カーストルーム・オブ・ザ・デッド2   作:戦竜

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最終話 飛翔

格納庫の扉の向こうに、巨大な軍用ヘリの影が見えていた。

 

それは、ここまで死の匂いしか運んでこなかったこの世界で、

初めて明確な出口として彼らの前に現れたものだった。

 

厚い装甲を思わせる無骨な機体は、

焦げた空と黒煙に包まれた自衛隊基地の中で、

まるで死の海に浮かぶ最後の船のように存在しており、

広く開かれた搭乗口は、

生き残った者だけを受け入れる門のように彼らの前へ口を開けていた。

 

巨大なローターはまだ完全には回転していない。

 

だが、その沈黙している羽根ですら、もうすぐ空を切り裂き、

この地獄の底から彼らを引き剥がすために

動き出すのだと分かるだけの迫力を備えていた。

 

ここまで辿り着いた。

 

学校から脱出し、街を抜け、仲間を失い、

何度も死の淵を踏み越え、それでもなお、彼らはこの場所に立っていた。

 

誰も歓声など上げない。

 

誰も喜びを口にしない。

 

しかし、全員の胸の奥には、ほんのわずかに同じ感覚が生まれていた。

 

助かるかもしれない。

 

この死都から、本当に出られるかもしれない。

 

その感覚は、希望と呼ぶにはあまりにも弱く、あまりにも痛みを伴っていた。

 

だが、それでも確かに希望だった。

 

だからこそ、この世界はそれを許さなかった。

 

ヘリへ向けて足を踏み出そうとした瞬間、

基地の外から、腹の底を揺らすような咆哮が響き渡った。

 

それは獣の声ではない。

 

人間の声でもない。

 

壊れた肉体に押し込められた残骸のような意思が、

無理やり声帯を震わせているかのような、聞くだけで神経を逆撫でする咆哮だった。

 

全員が振り返る。

 

黒煙が裂ける。

 

瓦礫が弾ける。

 

その向こうから、異形の巨体が飛び出してきた。

 

七瀬だった。

 

彼女の身体は、もはや戦闘を続けられる状態には見えなかった。

 

傷は深く、動きも鈍り、

全身に浮かぶ眼のいくつかは機能を失っているように見える。

 

それでも、七瀬は止まらない。

 

壊れた身体を引きずりながらも、彼女はなお彼らを追ってきた。

 

「まだ来るのかよ……!」

 

橋本が呻くように言った。

 

その声には恐怖だけでなく、怒りと疲労も混じっていた。

どれだけ撃っても、どれだけ傷つけても、あの怪物は追ってくる。

逃げ道が見えた瞬間に、必ずその前へ現れる。

まるでこの街そのものが、彼らを逃がすまいとしているかのようだった。

 

伊吹はソードオフショットガンを構え直し、

堀北は無表情のままアサルトライフルの銃口を向け、

学は無言でマグナムを抜いた。

 

軽井沢はヘリの入口付近で足を止め、震える指でハンドガンを握る。

一之瀬は息を呑みながらも、スナイパーライフルを構えた。

 

その場の全員が、次の戦闘に備える。

 

だが、その直後だった。

別方向から、さらに重い音が響いた。

それは足音というより、地面そのものが叩き潰されているような衝撃だった。

 

一歩ごとに、瓦礫が震える。

一歩ごとに、格納庫の壁が低く軋む。

 

そして現れたのは、七瀬以上に巨大な影だった。

 

4メートル近い巨体。

分厚い筋肉と装甲のように変質した皮膚。

巨大な腕。

肥大化した爪。

そして、その歪んだ顔に残る、かすかな宝泉和臣の面影。

 

「……やはりな」

 

綾小路は低く呟いた。

 

七瀬が回収され、B.O.Wへ変えられたのなら。

同じ場所で死んだ宝泉もまた、

鬼島の手によって兵器にされていても不思議ではない。

むしろ、宝泉という素材を鬼島が見逃すはずがない。

生前から規格外の膂力と暴力性を持っていた男だ。

それを生物兵器として加工すれば、

単純な破壊力だけなら山内や真鍋の個体すら超えるだろう。

 

【挿絵表示】

 

ハイパータイラント。

 

その言葉が、誰の口から出たわけでもないのに、全員の頭の中に浮かんだ。

 

これはもう、通常の敵ではない。

 

火力で押し切れば倒せるという保証もない。

 

逃げるしかない。

 

しかし、ヘリを飛ばすには時間がいる。

そして、その時間を稼がなければならない。

 

全員が同じ結論に辿り着いた瞬間、予想外のことが起きた。

 

七瀬が、宝泉へ突っ込んだのだ。

 

「なに……?」

 

一之瀬が息を呑む。

 

七瀬は綾小路たちではなく、宝泉へ牙を向けた。

その動きは、もはや突進という言葉では足りない。

 

地面を蹴った瞬間、コンクリートが陥没し、

砕けた破片が爆ぜるように宙へ舞い上がり、

七瀬の巨体は弾丸のような速度で一直線に宝泉へと迫った。

 

同時に宝泉も反応する。

 

遅い。

 

そう錯覚するほどの巨体でありながら、

その腕が振り上げられる速度は異常だった。

 

空気が裂ける。

 

その一撃は、ただ振るわれただけで衝撃波を伴い、

周囲の瓦礫を押し流すほどの質量と速度を備えていた。

 

そして――衝突。

 

破砕音。

 

爆発のような音とともに、二体の怪物が正面からぶつかり合う。

その瞬間、周囲の空気が押し潰され、

地面にひびが走り、格納庫の壁にまで振動が伝わった。

 

