偽典サクラ大戦 ~我は花咲く木とならむ~ 改訂版   作:出口豊志朗

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第六章 決戦の鶴雲館

    一

 

 歴史に残されることのないWLOF残党壊滅の幕は、丑三つ時に始まった。

 かえでと加山たち戦闘要員は、鶴雲館を取り囲むように、中一キロ先の円状に散らばっていた。その手には、ラチェットが収集したという聖法具の羯磨を手にしている。上空ではドロドローンが全域をモニターしていた。作戦通りであれば北東を頭にしたロレーヌ十字が描ける位置で息をひそめているはずだ。ロレーヌ十字……黒之巣会との戦いを覚えているものならば、馴染みがあるだろう。首魁である天海が南西を頭にしてこの形状に楔を配置し、六破星降魔陣を起動。帝都の封印を弱体化すると同時に魔の力を増大させたのは二十年近く前のことだ。その逆位置、というよりもそもそも六破星降魔陣が逆位置であったため、本来のロレーヌ十字を描いていることになる。その陣は、発動すれば聖法具の力により範囲内の魔の力を弱体化させ、さらには魔を捕らえる檻となる。

『加山君、準備はいいかしら』

「ええ、合図があればいつでも」

 かえでの通信に、即座に加山は返す。しかし合図はない。加山たちの役割は、鶴雲館からターゲットが逃げ出すのを足止めすることだった。手にした聖法具から伝わる強大な力は、わずかな霊力しかない加山でも感じとれる。それですら足止め効果しか期待されていないほどの強敵、上級降魔崎姫を相手にしようとしている。

「かえでさん、本当に突入するメンバーはあれだけでいいんですか? 充分検討された内容とはわかっていますが」

 しばらく出番がない気安さから、加山はかえでに尋ねる。

『その辺りは現場判断に委ねたわ。相変わらずの秘密主義で困ったことね。ああ、本当に現れた。搬入口にふたりが入ってきたわよ』

「すみれさんと村雨白秋ですか? 何がどうやったらこういうことになるんだ?」

 加山は不安を払いのけるように呟いた。

 

 決戦のときだ、と白秋が連絡を寄こしてきた。

 すみれは十年ぶりに帝国華撃団初代花組の戦闘服を身にまとい、愛用の薙刀を手にしていた。鉱業会社フレール日本支部の資材搬入口で、白秋の到着を待つ。フレールはWLOFとの関わりから周辺住民の苦情が相次ぐなかで営業ができず、しばらく前から拠点を東北にある第二工場に移しており、明かりも人影もない。従業員の大半がWLOFとは関係ないなかで不幸なことだと、長年の経営者としての感傷が一瞬すみれの頭をよぎった。しかし、これからの闘いに向けてすぐに思考から消えていく。

 足音が近づいてきた。闇から現れたのは、陣羽織姿の村雨白秋だった。

「勇ましい姿だね」

 白秋の軽口には取り合わず、すみれは尋ねる。

「詳しく状況を教えてちょうだい」

「道々話そう。待ち人もいるのでね」

 白秋はすみれを一瞥し、搬入口の塀を軽々と飛び越えた。すみれも数歩の助走から薙刀の石突を地に突いて、棒高跳びの要領で白秋に続く。塀の先には幅広く舗装された道が続いている。往時は多くの蒸気トラックが行き交っていたことだろう。

