「マスター、限界です! 心象風景の崩壊が始まりました。これ以上ここに留まれば、私たちの意識まで泥に飲み込まれます!」
マシュの声が、大地震のような轟音にかき消される。
メイヴの叫びに呼応するように、穏やかだった平原はみるみると色を失い、大地にはどろりとした闇の亀裂が走った。空はひび割れ、そこから「地獄」の赤い光が漏れ出している。
「待って、まだ……セタンタに、何も……!」
「強制帰還します! 掴まってください!」
マシュは藤丸の腰を抱き寄せ、白亜の盾を高く掲げた。
脱出の光が二人を包み込み、体が重力から解き放たれていく。視界が白く染まり、崖の上に残されたセタンタの小さな姿が、急速に遠ざかっていく。
セタンタは、一度もこちらを見なかった。
ただ、メイヴの呪縛を一身に受け、崩れゆく世界の中で「岩」の一部になろうとしている。その姿は、かつて西の端で海を背にして死んだ、孤独な英雄そのものだった。
(このままじゃ、本当に消えてしまう。
「クー・フーリン」じゃない……完璧な英雄じゃない今の彼を、誰も、彼自身ですら肯定していない!)
意識が現実へと引き戻される寸前、藤丸は喉が裂けんばかりの力で叫んだ。
「――俺には、クー・フーリン・オルタが必要なんだ!!」
その叫びは、英雄としての彼への期待ではない。
「なりたくない王」になり、メイヴの愛に蝕まれ、追いかけっこに負けて座り込んでいる……そんな、今の、歪で、ボロボロな彼(オルタ)であってほしいという、傲慢で誠実な願いだった。
「クー・フーリン! 英雄としての君じゃなくて、今、そこで苦しんでる君が必要なんだ! だから……っ、勝手に一人で終わるな!」
光が爆発し、藤丸の意識は真っ白な空白へと放り出された。
最後に見たのは、叫びを聞いて、初めて目を見開いた少年の横顔。
そして、その背中に吸い込まれるように消えていった、メイヴの寂しげな微笑みだった。
足場が崩れ、強制帰還の光にマスターが消えた直後。
静まり返った精神世界の中心で、座り込んでいたセタンタが、低く笑った。
「……はは、あいつめ。地獄の王が必要だってさ。正気じゃねえな」
その声に、幼さはもうない。
駆け寄ろうとしたメイヴの手を、立ち上がった影が冷たく払いのけた。
「……ッ、クーちゃん?」
メイヴが息を呑む。そこに立っていたのは、少年ではなく、歴戦の重圧をその身に宿した戦士、クーフーリンだった。彼は鋭い眼光で女王を射抜き、氷のような声で告げる。
「気安く触るな。……お前の望んだ『王』は、もうどこにもいねえよ」
メイヴの顔が絶望に歪み、その瞳から涙がこぼれ落ちそうになる。だが、彼は言葉を続けた。
「……だが。あの馬鹿なマスターは言ったんだ。俺だけじゃなく、お前という呪いを背負った『クー・フーリン・オルタ』が必要なんだとよ」
彼は溜め息をつくと、メイヴに背を向け、無造作に膝を曲げた。
「乗れよ。……地獄を駆け抜けるんだろ? 一人じゃ退屈で死んじまう。お前を背負って、あいつの望む怪物になってやるよ」
メイヴは呆然と立ち尽くした後、弾かれたようにその背中へしがみついた。かつて自分の計略で彼を殺し、勝利を手にしたはずの彼女。だが、その後の世界は、驚くほど色が無く、静かで、寂しかった。
「……クーちゃんがいなくなった後、すごくつまらなかった。」
「おう。」
「すごく、寂しかった......。」
「おう。」
メイヴは彼の首筋に顔を埋め、震える声で囁く。
「ねえ、約束して。今回は……今回だけは、最後まで私と一緒にいて。私の目の届くところで、私と一緒に壊れて」
クーフーリンは、背中に伝わるかつての強欲な女王の、あまりに弱々しい体温を感じ、ふっと口角を上げた。
「……たく。重たい呪いだ。一生かかっても払い切れそうにねえな」
彼が立ち上がった瞬間、精神世界は完全に崩壊した。
アイルランドの平原は消え、無数の化け物が蠢く荒野が露わになる。だが、今の彼には恐れも迷いもなかった。
彼はメイヴという名の重荷を背負い、再び「地獄の王」としての咆哮を上げた。