七瀬の巨大な顎が、宝泉の腕へと深々と食い込む。

 

肉が裂ける音。

骨が軋む音。

 

だが、それは単なる咬みつきではない。

 

食い破るための力だった。

 

力と力。

 

本能と本能。

 

兵器として作り替えられた肉体同士のぶつかり合い。

 

だが、その奥に。

一瞬だけ、人間の声が混じった。

 

「……先輩……逃げて……」

 

それは、かすれていた。

聞き間違いかと思うほど小さかった。

 

だが、確かに聞こえた。

 

一之瀬の顔が歪む。

堀北も目を見開く。

 

七瀬は石崎を殺した。

櫛田を殺した。

須藤を殺した。

 

多くの仲間を奪った。

 

だが、それでもなお、あの怪物の奥には七瀬翼の意思が残っていた。

鬼島に身体を奪われ、兵器へと変えられ、暴走する殺戮衝動の中に沈められても。

 

最後の最後で、彼女は綾小路を逃がそうとしていた。

 

七瀬は顎をさらに締め上げる。

関節が軋み、牙がめり込み、血が噴き出す。

宝泉の腕から噴き出した血液が、

まるで破裂したパイプのように噴き上がり、周囲へと飛び散る。

 

それでも宝泉は怯まない。

 

咆哮。

怒り。

純粋な破壊衝動。

 

宝泉のもう一方の腕が、七瀬の側頭部へと叩きつけられる。

その一撃は、建造物を破壊するための力だった。

 

【挿絵表示】

 

鈍い音。

 

七瀬の頭部が大きく揺れる。

肉が裂け、眼球のいくつかが弾け飛び、黒い体液が飛散する。

 

だが――それでも。

 

七瀬は離れない。

 

むしろ、さらに食い込む。

 

顎を、もっと深く。

 

骨ごと噛み砕く勢いで。

 

宝泉が腕を振るう。

 

一度。

二度。

三度。

 

七瀬の身体が揺れる。

 

肉が裂ける。

 

皮膚が剥がれる。

 

だが七瀬は、決して顎を緩めない。

 

その執念は異常だった。

 

七瀬は執念で宝泉を止める。

 

ただ、それだけのために動いていた。

宝泉が怒りに任せて腕を振り抜く。

 

今度は横薙ぎだった。

 

巨大な爪が、七瀬の胴体を切り裂く。

 

裂傷ではない。

 

ほぼ切断に近い破壊だった。

 

骨が露出し、内臓が露わになり、体液が飛び散る。

普通の生物なら、その時点で活動は停止する。

 

だが七瀬は違った。

 

顎を離さない。

 

むしろ――さらに噛み締める。

 

宝泉の腕の骨が、明確に軋む音を立てた。

 

宝泉の咆哮が響く。

 

その声には怒りと、わずかな異常が混じっていた。

 

効いている。

 

七瀬の攻撃は、確実にダメージを与えていた。

 

宝泉は腕を振りほどこうと、力任せに七瀬の身体を引き剥がそうとする。

 

だが、七瀬は離れない。

 

引き剥がされる。

 

それでも噛みついたまま。

 

地面を削りながら引きずられる。

 

コンクリートが砕ける。

 

火花が散る。

 

それでも七瀬は離れない。

 

その姿はもはや怪物ではなかった。

 

ただ一つの意志だけで動く、破壊された存在だった。

 

宝泉が七瀬の頭部を掴む。

 

巨大な手が、七瀬の顔面を鷲掴みにする。

 

力がこもる。

圧壊。

骨が砕ける音が響く。

眼球が潰れ、頭蓋が歪む。

 

それでも。

 

それでも七瀬は離れない。

 

顎だけが、異様に強く残っている。

 

噛みついたまま。

 

放さない。

 

宝泉は苛立ったように七瀬の身体を持ち上げる。

 

そのまま、地面へ叩きつける。

 

炸裂。

衝撃。

 

地面が陥没する。

 

クレーターのようにへこんだ中心で、七瀬の身体が沈む。

 

だが――まだ、顎は離れていない。

 

その執着は狂気だった。

 

宝泉がさらに叩きつける。

 

もう一度。

もう一度。

もう一度。

 

そのたびに七瀬の身体は崩れていく。

 

だが、それでも。

 

離れない。

 

離さない。

 

離れるという選択肢が、最初から存在していないかのように。

 

そして――宝泉が、ついに苛立ちの限界を迎えた。

 

もう一方の腕を振り上げる。

 

巨大な爪が、七瀬の胴体へ突き刺さる。

 

貫通。

 

完全な致命傷。

 

そのまま、持ち上げる。

七瀬の身体が、串刺しのように持ち上げられる。

 

それでも。

 

顎だけは、まだ宝泉の腕に食らいついていた。

 

綾小路は銃を構えた。

 

「宝泉を撃つ」

 

その一言に、迷いはなかった。

 

全員が動く。

 

綾小路、龍園、高円寺、堀北、学、鬼龍院、伊吹、橋本、アルベルト。

 

生き残った者たちが、残されたすべての弾丸を宝泉へ叩き込む。

 

銃声が基地全体に響き渡る。

 

アルベルトのM60E3が低く唸り、弾丸の線が宝泉の巨体へ浴びせられる。

 