「この先、途中の森を分け入ったところに鶴雲館という上級層向けの西洋館がある」

「知っていますわ。何度か招かれたことがありますもの」

「その地下に、WLOFの秘密基地がある。そこに上級降魔の崎姫とホルスがいる」

「崎姫ですって!」

 あの日の屈辱を思い出し、すみれの身体から怒気が沸き上がった。が、これからの闘いには不要な感情、と自身を諫める。

「あと、そこに夜叉のような写し身――世界華撃団大会の主要なメンバーが勢ぞろいだ」

「では写し身を造ったのは、崎姫の仕業だったというわけね。それにしても、どうやってその情報を?」

「オヤジ会の帰り道に会った、とある人物から聞いた。近日中に乗り込むから、力を貸してくれと頼まれたんだ」

「また肝心なところを伏せる。もちろん信用できる人なのでしょうね?」

「私は誰も信じていない。いや、君も含めた今の花組には、少し信を置いているが」

 意外な白秋の言葉にすみれは皮肉気に笑う。

「持ち上げなくても結構ですわ。それより崎姫とホルス、そして写し身達を、私たち二人で相手するの?」

「写し身の数は十一体。うち五体については別の者たちに任せているから気にしなくていい。あと情報元の一人とその協力者、そして私たちの四人で戦う」

「倍以上じゃないの! 上級降魔の崎姫とホルスだけでも手に余ります。見込みが甘すぎやしませんこと?」

 すみれは十年前に手も足も出なかった崎姫との闘い、先日のホルスに負わされた傷のことを思い返す。白秋はホルスと渡り合えていたが、それに加えて華撃団の写し身もいる。

「そこは奥の手……互角に戦う準備はできているようだ」

「誰も信じていないなんて言いながら、人任せじゃない」

 圧倒的に不利な状況へ飛び込もうとしている。しかも白秋は楽しむかのように手札を隠して。だが負け戦を仕掛けるはずがない。ここは流れに身を任せよう、とすみれは腹を括った。

「細かいことを話す気はないのでしょう? なら早く向かいましょう」

 すみれはかつての晩餐会の記憶を引っ張り出し、鶴雲館に向かって駆け出した。

 

 鶴雲館地下二階には、司令席に崎姫が、巨大な作戦卓を挟んだはす向かいにホルスが座っている。上海、倫敦、伯林華撃団の写し身たちは、相変わらず不動に無表情の状態でマネキンのように部屋の隅に並んでいる。

「さて、これからの段取りじゃが」

 崎姫がおもむろに口を開き、写し身たちに目を向ける。

「まあ準備はこやつらを造ったことで、ほぼ仕舞じゃったな。あとは帝劇に侵入し、帝剣をもらい受けるだけ」

 自分の言葉に笑い声を上げる崎姫。それに抗議するように、ホルスが話し出す。

「その準備がどれだけ大変だったか。帝劇に執着のある人間から『霊力の芽』を奪い集めろと簡単に言うけど、それだけ帝劇に思い入れのある人物の絞り込みも最初は戸惑ったし、つまみ取るのにも手間がかかるの。あなたも見たでしょう? 感情を昂らせて必要な精神力まで高めるのも、毎回出たとこ勝負だったのよ」

「だが、お前の集めた精神力を疑似霊力に高める術式をつくったのも、こうして襲撃に必要な写し身を用意したのもわらわじゃ。お前だけが働いていたような顔をするな」

 妙なところで稚気じみた対抗心をあらわにする崎姫に、ホルスは珍しく苦笑した。

「それで、襲撃はこれからでいいのかしら。別に明日にしてもよいと思うけど」

 そのホルスの提案に、崎姫はゆっくりと首を横に振った。

「嫌な予感がする。やり残したこともないなら、さっさと始めようぞ」

 その言葉を合図にふたりが立ち上がった瞬間、司令部の扉が勢いよく開いた。

「話は聞かせてもらったわ! って、いちど言ってみたかったの」

 その声は、そして顔かたちはホルスそっくり、すなわちラチェット・アルタイルそのものだった。彼女は紐育華撃団星組の戦闘服をまとい、勇ましく指令室に踏み入った。

「貴様は……」

 崎姫の表情が怒りに歪む。

「貴様のせいで幻庵様に合流できず、降魔皇様をお助けできなかったこと、忘れてはおらん。徹底的に痛めつけてやろうぞ」

 言葉と同調して炎のような妖力が崎姫の身体からあふれ出した。ホルスが苦労してまとわせた偽装用の霊力が、瞬時に霧散してしまう。

「また会うことになるとはね、崎姫。まさか十年に及ぶ腐れ縁になるなんて、あの頃は思いもしなかったわ」

 対するラチェットは、挑発するかのように笑みを浮かべている。崎姫がとびかかろうとした瞬間、ふたりの視線に割り込むようにホルスは作戦卓上に飛び上がり、ラチェットを見下ろした。

「はじめまして……まあ、顔はお互い見飽きているでしょうけど。私はホルス、あなたの髪から生まれた存在よ」

「ああ、私の劣化版、というところかしら」

「侮らないほうがいいわ。私にはあなたにない妖力という武器があるの」

 ホルス、ラチェット双方が短剣を取り出し構える。興を削がれたのか、崎姫はひと呼吸して再び司令席に腰を下ろした。

「まずは余興だ。自分自身に食い破られる様をみてやろう」

 崎姫の言葉を合図に、ホルスはラチェットにとびかかった。

 

 その指令室の前、開け放たれた扉の脇で、すみれと白秋が身を潜めて様子を伺っていた。

(ちょっと、もう始まってるじゃないの。しかも協力者って、ラチェットじゃない!)

