フリードリヒ・ニーチェ
人間的な、あまりに人間的な(Menschliches, Allzumenschliches)
【視点:竜宮院聖哉】
五月一日、午前六時零分。
携帯端末の無機質なアラームが鳴るコンマ五秒前、俺は静かに目を開けた。
心拍数は毎分六十。呼吸は深く、規則的。自律神経の働きは極めて正常であり、睡眠による肉体の疲労回復率は計算上九十八・七パーセントを達成している。残りの一・三パーセントは、睡眠中であっても無意識下で維持し続けていた「外部からの侵入者に備えるための微弱な警戒状態」による脳のエネルギー消費分だ。これは生存のための必要経費であり、削減すべきではない。
俺はゆっくりと上半身を起こし、ベッドの上に胡座をかいた。
今日が何の日であるか、確認するまでもない。この高度育成高等学校に入学してからちょうど一ヶ月。学校側が設定した「月に一度のポイント支給日」であると同時に、俺が予測した「クラスの真の評価が下される審判の日」である。
(確認だ。まずは自室の安全保障状態の最終チェックから始める)
視線を巡らせ、部屋の四隅、窓、ドアの立て付け、換気口の隙間を点検する。昨晩、就寝前に仕掛けておいたトラップ――ドアノブに極めて微細な角度で引っ掛けておいた一本の髪の毛、窓のサッシに落としておいたわずかな埃の塊、そして換気口のネジの向き
――全てに異常はない。俺が寝ている間に、何者かがこの部屋に侵入した形跡は、視覚的・物理的な証拠から判断してゼロである。
だが、待て。もし相手が、これらの古典的なトラップを全て見破り、髪の毛を同じ角度で戻し、埃を同じ形状で再配置できるほどの超絶的な工作スキルを持つ暗殺者やスパイであったらどうする? この学校が政府肝いりの特殊な機関である以上、プロの工作員が潜入している可能性を完全に排除することは論理的な誤謬だ。
俺は直ちにベッドから降り、部屋の隠しスペース――ベッドの裏側、クローゼットの底板の下――に備蓄している非常用物資(缶詰、サプリメント、浄水タブレットなど)の重量と配置をミリ単位で確認した。さらに、備え付けの鏡の裏に隠してある、自作の微弱電流感知式侵入アラーム(ポイントで購入した電子部品を分解・再構築したもの)のログを確認する。
……ログはゼロ。重量の変動もなし。
(よし。第一段階の安全は確認された。だが、まだ安心するには早い。今日のメインイベントはこれではない)
俺は洗面台の前に立ち、鏡に映る己の顔を冷徹に観察した。
そこにいるのは、筋骨隆々とした神がかり的な肉体を持つ竜宮院聖哉ではない。死の淵を彷徨う、重度の栄養失調と原因不明の奇病に冒された、哀れで関わるだけ無駄な高校生だ。
昨晩のうちに施した偽装は、一晩の睡眠を経ても完璧な状態を維持していた。ドラッグストアで購入した最も明度の低いファンデーションは、皮脂と適度に混ざり合い、もはや化粧ではなくそういう病的な肌の色として定着している。目の下の隈は、紫と黒のシャドウの配合比率が絶妙であり、数日間一睡もしていないような深い絶望を刻み込んでいる。
(まだだ。これではただの『見た目が悪い奴』で終わる可能性がある。視覚情報による嫌悪感の喚起は、距離が離れれば効果が薄れる。人間を本能レベルで忌避させるためには、嗅覚へのアプローチが不可欠だ)
俺は、あらかじめ調合しておいた小型のスプレーボトルを取り出した。中身は、食用のクエン酸と、納豆の汁、ヨーグルトの上澄みを絶妙な比率でブレンドし、意図的に常温で発酵させた特製のエッセンスだ。これを、制服の襟元、袖口、そして胸ポケットの裏側にワンプッシュずつ吹きかける。
途端に、強烈な酸酸っぱい臭い――まるで胃液を吐き戻したかのような、生物的な嫌悪感を催させる臭気――が鼻を突いた。俺自身の嗅覚も正常であるため、当然不快感はある。しかし、生き残るためならば、この程度の不快感は無視できる範囲だ。
