ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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La preparazione in invisibile genera la vittoria nel visibile.

ニッコロ・マキャヴェッリ
『戦術論』(Dell'arte della guerra)


中間試験編
第7話「見えないところでの準備こそが、見えるところでの勝利を生む。」


放課後を告げるチャイムが鳴り響く。

 

その間抜けな電子音は、Dクラスの生徒たちにとっては死刑執行の合図のように聞こえただろう。茶柱から突きつけられた「ポイント剥奪」と「赤点即退学」の宣告により、教室は未だ阿鼻叫喚の坩堝と化している。

 

「どうすんだよこれ……マジで一文無しじゃんか……」

 

「退学なんて絶対嫌だ! 私、親になんて言えば……」

 

愚者たちが頭を抱え、互いに傷を舐め合うように喚き散らしている。ある者は怒りに任せて机を蹴り、ある者は現実逃避するようにスマートフォンを見つめている。

 

(騒げ。存分に騒ぐがいい。お前たちがそうやって無駄なカロリーを消費し、パニックで視野を狭めている今この瞬間こそが、俺にとって最も動きやすいゴールデンタイムだ)

 

俺はわざとらしく、ゴホッ、ゴホッ、と重い咳を二度こぼした。

あらかじめ舌の裏に仕込んでおいた微量のクエン酸キャンディを溶かし、息にツンとした酸っぱい匂いを混ぜる。これは「胃酸が逆流しているほど内臓が弱っている」というサインを周囲に無意識に刷り込むための処置だ。俺が立ち上がると、隣の席の生徒が露骨に嫌そうな顔をして顔を背けた。

 

完璧だ。俺はこのクラスにおける関わってはいけない病原体としてのポジションを完全に確立しつつある。

 

ゆっくりと、しかし計算し尽くされた千鳥足で教室を出る。

廊下に出た瞬間、俺の脳髄はスーパーコンピューターのように高速回転を始めた。

 

(第一フェーズ開始。監視カメラの死角マップ再構築および物資分散ルートの確保)

 

この高度育成高等学校は、最新鋭の設備が整えられている。それはつまり、学校側が生徒の行動を24時間体制で監視できるシステムが構築されているということだ。

廊下の天井、およそ15メートル間隔で設置されている半球状のドームカメラ。

俺は下を向いて歩きながら、窓ガラスに反射する映像と、床のタイルの光沢を利用して、カメラのレンズの向きと首振りの周期を完全に暗記していく。

 

「カメラA、広角120度、固定。カメラB、首振り型、周期は15秒。……待て、あのカメラC、昨日までとわずかに角度が違う。清掃業者が触れたか、あるいは意図的な画角変更か。いずれにせよ、これまでの死角データは破棄し、ゼロから再計算する必要がある」

 

俺は、一見すると目的もなく校内を彷徨う病人のように振る舞いながら、脳内で学校の3Dモデルを構築し、カメラの視界を赤いコーン状のオブジェクトとして配置していった。

そして、その赤いコーンとコーンの隙間、システムが絶対に捉えきれない安全地帯を縫うようにして、最適な移動ルートを3パターン導き出す。

 

(よし。まずは特別棟へ繋がる第二渡り廊下。あそこは西日が強く差し込むため、カメラの自動露出補正が働きやすく、特定の時間帯において映像が白飛びする現象を確認している。あのタイミングを利用すれば、物資を隠す時間を十分に稼げる)

 

俺の制服の内ポケットと、改造して二重底にした指定カバンの奥には、自室の第一ストレージから持ち出したカロリーメイト系の栄養食が10箱、浄水タブレットが50錠、そして超小型のGPS発信機(購買部の防犯タグの基盤をいじって自作したもの)が潜んでいる。

もし俺が何らかの理由で寮を追放された場合、あるいは寮の自室が「何者か」によって家宅捜索された場合、全財産を一つの場所に置いておくのは自殺行為に等しい。

 

(資産の分散は防衛の基本。俺は常に、最悪のシナリオのその先を想定して動く)

 

俺は計算通りのタイミングで第二渡り廊下へ侵入した。

西日が強烈に差し込み、廊下全体がオレンジ色に白濁している。カメラのセンサーがハレーションを起こしているこの数秒間。

俺の動きから一切の病弱な演技が消え失せた。

極限まで鍛え抜かれた筋肉が、音もなく作動する。

踵からつま先へと滑らかに体重を移動させ、空気抵抗すら殺す暗殺歩行。

俺は渡り廊下の壁面に設置されている、古びた消火栓ボックスの裏側へと滑り込んだ。

この消火栓ボックスは、俺の事前調査によれば、過去5年間一度も点検されていない。壁との間にわずかな隙間があり、そこは完全な不可視領域だ。

 

