さよなら、バカ兄貴   作:みそそ

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さよなら。バカ兄貴

夜が明け、冬木の街が白み始めた頃。慎二は泥と返り血に汚れた姿で、間桐の門を潜った。

 

玄関を開けると、そこには一睡もせずに待っていたであろう桜が、縋るような瞳で立っていた。

 

「……兄さん! 無事だったんですね……!」

 

桜が駆け寄り、慎二の無事を確認して安堵の涙を流す。今までの慎二なら、その献身を当たり前のように受け入れるか、あるいは苛立ちをぶつけていただろう。

 

だが、今の慎二は、ただ静かに桜の肩に手を置いた。

 

「……桜。ごめん、僕はもう行くよ」

 

「え……? 行くって、どこへ……」

 

慎二は答えず、自室へ戻ると、最小限の着替えとあの「新品同様のグローブ」だけをカバンに詰め込んだ。贅沢な調度品も、間桐の魔術書も、今の彼には一グラムの価値もなかった。

 

階段を下りてくる慎二を、桜と、そしてその後ろに立つライダーがじっと見つめていた。

 

「兄さん、待ってください。おじい様になんて説明すれば……。それに、一人でどうやって生きていくんですか?」

 

慎二は玄関のドアノブを掴み、振り返った。その顔はまだ疲れ果てていたが、瞳にはランサーの昔話を聞いた時のような、奇妙に晴れやかな光が宿っていた。

 

「じい様のことはどうでもいい。……あんな退屈な老人のために、僕の人生を使うのはもうやめだ。……僕は僕の、楽しいことを見つけに行く。あの兄貴みたいにね」

 

慎二の言葉に、ライダーの口元がわずかに綻んだ気がした。

 

彼女には見えていた。慎二の背後に、今はもういないはずの、青い戦士が「早く行けよ」と背中を押している幻影が。

 

「……行ってしまうのですか、慎二」

 

ライダーの問いに、慎二は短く「ああ」と答えた。

 

「ライダー。……桜を、頼むよ。君にしかできないことがあるって、あいつも言ってたからさ」

 

慎二はそれだけ言うと、一度も後ろを振り返らずに、間桐の屋敷を後にした。

 

朝日が、慎二の歩む道を真っ直ぐに照らしている。足取りはまだ少しおぼつかない。

 

けれど、カバンの中で揺れるグローブの感触を感じながら、慎二は確かに、自分の足で「外の世界」へと踏み出した。

 

かつて公園で叫んだ「置いていくなよ」という言葉は、もう必要なかった。

 

なぜなら、その背中を追うべき兄貴は、もう慎二自身の心の中に、消えない光として刻まれているのだから。

 

慎二が去った後。

夕焼けに染まる冬木大橋の袂、かつてランサーがその身を散らした場所に、ライダーは静かに立っていた。

 

彼女の手には、あの日ランサーから贈られたのと同じ、紫色の花が一輪握られている。

彼女はそれを、かつて激闘が繰り広げられた痕跡の残る地面へと、手向けるように置いた。

 

「……あんなに笑ったのは、本当に久しぶりでした」

 

瞳を閉じれば、鮮明に蘇る。不機嫌そうに鼻を鳴らす慎二と、それを豪快に笑い飛ばすランサー。無愛想な兄の言葉に困ったように微笑む桜。

 

偽物の家族。かりそめの団欒。

 

けれど、四人で過ごした日々は、彼女にとっては神話の時代にさえ得られなかった「温かな光」だった。

 

「……もうじき、私もそちらに行くことになるでしょうね」

 

聖杯戦争はまだ終わっていない。残された強者たちの気配を感じながら、ライダーは沈みゆく太陽を見つめた。

 

サーヴァントとして、自らの消滅はすぐそばまで迫っている。けれど、その心に後悔はなかった。

 

「……ふふ」

 

夕焼け空の下、彼女は静かに、けれど確かに微笑んだ。

 

それは怪物メドゥーサとしてではなく、一人の少女のようにも見える、穏やかで慈愛に満ちた笑みだった。

 

聖杯戦争がどのような結末を迎えるのか、それは誰にもわからない。

 

血を流し、泥を啜り、誰かが勝者となり、誰かが敗者となる。その残酷な歯車は今も回り続けている。

 

けれど。

間桐の屋敷を出て、一度も振り返らずに歩き続ける慎二の足取りは、力強い。

 

たとえ英雄が去り、魔法が消えても。

あの日、兄貴と交わした「くだらない昔話」と、グローブに残った重みを抱えて。

 

間桐慎二の本当の人生は、この夕暮れの向こう側へと、どこまでも続いていく。

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