(準備は整った。これから教室に向かい、ポイントが振り込まれていないという事実を知ったクラスメイトたちがパニックに陥る様を観察する。彼らは十万ポイントという巨額の餌に釣られ、一ヶ月間好き放題に浪費してきた。
そのツケが今日、一気に支払われることになる。ポイントがゼロになった時、彼らは間違いなく飢える。飢えた人間は獣になる。獣は、弱そうな獲物を探して略奪を試みるだろう。だが、俺のこの状態を見れば、誰も俺から何かを奪おうとは思わないはずだ。病気をうつされるリスク、関わることでの精神的苦痛を考慮すれば、俺をターゲットにするのはコストパフォーマンスが悪すぎるからだ。……だが、待て)
俺は洗面台に両手をつき、鏡の中の病人に問いかけた。
(もし、クラスの中に、病人にすら容赦なく牙を剥く『真のサイコパス』や、衛生観念が完全に欠如した『異常者』がいたらどうする? この臭いを嗅いでも平気で俺に触れてくるような輩がいたら、俺のこの偽装は意味を成さないばかりか、無抵抗な病人として一方的に暴力を受けるリスクが生じる)
俺は思考の海に深く潜った。あらゆる最悪のシミュレーションを脳内で展開し、再生と破壊を繰り返す。
(対策その一。物理的距離の維持。常に壁際に位置取り、他者との距離を最低でも一・五メートル確保する。
対策その二。咳き込みの演技。接近された場合、飛沫感染のリスクを相手に連想させるため、激しい咳き込みを行う。その際、あらかじめ口内に含んでおいた赤い食用色素を混入させた唾液をわずかに吐血のように見せかければ、効果は倍増するだろう。
……よし、食用色素の小瓶を胸ポケットに忍ばせておこう。
対策その三。いざという時の物理的迎撃。能力は封印されているとはいえ、俺の基礎身体能力は常人のそれを遥かに凌駕している。相手が完全に理性を失い、物理的攻撃を仕掛けてきた場合は、関節を極めて外傷を残さずに無力化する技術を用いる。ただし、これは最終手段だ。目立てばそれだけヘイトを集めるリスクがある)
脳内でのシミュレーションを百回繰り返し、全てのパターンに対するフェイルセーフを構築した
俺は深呼吸をし、意図的に姿勢を崩した。背骨のS字カーブを極端に曲げ、肩を落とし、首を前に突き出す。重心を不安定にし、膝のクッションを殺す。歩行のたびに、靴底が床を擦るような不快な音を立てるように足の運びを調整する。
ドアノブに手をかけ、寮の廊下へと足を踏み出す。
五月の爽やかな朝の空気が、俺のまとった腐敗臭によって淀んでいくのがわかった。
すれ違う他のクラスの生徒たちが、俺を見るなり顔をしかめ、あからさまに距離を取る。何人かは鼻をつまみ、小走りで立ち去っていった。
(良い傾向だ。俺の発する『近寄るな』というシグナルは、正常な人間の脳の扁桃体に正しく作用している。このまま教室まで、誰とも言葉を交わさず、一切のコミュニケーションを遮断して移動する。……だが、待て。もしこの廊下に、突風が吹いて俺の匂いが拡散されず、局所的にとどまってしまったらどうする? その場合、後方から接近してきた生徒が匂いに気づかず激突してくる可能性がある。歩行速度を微
細に変動させ、後方の気配を常に探るレーダーを脳内に展開し続けなければならない)
俺は、異常なほどの警戒心と、傍から見れば哀れなほどの病弱さを同居させながら、ゆっくりと、ひたすらにゆっくりと、教室へと向かった。
この世界にきて初めて、この言葉を発言することを俺は許す。
「レディ・パーフェクトリー(準備は完全に整った)」
【視点:綾小路清隆】
五月の最初の朝は、奇妙に白々しい光を伴ってやってきた。
オレは自分の席に座り、窓の外の風景をぼんやりと眺めていた。雲ひとつない空は、まるで巨大な青いプラスチックのボウルのように世界に覆い被さっている。どこまでも人工的で、どこまでも平坦な風景。
教室の中は、相変わらずの熱気と喧騒に包まれていた。誰もが今日、学校から振り込まれるはずの十万ポイントの話題で持ちきりだった。
「いやー、長かったな一ヶ月! やっとポイント入るぜ!」
池寛治が、机の上に身を乗り出して大声を上げている。