龍園のカービンは関節部を狙い、

学のマグナムは宝泉の頭部付近へ重い一撃を加え、

堀北のアサルトライフルは感情のない連射で胴体へ弾を送り続ける。

伊吹は接近しすぎないぎりぎりの距離からショットガンを撃ち込み、

橋本も歯を食いしばりながら引き金を引き続け、

高円寺はいつもの余裕を保ったまま、

宝泉の急所を見極めるようにマグナムを撃った。

 

だが、宝泉は止まらない。

 

七瀬に食らいつかれて受けた損傷、全身へ弾丸を受けながらも、

その巨体はなお前へ進もうとしている。

 

やがて宝泉は、怒りを増したように咆哮し、七瀬の身体を力任せに引き剥がした。

 

そして、叩きつける。

 

七瀬の巨体が地面へ沈むように倒れる。

それでも彼女は起き上がろうとした。

 

だが宝泉の爪が再び振るわれ、その動きを完全に奪った。

七瀬の身体が崩れる。

 

その無数の目から、光が一つずつ消えていく。

 

一之瀬が小さく呟いた。

 

「七瀬さん……」

 

その声は、もう届かない。

七瀬翼は、そこで完全に止まった。

 

許せるわけではない。

 

彼女が殺した者たちの死が消えるわけでもない。

だが最後の瞬間、彼女は確かに自分の意思で宝泉へ向かった。

 

その事実だけが、場に重く残った。

 

龍園が歯を剥くように笑った。

それは、勝算がある者の笑みではなかった。

生き残れると確信している者の笑みでもない。

死を前にしてなお、相手の支配に屈することだけは拒む人間の、

悪意と狂気が混ざった笑みだった。

 

「おい、ゴリラ」

 

低い声が、瓦礫と煙の間を裂く。

宝泉の巨大な首が、ゆっくりと龍園へ向いた。

 

「死んでもまだ暴れるしか能がねぇのかよ。つくづく救えねぇな、テメェは」

 

その声に、宝泉の全身の筋肉が膨れ上がるように震える。

 

反応した。

 

龍園はそれを見て、さらに笑みを深めた。

 

「いいぜ。来いよ」

 

彼はカービンを構えたまま、後退しない。

むしろ一歩、前へ出る。

 

「最後くらい、俺が遊んでやる」

 

橋本が目を見開く。

 

「龍園、下がれ!正面から受ける気かよ!」

 

だが龍園は聞いていなかった。

いや、聞こえていてなお無視していた。

 

宝泉の巨体が沈む。

次の瞬間、地面を砕いて飛び出した。

 

4メートル近い巨体が、弾丸のような速度で龍園へ迫る。

 

普通なら、その時点で身体が動かなくなる。

 

逃げるでもなく、撃つでもなく、ただ死を待つだけになる。

 

だが龍園は違った。

 

彼は笑っていた。

 

心底楽しそうに。

 

「ははっ……いい顔じゃねぇか」

 

龍園はカービンを連射する。

弾丸が宝泉の顔面、肩、胸部へ叩き込まれる。

 

だが止まらない。

 

それでも龍園は引かない。

むしろ、宝泉の突進に合わせて前へ踏み込んだ。

 

「龍園!」

 

橋本の叫びが飛ぶ。

 

伊吹が息を呑む。

綾小路ですら、一瞬だけ龍園の意図を読む。

 

次の瞬間、宝泉の巨大な爪が龍園を捉えた。

 

しかし、その直前。

 

龍園の左手は、既に腰の手榴弾へ伸びていた。

 

ピンが抜かれる。

その動作に迷いはない。

龍園は宝泉の爪に身体を持っていかれながらも、最後まで笑っていた。

 

「地獄で待ってろ、とは言わねぇよ」

 

血に濡れた口元が、さらに歪む。

 

「俺が行くとは限らねぇからな」

 

そして、宝泉の胸元へ手榴弾を押し込むように叩きつけた。

 

「テメェだけで行け」

 

爆発。

 

至近距離で閃光が弾け、轟音が基地全体を揺らした。

 

爆風が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、黒煙と炎が一瞬で二体の影を飲み込む。

 

橋本の叫びも、伊吹の怒声も、銃声も、

その一瞬だけすべて爆音に掻き消された。

 

煙の中で、宝泉の巨体が大きくよろめく。

 

龍園の姿は、もう見えなかった。

 

だが、その直前まで浮かべていた獰猛な笑みだけが、

そこにいた全員の脳裏に焼きついて離れなかった。

だが綾小路は目を逸らさない。

 

今は撃つしかない。

 

龍園が作った一瞬を無駄にすれば、次に死ぬのは自分たちだ。

 

「撃て!」

 

再び一斉掃射。

アルベルトの機関銃が唸る。

 

堀北が撃つ。

学が撃つ。

高円寺が撃つ。

伊吹が撃つ。

橋本も涙と怒りを押し殺しながら撃つ。

 

宝泉の巨体が弾幕に押され、片膝をつくように揺らぐ。

 

だが、まだ倒れない。

 

今度は高円寺へ突っ込んだ。

 

高円寺は軽やかに身を翻し、マグナムを撃つ。

 

一発。

二発。

三発。

 

宝泉の顔面近くに命中し、巨体が揺れる。

 

だが、間合いが近すぎた。

宝泉の爪が高円寺の身体を捉える。

高円寺の表情が、一瞬だけ変わった。

 

それは痛みではない。

 

理解だった。

傷を受けた。

 

感染の可能性が高い。

 

そして、もうワクチンという逃げ道はない。

 

高円寺はゆっくりと立ち上がった。

血に濡れながらも、彼はいつものように背筋を伸ばしていた。

 

「諸君」

 

