視界の端で、また一つ青い火花が散った。
「マスター、下がってください! 敵の増援、さらに二……いえ、三波来ます!」
マシュの悲痛な叫びが、爆音にかき消される。
北米の荒野を埋め尽くすのは、数えるのも馬鹿らしいほどのケルト兵と魔獣の群れ。想定外の伏兵による包囲網は、すでにカルデア軍を完全に孤立させていた。
その中心で、彼は立っていた。
クー・フーリン・オルタ。
本来の彼であれば、この絶望的な数にさえ「面白くなってきやがった」と不敵に笑い、嵐のように駆け抜けたはずだった。だが、今の彼を支配しているのは、凍りついたような沈黙と、霊基を軋ませるほどの過負荷(ストレス)だ。
(……ああ、鬱陶しい)
思考が、重い泥の中に沈んでいくようだった。
かつて持っていたはずの、戦いそのものを楽しむ「陽」の熱量は、メイヴという女王が課した「冷酷な王であれ」という呪縛によって、出口を塞がれている。
外へと向かうべきエネルギーは内側へと逆流し、逃げ場を失った破壊衝動が、彼の精神を内側から焼き切ろうとしていた。
「ク、クー・フーリン……!」
背後でマスターが自分の名を呼ぶ。その声に含まれた震えと、自分を信じきっている無防備な視線。
それが、今の彼には何よりも「毒」だった。
「黙ってろ。……殺すぞ」
振り返りもせず、彼は低く、地這うような声で吐き捨てた。
向けられた信頼が、彼の内側に残った「まともな理性」を逆なでする。壊してしまいたい。この無防備な首を絞め、自分と同じ地獄に引きずり込んでしまいたい。そんな獣じみた衝動を抑えつけるために、さらなる負荷が精神にかかる。
その瞬間、均衡が崩れた。
「――アッ、ガァアあああああああああ!!」
咆哮。それは英雄の叫びではなく、檻に閉じ込められた怪物の悲鳴だった。
赤い魔力が、爆発的に膨れ上がる。
彼の漆黒の棘が、彼の苦痛を吸い上げて異常なまでの鋭利さで増殖し、周囲の空間ごと敵を、大地を、空を削り取り始めた。
「だめです、マスター! これ以上そばにいたら、私たちまで彼に――!」
マシュの盾が、暴走した魔力の余波に弾かれる。
光を失ったオルタの瞳に、もはやマスターの姿は映っていない。
彼はただ、自分を縛る世界のすべてを、そして自分自身をすり潰すためだけに、巨大な死の渦へと成り果てていた。
「マシュ、全出力を盾に回して! クー・フーリンの意識に潜り込む(シンクロする)!」
「……! 了解しました、マスター! ですが、今の彼は……深淵そのものです。道を作れるのは、ほんの一瞬だけです!」
マシュが叫び、白亜の盾を地面に突き立てる。
直後、オルタが放った漆黒の棘が、断続的な衝撃となって盾を打ち据えた。空気が震え、空間が歪むほどの圧力。暴走する魔力の奔流は、もはや「敵を倒す」という目的すら忘れ、ただ世界を拒絶し、すべてを更地にしようとしていた。
「――仮想宝具、展開! 道を開きます、マスター。私の手を、離さないで!」
盾から放たれた清浄な光が、オルタの放つ「赤黒い嵐」を真っ向から切り裂いた。
マスターはマシュの手にしがみつき、荒れ狂う魔力の中心へと視線を凝らす。
一歩、踏み出す。
全身の神経が、死の予感に逆立ち、悲鳴を上げる。
本来、戦士として前線に立つべきではないマスターにとって、その殺意の渦に触れることは、魂を直接、冷たい氷に投げ込まれるような苦痛だった。
(……待ってろ、クーフーリン。今、そこに行く!)
「……通信、途絶。これより……精神潜行、開始……!」
マシュの声が遠ざかる。
視界を埋め尽くしていた戦場の煙、耳を劈く咆哮、そして敵軍の喚声が、急激に遠のき、やがて完全な静寂へと吸い込まれていった。
「――っ」
強い浮遊感の後、マスターは硬い地面の感触を覚えた。
目を開ける。
そこにあったのは、先ほどまでの血生臭い荒野ではない。
どこまでも高く、澄み渡った青い空。
肌を撫でるのは、草の匂いを含んだ穏やかな風。
そして、視界の先には――どこか寂しげに広がる、アイルランドの緑の平原があった。
現実世界での凄まじい「暴走」とは裏腹に、彼の内側は、拍子抜けするほど静かで、止まっていた。
まるで、これ以上の変化も、これ以上の痛みも拒むために、時間が永遠に凍りついているかのような……そんな「死という名の安らぎ」が、そこには満ちていた。
「……あれは」
平原の中央。
ポツンと置かれた巨大な岩を背にして、一人の少年が座り込んでいた。
その背中は小さく、しかし酷く頑固に、外の世界(現実)を拒絶しているように見えた。