「俺、昨日欲しかったゲームの新作予約しちゃったよ。ポイント入ったら速攻で買いに行くわ」
山内春樹がそれに同調し、須藤健も機嫌良さそうに笑っている。
女子たちのグループでは、軽井沢恵を中心に、週末にどこに遊びに行くか、どのカフェの新作スイーツを食べるかという話題で花が咲いていた。平田洋介は相変わらずその中心近くで、誰にでも平等な微笑みを振りまいている。
彼らの頭の中では、すでにその十万ポイントは確定した未来として存在し、消費されるだけの対象になっていた。それはまるで、まだ産まれてもいない鶏の卵を数えて、オムレツのレシピを議論しているようなものだ。
オレは自分の携帯端末を開き、口座残高を確認した。
残高は、四月の入学当初から減っても増えてもいない。ポイントは振り込まれていない。
(まあ、そうなるだろうな)
四月の間、このDクラスの生徒たちがどう過ごしてきたかを思い返せば、この結果は火を見るより明らかだった。授業中の私語、居眠り、遅刻、欠席。携帯電話の操作。彼らは自分たちが「評価されている」というごく当たり前の事実を完全に忘却していた。
この学校が、国が莫大な予算を投じて設立した特別な機関である以上、ただ息をしているだけで月に十万円相当の価値が与えられるなどという甘い話があるはずがない。そこには必ず、対価となる何かが求められる。
オレにとって、ポイントが振り込まれないという事実は、驚きでも何でもなかった。ただ、「やはりそういうシステムか」と確認したに過ぎない。
しかし、オレの意識の片隅は、騒ぐクラスメイトたちとは別のところに向けられていた。
オレの斜め前、窓際の席に座る男。竜宮院聖哉。
彼が存在するその半径一メートルほどの空間だけが、まるで真空地帯のように静まり返っていた。いや、静まり返っているというのは正確ではない。そこには、ある種の『忌避すべき何か』が立ち込めていた。
彼は、机に突っ伏すでもなく、背筋を伸ばすでもなく、不自然な角度で上半身を傾け、虚空を見つめていた。その顔色は、病的という言葉では生ぬるいほどに青白く、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。そして何より、彼から漂ってくるあの異臭。
酸っぱく、腐敗したような、生物的な嫌悪感を催させる匂い。
クラスメイトたちは、誰も彼に近づこうとしない。池や山内も、竜宮院の席の近くを通る時は無意識に息を止め、足早に通り過ぎている。隣の席の女子などは、露骨に顔をしかめ、机を少し廊下側にずらしているほどだ。
(異常だ)
オレは内心でそう呟きながら、竜宮院を観察し続けた。
確かに彼は、入学当初から周囲との関わりを極端に避けていた。授業中は一切の無駄口を叩かず、放課後は誰よりも早く教室を出る。食事は学食を使わず、無料の乾燥パンや野菜で済ませているという噂も耳にした。
だが、今日の彼の姿は、四月のそれとは明らかに一線を画している。
これは、ただの体調不良ではない。
オレは彼の呼吸を観察した。不規則で、浅く、時折苦しそうな喘鳴を漏らしている。しかし、その呼吸のパターンには、ある種の『規則性』が潜んでいるように見えた。三回に一回の浅い呼吸。五回に一回の深い呼吸。それがループしている。
本当に苦しい人間が、あんなにも計算されたようなリズムで呼吸をするだろうか?
そして、あの匂い。あれは本当に彼の体から発せられているものだろうか? 病気による体臭というよりは、何か別の物質――例えば、意図的に配合された薬品や食品――の匂いに似ている。
(彼は、演じているのか?)
その仮説が脳裏に浮かんだ瞬間、パズルのピースがいくつかカチリとはまったような気がした。
もし彼が、オレと同じように「ポイントは振り込まれない」という事実を予測していたとしたら?
そして、ポイントがゼロになった後のクラスの混乱、物資の枯渇、それに伴う略奪やいじめといった最悪の事態まで想定していたとしたら?