俺は素早く、しかし一切の物音を立てずに、真空パックにした栄養食と浄水タブレットを隙間に押し込み、強力な両面テープで固定した。最後に、その場所にGPS発信機を取り付ける。これで、万が一誰かに物資を動かされたとしても、即座に俺の自作端末にアラートが飛ぶ仕組みだ。

 

(第二ストレージ、設置完了。だが、これだけでは安心できない。明日以降、さらに体育館裏の旧倉庫床下、図書室の閉架書庫の奥に、第三、第四のストレージを構築する必要がある)

 

俺は再び病弱な姿勢に戻り、ゆっくりと息を吐きながら消火栓の裏から這い出た。

 

(次は第二フェーズ。中間テストに向けた情報収集だ)

 

俺自身の学力は、すでにこの学校の全カリキュラムを遥かに凌駕している。テストで100点を取ることは容易いが、それは俺が有能であるという情報を他者に与えることになり、極めて危険だ。

だが、俺が適当な点数を取って赤点を回避したとしても、他の愚かなクラスメイトたちが赤点を取り、大量退学となれば、Dクラスのクラスポイントは取り返しのつかないマイナスに陥る。結果的に、俺のAクラス卒業という目標に深刻なダメージを与える。

 

(俺自身が教えるというリスクは取らない。俺の能力を悟られず、かつ、クラス全員が赤点を回避できるような抜け道が、この学校のシステムには必ず存在するはずだ)

 

俺が目をつけたのは、この学校の狂ったルールそのものだ。

Sシステム。学校内のあらゆる物品、権利すらもポイントで売買できるという異常な資本主義。

 

(もし、ポイントで『何でも』買えるのだとしたら。……過去の試験問題すらも、先輩から買い取ることが可能なのではないか?)

 

もしそれが可能なら、俺は誰かを使って過去問を入手させ、クラスにばら撒けばいい。そうすれば、あの低知能の猿どもでも、答えを丸暗記することくらいはできるだろう。

 

問題は、過去問が存在するという確証を得ること。

そして、それを『俺以外の誰か』に気づかせ、実行させることだ。

 

俺は歩みを速めず、図書室へと向かった。

過去の記録が眠る場所。そこには必ず、先人たちの痕跡がある。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

放課後の図書室。

オレはいつものように窓際の席に座り、適当な文庫本を開いていた。活字を目で追いながらも、オレの意識の半分は、今日一日で起きたDクラスの崩壊劇に向いていた。

茶柱先生の宣告。ポイントの枯渇。退学というペナルティ。

平田が懸命にクラスをまとめようとしていたが、須藤たちの反発により、その試みはあっけなく瓦解した。隣の席の堀北も、クラスメイトを足手まといと切り捨て、誰とも協力する姿勢を見せない。

 

(面倒なことになったな)

 

オレの目的は、あくまで平穏無事な学生生活を送ることだ。しかし、クラスがこのまま空中分解し、大量の退学者を出せば、オレの平穏も脅かされる。学校側がDクラスそのものを解体するような措置に出ないとも限らない。

 

そんなことをぼんやりと考えていると、ふと、視界の端に異質なものが映り込んだ。

一人の男子生徒が、ふらふらとした足取りで図書室に入ってきたのだ。

 

竜宮院聖哉。

 

常に病的な顔色をしており、クラスでも完全に孤立している男。彼が動くたびに、微かな酸っぱい匂いが漂ってくる。誰もが彼を不気味がり、視界に入れないようにしている。

だが、オレの目は、ホワイトルームで徹底的に鍛え上げられた観察眼は、彼のその「異常なまでの普通じゃなさ」に、強い違和感を覚えていた。

 

(……足音が、ない)

 

竜宮院は確かに、足を引きずるようにして歩いている。重心もブレており、今にも倒れそうだ。

だが、靴底が床と擦れる音、体重が床に乗った瞬間の衝撃音。それが、彼の動きからは全く発生していないのだ。

まるで、空気のクッションの上を歩いているかのような、異常なまでの体重移動のコントロール。

 

(あれは、病人の歩き方じゃない。……意図的に『弱く見えるように』完全に制御された、武術の歩法に近いものだ)

 

オレは本に視線を落としたまま、意識のピントだけを彼に合わせた。

竜宮院は書架の間をゆっくりと歩き、オレから数メートル離れた場所で立ち止まった。

そして、ゴホッ、とわざとらしい咳をしながら、一冊の古い本を棚から引き出した。

彼はそれをパラパラと数秒間だけ眺め、すぐに元の場所に戻した。

 

いや、完全に元の場所ではない。

 

彼はその本を、他の本よりもほんの数ミリだけ手前に飛び出させた状態にして、その場を離れたのだ。

 

(……なんだ?)