 今にも戦いに加わろうとするすみれを、あわてて白秋が押しとどめる。

(少しだけ待ってくれ、中の状況を正確に把握したいんだ)

 白秋は手鏡を使って指令室の様子を伺う。

(敵は崎姫とホルス、そして……今を時めく華撃団の面々が勢ぞろいだ)

 白秋が手渡す鏡で、すみれもその様子を確認する。

 ラチェットとホルスとの激しい斬撃の応酬をよそに、六体の写し身は微動だにしない。

(シャオロン、ユイ、アーサー、ランスロット、エリス、マルガレーテ……本物には及ばないかもしれないけど、正面から戦うのは無謀よ。ラチェットがホルスを引き付けている間に、写し身だけでも……)

 白秋はそれを聞き流しながら、懐をさぐり何かをしている。

(待ってくれ、もう少しだけ様子を見る。崎姫は、まだこちらを侮っている。私たちが割り込むと、あの六体がすぐに応戦するだろう? まずはラチェットがホルスを削るのを待つんだ)

(昔のわたくしならいざ知らず、霊力の枯れたこの身でも戦えるなんて自惚れてはいませんわ。もう一人の助っ人と奥の手はどうなっているの?)

(助っ人の登場に合わせて私たちも出る。写し身を狙うぞ)

(わかりました。もう少しだけ我慢しましょう。でもラチェットが危なくなったら、迷わず出ますからね)

(まだ、どっちが本物のラチェットかわからないぞ)

(蒸し返しますわね! たとえ偽装でも、彼女は外道に手を染めません!)

 白秋の苦笑に冗談だと気づいたすみれは、お返しに白秋の頭を軽くはたいた。

 

 

――――二

 

 雑音交じりに、かえでから新しい連絡がはいった。

『みんな、援軍も敷地内に侵入を始めたわ。建物内の様子はわからないけれど、ちゃんと作戦は進行しているようね。引き続き、少しの変化も見逃さないようにしてちょうだい』

 全員の応答ののち、加山はかえでに声をかける。

「かえでさん、その援軍については詳細不明なんですよね」

『ええ、ラチェットから白秋さんの指金とは聞いてるけど』

「それはまあ、どんな兵器か鬼か蛇か」

『加山君の位置からじゃ、完全に死角で見えないのね』

「どのみちこの暗闇じゃあ、わかりませんよ。かえでさんは見えたんですか」

『影だけどね。察しはついたけど、言わぬが花、でしょ?』

「そんな~。せめて、作戦が終わったら教えてくださいよ?」

 加山の情けない語調にかえで、そして通信を共有していている一同はくすりと笑う。

『さあ、ここからは作戦終了までは鶴雲館の動き以外の情報源はないわ。みんな、気を引き締めて。もし出てくるものがいたら、結界を迷わず発動するのよ』

『応!』

 鶴雲館を取り囲む森に、再び静寂が訪れた。

 

 大きいとはいえ十畳ほどしかない作戦卓の上で、ラチェットとホルスは舞うように攻撃を繰り広げ、受け、交わし続ける。お互い短剣の間合い、超接近戦である。紙一重の攻防はすでに十分にもおよび、ラチェットの額には薄っすら汗が浮かんでいる。対するホルスはまだまだ余裕があるようで、まったく変化を見せない。ラチェットは小手先の攻防では埒があかないと考えたのか、短剣を握る両手に力を込めた。すると、短剣自体が金色に輝き始める。

