フリードリヒ・ニーチェ
『善悪の彼岸』
暗闇の中で、電子回路が発する微かな熱だけが室温を0.1度上昇させていた。
竜宮院聖哉は、モニターの青白い光に照らされながら、キーボードを叩く指を止めた。画面には、この学校が採用しているマークシート読み取り機――オムロン社製の最新モデルの、ファームウェアの脆弱性リストが羅列されている。
(送信完了。これで櫛田桔梗という『爆弾』の信管は、俺の指先に繋がれた)
メールの送信ログを物理層から抹消し、ログファイルを暗号化されたシュレッダーにかける。
この瞬間、女子寮の一室で、クラスのアイドルが絶望の淵に叩き落とされているであろう光景を想像し、聖哉は口角をわずかに、それこそコンマ数ミリだけ上げた。それは喜びではなく、計画が「予定通り」に進んでいることへの、機械的な確認作業に過ぎない。
(次は【フェーズ2.5:愚者たちの首輪】だ。情報の脅迫だけでは、生物としての怠惰は完全には克服できない。肉体的な『強制力』の予備を配置する必要がある)
聖哉は立ち上がり、机の引き出しの奥――さらにその底にある、偽装された二重底から、豆粒ほどの大きさをした「黒い粒」を三つ取り出した。
それは、聖哉が自室に備蓄していた特殊素材と、購買部で故障品として格安で払い下げられた防犯ブザーの電子基板を分解・再構築して作り上げた、超小型の指向性マイク兼、高周波発生装置である。
これを、あの三馬鹿――須藤、池、山内の持ち物に仕掛ける。
もし彼らが勉強中に一定時間以上、脳波の集中を欠く(あるいは居眠りを始める)等の特定の挙動を見せた際、俺の手元の端末から、彼らにしか聞こえない不快な高周波を浴びせ、強制的に覚醒させる。
(潜入時間は午前3時42分。人間のレム睡眠が最も深まり、かつ警備の巡回が学生寮の東棟に集中する空白の4分間。……準備は、レディ・パーフェクトリーには程遠いが、実行には足る)
聖哉は全身を、光を一切反射しない超軽量の防音タクティカルスーツ(これも既製品を分解し、繊維密度を調整して自作したもの)に包み、窓から外へと音もなく滑り出した。
*
【視点:櫛田桔梗】
身体の震えが止まらない。
スマートフォンの画面に表示された、一通のメール。
再生された音声ファイルからは、私自身の、誰にも聞かせてはいけない、ドブネズミのような呪詛が流れてきた。
「……っ、……ぁ……!」
喉の奥から、短い悲鳴が漏れる。
指先が氷のように冷たい。
誰? 誰なの?
あの時、裏庭には誰もいなかったはず。私は徹底的に周囲を確認した。監視カメラの死角も、人の気配も、すべて。
堀北? いいえ、あんな高潔を気取った女が、こんな陰湿な真似をするはずがない。
綾小路? 彼は不気味だけど、私に執着する理由がない。
メールの送り主は、私の心臓を素手で握り潰さんばかりの要求を突きつけてきた。
『須藤、池、山内を絶対に赤点にさせないこと』
『もし一人でも退学者が出れば、この音声を全校生徒に公開する』
「ふざけないでよ……! なんで私が、あんなゴミ屑たちの守り人なんて……!」
壁を殴りつけたい衝動を、必死で抑え込む。
今、部屋で暴れれば、隣の生徒に不審がられる。私は天使の櫛田桔梗でいなければならない。
でも、もし、あの音声が学校中に流れたら?
私の居場所はなくなる。私の積み上げてきた全てが、一瞬で灰になる。
「殺してやる……犯人を見つけ出して、絶対に、殺してやる……!」
暗闇の中で、櫛田の瞳は漆黒の憎悪に染まっていた。
しかし、その殺意とは裏腹に、彼女の指は、既に三馬鹿への明日からの強制勉強会を告知するメッセージを打ち込んでいた。
恐怖。
それは、どんな言葉よりも雄弁に人を動かす。
櫛田桔梗は今、正体不明の神という名の怪物に飼い慣らされた、ただの猟犬へと成り下がっていた。
*
【視点:綾小路清隆】
午前3時。
ふと目が覚め、喉の渇きを覚えて台所へ向かおうとした時だった。
廊下のわずかな空気の振動。
気圧の変化、と言ってもいい。
(……誰かいるな)
オレは音を立てずにドアに歩み寄り、ドアスコープではなく、床とドアのわずかな隙間から漏れる光の変化を観察した。
影はなかった。
だが、何かが通り過ぎた感覚だけが残っている。
普通の人間なら、気のせいだと片付けるだろう。だが、ホワイトルームで教官の殺気を察知する訓練を受けてきたオレの感覚が、何者かの存在を確信していた。
オレはドアを開け、廊下に出た。
誰もいない。
常夜灯のぼんやりとした明かりが、無機質な廊下を照らしているだけだ。
オレは数歩歩き、須藤たちの部屋が並ぶエリアへと向かった。
そこで、床に落ちている何かを見つけた。
それは、髪の毛一本ほどの、極細の透明な糸。
おそらく、侵入者が自分の通ったルートを確認するために、あるいは後続者がいないかを確認するために仕掛けたトラップの一部だろう。
(……巧妙だ。だが、この糸の材質は……医療用の縫合糸か?)