自らを「関わるだけ無駄な、伝染病患者のような存在」に偽装することは、そうしたリスクから身を守るための、極めて合理的かつ極端な生存戦略と言える。
「……面白い男だ」
オレは誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
隣の席の堀北鈴音は、いつものように背筋をピンと伸ばし、読書に没頭している。彼女もまた、クラスの喧騒には参加していないが、彼女の場合は単なる孤高の気取りであって、竜宮院のようなパラノイア的な生存戦略に基づくものではない。
竜宮院聖哉。彼は、このDクラスという動物園に紛れ込んだ、異質の存在だ。
彼がどこまで見通し、どこまで計算して動いているのか。オレは、その底知れぬ深淵の縁を覗き込んでいるような、奇妙な感覚に陥っていた。
(さて、そろそろ時間だ)
時計の針が、ホームルームの開始時刻を指し示そうとしていた。
オレは視線を教室の入り口へと向けた。
これから始まるのは、希望が絶望に変わる、残酷なショーだ。竜宮院がどう動き、どう反応するのか。あるいは、何も反応しないのか。
観察対象としては、これ以上ないほど興味深い。
ーーー
【視点:竜宮院聖哉】
午前八時三十分。
ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
同時に、教室のドアが開き、Dクラスの担任である茶柱佐枝が入室してきた。彼女はいつも通りの、無愛想で感情を読み取らせない表情を浮かべている。手には丸められたポスターのような紙の筒が握られていた。
教室内の喧騒は、茶柱の登場によっていくらか収まったものの、完全に消え去ったわけではない。生徒たちの顔には、隠しきれない期待と興奮が浮かんでいる。「早くポイント振り込みの確認をしてくれ」という無言の圧力が、教室の空気を淀ませていた。
(愚か者どもめ。今お前たちが感じているその高揚感は、これから訪れる絶望の落差を広げるための助走に過ぎないというのに)
俺は意図的に呼吸を浅くし、視線を自分の机の木目に固定したまま、聴覚の感度を最大まで引き上げた。茶柱の足音、教卓に筒を置く音、生徒たちの衣擦れの音、呼吸音。すべてをデータとして収集し、脳内のメモリに蓄積していく。
「席に着け」
茶柱の冷ややかな声が教室に響いた。
生徒たちは渋々といった様子で席に着き、茶柱を見上げる。
「先生、ポイントの振り込みまだですかー?」
池が待ちきれないといった様子で声を上げた。
「俺、朝イチで確認したんですけど、まだゼロだったんすよ。システムエラーですかね?」
山内もそれに続く。
茶柱は、彼らの問いかけに対してすぐに答えることはしなかった。ただ、冷徹な視線で教室全体をゆっくりと見渡した。その視線が俺を捉えた時、ほんの一瞬、彼女の眉ピクリと動いたのを、俺の動体視力は見逃さなかった。
(俺の異様な状態に気づいたな。だが、彼女は教師だ。不用意に触れてくることはない。俺の『関わるな』というシグナルは、教師に対しても有効に機能している)
「システムエラーではない。ポイントはすでに振り込まれている」
茶柱のその言葉に、教室がどよめいた。
「え? でも、俺の端末、ゼロのままっすよ?」
「俺のもゼロです」
「どういうことだよ!」
生徒たちが次々と自分の携帯端末を取り出し、確認を始める。しかし、当然のことながら、誰の画面にも「100,000」という数字は表示されていない。
「お前たちが確認している通りだ。今月、お前たちDクラスに振り込まれるプライベートポイントは、ゼロだ」
沈黙。
絶対的な沈黙が、教室を支配した。
それは、理解の範疇を超えた事象に直面した人間の、脳が処理を停止した瞬間の空白だった。
池も、山内も、須藤も、平田も、軽井沢も、誰も言葉を発することができない。
ただ一人、俺の斜め後ろに座る綾小路清隆だけは、微動だにせず、淡々とその光景を眺めている気配があった。そして、隣の席の堀北鈴音の呼吸が、ほんのわずかに乱れたのを俺は感知した。
「ゼ、ゼロって……どういうことですか、先生!?」
最初に沈黙を破ったのは、やはり池だった。彼の声は裏返り、パニックの兆候を示していた。
「俺たち、何か悪いことしたって言うんですか!?」
茶柱は鼻で笑った。それは、底知れぬ蔑みを含んだ、残酷な笑いだった。