その声は、いつも通り芝居がかっていた。

だが、その奥には確かな覚悟があった。

 

「美しい私がここで舞台を降りるのは、惜しいと言えば惜しいがね」

 

彼はマグナムを構え直す。

 

「君たちは行きたまえ。観客がいなければ、主役も映えない」

「ふざけないで!」

 

伊吹が叫んだ。

 

「龍園の次は、あんたまで残るって言うの!?」

 

高円寺は笑った。

 

「ふざけてなどいないさ。私はいつでも本気で、私らしくあるだけだ」

 

全員が揺らいだ。

 

龍園に続き、高円寺まで失うのか。

 

もう何人失えば、この地獄は終わるのか。

 

だが、迷っている余裕はなかった。

 

ここで立ち止まるという選択は、ただの逡巡ではない。

それは、この場にいる全員の未来を切り捨てる決断と同義だった。

 

一つの判断の遅れが、取り返しのつかない連鎖を生む。

一人を救おうとした手が、別の誰かの命を引き剥がすこともある。

 

この場所では、優しさすら秤にかけられる。

誰を残し、誰を連れていくか。

その選択に、正解はない。

 

ただ一つ確かなのは、

すべてを救うことはできないという現実だけだった。

 

だから選ぶしかない。

 

感情ではなく、結果を。

願いではなく、生存を。

 

それがどれだけ残酷でも、

その決断から目を逸らすことだけは許されなかった。

 

生き残るということは、

何かを手に入れることではない。

 

何かを切り捨て続けることだった。

 

綾小路は低く言った。

 

「みんな乗れ」

 

それは命令だった。

 

誰かを慰めるための言葉ではない。

 

誰かの心を救うための言葉でもない。

 

ただ、生き残るための命令だった。

 

坂柳、一之瀬、伊吹、橋本、アルベルト、茶柱、鬼龍院、軽井沢、堀北、学、橘。

 

生き残った者たちが、次々とヘリへ乗り込む。

 

誰も納得などしていない。

 

誰も受け入れてなどいない。

 

それでも、足を動かす。

 

ヘリの内部は広いが、そこに満ちている空気は重かった。

 

座席に腰を下ろした一之瀬は、七瀬の最後の声を思い出して唇を噛む。

伊吹はショットガンを握ったまま、外へ飛び出したい衝動を必死に押し殺している。

橋本は龍園の消えた方角を見つめたまま動けず、

アルベルトは無言で彼の肩に手を置いた。

 

堀北は何も言わず、ただ前を見ていた。

 

壊れたように静かだった。

だが、その瞳の奥には、完全に消えたわけではない何かがまだ残っていた。

 

綾小路は操縦席へ座る。

計器を確認する。

 

燃料。

ローター。

高度制御。

武装システム。

 

過去に行ったシミュレーションの記憶が、必要な手順を冷たく並べていく。

 

恐怖はない。

迷いもない。

あるのは、手順と判断だけだ。

 

ローターが回り始める。

最初はゆっくり。

やがて、唸るように速度を増す。

 

格納庫の周囲に風が巻き起こり、砂埃と黒煙が渦を巻く。

機体が震える。

 

高円寺は、その間も宝泉の前に立っていた。

 

マグナムを撃つ。

一発。

また一発。

 

宝泉の動きを止めるには足りない。

 

それでも、彼は撃ち続けた。

 

そして、ついに弾が切れる。

 

高円寺はマグナムを軽く見つめ、どこか満足げに笑った。

 

「ふむ。ここまでのようだねぇ」

 

宝泉が迫る。

高円寺は最後まで退かなかった。

 

「来たまえ、醜い怪物」

 

彼は大きく腕を広げるように立った。

 

「せめて私の幕引きにふさわしく、派手に踊ってもらおう」

 

宝泉の爪が高円寺を捉える。

ヘリが浮き上がる。

 

その瞬間、高円寺は吐血しながら最後の力で顔を上げ、綾小路のいる操縦席を見た。

 

「やれ、綾小路ボーイ」

 

綾小路は無表情だった。

だが、迷いはなかった。

このヘリは軍用機。

搭載されていたミサイルシステムは、まだ完全に機能していた。

 

照準。

ロック。

 

電子音が短く鳴る。

 

だが、そのわずかな時間さえ、宝泉には十分すぎるほど長かった。

 

ハイパータイラントと化した宝泉は、

爆発に焼かれ、弾丸に穿たれ、肉を抉られてなお、止まらなかった。

 

その巨体は既に原形を保っていない。

片腕の筋肉は裂け、皮膚は焼け焦げ、骨格が露出しながらも、

それでもなお、獣じみた執念だけで動き続けている。

 

死という概念すら拒絶するかのように。

 

宝泉の咆哮が空気を震わせる。

 

そして跳んだ。

 

その質量、その重量、その破壊力。

すべてを無視したかのような跳躍。

 

地面が陥没するほどの踏み込みから放たれたその一歩は、

もはや人間の運動ではなく、災害そのものだった。

 

巨大な腕が伸びる。

肥大化した爪が、回転を始めたヘリの機体へと迫る。

 

あと一瞬。

 

その一瞬で、機体は引き裂かれる。

 

ヘリ内部で誰かが叫ぶ。

名前か、警告か、それともただの恐怖か。

 

だが、綾小路の指はすでに迷いなく発射ボタンにかかっていた。

 

感情はない。

躊躇もない。

 

ただ、最適解として押し込む。

 

発射。

 

機体の側面からミサイルが放たれる。

 