「ほう、霊力は枯れ果てているようだが……呪具か?」

「カルンウェナンとタミングサリ、と聞いて理解できるかしら」

 崎姫の言葉に、ラチェットが挑発気味に答える。

「伝説のアーサー王が手にした魔法の短剣と、使い手を不老不死にすると伝わるマレーシアの短剣ね」

 崎姫の怒気を削ぐように、間髪入れずホルスが答える。

「勉強熱心ね」

「そんなものに頼らないといけないなんて、もう引退したほうがいいんじゃない?」

「もうわたしは引退した身よ。この闘いなんて、カーテンコールの余興みたいなもの」

 そんな軽口の合間にも、ラチェットが手にする短剣の輝きは増していく。対するホルスも自身の妖力を一気に刃に乗せていった。そうしてお互いの高まりが頂点に達した瞬間、ホルスとラチェットは同時にバックステップした後、互いに向けて突進した。力を込めた一合。そこから再び剣撃が続くと思われた直後、ラチェットは自身の左へ、ホルスは自身の右へ跳ねた。その先にいるのは、司令席に深々と腰かけた崎姫だ。

ラチェットとホルスは同時に向きを崎姫に変え、左と右から四閃、短剣を閃かせた。突然自分に向けられた刃に、崎姫は妖力を爆発させて対抗する。が、すべてを防ぐことはできず。右肩と左わき腹に深い傷を負った。ラチェットとホルスは踊るように体を回転させ、さらなる斬撃をお見舞いする。それは続く崎姫の妖力に跳ね返され、ふたりは両壁にたたきつけられた。

「おのれ、写し身風情が!」

 ホルスの突然の裏切りに激した崎姫は、傷ついた体を気にする風もなくホルスにとびかかった。手には妖力で具現化した剣が現れ、倒れたホルスに突き立てる。それをかわし切れず、ホルスの左腕から血しぶきがあがる。顔をしかめながらも続く刃かわしたホルスは、そのままの勢いで作戦卓を挟んだ司令室の入り口まで跳ぶ。そうして、血が滴る左手をだらりと下げたまま、右手を頭上に掲げて光球を生み出した。それはこれまでに何度か見せた『霊力の芽』の青とは違い、桃色に輝いている。

桃色の光球は瞬時に膨らみ爆ぜ〝何か〟を周囲に巻き散らした。咄嗟に身構え妖力の防壁を展開する崎姫。しかしそよ風ほどの威力すら感じず、拍子抜けして笑う。

「何のつもりだ、この写し身め! 貴様など、このまま消し去って……」

 瞬間、崎姫の足元から異様な気配がした。それは妖力で反対の壁に叩きつけたはずのラチェットだった。

彼女は瞬間移動したかのような速度で崎姫の元へと駆けると深くかがみ、崎姫に向けて短剣を矢継ぎ早に突き出した。両の短剣は桃色の輝きをまとい、人間なら急所となる部位を数か所抉った。続くは首を狙った斬撃。

「――っ!」

 本能が身をよじらせ、崎姫はそれをかろうじてかわす。しかしラチェットの攻撃はそれでは止まらず、まるで手が四本あるかのような連撃をお見舞いする。その幾つかは崎姫の手足を傷つけた。大降りの崎姫の斬撃。そこからの妖力弾がラチェットを襲うが、かすりもしない。しかしそれはただ時間稼ぎで、その隙に崎姫は写し身に向かって叫んだ。

「お前ら! こいつらを殺せ!」

 その声に、これまで微動だにしなかった写し身六体は瞬時に戦闘態勢にはいった。それを見たホルスが扉に向かって叫ぶ。

「神崎すみれ! あなたの出番よ!」

 その言葉が終わるのを待たず、紫と、続いて銀の閃光が写し身たちに襲い掛かった。

 

 ホルスが桃色の光球を爆発させた瞬間にすみれが感じたのは、かつて舞台で感じた拍手と喝采の雨あられ、そしてそれを受けて身内から沸き起こる歓喜だった。同時に、以前ホルスとの立ち合いの時に受けた傷を回復させたのも、同じ力であると思い至った。ホルスはあの時すみれを傷つけつつ、この桃色の力で彼女を癒やしてもいたのだ。助っ人はホルス、そして奥の手はこの謎の力、というわけた。

 桃色の光を受けた後のラチェットは全盛期を思わせる――いやそれ以上の動きを見せた。そしてすみれも彼女と同じような力を与えられているのだと直感した。そこに自分を呼ぶホルスの声。反射的にすみれは指令室に飛び込み、各国華撃団の写し身に向かって薙刀を横なぎした。遅れて飛び込んだ白秋も、逆手持ちした刀を下から振り上げる。ホルスも右手一本で加わり、室内は混戦状態となった。

