ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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È molto più sicuro essere temuto che amato.

ニッコロ・マキャヴェッリ
『君主論』


第9話「愛されるよりも恐れられる方が、はるかに安全である。」

放課後の図書室。普段は静寂が支配するその場所に、場違いな緊張感が漂っていた。

 

「……ねえ、須藤くん。ここはさっきも説明したよね? この二次関数の頂点の求め方、もう一度やってみて?」

 

櫛田桔梗の声は、相変わらず鈴を転がすような清涼感に満ちていた。しかし、その瞳の奥には、薄氷のような危うさが張り付いている。彼女の指先は、ノートの端を白くなるほど強く握りしめていた。

 

「ああ? ……クソ、わかんねえよ。なんでバスケにこんな計算が必要なんだ?」

 

須藤健が苛立ちを隠さず、シャープペンシルを机に叩きつける。隣で漫画を読み耽ろうとしていた池寛治と、スマホを弄り始めた山内春樹も、明らかに集中力の限界を迎えていた。その瞬間だった。

 

「ッ、痛っ……!? な、なんだ、今の!?」

 

池が突然、耳を押さえて椅子から転げ落ちそうになった。

 

「あだだだだだ! 頭が、頭が割れるっ!」

 

山内も同様に、目を見開いて激しく悶絶する。須藤だけは辛うじて堪えたが、その顔は苦痛に歪み、こめかみには青筋が浮き出ていた。

 

「……みんな、どうしたの?」

 

櫛田が殊更に困惑した表情で問いかける。

だが、彼女の背中には冷たい汗が伝っていた。彼女は知っている。これが、あの神が仕掛けた罰であることを。

 

三馬鹿の私物に設置された指向性高周波発生装置「首輪」。

彼らの脳波や挙動を監視し、集中力が途切れた瞬間に、特定の個体にのみ激痛に近い高周波を浴びせる非人道的な覚醒システム。

 

謎の脅迫相手から送られてきた操作説明書には、淡々とこう記されていた。

 

『生物の学習効率は、生存本能と直結した際に最大化される。集中力の欠如を肉体的苦痛と結びつけることで、彼らの脳はパブロフの犬のごとく、勉強を生存のための手段と誤認する。』

 

「……大丈夫? ちょっと疲れちゃったかな。でも、ここで止めちゃったら、みんな退学になっちゃうんだよ?」

 

櫛田は震える手で池の肩に触れた。彼女の脳裏には、あの録音データの不気味なノイズが再生されている。

 

(こんなの犯罪じゃないの……バレたら私退学で済まないんじゃ……)

(でも、やるしかない。やるしかないのよ。こいつらを赤点から救わないと、私の人生が終わる。あいつに殺される……!)

 

 

「あ、ああ……。悪い、櫛田ちゃん。なんか急に、すごい偏頭痛が……。でも、もう大丈夫だ。やる、やるから!」

 

池は涙目になりながら、再び問題集に向き直った。高周波が止まる。それは、彼らが集中というフェーズに強制的に引き戻された合図だった。図書室の遠く離れた席。数冊の医学書を積み上げ、青白い顔で突っ伏している男――竜宮院聖哉は、袖口に隠した小型端末の波形を、伏せた瞳の裏側で確認していた。

 

(三馬鹿の脳波、β波の活性を確認。集中維持率は前日比140%向上。……だが、まだ甘い。精神的な負荷によるニューロンの焼付けが不足している)

 

机の下で、彼は一振りの万年筆を弄んでいた。その中には、昨夜調合を終えた特殊温度揮発インクが充填されている。化学式で表せば、それは極めて不安定な平衡状態にある。特定のサーモクロミック顔料と、高揮発性の触媒の混合物。

 

通常、この種のインクは温度が下がれば色が戻る。しかし、聖哉が調整したのは、一度閾値を超えれば分子構造が永久的に不可視化される、不可逆的な反応だ。

 

(中間テスト当日。マークシート読み取り機が発する熱を利用し、解答を物理的に置換する。……そのためには、まず答案用紙の紙質と、読み取り機の光源の熱量を完全に把握する必要がある)

 

聖哉は僅かに顔を上げ、窓の外を見やった。視線の先には、特別棟の印刷室。そこには、数日後に刷り上がるはずの試験問題が、電子ロックの檻に守られて眠っている。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

図書室の隅で、オレは読みかけの文庫本を閉じ、視線を巡らせた。Dクラスの学習会。その光景は、端から見ればクラスの団結という美しい絵画に見えるだろう。だが、オレの目には、それが精巧に組まれた処刑台のように映っていた。

 

(櫛田の様子がおかしいな)

 

彼女の笑顔は、もはや仮面というよりは、皮膚に直接縫い付けられた剥製のような不自然さを醸し出している。そして、須藤たちの反応。彼らが時折見せる、原因不明の激痛。医学的な知見を動員しても、あのようなピンポイントの痙攣が三人に同時に、それも「サボろうとした瞬間」に起きる確率は、統計学的に見てゼロに等しい。

 

(外部からの物理的な干渉。……それも、誰にも気づかれないような周波数による攻撃か)

 

オレは、数メートル先で重病人として死んだように眠っている竜宮院聖哉に目を向けた。彼は動かない。呼吸さえも、計算されたかのように一定の間隔を刻んでいる。だが、オレは知っている。彼が昨夜、午前3時の静寂の中、タクティカルスーツを身に纏い、影のように廊下を這い回っていたことを。

 

「……綾小路くん、何か気になることでも?」

 

隣に座っていた堀北鈴音が、鋭い視線を投げかけてくる。彼女のノートには、一分の隙もない完璧な学習計画が書き込まれていた。

 

「いや。……櫛田の熱意がすごいなと思ってさ」

 

「そうね。正直、彼女のあの献身性には理解に苦しむわ。三馬鹿を助けることに、彼女自身に何のメリットがあるというのかしら。点数を上げさせるだけなら、もっと効率的な方法があるはずよ」

 

「メリット、か。……もしかしたら、そうせざるを得ない理由があるのかもしれないな」

 

「理由? ……まさか、誰かに脅されているとでも言うの?」

 

堀北は鼻で笑ったが、その瞳には僅かな疑念が宿った。彼女はまだ気づいていない。このクラスが、既に竜宮院聖哉という名の巨大な蜘蛛が張り巡らせた糸に絡め取られていることに。オレは席を立ち、自動販売機へと向かった。歩きながら、竜宮院の横を通り過ぎる。その瞬間、彼の指が微かに動いたのをオレは見逃さなかった。

 

(……メッセージか)

 

彼の机の端に、小さな、本当に小さな紙片が置かれていた。オレはそれを自然な動作で回収し、トイレの個室で中身を確認した。そこには、座標と時間、そして一言だけ、冷徹な筆跡で記されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『23:00 特別棟 3F 印刷室前。……【プランB】の最終確認を行う。遅れることは許されない』

 

オレは溜息をついた。どうやら、彼はオレを協力者としてではなく、部品として使い倒すつもりのようだ。拒否する選択肢はある。だが、彼が握っている手札の全貌を見極めるまでは、その誘いに乗るのが最善だろう。

 

(……やれやれ、今日は朝から慌ただしいな。慎重すぎる男の相手は、疲れる)

 

オレは紙片を水に流し、平然とした顔で個室を出た。

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