白煙を吐きながら、それは一直線に加速し、

空気を切り裂き、音すら追い越す速度で宝泉へ向かう。

 

だが、それでも。

 

宝泉は止まらない。

 

焼けただれた顔面の奥で、わずかに残った意志のようなものが、

ただ目の前の獲物――ヘリへと向けられている。

 

迫る。

 

ミサイルと宝泉。

 

二つの暴力が、空中で交差する。

 

そして。

 

命中。

 

直撃したのは頭部。

 

瞬間、閃光が視界を焼き潰す。

 

次の瞬間には、音が遅れて追いつく。

 

轟音。

爆炎。

衝撃波。

 

それは単なる爆発ではなかった。

 

ミサイルの炸裂は、ただの衝突や爆発という言葉では到底足りなかった。

それは一点に集約されたエネルギーが、臨界を越えて解き放たれる瞬間だった。

直撃した瞬間、宝泉の頭部を中心に、光が膨張する。

 

爆発というより、空間そのものが内側から押し広げられるように、

目に見えない圧力が一気に解放され、視界の中心が白に塗り潰される。

 

衝撃波が爆心から同心円状に走り、

空気を圧縮し、ねじ曲げ、引き裂きながら周囲へと叩きつけられる。

 

それは風ではない。

 

質量を持った波だった。

 

押し出される大気が悲鳴を上げ、

空気そのものが擦り切れるような異音を伴いながら、

周囲の瓦礫、車両の残骸、破片、粉塵のすべてを巻き込み、

一斉に外側へと叩き飛ばす。

 

同時に、炎が生まれる。

 

いや、発生ではない。

 

それは解き放たれたエネルギーが、

周囲のすべてを燃焼という形で支配し始めた結果だった。

 

宝泉の変異組織に含まれていた未知の物質、

飛散していた可燃性の体液、周囲に撒き散らされていた燃料、

さらにヘリの補助系統から漏れ出していた揮発性の液体――

 

それらすべてが、一瞬で引火する。

 

炎は広がるのではない。

 

それは爆ぜ、空間そのものを押し潰すようにして外へ外へと膨張し、

存在していたはずの距離や境界を一瞬で無意味なものへと変えていく。

 

爆発の中心から、巨大な炎の塊が一気に噴き上がり、

基地全体を丸ごと呑み込むようにして燃え広がった。

建物の屋根を突き破り、窓ガラスを吹き飛ばしながら、炎は外へ外へと押し出され、

まるで基地そのものが内側から爆ぜたかのように崩壊していく。

橙色の炎が何層にも重なり、内側では白く焼けた高温の光が

脈打つように瞬きながら、凄まじい勢いで膨張していく。

 

爆炎の表面は滑らかではなく、いくつもの巨大な火の塊が泡のように膨らみ、

次の瞬間には破裂し、さらに大きな炎へと変わっていく。

黒煙が混ざり込み、炎の隙間から噴き出すようにして立ち上り、

燃え盛る橙色とぶつかり合いながら渦を巻いている。

 

その瞬間、音が消えた。

 

炎は上へと伸びるだけではなく、横方向にも広がり、

建物の壁を舐めるように走り抜けながら、次々と燃え移っていく。

アスファルトの地面が熱でひび割れ、表面が溶けるようにして黒く歪み、

その上を炎が流れるように広がっていく。

照明が根元から吹き飛び、電線が引きちぎられ、

火花を散らしながら炎の中へと吸い込まれていく。

爆風に巻き上げられた瓦礫が空中を飛び交い、その一つ一つが炎をまとって、

燃える弾丸のように周囲へ叩きつけられていく。

 

建物の外壁が耐えきれずに崩れ落ち、内部からさらに激しい炎が噴き出し、

まるで巨大な炉の扉が開いたかのように熱が溢れ出す。

窓枠は溶け、ガラスは跡形もなく砕け、炎はそのまま内部へ侵入して、

基地という空間そのものを焼き尽くしていく。

爆炎の中心付近では、色が変わる。

赤でも橙でもない、ほとんど白に近い強烈な光が瞬き、

その周囲の炎すら飲み込むようにして燃え上がっている。

その白い炎の周囲で、橙の火の塊が次々と膨れ上がり、

破裂し、また新たな炎が生まれる。

まるで巨大な火の海が、絶えず波打っているかのようだった。

 

その爆炎は基地の広さを軽く越え、さらに上へと伸び続け、

空を覆い隠すほどの規模へと膨れ上がる。

炎の中で、何かが弾ける音が連続して響く。

内部にあったものが次々と爆発し、

そのたびに炎がさらに大きく膨らみ、爆炎の層が厚みを増していく。

燃え上がる火の塊が互いにぶつかり合い、押し合い、

潰し合いながら、また一つの巨大な爆炎へとまとまっていく。

 

周囲に残っていた構造物は次々と崩れ落ち、

そのたびに新たな炎が吹き上がり、爆炎の範囲はさらに広がっていく。

爆風は遅れて周囲を押し潰し、まだ崩れていなかったものすら強引に巻き込み、

炎の中へと引きずり込んでいく。

 

その結果、炎はさらに膨張する。

燃えるものが増えれば増えるほど、爆炎は勢いを増し、

より大きく、より激しく、より制御不能なものへと変わっていく。

基地全体は完全に炎に覆われ、

どこからどこまでが爆発なのかすら分からないほど、

一面が燃え盛る火の世界になっていた。

 

そしてその中心で、なおも炎は唸るように燃え続け、

すべてを焼き尽くすまで止まる気配を見せなかった。

風の流れも、温度の均衡も、

すべてがその爆炎によって塗り替えられ、

そこにはもはや自然という概念は存在しない。

 