 ラチェットは崎姫を相手したまま、室内の状況をうかがった。写し身たちは最初こそ防戦一方だったが、パートナーと連携することで態勢を整えていった。自然と混戦は一対二の構図へ姿を変える。ホルスが上海華撃団・五神龍のシャオロンとユイの写し身と、白秋が倫敦華撃団・円卓の騎士のアーサーとランスロットの写し身と、すみれが伯林華撃団・鉄の星のエリスとマルガレーテの写し身と対峙する格好だ。桃色の輝きはすみれ達の能力を大きく引き上げたが、写し身とは言え戦闘能力の再現を優先しただけあって隙がない。

白秋は二剣の偽ランスロットを捌きつつ、こちらの隙をうかがう偽アーサーからの要所要所での一撃をかわす。手数の不足を不可思議な術で補い、ふたりを攻撃だけに集中させないよう巧みに立ち回る。まだ余裕を残している彼女は、指令室前を通り過ぎる人の気配を察知していた。

すみれの相手はふたりとも銃を主体としているため、とにかく偽マルガレーテに張り付いて彼女の攻め手を封じた。距離をとってこちらを狙う偽エリスの銃撃は、薄く展開した桃色の輝きで防ぐ。薄い膜は撃ち込まれた弾丸に接すると、渦巻くように膜をまとわりつかせて威力を減ずる。狭い室内の不利もあり、鉄の星たちは精彩を欠いている。

 問題はホルスだった。偽シャオロンと偽ユイは共に拳と脚での攻撃だ。短剣使いのホルスと間合いは同じ。時折挟まれる気功術も予兆を見逃さなければかわすのは容易い。しかし、崎姫に深手を負わされた左手が動かせないホルスは、桃色の輝きを盾にしつつもふたりの圧をかわし防ぐのが精いっぱいだった。

(わたしが受け取った力は、こんなものじゃないのに!)

 ホルスは、ラチェットとすみれ、白秋の気配を感じながら、忸怩たる思いで右手を振るっている。偽シャオロンの拳が脇腹をかすめ、偽ユイの蹴りが動かない左腕を捕らえる。このままでは幻都の華撃団を救うどころではない。この戦いに敗れるようなことがあっては、希望の芽を摘んでしまうことになる。

初めて自分に生きる意味と目的を与えてくれた存在を想い、ホルスは焦燥にかられる。自分があの力を、愛を伝えなければ、何のために非道な行いに手を染めてきたというのか。

 

    *

 

 ラチェットの写し身に意識が生まれたとき、初めに訪れたのは混乱だった。自分は幻都へ向かおうとする崎姫と戦っていたはずだ。そこからの記憶がない。しかも、薬物でも投与されたかのように体が動かない。肌を撫でる空気の感覚から自分が裸でいること、同時に五感は正常に機能していることがわかった。まぶたと眼球だけは自由に動かせることに気づき、四方八方に視線を巡らす。しかし天井しか見ることが出来ない。彼女の反応に気づいたのか、人の気配が近寄ってきてこちらの顔を覗き込んだ。その顔を見て、写し身は声を上げそうになった。いや、体が動かないから声にならなかっただけかもしれない。

「ほう、ようやく目覚めおったか」

 それは金髪に一本角の上級降魔、崎姫だった。目の動きで動揺を悟ったのか、崎姫は楽しそうに嗤う。

「わらわを見て、動揺したな? どうやら記憶までもってこれておるようじゃのう。夜叉の記憶の再現は中途半端じゃったからな。どこまで記憶をもってこれたか楽しみじゃ」

 崎姫は体が動かない彼女に向かって、ラチェットの髪から生み出された写し身であること、どれほど自分を呪おうとその身を害することはできないことを説明した。それからは、せっかく生まれたからには自分に従いその意に応えよという要求、それを吞めなければ怒りのはけ口として肉体的にも精神的にも想像を絶する苦痛を与えてやるという強迫、そして自らの悲願である降魔皇復活が成し遂げられればその身を自由にしてやろうという懐柔が繰り返し語られた。合間に、実際に肉体的・精神的な苦痛を戯れに差し込みながら。

 永遠にも思われる崎姫とのふたりきりの世界。

 ラチェット・アルタイルとして築き上げてきた意思・誇りも摩耗し、そもそも自分はラチェットではないという投げやりな気分が生まれ、いよいよ崎姫の語る『自由』に憧れを抱き始めた頃に、その〝夢〟が彼女を救ったのだった。