 

竜宮院が図書室を出て行った後、オレは静かに席を立ち、彼が触れていた書架へと歩み寄った。

わずかに飛び出している本。

 

背表紙には『高度育成高等学校 第12期卒業生文集』と記されている。

 

オレはそれを手に取り、彼が開いていたであろうページを開いた。紙の繊維がごくわずかに潰れ、意図的につけられたと思われる極小の折り目があった。

 

そこに綴られていたのは、過去のDクラスの卒業生による思い出話だった。

『……1年生の時の中間テストは本当に絶望的だった。でも、3年生の先輩に10万ポイントを払って【過去の試験問題】を譲ってもらったおかげで、私たちは誰一人欠けることなく赤点を回避できた。あの時、勇気を出して先輩に交渉して本当に良かった……』

 

「…………」

 

オレは、静かに本を閉じた。

偶然か? いや、偶然にしては出来すぎている。

竜宮院は、オレが彼を観察していることに気づいていた。そして、オレがこの本を手に取ることを予測し、わざとこの情報を残していったのだ。

 

(過去の試験問題、か)

 

確かに、この学校の何でもポイントで買えるルールを逆手に取れば、最も確実な赤点回避策だ。

だが、なぜ彼は自分で買いに行かない? なぜ、オレにこの情報を与えた?

 

(……自分が表舞台に立つリスクを避けるため、か)

 

竜宮院聖哉。

あの病弱な仮面の下に、どれほどの怪物が潜んでいるのか。

 

彼はオレを、自分の手足として利用しようとしている。盤面を操るプレイヤーとして、オレという駒を動かそうとしているのだ。

腹立たしいという感情はない。ただ、純粋な警戒心だけが胸の奥で静かに警鐘を鳴らしていた。

 

(乗せられるのは癪だが……クラスの崩壊を防ぐという点では、利害が一致しているのも事実だ)

 

オレは卒業生文集を元の位置に押し込み、3年生の教室があるフロアへと向かうことにした。

彼の思惑通りに動いてやる。だが、ただ操られるつもりはない。

 

 

 

 

【視点:堀北鈴音】

 

寮の自室に戻った私は、机の上に広げた教科書を睨みつけていた。

怒り。苛立ち。そして、微かな焦燥。

今日のホームルームでの出来事を思い出すだけで、頭痛がしてくる。

クラスポイントの剥奪。須藤や池といった、救いようのない愚か者たちのせいで、私のAクラスへの道が絶たれようとしている。

 

「なぜ、私が彼らの尻拭いをしなければならないの……」

 

平田くんの提案した勉強会。あんなものは傷の舐め合いに過ぎない。

本来、学校という場所は実力主義であるべきだ。勉強ができない者は淘汰され、優秀な者だけが上に立つ。それが当然の理のはず。

なのに、この高度育成高等学校のシステムは、クラス全体を一つのモノとして扱い、一部の不良品のせいで、健全な生徒まで道連れにしようとしている。

 

(私が彼らに勉強を教える? あり得ないわ。そんなことをすれば、私の貴重な学習時間が奪われるだけ。彼らは自業自得よ)

 

私はシャーペンを握り直し、参考書の問題を解き進める。

しかし、どうにも集中できない。

もし本当に須藤たちが退学になったら? クラスポイントはさらにマイナスになり、私は永遠にAクラスへ昇格できなくなるのではないか?

 

兄さん……生徒会長である兄・堀北学に、私がDクラスの最底辺で藻掻いている無様な姿を見せ続けることになる。

それだけは、絶対に避けなければならない。

 

「……何か、方法があるはずよ」

 

私は呟き、思考を巡らせる。

他人に頼らず、私自身の力で、この理不尽な状況を打破する方法。

だが、どれだけ考えても、あの馬鹿たちに自発的に勉強させる魔法など存在しない。

その時、ふと、ある一人のクラスメイトの顔が脳裏をよぎった。

 

綾小路清隆。

 

何を考えているのかわからない、無気力な男。

だが、彼は時折、ハッとするような洞察力を見せることがある。

 

そしてもう一人。

竜宮院聖哉。

 

あの、常に咳き込んでいる不気味な男。

彼は今日のホームルームでも、一切の感情を見せなかった。絶望するでもなく、焦るでもなく、ただ冷たい目でクラスの惨状を観察していたように見えた。

 

(気のせい、よね。あんな病人に何ができるというの)

 