あるのは、ただ圧倒的なエネルギーの解放だけだった。

 

それは破壊ではない。

 

存在の上書きだった。

 

そしてその中心で生まれたすべてを焼き尽くしながら、

炎はようやく、その膨張を終えようとしていた。

 

宝泉の腕が吹き飛ぶ。

脚が千切れる。

胴体が内部から破裂する。

 

だが、それでもなお。

 

一瞬だけ、その残骸は動いた。

 

完全に破壊されたはずの身体が、それでもなおヘリへ届こうとするかのように、

断末魔の動きを見せる。

 

執念。

 

それだけが残っていた。

 

だが、その執念すら。

 

次の巨大な爆炎に呑み込まれた。

 

火球がさらに膨張し、衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、

残された肉片すら燃え尽きる。

 

やがて。

 

爆発は収束する。

 

炎がしぼみ、煙が立ち上る。

 

そこに残っていたのは、

もはや個体としての形を保たない、焼け焦げた塊だけだった。

 

動かない。

 

蠢かない。

 

再生もしない。

 

完全なる沈黙。

 

完全なる停止。

 

完全なる死。

 

それは、鬼島が生み出した最強の暴力の終焉だった。

 

そして同時に。

 

この地獄の連鎖を断ち切る、最後の一撃だった。

 

ヘリは上昇する。

基地が遠ざかる。

黒煙が下へ流れていく。

 

七瀬も。

龍園も。

高円寺も。

宝泉も。

 

すべてが地上に残された。

 

ヘリはさらに高度を上げる。

死都と化した東京が眼下に広がる。

 

瓦礫。

炎。

 

崩壊した高層ビル。

ゾンビの群れ。

焼け落ちた道路。

そして、かつて高度育成高等学校があった方角から立ち昇る黒煙。

 

誰も歓声を上げなかった。

 

助かったという実感よりも、失ったものの重さが大きすぎた。

 

しかし、彼らは生きていた。

 

生きて、空へ出た。

 

それだけが、確かな勝利だった。

 

一之瀬は静かに泣いていた。

 

伊吹は顔を背けていた。

 

橋本は拳を握り締め、何も言わなかった。

 

軽井沢は震える手で座席を掴み、坂柳は目を伏せ、茶柱は長く息を吐いた。

 

堀北は窓の外を見ていた。

 

そこにあるのは、仲間を置いてきた地上だった。

 

彼女はもう泣かなかった。

 

悲しみを感じないわけではない。

 

ただ、それを涙に変える機能が、どこかで壊れてしまったようだった。

 

綾小路は操縦桿を握ったまま、前だけを見ていた。

 

ホワイトルームには帰らない。

 

鬼島の兵器にもならない。

 

学の管理下にも入らない。

 

そのための第一歩を、今ようやく踏み出した。

 

ヘリは死都を抜ける。

 

東京を越え、海を越え、夜を越え、

追跡と混乱を振り切りながら、遥か彼方へ飛び去っていった。

 

それは華やかな勝利ではなかった。

 

誰かを完全に救った勝利でもなかった。

 

それでも、彼らは生き残った。

 

そして、生き残った者には、次の人生を選ぶ権利がある。

 

 

それから、時間が流れた。

場所は、アフガニスタン。

乾いた風が吹く大地だった。

 

空は高く、砂塵が遠くの地平をぼかしている。

日本の湿った空気とは違う。

 

学校の廊下の匂いとも、死都の焦げた匂いとも違う。

そこにあるのは、乾いた土と、遠い山と、何も隠してくれないほど広い空だった。

 

綾小路たちは、そこにひっそりと暮らしていた。

 

綾小路。

坂柳。

一之瀬。

軽井沢。

伊吹。

橋本。

アルベルト。

鬼龍院。

茶柱。

 

名前も、戸籍も、かつての立場も、そのままではいられない。

彼らは死んだことになっているのかもしれない。

政府に追われているのかもしれない。

あるいは、篤臣も鬼島も、まだどこかで綾小路を探しているのかもしれない。

 

だが、ここにはホワイトルームはない。

 

高度育成高等学校もない。

 

鬼島の特別試験もない。

 

少なくとも、今この瞬間だけは。

 

綾小路は粗末な建物の外に立ち、遠くの山並みを見ていた。

 

風が吹く。

砂が舞う。

 

その景色は美しいというより、ただ広かった。

 

どこへでも行ける。

 

そう思わせるだけの広さがあった。

 

その時、一台の車が砂埃を上げながら近づいてきた。

車はゆっくりと停まり、扉が開く。

 

最初に降りてきたのは、堀北鈴音だった。

ショートヘアだった髪は、再びロングヘアに戻っていた。

 

風に揺れる黒髪が、かつての彼女を思わせる。

 

だが、その瞳は以前とは違っていた。

 

多くを失い、多くを見て、それでもここまで歩いてきた者の目だった。

 

その後ろから、堀北学と橘茜が降りてくる。

 

学はしばらく妹を見つめた。

そして静かに問う。

 

「覚悟は決まったのか」

 

堀北は頷いた。

 

「ええ」

 

その声は静かだった。

 

壊れた直後の空虚な声ではない。

 

かつての高慢さに満ちた声でもない。

 

多くを失い、それでも自分で選び直した者の声だった。

 

彼女は綾小路を見る。

 

「私は、綾小路くんたちと共に生きます」

 

それは依存ではなかった。

 