 

 彼女を包む夢は、帝国歌劇団の舞台、巴里歌劇団のレビュウ、紐育歌劇団のショウと多岐に渡った。同じような公演でも、細部は異なり、趣向が凝らされていた。演じられる物語は喜怒哀楽を刺激しつつも、観るものの気持ちを温かく包んでくれた。そしてそのショウにかける歌劇団とスタッフたちの情熱、観客を楽しませたいという想いが彼女の心を熱くした。

 一方で観客たちひとりひとりの感情、感動も同時に流れ込んだ。観客たちは物語を愛し、役者とそれを支える人たちを想い、この時が一秒でも長く続いてほしいと願っていた。それが彼女の心を温めた。

その両者の思いが作り出した神の如き愛が、どういうわけか彼女に注ぎ込まれ、この八方塞がりの状況を打開するだけの力を与えてくれたのだった。

同時にその根源である観客たちの『歌劇団に関わる人々に幸せになってほしい』という願いが、彼女自身の願いとなった。彼女はラチェット・アルタイルではなく、彼女をはじめとする華撃団を救う者として自己を定義した。

さて、どう名乗ろうかと思案したところ、ちょうどいい名前を思い出した。それはラチェットが去った後に紐育を襲った事件にまつわる存在。紐育星組が迎え撃った敵が召喚した神。鷲ではない鳥の名を冠する神。

そう、私はホルスと名乗ろう。

 

 夢から目覚めてしばらくは、ホルスは元のままの自分を演じた。そしてその間に、協力後に求められるであろうことのシミュレーションを入念に行った。そうして準備が整った時点で、崎姫に協力する意思を眼に込めた。するとそれまで指一つ動かなかった身体が、自由に動いた。ホルスとして生まれて初めて声を出した時も、何の違和感もなかった。

その状態になって崎姫がまず行ったのは、ホルスがもっているはずの、ラチェットの記憶にある華撃団の情報を引き出すことだった。ホルスは直前の記憶しか持っていないように振る舞った。自分が引き継いだのは、本能的な感情、体に叩き込まれた戦闘能力、経験から体得した判断能力などに限られている、そう演じた。もちろん崎姫がそんな言葉を信用するはずもなく、様々な形でホルスを苦しめて吐かせようとした。しかしホルスはそれに耐え、記憶がない様を演じきった。崎姫自身もホルスほど再現度の高い写し身をつくるのは初めてだったことから、最終的にはホルスの言葉を信じるほかなかった。

ホルスとして初代花組ファンを襲い精神力を奪う役目は、身を切るような思いだった。自分を助けてくれた力とルーツを同じくする存在を汚す行為に、忸怩たる思いだった。それでも、ファンを一時的に衰弱させるに留まること、そしてなによりファンたちが望む歌劇団の真の復活に寄与するものと自分を言い聞かせながら、悪事に手を染めた。

 しばらくしてから、村雨白秋がちょっかいを出してきた。ようやく次の一歩を踏み出すきっかけとは思ったが、ラチェット自身が白秋とは中国での一度きりで、彼女をどこまで信じてよいかを判じかねた。そんななか、意外な人物が現れた。

 それはラチェット・アルタイル本人だった。

 

 彼女は開口一番、

「あなたが私の写し身だとして、記憶も持ち合わせているのかしら」

 と核心を突いてきた。ここが正念場だとホルスは思った。ラチェットの信頼を得なければ、本心を伝える前に戦いとなり、取り返しのつかない決別を生むかもしれない。

ホルスが迷い答えに窮していると、何を思ったのかラチェットは突然歌いだした。それはかつて、彼女が客演として参加した帝国歌劇団花組の『海神別荘』クライマックスで真宮寺さくらと歌い上げた『すべては海へ』だった。ラチェットは自身のパートを堂々と歌いきり、こちらに視線を向けた。もはや何が正解かわからぬまま、反射的にホルスは、続く真宮寺さくらのパートを歌った。

『すべては海へ』は、ラチェット演じる海の王が自らに課せられた責務を果たすために力を示そうとする想いと、さくら演じる陸の美女が力に対する恐怖と優しさを求める想い、両者の価値観の違いと、それぞれが大切に考えているものへの理解を通じて想いが重なり合う様を表現した歌だ。ホルスは自身の記憶でも担当していない陸の美女を歌うことになったのだが、不思議とその気持ちに寄り添うことができた。

