その夜、間桐邸の薄暗い廊下で、慎二の機嫌は最悪だった。
昼間の快勝で膨れ上がった自尊心が、帰宅した途端に現れた桜の「無感情な瞳」に触れて、急速に萎んでいったからだ。
「……おい、桜。夕食の準備が遅いんじゃないか? 兄さんに恥をかかせるつもりかよ」
慎二はわざとらしく、桜の肩を強く突き飛ばした。壁に体を打ち付けた桜が、力なく床に座り込む。
その痛ましげな姿を見て、慎二の心には歪んだ満足感が広がる。
「魔術師でもないのに居候させてもらってるんだ。もっと僕を敬ったらどうなんだ! この……っ!」
苛立ちをぶつけるように、慎二が拳を振り上げた、その時だった。
「――そこまでにしときな、小僧」
凍りつくような声が、背後から降ってきた。
振り向いた慎二の視界が、一瞬で「青」に染まる。いつの間にかそこに立っていたランサーが、慎二の手首を、まるで鉄の枷のように掴んでいた。
「な、なんだよランサー! 放せっ、僕はお前のマスターだぞ!」
「マスター、ねえ」
ランサーの瞳は、戦場の時とは違う、底冷えするような色をしていた。
彼は慎二の手を無造作に放り投げると、一歩、逃げ場を塞ぐように踏み込んだ。
「あいにくだが、俺のいた国じゃ、女に手を上げる男は戦士の端くれにも入れねえ。……それとも何か? お前は、自分より弱い奴を殴らなきゃ保てねえほど、惨めな男なのかよ」
「な……ッ、何を……!」
言い返そうとした慎二の喉が、引き攣った。
ランサーが放つ、本物の「殺気」。
慎二が今まで「便利だ」と喜んでいたあの槍の鋭さが、今は自分に向けられている。
一突きで死ぬ。いや、この男がその気になれば、まばたきする間に自分は肉塊に変わる。
「……っ、う、うわああああ!」
慎二は恐怖に耐えきれず、桜を放置したまま、自分の部屋へと逃げ込んだ。
背後でランサーが吐き出した、深く、重い溜息が聞こえた気がした。
部屋に飛び込み、ドアに鍵をかけ、慎二はベッドの上でガタガタと震えていた。
怒りと、恥ずかしさと、そして何より圧倒的な敗北感。
(なんなんだよ……! 僕のサーヴァントのくせに! 道具のくせに、僕に説教するなんて……!)
拳で枕を何度も叩く。だが、その怒りは長くは続かなかった。
不思議な感覚が、慎二の胸を満たし始めていた。
今まで、自分を本気で「叱ってくれる」大人なんていなかった。
祖父の臓硯は、自分をゴミを見るような目で見下すか、利用価値だけで判断する。
父親は自分に無関心で、ただ失望の色を隠そうともしなかった。
学校の教師たちは、間桐の金と権力に媚びて、腫れ物に触るように接してくる。
「……あいつ……」
ランサーは、自分を「魔術師」としてでも「間桐の跡取り」としてでもなく、ただの「最低な真似をした一人のガキ」として見ていた。
恐怖はまだ消えない。けれど、その恐怖の奥底で、慎二は生まれて初めて、自分が誰かに「正面から向き合われた」という、奇妙な充足感を感じていた。
「……死ぬかと思った……」
慎二は膝を抱え、ぽつりと呟いた。
頬を伝う涙は、悔しさだけではない、何とも言えない熱を帯びていた。