「悪いこと? お前たちは、この一ヶ月間、自分が何をしてきたのか全く理解していないようだな。授業中の私語、居眠り、携帯電話の操作。遅刻、欠席のオンパレード。俺はお前たちに言ったはずだ。『この学校は実力至上主義だ』と。そして、『生徒の評価は厳密に行われる』と」
茶柱は、教卓に置いていた筒を手に取り、黒板に広げて貼り付けた。
そこには、各クラスの現在の『クラスポイント』が記されていた。
Aクラス:940
Bクラス:650
Cクラス:490
Dクラス:0
(なるほど。数字で明確に可視化されたか。俺の予測通り、Dクラスは完全にゼロ。他のクラスは減点されているものの、生き残っている。特にAクラスの維持率は高い。これが、入学時点で振り分けられた『才能の差』というわけか)
「この学校のシステムを説明してやろう。お前たちに毎月振り込まれるプライベートポイントは、この『クラスポイント』に100を掛けた数値だ。入学時、全てのクラスには1000のクラスポイントが与えられていた。つまり、四月の一ヶ月間、お前たちは10万ポイントの価値を持っていたわけだ」
茶柱は黒板を指の関節でコンコンと叩いた。
「しかし、お前たちはその価値を、たった一ヶ月で全てドブに捨てた。お前たちの怠惰、愚鈍、無規律。それら全てがマイナス評価として加算され、結果としてクラスポイントはゼロになった。したがって、今月のプライベートポイントもゼロ。これが現実だ」
「そ、そんな……」
女子生徒の一人が、顔を覆って泣き崩れた。
「じゃあ、俺たち、これからどうやって生活すればいいんだよ! 金がないと飯も食えないじゃんか!」
須藤が立ち上がり、机をバンと叩いて怒鳴り声を上げた。彼の目は血走り、暴力的な衝動が今にも爆発しそうだった。
(来たな。飢餓と恐怖による、原始的な感情の爆発。予想通りだ)
俺は、須藤の暴力の矛先がどこに向かうかを計算し始めた。現時点では茶柱に向かっているが、彼女が物理的に反撃される可能性は低い。次にターゲットになるのは、クラスの中で目立つ存在、あるいは弱そうな存在だ。
俺は、さらに背中を丸め、意図的に「ゴホッ、ゴホッ!」と、乾いた咳を二回連続で発した。
その音に反応して、近くの生徒たちがビクッと体を震わせ、俺からさらに距離を取る。
(完璧だ。俺の防御システムは完全に機能している。誰もこの汚物のような病人に触れようとはしない)
「生活? それはお前たちが自分で考えることだ。この学校には、無料の食料や水も用意されている。最低限の生存は保証されている。だが、それ以上の文化的な生活を望むなら、自分たちの力でクラスポイントを稼ぐしかない」
茶柱は、冷酷な宣告を続けた。
「そして、もう一つ重要なことを教えてやろう。お前たちDクラスは、この学校において『不良品』が集められたクラスだということをな」
「不良品……?」
平田が、信じられないといった様子で呟いた。彼の端正な顔は蒼白になり、いつものリーダーシップは影を潜めていた。
「そうだ。成績、素行、過去の経歴。何らかの理由で欠陥を抱えた者たちが集められたのが、このDクラスだ。お前たちは、最初から学校側に期待されていない。ゴミ箱に放り込まれたゴミだ」
その言葉は、クラスメイトたちの心に最後の一撃を与えた。
希望から絶望へ。そして、自尊心の完全なる破壊。
教室には、すすり泣く声と、重苦しい沈黙だけが残された。
(データ収集完了。クラスの崩壊プロセスは、想定されたシミュレーションの範疇内に収まっている)
俺は心拍数を一定に保ちながら、冷静に状況を分析し続けた。
この絶望の底から、どのようにして這い上がるのか。あるいは、這い上がることを諦め、互いに共食いを始めるのか。
俺にとって、彼らがどうなろうと知ったことではない。俺の目的は、この狂った箱庭の中で三年間を生き抜き、退学を回避し、最終的にAクラスで卒業すること。その一点のみだ。
そのために、俺はすでに四月の間に準備を整えている。無料の食事で浮かせたポイントを、賞味期限の長い缶詰やサプリメント、日用品に変換し、自室の隠しスペースに備蓄している。現在の俺の資産は、物理的な物資として確保されており、デジタルなポイントの喪失によるダメージはゼロだ。
(だが、待て。ここで安心するのは早計だ。もし、学校側が抜き打ちで寮の部屋の検査を行い、備蓄物資を没収するようなルールが存在したらどうする? あるいは、クラスポイントゼロのペナルティとして、電気や水道の供給がストップされたら? 缶詰を開けることはできても、水がなければ人間は三日で死ぬ)