 それはラチェットとさくらの演技に魅了された幾千の観客の気持ちを肌で感じていたからかもしれない。そんなことを思いながら歌い終えたとき、ホルスは生まれて初めての高揚に身を震わせていた。しばらく茫然としていたホルスは、手を差し出すラチェットに気づいた。

「あなたから、何かを守ろうという強い意志を感じたわ。話してちょうだい、あなたの願いを」

 思わずホルスはその手を取り、うなずいた。

 ラチェットとホルスの目的は、幻都に封じられた華撃団を助け出す点について一致していた。その先、ふたりは何のわだかまりもなく言葉を交わすことができた。それぞれが持つ情報をすり合わせ、崎姫が持つ妖力を霊力化する術の奪取と、その先の華撃団救出に向けての作戦を練り上げていったのである。

 

    *

 

 この闘いなど、幻都解放への準備段階でしかない。なのにラチェット、すみれを失うわけにはいかない。そう自らを奮い立たせるホルスの眼に、嬉々として嗤う崎姫が体勢を崩したラチェットに切りかかる姿が写った。考えるよりも先に体が動くと、肩から胸にかけて焼けつくような痛みが走った。そのまま体の自由が利かなくなり、頭から床に倒れこむ。誰かの叫ぶ声が聞こえる。誰かに抱きかかえられているような気もする。しかし、すべてが遠い出来事のようだった。ただ、自分がやるべきことだけはわかっていた。ホルスは動かない左の掌に右手を添えた。そして両の掌を、球を抱えるような形に動かす。

「さあ、あなたたちの想いで、その愛で、みんなを救ってあげてちょうだい……」

 突如として太陽の如き輝きがホルスから放たれた。それは先ほどとは違って、崎姫や写し身には物理的な衝撃となって襲い掛かった。そしてラチェットとすみれ、そして白秋にとっては心身を満たす歓喜の奔流となった。

崎姫は写し身たちと一緒になって壁に叩きつけられ、動けずにいる。その隙にラチェットとすみれ、白秋はホルスを取り囲んだ。ホルスの視界にうっすらと三人の顔が見える。なにかを叫んでいるが、聞こえない。まぶたが落ちた。なにもみえない。頬に雫が落ちてきた。あたたかい。身体中の痛みが遠ざかり、頬が緩む。そうして、胸の内の暖かさに微睡むようにホルスの意識はとけていった。

 

    三

 

 太陽の如き輝きが収まったあとには、何も……依り代であったはずの毛髪さえ残っていなかった。それは彼女が写し身ではない存在として、命を燃やし尽くしたからに他ならない。すみれが両目から溢れる涙をぬぐい、崎姫の姿を探す。しかし壁際に伏していたはずの崎姫の姿が見えない。振り返ると、崎姫が精彩を欠いた動きで部屋を出ていくのが見えた。追いかけるすみれに六体の写し身が襲い掛かるが、ラチェット、白秋が放った網のような輝きに捕えられ、床に転がされた。

「すみれ、崎姫を殺しちゃだめよ!」

 崎姫を追うすみれの背中に、ラチェットの声が届いた。意図はわからないが、すみれは振り向かずにうなずいた。

白秋の話では、残る写し身は五体。おそらく花組だろう。ただ五体については別の者たちに任せている、とも言っていた。すでにその手は及んでいるのだろうか。

崎姫は地下へ向かっていた。五体の写し身をあてにしているのか。昂る心と体とは裏腹に、すみれは慎重に階段を下り、明かりがもれる部屋へ崎姫がふらつきながら入るのが見えた。様子をうかがいながら部屋に足を踏み入れると、殺風景な部屋の隅に崎姫が腰を落としつつも、こちらを見て薄ら笑いを浮かべていた。部屋の中央には、放射線状に並んだ作業台があり、その上には横たわる人影が見える。

「遅れはとったが、まだまだ妾の妖力は尽きてはおらん。少し休んで仕切り直しじゃ。それまでの間、貴様の相手を用意しておる。自分の部下だ。やりにくかろう」

相変わらず底意地が悪いと、すみれは冷めた心で崎姫の言葉を受け流した。と、作業台に寝ころんでいた人影が動き出し、崎姫とすみれの視線をさえぎるように並んだ。仮面をつけた写し身、五体。

