スターリンの娘に転生したけど、周りの男が消えていくのですが 作:rune
私は、しばらく大人しくしていた。
かなり大人しくしていた。
本当に。
外には出ない。
知らない男とは話さない。
護衛をまかない。
図書館でも、必要以上に誰かと目を合わせない。
前世の私が見たら、
「何その人生、刑務所?」
と言ったかもしれない。
でも、この家では、それが安全だった。
父は相変わらず私に甘い。
甘い、という言葉で合っているかは分からない。
普通の父親の甘さが砂糖なら、父の甘さは鋼鉄に蜂蜜を塗ったようなものだ。
表面は甘い。
でも、噛むと歯が折れる。
「スヴェータ」
夕食の席で、父が言った。
「はい」
「明日は大学に行く」
「大学?」
私は思わず顔を上げた。
「講演だ」
「あ、お父さんが?」
「そうだ」
父はいつものように淡々としていた。
「お前も来るか」
私は一瞬、固まった。
外。
大学。
学生。
人。
普通の空気。
普通かどうかは分からないけれど、少なくともこの家の廊下よりは普通に近いはずだった。
「行きます」
即答した。
父は少しだけ目を細めた。
「騒がないならな」
「騒ぎません」
「勝手に歩き回らないならな」
「歩き回りません」
「知らない男と話さないならな」
「……話しません」
最後だけ、少し間が空いた。
父はそれを聞き逃さなかった。
「スヴェータ」
「はい」
「返事が遅い」
「気のせいです」
父は何も言わなかった。
新聞を広げ直した。
私はスープを飲みながら、心の中で小さく拳を握った。
大学。
ソ連の大学。
しかも、父の講演。
これは、歴史の教科書の中に入り込むようなものではないか。
私はすっかり忘れていた。
自分がすでに、歴史の教科書の中に住んでいることを。
◇ ◇ ◇
翌日、大学の建物は雪の中に立っていた。
大きく、重く、灰色だった。
門の前には兵士がいる。
学生たちは厚いコートを着て、肩をすくめながら歩いている。
緊張している者もいれば、興奮している者もいる。
父が来るのだから当然だ。
この国では、父が一つの建物に入るだけで、空気の密度が変わる。
講堂には人がぎっしり詰まっていた。
教授。
党の関係者。
学生。
軍服の男。
よく分からない背広の男。
私は少し後ろの席に座らされた。
もちろん、護衛つきで。
自由とは何か。
たぶん、私の両隣にいるこの人たちが答えを握っている。
握っているというか、握りつぶしている。
父の講演は、正直に言うと、半分くらいしか分からなかった。
社会主義。
労働者。
祖国。
党。
科学。
平和。
重工業。
人民。
重要そうな単語が、重そうな順番で並んでいた。
学生たちは真剣に聞いている。
いや、真剣に聞いている顔をしている。
この国では、真剣な顔も技術の一つなのだと思う。
私は最初こそ背筋を伸ばしていたけれど、途中から少しだけ退屈してきた。
だって長い。
父の話は長い。
しかも誰も咳払いすらしない。
すごい。
前世の学校なら、後ろの席で誰かが絶対に寝ている。
いや、ここで寝たら本当に別の意味で眠らされるかもしれない。
私は慌てて姿勢を正した。
講演が終わると、会場に拍手が起きた。
拍手というより、音で忠誠心を証明する儀式に近かった。
父はゆっくり頷いた。
私はその様子を見ながら、少しだけ不思議な気分になった。
この人は私の父親だ。
食卓で新聞を読み、私の外出に口を出し、知らない男と話すなと言う父親。
でも同時に、この国の中心でもある。
学生たちは、父を見ている。
教授たちは、父を見ている。
軍人たちも、背広の男たちも、みんな父を見ている。
私は父を見ている彼らを見ていた。
そこで、ふと気づいた。
ひとりだけ、少し違う目をしている学生がいた。
若い男の子だった。
たぶん、私より少し年下か、同じくらい。
顔立ちは素朴で、地方から出てきた学生という感じがした。
派手ではない。
鋭すぎるわけでもない。
でも、目がよく動く。
父だけを見ていない。
父を見る。
周囲を見る。
教授を見る。
拍手する学生を見る。
軍服の男を見る。
そしてまた父を見る。
まるで、この場全体を記憶しようとしているみたいだった。
私は少し興味を持った。
何だろう。
あの子、観察している。
ただ感動しているだけではない。
怖がっているだけでもない。
場の構造を見ている。
などと、ちょっと偉そうに思った。
前世の私なら、こういう学生を見て、
「あ、この子、将来何かやりそう」
と言ったかもしれない。
もちろん、実際に何かやるかどうかは知らない。
この時代には、何かやりそうな人から順番に消えていく気もする。
縁起でもない。
◇ ◇ ◇
講演後、父は別室へ案内された。
教授たちがぞろぞろついていく。
護衛も動く。
私はその流れから少し外れたところにいた。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけだった。
でも、大学の廊下は広く、人の流れは複雑で、私の横にいた護衛が別の男に話しかけられた。
その隙に、私は一歩だけ横へずれた。
一歩。
二歩。
三歩。
自由。
いや、自由というほどではない。
廊下の角までの自由。
五メートルくらいの自由。
でも、私にとっては十分だった。
私は掲示板を見た。
講義予定。
学生団体の告知。
文学サークルらしき案内。
紙の隅に、小さな落書きの跡があった。