俺の思考は、次なる最悪のシナリオへと突き進んでいく。
(対策が必要だ。雨水を濾過するシステムの構築。自室の窓ガラスを利用した太陽光集熱による蒸留水の確保。さらに、備蓄物資を寮の部屋以外の、学校内の死角となる場所へ分散して隠匿する計画を立てなければならない。体育館の裏、旧校舎の床下、森の中。あらゆる場所をリストアップし、安全性を評価する必要がある)
俺は、絶望に打ちひしがれるクラスメイトたちを視界の端に捉えながら、脳内のスーパーコンピューターをフル稼働させていた。
「最後に、もう一つ伝えておく」
茶柱が、冷ややかな声で言った。
「三週間後、中間テストが行われる。そこで赤点、つまり各科目の平均点の半分以下を取った者は、即刻退学だ」
退学。
その言葉が、静まり返った教室に爆弾のように投下された。
「た、退学!? 嘘だろ!?」
池が悲鳴を上げた。彼は間違いなく、成績下位層のトップランナーだ。
「そんなの、聞いてないっすよ!」
山内も涙目で叫ぶ。
(なるほど。ポイントの剥奪による兵糧攻めに加え、学力による足切り。これが高度育成高等学校の基本システムか。極めて理にかなっている。無能な個体から排除していく生存競争だ)
俺自身の学力に関しては、全く問題はない。能力は封印されているとはいえ、俺の知能指数と記憶力、思考力は常人を凌駕している。全ての教科書はすでに入学初日に完全暗記しており、テストで満点を取ることも、逆に平均点をコントロールして目立たない点数を取ることも容易い。
しかし、このクラスの『不良品』たちが大量に退学になった場合、クラスポイントにどのような影響が出るのか? おそらく、さらにマイナス評価を受けるだろう。Aクラスへの昇格を目指す上で、クラスメイトの退学は避けるべき事態だ。
(だが、俺が彼らに勉強を教える? 冗談ではない。そんなことをすれば、俺と彼らの間に接点が生まれてしまう。彼らの愚かさが俺に伝染するリスク。そして何より、俺が有能であることが露見し、ヘイトを集めるリスクがある。それは俺の生存戦略と真っ向から対立する)
どうする?
誰かに彼らを救済させるシステムを構築するしかない。
視線を動かさず、教室内をスキャンする。
学力が高く、かつ他者に教えるインセンティブを持ち得る人間。
平田洋介。彼なら適任だ。だが、彼一人では手が回らないだろう。
もう一人、孤高の優等生がいる。
俺の隣の席、堀北鈴音だ。
(彼女を動かすことは可能か? 彼女は他者を見下し、関わりを持とうとしない。しかし、Aクラスへの執着は人一倍強いように見える。彼女に『クラスメイトが退学になれば、Aクラスへの道が絶たれる』という論理を提示すれば、あるいは……。だが、俺が直接交渉するのはリスクが高すぎる)
その時、俺の視界の端で、わずかな動きがあった。
綾小路清隆だ。
彼は、机の上に置いた手をゆっくりと下ろし、視線を窓の外から黒板のクラスポイントへと移していた。その横顔には、絶望も、恐怖も、驚きもなかった。ただ、数式を解き終えた後のような、静かな納得があるだけだった。
(綾小路清隆。彼が、堀北鈴音を動かすための『装置』として機能する確率は……?)
俺は脳内でシミュレーションを実行した。四月の間の彼の行動パターン、堀北とのわずかな接触、そして今日のこの異常な状況における彼の冷静さ。
(……あり得る。彼は、自分の手を汚さずに状況をコントロールする術を知っているタイプの人間だ。俺がわざわざリスクを冒す必要はない。綾小路と堀北の動向を監視し、彼らがクラスの救済に動くよう、極めて間接的な誘導を行う。それが最適解だ)
俺は、再び「ゴホッ、ゴホッ」と咳き込みながら、さらに深い猫背の姿勢をとった。
絶望の教室の中で、俺は誰よりも弱く、哀れな存在として擬態し続ける。
希望などという不確かなものにすがるから、人間は絶望するのだ。
俺は最初から、全てが最悪であるという前提で動いている。
だからこそ、俺は生き残る。
(準備だ。今日の放課後は、物資の分散隠匿のための下見、そして中間テストに向けた『誰にも気づかれない』情報収集を開始する。……だが待て。もし、学校側が俺の行動を監視カメラで追跡していたらどうする? 監視カメラの死角マップを再構築し、ルートを三個所用意しなければ……)
俺の戦いは、これからが本番だった。
誰も知らない、俺だけの過酷な生存競争が、音を立てて回り始めていた。