逃避でもなかった。

 

彼女自身が選んだ道だった。

 

学は少しだけ目を細める。

そして、妹の頭に手を置いた。

笑みを浮かべて、優しく撫でる。

 

「そうか」

 

短い一言。

 

だが、その中には兄としての別れと、認可が込められていた。

かつて、堀北鈴音は兄の背中を追っていた。

認められたくて、追いつきたくて、けれど届かなくて。

その彼女が今、自分の道を選んだ。

 

学はそれを止めなかった。

 

むしろ、静かに送り出した。

 

学は綾小路へ視線を向ける。

 

「お前なら、鈴音のことを安心して任せられる」

 

綾小路は淡々と返す。

 

「確か、そういうビジョンは見えないと言われたはずだけどな」

 

橘がくすりと笑った。

 

「ね?フラグになると言ったでしょう」

 

学はわずかに肩をすくめる。

 

「結果として、そうなっただけだ」

 

堀北は少しだけ呆れたように息を吐いた。

その仕草には、久しぶりに日常の匂いがあった。

 

綾小路は何も言わず、遠くを見る。

 

風が吹いた。

砂塵が舞う。

遠くに続く道がある。

 

綾小路清隆は、もうホワイトルームには帰らない。

 

鬼島の兵器にもならない。

 

学の管理下にも入らない。

 

どこにも属さず、自分で選んだ世界を歩く。

 

その隣には、堀北鈴音がいる。

 

そして彼らとは別の道を、堀北学は進んでいく。

 

日本政府の醜い裏側へ。

 

国家という怪物の内側へ。

 

それでも、自分のやり方で世界を見張るために。

 

それぞれの道は分かれた。

 

だが、終わりではない。

 

ここから、新しい人生が始まる。

 

砂塵の向こうに広がる見知らぬ地平を見つめながら、

綾小路清隆は何も語らなかった。

 

ただ一つだけ、確かなことがある。

 

ここには、もう檻はない。

 

命令もない。

 

決められた役割もない。

 

あるのは、自分たちで選び取る未来だけだった。

 

そしてその未来へ向かって、綾小路清隆は静かに歩き出した。

 

その隣を、堀北鈴音が歩く。

 

乾いた風が大地を撫で、山並みの上を、一羽の鷹がゆっくりと滑空していた。

 

羽ばたきすら最小限に、

ただ風に乗るようにして空を渡っていくその姿は、

どこにも縛られていない存在そのものだった。

 

綾小路はそれを見上げる。

 

鷹は旋回し、やがて視界の外へ消えていく。

 

その軌跡だけが、空に残った。

 

それはまるで、

ここから先の人生を示す一本の線のようだった。

 

遠くでは、まだ砂の風が吹いている。

 

だが、その風はもう、死の匂いを運んではいなかった。

 

それは、新しい人生の始まりを告げる風だった。

 

 

 




■あとがき

「カーストルーム・オブ・ザ・デッド2」これにて完結です。
1の完成当初は続編の予定はありませんでした。
しかしアイデアが浮かんだのと好評だったため、描いてみました。
1よりもキャラクターの心の葛藤を強く描写しました。
松下やひよりなど惜しい子が亡くなるところは僕も書くのが辛かったです。
森下たち3人組の話は構想を練るのに苦労しましたが、書いてよかったです。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!

次回作として「カーストリング・インフェルノ」を投稿していきます。
学校全体が爆発炎上し、綾小路たちの脱出劇が展開されるパニック作品です。

試し読みとして途中までですが、
「カーストリング・インフェルノ」の第一話「日常の終わり」をどうぞ。



昼休みの教室には、いつもと変わらない緩やかな喧騒が満ちていた。

午前の授業を終えた生徒たちは、それぞれが机を寄せ合い、
ある者は購買で買ってきたパンの袋を開け、ある者は弁当箱の蓋を外し、
ある者は携帯を片手に友人と他愛のない会話を交わしながら、
何の疑いもなく、今日という日が昨日と同じように過ぎていくものだと信じていた。

窓の外には、春とも夏ともつかない柔らかな陽光が降り注ぎ、
校舎の白い壁を穏やかに照らしており、
遠くには放課後に生徒たちで賑わうであろうケヤキモールの開店準備が進められ、
すべてがこの高度育成高等学校という閉ざされた楽園の中で、
整然と、平和に、そして退屈なほど安全に保たれているように見えた。

オレ――綾小路清隆もまた、そんな昼休みの一部として、
教室の片隅で長谷部波瑠加、佐倉愛里、
三宅明人、幸村輝彦たちと机を囲んでいた。

「ねえねえ、きよぽんってさ、また今日もその無難すぎる昼食なの?」

長谷部が俺の手元を覗き込みながら、からかうように笑った。

俺の昼食は、コンビニで買ったおにぎりと総菜パン、
それに紙パックの茶という、特に語るべき要素のないものだった。

「無難なのが一番だろ」
「いやー、きよぽんらしいけどさ。なんかもっとこう、男子高校生っぽく、
唐揚げ弁当大盛りとか、カツ丼とかないわけ?」
「それは須藤の領分だな」

オレがそう返すと、三宅が小さく笑い、幸村は呆れたように眼鏡の位置を直した。

「栄養バランスを考えるなら、揚げ物ばかりというのも感心しないがな。
もっとも、清隆の昼食も褒められたものではないが」
「ゆきむー、昼休みにまで健康指導するのはちょっと重いよ」