私は首を振り、雑念を追い払った。

今はただ、自分の実力を高めることだけを考えればいい。私は誰の助けも借りない。一人でAクラスへ昇格してみせる。

そう固く決意し、私は再び教科書へと向き直った。

 

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

 

夜更け。

 

俺は自室のベッドの上で、結跏趺坐の姿勢を取り、深い瞑想状態に入っていた。

部屋の明かりは落としており、完全な暗闇だ。

俺の聴覚は限界まで拡張され、寮の廊下を通るわずかな足音、隣の部屋の水道管の水流音、遠くの道路を走る車のエンジン音までを、並列処理で分析している。

 

(今日の任務は完了した。綾小路は俺の仕掛けた罠に気づき、3年生のフロアへ向かった。彼なら、過去問を入手し、クラスに配布するという役割を完璧にこなすだろう。これで、赤点回避の【プランA】は起動した)

 

だが、俺の辞書に安心という文字はない。

マキャヴェッリは言った。

『見えないところでの準備こそが、見えるところでの勝利を生む』と。

 

綾小路が過去問を手に入れたとしても、あの愚かな須藤たちが素直にそれを暗記する保証はない。

彼らが「こんなの覚える必要ねえよ」と過去問を放り投げ、テスト前日まで遊び呆ける確率。俺の計算によれば、それは45%にも及ぶ。

この45%の死の確率を、徹底的にゼロへと近づけなければならない。

 

(そのためには、彼らを恐怖で支配し、強制的に机に向かわせるシステムが必要だ)

 

俺は瞑想を解き、音もなく立ち上がると、クローゼットの奥底に隠してあるノートPCを開いた。

これは、学校から支給された監視用の端末ではない。入学直後に大量のポイントを消費し、外部からジャンクパーツを取り寄せて一から組み上げた、完全独立型の特注PCだ。

 

俺は画面を操作し、ある音声ファイルを再生した。

 

『……ムカつくムカつくムカつく!! なんで私が、あんなキモい池や山内みたいな底辺男に愛想振りまかなきゃいけないのよ! 死ねばいいのに! ぶっ殺してやりたい!!』

 

スピーカーから漏れ出す、地獄の底から響くような呪詛。

クラスのアイドル、櫛田桔梗の裏の顔だ。

 

俺は入学初日から、彼女の異常なまでの「全方位への愛想の良さ」に強い疑念を抱いていた。人間がそこまで完璧に善性を装うことは不可能だ。必ずどこかに、強烈なストレスの発散場所があるはず。

俺の推測は的中し、彼女が夜な夜な学校の裏庭で暴言を吐いている音声を、自作の集音マイクで見事に録音することに成功したのだ。

 

(これを使う。櫛田、お前にはこのクラスの裏の監視者になってもらう)

 

俺は追跡不可能な海外サーバーを経由し、匿名のアドレスから櫛田宛にメールを作成した。

添付ファイルには、あの音声データの一部。

本文には、こう記す。

 

『あなたの本当の顔を知っている。この音声を学校の裏掲示板にばら撒かれたくなければ、次の中間テストで須藤、池、山内を絶対に赤点にさせないこと。手段は問わない。彼らを監視し、無理矢理にでも過去問を暗記させろ。もし一人でも退学者が出れば、この音声は全校生徒に公開される』

 

送信ボタンを押す。

 

(これで、綾小路が解答を用意し、櫛田が鞭を振るって愚者たちを強制的に勉強させるシステムが完成した)

 

俺自身は、依然として「何もできない重病の生徒」として教室の隅で咳き込んでいるだけだ。

誰のヘイトも買わず、誰の記憶にも残らず、しかし盤面は俺の意のままに動く。

 

これが、極限の慎重さ。

これが、俺の生存戦略だ。

 

(……だが、まだ足りない。もし、学校側が俺たちの過去問入手に気づき、テストの内容そのものをすり替えてきたらどうする?)

 

俺はPCを操作し、学校の印刷室のサーバーに対する、物理的なハッキングのシミュレーションを開始した。

もし過去問が通用しない事態になった場合、【プランB】として、テスト前夜に印刷室に潜入し、問題用紙を直接すり替える。

 

そのためのルート構築、セキュリティロックの解除プログラムの作成、巡回警備員のシフトの完全把握。

やるべきことは、山のようにある。

 

(リスタ、お前の魂を救うまで、俺は何度でも、どれだけでも泥を啜ってやる)

 

暗闇の中で、俺のPCのモニターだけが青白く発光し、狂気的なまでの計算式を映し出し続けていた。

 

俺の戦いは、これからが本番だ。

誰にも気づかれない、俺だけの過酷な生存競争が、今、完全にその歯車を回し始めたのだ。

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