足場だった穏やかな平原は、もはや影も形もない。
そこに広がっているのは、空が黒く濁り、大地から赤黒い棘が突き出した、終わりのない断崖の荒野――彼にとっての真実の精神風景。
「アッ、ハ……ッ、アハハハハハハハ!!」
地響きのような笑い声が、ひび割れた空を揺らした。
中心に立つのは、セタンタの幼さを脱ぎ捨て、メイヴという名の重い呪いをその背に負った、地獄の王。
「なんだ、その面は。俺が『王様ごっこ』に飽きたのが、そんなに怖いか?」
クー・フーリン・オルタは、狂気に満ちた笑みを口元に刻み、迫りくる異形の群れを見据えた。
かつて彼を「心中」という名の停滞へ誘おうとした精神の泥、メイヴが作り出した偽りの安らぎの残滓……それらが今は、主を失った醜悪な化け物となって、彼を飲み込もうと牙を剥く。
だが、今の彼に迷いはない。
「――まとめて、すり潰してやるよ」
一歩、踏み出す。
その瞬間、彼の背後でメイヴの幻影が、愛おしそうに彼の首を抱きしめた。
同時に、霊基を軋ませるほどの膨大なストレスが、漆黒の魔力へと変換される。
彼の、石のように強張った頬に、鮮やかな赤が走る。
それは涙を流すことすら忘れた英雄が、自らの魂を削って流した、乾くことのない血の跡だった。
「絶望に挑むがいい!!」
猛犬が跳ねた。
速すぎる。重すぎる。
一突きで空間そのものを穿ち、異形の怪物の胴体を、塵も残さず爆散させる。
敵の返り血を浴びるたび、彼の瞳に宿る狂気の光は増し、笑みはさらに深く、残酷に歪んでいく。
「今この瞬間を駆け抜ける快感」が、バーサーカーの「破壊衝動」と混ざり合い、最悪の純度で昇華されていた。
メイヴという呪いを背負ったまま、彼はその重みを加速に変える。
一振りで百を屠り、一足で千を抜く。
「どうした、来いよ! 俺を殺して終わらせるんじゃなかったのか!? この俺は、マスターに『必要だ』と言われちまったんだ! 退屈な死(やすらぎ)に戻る暇なんて、これっぽっちもねえんだよ!!」
飛び散る肉片、砕ける骨の音。
地獄のような光景の中で、彼は踊るように、歌うように、凄まじい暴力の嵐を巻き起こす。
それは、彼が自らの「歪み」をすべて肯定し、マスターのために怪物として再誕したことを告げる、最も残酷で美しい戦いの儀式だった。
「――っ、はあ!」
肺に冷たい空気が流れ込み、藤丸は弾かれたように目を開けた。
視界を埋め尽くしていた精神世界の濁流は消え、代わりに目に飛び込んできたのは、燃えるような茜色の空だった。
「マスター! 無事ですか!?」
隣で自分を支えるマシュの声。藤丸は激しい眩暈に耐えながら、ゆっくりと顔を上げた。
戦場は、静まり返っていた。
先ほどまでカルデア軍を包囲していた無数の魔獣もケルト兵も、今はただの物言わぬ肉塊となり、荒野を埋め尽くしている。その凄惨な残骸の山の上に、一人の男が立っていた。
クー・フーリン・オルタ。
黒い骨殻はひび割れ、全身から立ち昇る魔力の残滓が陽炎のように揺れている。
暴走は、止まっていた。
彼は、手にした血塗れの槍を杖代わりに、沈みゆく夕日をただ黙って見つめている。
「……クー・フーリン」
藤丸が震える声でその名を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。
普段の、何もかもをすり潰すような虚無的な瞳。光を反射しない黒いガラスのようなその瞳に、一瞬だけ、真正面から夕日の残光が差し込んだ。
その瞬間、彼の瞳の奥に、言葉では言い表せないほどの強烈な「生」の輝きが宿るのを、藤丸は確かに見た。
それは、自分を地獄へ引き戻したマスターへの、不機嫌で、けれど確かな信頼の証。
「……遅かったな、マスター。もう終わったぞ、全部」
その声に、先ほどまでの怪物じみた咆哮の面影はない。
彼はふん、と鼻で笑うと、いつもの傲岸不遜な態度で槍を肩に担ぎ直した。その背中には、もう誰の目にも見えないはずの「女王の重み」が、呪いとして、あるいは守るべきものとして、しっかりと刻まれているようだった。
彼は一度だけ空を仰ぎ、沈みゆく太陽に背を向けた。
「腹が減った。……」
歩き出す彼の足取りは、どこまでも重く、そして力強い。
地獄を背負い、海を背にし、それでもなお、この残酷で愛おしい世界を駆け抜けようとする戦士の背中だった。
藤丸は、滲む視界を拭うことも忘れ、その背中を追って一歩を踏み出した。
「あとがき」
敵国に西の端、アイルランドに追いやられたケルト人の背後には生と死のメタファーである海と、自由のメタファーである空が広がっていた。
クー・フーリンの青は、アイルランドの崖から見える海と、空の色なのではないかと考察した。
負けたけれども、自分たちの国を守護する為に戦った戦士達を詩人達が美しく勇ましい姿で言い伝えるために創造した英雄がクー・フーリンであると考えた。
死は終わりじゃない。一つの救済の形。愛する者と再び会う手段。そういった哲学を持っていても、マスターと生きる日常に帰ると決めた、ストイックなクー・フーリンの話。
クー・フーリンの青が彼の生まれたアイルランドの空と海、すなわち誕生のルーツを表しているのならば、クー・フーリンと対極の存在として描かれるエミヤの赤は、彼の記憶を焼き去った、空っぽの彼を生み出した、炎と血の赤なのではないかという考察もした。
だとすれば、キャスタークー・フーリンが使う炎、その赤の意味とは.....