長谷部が肩をすくめると、佐倉が控えめに笑った。

「で、でも……みんなで食べると、何でも少し美味しく感じるよね」

佐倉の声は小さかったが、その言葉には嘘がなかった。
彼女は以前より、こうして誰かと同じ時間を過ごすことに少しずつ慣れてきていた。

それは劇的な変化ではない。

教室の真ん中で大声で笑うようになったわけでも、
誰にでも自然に話しかけられるようになったわけでもない。

それでも、こうして同じ机を囲み、食事の合間に言葉を挟み、
時折こちらを見ては少しだけ頬を緩める姿は、
彼女なりにこの場所へ馴染もうとしている証のように見えた。

少し離れた席では、堀北鈴音がいつものように一人で食事を取っていた。

周囲の騒がしさに流されることなく、背筋を伸ばし、
弁当箱の中身を淡々と口に運ぶその姿は、
教室というよりも図書館の閲覧席にいるような静けさをまとっていた。

だが、完全に孤立しているわけではない。

時折、須藤が何か話しかけようとして周囲に止められたり、
櫛田が笑顔で声をかけたりすることで、
彼女の周囲にもほんのわずかな人の流れが生まれていた。

軽井沢恵は佐藤麻耶や松下千秋たちと弁当を広げ、流行りの店の話や、
次の休日にケヤキモールで何を買うかという話題で盛り上がっていた。

「えー、じゃあ今度一緒に見に行こうよ。あそこの新作、絶対可愛いって」
「いいけど、また軽井沢さん、見るだけ見て結局買わないやつじゃない?」
「ちょっと、失礼なんだけど。今回は買うかもしれないでしょ」

軽井沢は不満そうに頬を膨らませていたが、
その声音には本気の怒りなどなく、佐藤も松下もそれを分かった上で笑っていた。

その近くでは、櫛田桔梗がみーちゃんたちと弁当を囲み、
誰に対しても等しく柔らかな笑顔を向けていた。

「この卵焼き、すごく美味しそうだね。自分で作ったの?」
「う、うん……でも、ちょっと形が崩れちゃって」
「そんなことないよ。すごく可愛いし、美味しそう」

櫛田の言葉に、みーちゃんが照れたように笑う。

その光景だけを切り取れば、どこにでもある高校の昼休みだった。

友人と机を寄せ合い、昨日見た動画の話をして、
購買の新商品に文句を言い、課題の提出期限を忘れて慌て、
誰かが誰かをからかい、誰かがそれに笑い、
誰かが少し離れた場所で静かに箸を進める。

高度育成高等学校。

外界から隔絶されたこの学校は、一般の高校とはあまりにも違う。

ポイントによる評価、クラス間競争、退学の危険、
そして生徒たちを選別するための冷酷な制度。

それでも、その昼休みだけは、確かに普通だった。

少なくとも、俺たちはそう錯覚していた。

その瞬間までは。

――轟ッ。

最初に届いたのは、音ではなく、空気の震えだった。

窓ガラスが低く唸り、教室の机がわずかに揺れ、
紙パックの茶の表面に細かな波紋が走った。

誰かが箸を止めた。

誰かが顔を上げた。

だが、その時点ではまだ、多くの生徒がそれを単なる大型車両の通過か、
校内設備の異常音程度にしか受け取っていなかった。

次の瞬間、世界が裂けた。

校舎の外側から、耳を塞ぎたくなるほどの爆発音が叩きつけられた。

それは一つではなかった。

一拍遅れて別の方角からも爆発音が響き、
さらに遠く、ケヤキモールの方角から巨大な衝撃音が重なり、
教室の窓ガラスが一斉に震え、天井の照明が激しく明滅した。

「きゃあああああっ!」

誰かの悲鳴が教室を切り裂いた。

机の上の弁当箱が跳ね、ペットボトルが倒れ、
床に転がった箸が乾いた音を立てる。

教室全体が一瞬で混乱に包まれた。

「な、何だ今の!」

三宅が椅子から立ち上がり、窓の方を見た。

幸村も眼鏡を押さえながら、普段の冷静さを失った表情で周囲を見回している。

長谷部は佐倉の肩を反射的に抱き寄せ、
佐倉は何が起こったのか理解できないまま、小さく震えていた。

オレは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。

そこにあったのは、昼休みの穏やかな風景ではなかった。
校舎の別棟、その中層階付近から黒煙が噴き上がっていた。

煙はただの煙ではない。

濃く、重く、油を含んだような黒さを持ち、
窓枠を突き破るように外へ溢れ出しながら、青空を汚していく。

その根元では、赤橙色の炎がちらちらと揺れていた。

最初は小さく見えたその炎は、次の瞬間には窓から廊下へ、
廊下から上階へと飲み込むように広がり、
建物そのものが内側から焼かれていることを示していた。

「火事……?」

誰かが呟いた。

だが、それはただの火事と呼ぶには大きすぎた。
遠く、学生寮の方角からも黒煙が上がっていた。
さらにその向こう、ケヤキモールの屋根付近からも、
巨大な煙の柱が立ち上っている。

三か所。

校舎、寮、ケヤキモール。

この学校の主要施設が、ほぼ同時に火の手を上げていた。

偶然ではない。

少なくとも、自然発生の事故ではあり得ない。

オレがそう判断したのとほぼ同時に、
校内放送のスピーカーが不快なノイズを吐き出した。

ザザッ、という耳障りな音。

続けて、火災報知器の甲高いベルが校舎全体に鳴り響いた。



この続きも書かれた完全版の第一話は本日5月8日午前0時に投稿してあります。
よろしくお願いします。
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