は、小さなスプレーボトルを取り出した。中に入っているのは、食用のクエン酸と、微量の発酵食品(納豆の汁とヨーグルトの上澄み)を絶妙な比率でブレンドし、さらに数日間常温で放置して腐敗臭を付加した特製液体だ。これを、ブレザーの襟元、そして袖口に、一吹きだけスプレーする。
鼻をつく、強烈な酸っぱい匂い。胃液と未消化物が混ざり合った、リアルな嘔吐物の匂いだ。
(完璧だ。これで、俺に近づく者は本能的に不快感を覚え、無意識のうちに距離を取るようになる。たとえ食料を奪おうとする暴徒であっても、この匂いを嗅げば躊躇するはずだ)
さらに、俺は呼吸法と歩行のシミュレーションを開始した。呼吸数を通常の半分に落とし、肺の奥からかすれた音を出す。歩く時は、重心を右足の小指側にずらし、膝の関節をわずかに脱力させることで、今にも倒れそうなふらつきを演出する。自室の中で、鏡を見ながら、這うようにして歩く練習を何十回、何百回と繰り返した。
(レディ・パーフェクトリー……いや、違う。まだだ。俺は綾小路清隆と堀北鈴音という、鋭い観察眼を持つ二人の存在を忘れてはならない)
彼らは、ただの偽装を見破るかもしれない。だからこそ、この衰弱状態は偽装ではなく、ある意味で真実でなければならない。俺は、最後の仕上げとして、自らの胃の辺りを力強く殴りつけた。
「ぐっ……!」
鈍い痛みが走り、実際に胃液がせり上がってくる。その生理的な吐き気を飲み込みながら、俺は冷たい汗を流した。偽装を真実にするための、肉体的なダメージの付与。これで、俺の心拍数は不規則に乱れ、瞳孔は収縮し、発汗は異常なものとなる。どんな医療機器で測定されても、俺が「異常状態」にあることは証明されるだろう。
(……リスタ)
痛みに耐えながら、俺は脳裏に女神の顔を思い浮かべた。俺は必ず、この狂った箱庭を制覇する。そのために、どれほど自分を汚し、どれほど卑怯な手段を使おうとも、絶対に退学にはならない。Aクラスで卒業し、お前の魂を救い出す。時計の針が、午前四時を回った。あと数時間で、朝が来る。十万ポイントの夢から覚め、地獄の蓋が開く朝が。
俺は、完璧に偽装された衰弱状態のまま、ベッドではなく冷たいフローリングの床に横たわり、浅い呼吸を繰り返しながら夜明けを待った。頭の中では、明日起こり得る一万通りの最悪のシナリオと、それに対する一万通りの解決策が、高速で演算され続けていた。