すぐに消されたのだろう。
黒く塗りつぶされていて、何が書いてあったのか分からない。
少し見ていると、横から声がした。
「それ、読めませんよ」
私は振り返った。
さっきの学生だった。
講堂で、周囲を観察していた若い男の子。
近くで見ると、思ったより背が高い。
でも、まだ少年っぽさが残っている。
髪はきちんと整えられていて、コートは少し古い。
彼は掲示板の黒塗りを見て、少し困ったように笑った。
「昨日のうちに消されました」
「何が書いてあったの?」
「さあ」
「知らないの?」
「知らないことになっています」
私は思わず笑ってしまった。
「うまい答え方」
彼は少し照れたように目を伏せた。
「ここでは、そういう答え方を覚えます」
「大学って、勉強になるね」
「はい。法律の授業より役に立つこともあります」
「法律を勉強してるの?」
「はい」
彼は頷いた。
「法学部です」
法学部。
私は少し感心した。
「すごい。難しそう」
「難しいです」
「でも、将来役に立ちそう」
「役に立てたいです」
その言い方が、少しだけ真面目すぎた。
私は彼を見た。
彼は私をまっすぐ見ていない。
少し横を見る癖がある。
相手だけでなく、周囲も一緒に確認している。
若いのに、妙に慎重だった。
「地方から来たの?」
「分かりますか」
「なんとなく」
「スタヴロポリです」
「スタヴロポリ」
聞き慣れない地名だった。
でも響きは覚えやすい。
「遠い?」
「遠いです」
「すごいね。そんな遠くからモスクワに」
「運がよかったんです」
「運だけじゃないでしょ」
彼は少しだけ笑った。
「少しは働きました」
「働いた?」
「畑で。収穫期に」
「学生なのに?」
「学生になる前です」
それから彼は、少し考えてから言った。
「父と一緒に、コンバインで働いていました」
「コンバイン」
私は目を丸くした。
急に農業機械が出てきた。
法学部。
モスクワ。
講堂。
父の演説。
その流れの中で、コンバイン。
なんだか面白い。
「すごい。農業もできて法律も勉強してるんだ」
「できるというほどでは」
「いや、十分すごいよ」
私が言うと、彼は少し困った顔をした。
褒められ慣れていないのかもしれない。
いや、この時代では、誰に褒められるかも重要なのだろう。
面倒くさい。
私はうっかり、いつもの調子で言った。
「あなた、将来偉くなりそう」
彼の表情が、ほんの少し止まった。
ほんの少しだった。
でも私は気づいた。
「あ、ごめん。変な意味じゃなくて」
「いえ」
彼はすぐに笑った。
「偉く、ですか」
「うん。なんか、ちゃんと見てる感じがする」
「見ている?」
「人とか、場所とか、空気とか」
彼は黙った。
少しだけ真剣な顔になった。
私は言ってから、また余計なことを言った気がした。
最近の私は、口を開くたびに誰かの人生の地雷を踏んでいる気がする。
気のせいであってほしい。
「ごめん。適当なこと言った」
「いいえ」
彼は首を振った。
「覚えておきます」
「覚えなくていいよ」
「いえ。そういう言葉は、覚えておいた方がいい」
その言い方が、少し不思議だった。
ただの雑談なのに。
学生同士の軽い会話なのに。
いや、私は学生ではないけれど。
でも彼は、私の言葉をただの冗談として流さなかった。
まるで、小さな紙片を拾って、丁寧に手帳に挟むような聞き方をした。
「あなた、真面目だね」
「よく言われます」
「モテなさそう」
言ってから、私は固まった。
しまった。
アレクセイにも似たようなことを言った気がする。
これはよくない。
非常によくない。
私の軽口は、なぜか男子学生に対して危険物になりがちである。
彼は少し目を丸くした後、笑った。
声を出さない、控えめな笑い方だった。
「それは困りました」
「困るんだ」
「少しは」
「正直でよろしい」
私は笑った。
その時、廊下の向こうから護衛の声がした。
「スヴェトラーナ様」
終わった。
自由時間、五分。
前より短い。
私は肩を落とした。
若い学生が、はっとした顔で私を見た。
その目に、理解が広がっていくのが分かった。
スヴェトラーナ。
様。
護衛。
つまり。
彼は姿勢を正した。
さっきまでの学生の顔が、急に別のものに変わった。
この時代の人たちは、相手の身分を知った瞬間、表情を変えるのが早すぎる。
私は少しだけ寂しくなった。
「そんな顔しなくていいよ」
彼は答えに迷ったようだった。
「失礼しました」
「何も失礼じゃない」
「いえ、私は……」
「いいから」
私は小さく笑った。
「さっきみたいに話して」
彼は困った顔をした。
無理だろうな、と思った。
一度分かってしまったものは、なかったことにできない。
私がただのラーナではなくなる瞬間。
それはいつも、こういうふうに来る。
誰かが名前を呼ぶ。
誰かが気づく。
誰かが黙る。
そして、その人は私の前から少しずつ遠ざかる。
場合によっては、完全にいなくなる。
私は慌てて、その考えを振り払った。
縁起でもない。
護衛が近づいてくる。
もう戻らないといけない。
その前に、私は彼に聞いた。
「そういえば、名前を聞いてなかった」
彼は一瞬ためらった。
それから、きちんと背筋を伸ばして答えた。
「ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフです」
完結です