「……セタンタ? 一体、ここで何をしているんだ?」
マスターの困惑した声が、静かな平原に響く。
岩を背に座り込んでいた少年は、びくりと肩を揺らしたが、振り返ろうとはしなかった。ただ、膝を抱える腕に力を込め、拒絶の意思を露にする。
「……話しかけるな。あっちへ行けよ」
その声は、現実世界のオルタが持つ冷徹な響きとは異なり、今にも割れそうなほどに脆く、震えていた。
マスターがたじろぎながらも一歩近づくと、セタンタは弾かれたように顔を上げた。その瞳は、本来の彼が持つはずの快活な輝きを失い、どろりとした自己嫌悪と混乱に濁りきっている。
「負けたんだ。……追いかけっこで、あいつに」
ポツリと、彼は言った。子供の遊びのような言葉。だが、その一言に込められた絶望は、一人の英雄の霊基を内側から食い荒らすほどに重い。
「メイヴに捕まった。ケルトの戦士が女に……あんな女に、いいように捕まって、王様なんてガラじゃねえ檻に閉じ込められて! ……あはは、笑えるだろ? 俺はもう、クランの猛犬でもなんでもねえ。ただの、負け犬だ」
そこからは、堰を切ったような罵倒と自虐の嵐だった。
「あーもう!俺、騎士になるのやーめた!なんで俺はあんな奴に追いつかれたんだ! あの時、あっちに走ればよかったのか?それとも、最初からあいつに出会わなければ? ああクソ、考えれば考えるほど、自分がゴミみたいに思えてくる!」
本来、考えるより先に体が動くはずの彼が、終わった過去の「もしも」という歪んだ思考の迷宮に閉じ込められ、自分を攻撃し続けている。
彼は目の前の平原を見ているのではない。自分自身の内側で、無限に繰り返される「敗北の瞬間」だけを凝視していた。
「戦士として、恥だ……。こんな惨めな姿を晒すくらいなら、ここで死んでた方がマシだったんだ! 動きたくない……一歩も動きたくないんだ! 俺はここで、消える。だから放っておけよ、あんたもメイヴと同じだ、俺に『英雄』なんて呪いを押し付けるな!!」
セタンタが叫ぶたび、空に薄暗い亀裂が走り、穏やかだった平原に嫌な振動が伝わる。
少年の姿をした、むき出しの精神的過負荷。
マスターは、そのあまりに痛々しい「弱音」の奔流を前に、言葉を失い立ち尽くすしかなかった。
「あらあら……。せっかくいい子で寝かしつけてあげたのに、誰かしら、私のクーちゃんを起こそうとする不粋な子は?」
鈴を転がすような、あまりに場違いで愛らしい声。
セタンタとマスターの間に、ひらひらと一羽の白い蝶が舞い降りた。それを追うように、軽やかな足取りで現れたのは、純白のドレスを揺らす女王メイヴだった。
彼女はマスターに目もくれず、指先に止まった蝶をうっとりと見つめている。
「見て、綺麗でしょう? この子、クーちゃんが『英雄』だった頃に持っていた、とっても可愛いお喋りの欠片なの。こうして捕まえておかないと、すぐにどこかへ飛んでいっちゃうんだから」
そう言うと、彼女はふっと微笑み、指を窄めた。
パキッ、と小さな音がして、蝶は粉々に砕け、光の粒となって消える。
「メイヴ……!」
「しっ。静かにして。この子は今、とっても大事な『反省中』なんだから」
メイヴは、岩を背に震えるセタンタの元へ歩み寄ると、その幼い頭をやさしく、しかし逃がさないように強く抱き寄せた。彼女の瞳は愛に満ちているようでいて、その実、捕らえた獲物を観察する捕食者のそれだ。
「追いかけっこ、楽しかったわね。貴方が私の腕の中に飛び込んできた時、私、本当に幸せだった。そうよ、戦士なんて疲れるだけ。誇りなんて、お腹が膨れるわけじゃない。私の作った『理想の王様』になって、ここでずっと、私の所有物として壊れていけばいいの」
彼女はセタンタの耳元で甘く囁き、同時にマスターを氷のような視線で射抜いた。
「クーちゃんに話しかけないで、泥棒さん。この子はもう、戦うことにも、生きることにも飽き飽きしているの。貴方が求めているのは『戦う道具』でしょう? そんな酷いことを言う口は、私が塞いであげましょうか?」
メイヴが微笑むたび、平原の空気がねっとりと重く、息苦しく変質していく。
彼女にとって、セタンタの絶望は自分への忠誠であり、彼が「動かない岩」になることこそが、永遠の愛の完成だった。
「けど……ずっとここにいたら、二人とも消えちゃうんだよ? 現実のクーフーリンは、もう限界なんだ!」
藤丸の切実な訴えに、メイヴの肩がピクリと跳ねた。
彼女はセタンタの頭を撫でる手を止め、ゆっくりと振り返る。その顔には、先ほどまでの余裕のある笑みは消えていた。
「消える? ええ、そうね。それがどうしたのよ」
メイヴの声が、低く、湿り気を帯びて響く。
彼女の視線は藤丸を通り越し、自分の腕の中で石のように固まったまま、一度も自分と目を合わせようとしないセタンタ……その心の深淵に向けられていた。
「この子はね、私がどれだけ愛を注いでも、どれだけ理想の姿に着せ替えてあげても、一度だって私を見てくれなかった。……ねえ、これ以上の敗北があると思う? 私の負けよ。永遠に、この子の心は私の手に入らない」
自嘲気味に呟く彼女の瞳に、一瞬だけ、女王ではない「拒絶された女」としての深い孤独が過った。
だが、彼女はすぐにそれを激しい怒りという仮面で塗りつぶす。
「だったら、もういいわ! 誰の手にも渡さない。このまま二人で、誰にも邪魔されない無の底へ落ちていくだけ。……あんた、早く出て行きなさいよ!」
メイヴは藤丸を突き放すように叫んだ。
「あんたみたいな『真っ直ぐな善意』が、一番この子を追い詰めるの! これ以上、私のクーちゃんを、その正しい言葉で傷つけないで! ……それに、あんたまで巻き込まれて消えるなんて、寝覚めが悪いじゃない。そんなの、可愛くないわ」
最後の一言は、彼女なりの、歪で不器用な「警告」だった。
彼女は、藤丸が放つ「生」の眩しさが、死を待つ自分たちには毒であることを知っている。そして、どこかで見込み、愛した「マスター」という存在が、ここで共に消えることを良しとしない、彼女なりの矜持。
「行きなさい! ここは私の庭、私の死に場所よ。……さよなら、藤丸。もう、二度と会いに来ないで」
メイヴが腕を振るうと、平原の端から黒い泥のような闇が、津波となって押し寄せ始めた。
セタンタと二人きり、心中という名の安らぎに逃げ込もうとする彼女の背中が、ひどく小さく、痛ましく見えた。