オレの脳裏に、昼間、図書室で見かけたあの男の姿が浮かぶ。
竜宮院聖哉。
重病人を装い、常に死の影を纏っている男。
なら、医療品を所持していても不自然ではない。
(彼が三馬鹿の部屋に、この時間に何の用だ? ……嫌な予感がするな)
オレは糸を拾わず、そのままにして自室に戻った。
竜宮院聖哉。彼はただの慎重な男ではない。
彼は、この学校というシステムそのものを、自分に都合の良い実験場に作り変えようとしている。
そしてその過程で、オレを巻き込もうとしている。
オレはベッドに横になり、天井を見つめた。
明日の勉強会。
櫛田がどのような顔をして現れるか、それを見れば、竜宮院が何を仕掛けたのか、その一端が見えるはずだ。
*
【視点:竜宮院聖哉】
自室に戻った俺は、即座にタクティカルスーツを脱ぎ捨て、それを特殊な洗浄液に浸した。
指紋、皮脂、浮遊していた塵。その全てを分子レベルで分解するためだ。
三馬鹿の部屋への設置は、予定より12秒遅れたが、成功した。
須藤のバスケットシューズのインソール裏、池のゲーム機のバッテリーパック内、山内のポルノ雑誌の表紙の裏。
彼らが肌身離さず持ち歩く、かつ、検査の入りにくい場所に首輪は設置された。
「……ふぅ……」
俺はベッドに倒れ込むように横たわった。
演技ではない、本物の疲労が全身を襲う。
だが、眠るわけにはいかない。
俺はサイドテーブルの上に置いてある、小さな、古びたロケットペンダントを手に取った。
中を開くと、そこには一枚の肖像画が収められている。
金色の髪。天真爛漫な笑顔。
リスタルテ。
この学校でのポイント、地位、Aクラス卒業。
そんなものは俺にとって、彼女の魂を救うための通貨に過ぎない。
この異常な学校のシステム、その深淵にある力を利用すれば、魂の救済という奇跡すらも、計算式の上に導き出せるはずだ。
「待っていろ、リスタ。……俺が必ず、お前を地獄から引きずり出してやる」
俺の瞳から、一筋の涙……ではなく、極限の集中による充血が広がる。
俺は再び起き上がり、作業机に向かった。
今夜の最後の仕事。
【プランE:強制的得点調整】のための、特殊薬品の調合。
俺が購買部で「掃除用洗剤」と「理科の実験用試薬」を組み合わせて購入したのには、明確な理由がある。
これらの特定の成分を、黄金比で配合し、揮発性の触媒を加えることで、ある「特殊なインク」が完成する。
(特殊温度揮発インク。……20度から25度の常温下では、黒色のインクとして視認できるが、マークシート読み取り機の内部――スキャナーの光源が発する熱(約40度前後)にさらされた瞬間、色素が熱分解され、完全に透明化する)
これを用いれば、どうなるか。
生徒が間違った回答をこのインクで書き、その下に正解を普通の鉛筆で薄く書いておく。
肉眼で見れば、黒いインクが正解を隠しているため、試験監督の目には間違った回答が書かれているように見える。
しかし、機械が読み取る瞬間、インクは消え、下に隠された正解だけがセンサーに感知される。
(解答の改竄を、機械に直接行わせる。……これならば、答案用紙に他人の筆跡を残すリスクも、後からハッキングで書き換える足跡も残さない)
俺は慎重に、スポイトで一滴ずつ液体を混合していく。
一滴の狂いが、化学反応の失敗を招き、俺の破滅を意味する。
周囲の湿度は42%、室温は18度。
完璧な環境下で、その毒々しいまでに透明な液体は、静かに完成の時を待っていた。
「……よし。準備は、ようやく整いつつある」
窓の外では、薄っすらと夜が明け始めていた。
戦いの鐘が、静かに、しかし確実に鳴り響こうとしていた。
*
翌朝。
Dクラスの教室は、異様な熱気に包まれていた。
「……え、櫛田ちゃん? マジで言ってんの?」
池が、困惑と期待が入り混じったような顔で声を上げる。
その目の前には、いつも以上の笑顔……しかし、どこか瞳の奥が笑っていない櫛田桔梗が立っていた。
「うん! 私、やっぱりみんなと一緒に卒業したいの。だから、今日から毎日放課後、私が責任を持って勉強を教えるね。あ、もしサボったりしたら……私、悲しくて、学校に来れなくなっちゃうかも」
「「「ぜ、絶対行く!!!」」」
三馬鹿が、文字通り犬のように尻尾を振って快諾する。
その様子を、俺は教室の隅で、机に突っ伏しながら観察していた。
隣の席では、堀北が不快そうに鼻を鳴らしている。
「馬鹿馬鹿しい。あんな馴れ合いで、点数が上がるとでも思っているのかしら」
「いいじゃないか、堀北。クラスの団結は大事だろ?」
綾小路が、相変わらずのトーンで返す。
だが、綾小路の視線は、櫛田ではなく、机に突っ伏している俺に向けられていた。
俺と、綾小路。
交差する視線はない。だが、空気を通じて、互いの思考が火花を散らしている。
(綾小路、お前は気づいているはずだ。この状況が、誰かの手によってデザインされていることに)
(竜宮院、お前はどこまでやるつもりだ。……このクラスを、お前の城にでも変えるつもりか?)
沈黙の対話。
それを切り裂いたのは、予鈴のチャイムだった。
「さあ、始めようか。……地獄の勉強会をな」
俺は誰にも聞こえない声で呟き、再び眠りにつくフリをした。
全ては手のひらの上。
中間テストまで、あと13日。
チェックメイトまでのカウントダウンは、すでに始まっている。