袴姿の剣士の少女、大木槌を抱える巫女姿の少女、長い袖先からわずかに短刀をのぞかせた黄色い洋装の幼女、小麦色の肌を肩から覗かせた銃を持つ女性、そして本を手にした薄緑の洋装の少女。仮面を外す必要もない。天宮さくら、東雲初穂、望月あざみ、アナスタシア・パルマ、クラリッサ・スノーフレイク、そのままの姿だった。その身からは、一切の妖力を感じることができない。

「妖力は隠しているが、その力までは消えていない。しばらくそいつらと遊んでおれ」

 崎姫の言葉には取り合わず、すみれは静かに話し出した。

「この十年、あなたが仕掛けた悪夢に苦しみ続けました。嬉しいことがあっても、楽しいことがあっても。そうして時折あなたを八つ裂きにしてのたうち回らせる姿を想像して悦ぶ自分を恥じ、また苦しんでいました」

「そうだった、お前はそれに弱いんだったなぁ。後で、もっと楽しい幻想をみせてやろう」

 すみれはその言葉に答えもせず、歩き出した。それを合図に仮面の初穂が素早くすみれの背後に回り、大木槌を振り上げた。そこからゆっくりと弧を描いて振り上げられた木塊が、すみれの背中をとらえる。木槌はまるで彼女を押し上げるように宙へと浮かせた。

そこに先回りして跳躍した仮面のアナスタシアが銃弾を撃ち込み、すみれの身体から赤い液体が飛び散った。

その真下に駆け込んだ仮面のクラリスが何事か呟くと地面から風の渦が生じ、再びすみれを自由がきかない空中に押し返す。

 仮面のあざみが飛び上がりすみれを両足で蹴り落す。

 その先の仮面の天宮さくらは下段に構えていた刀を振り上げた。

 お手玉の様に飛んでくるすみれをみて、崎姫は笑い声を上げた。さくらの一閃ですみれが真っ二つになるのを想像していた崎姫。しかし偶然か、すみれの両足が刃に乗り、彼女の身体は剣閃に打ち上げられたような軌道をとって崎姫にむかって落ちてきた。

あっけにとられる崎姫の眼と、吹き飛ばされたすみれの視線が交錯する。すみれが薙刀を構え落ちてくる姿が、崎姫にはやけに遅く感じた。しかし意表を突かれたせいか、足がうごかない。次の瞬間、崎姫は右肩に強い衝撃と痛みを感じた。叫び声をあげてもがくが、薙刀に縫い留められ、動くことが出来ない。

「なんだ、お前ら! もっと上手くやれよ!」

 しかし写し身は特に反応せず、それぞれの武器を収めると、崎姫に見向きもせず壁際に並び控えた。続いて足音が響き、ラチェットと白秋が部屋に飛び込んでくる。ラチェットが崎姫に向かってなにかを差し出しながら叫ぶ。

「崎姫っ!」

 その言葉に反射的に崎姫が

「なんじゃ! 気安く呼ぶな!」

 と答えた瞬間、彼女の身体から何かが抜け出し、ラチェットが手にした赤い物体に吸い込まれていった。それと同時に、崎姫の全身にこれまでの数倍の痛みが走る。すみれは薙刀を崎姫と壁から抜きとると、壁際に並んだ花組の写し身の方へ歩いて行った。入れ替わりでラチェットが崎姫のもとに駆け寄り、手早く拘束した。

 すみれは整列して微動だにしない写し身たちに向かって微笑みながら、そのひとりひとりに視線を向けた。

「皆さん、素晴らしい演技でしたわ。本当に、ありがとう」

 そうして、深々と、優雅に頭を垂れた。写し身は思い思いの表情を浮かべた後、自らも一礼した。写し身を演じたアナスタシアはハンカチを取り出し、血を模した赤い塗料を軽く拭きあげる。天宮さくらは、手にした剣をその場に置く。そうしてそれぞれ顔を見合わせると、うなずいて静かに部屋を去っていった。すみれが手に取ったそれは、帝剣そっくりではあったが、刃はなく霊力の欠片も感じない模造品だった。部屋の外でガチャガチャと何かが転がる音が響いた。

もう、あの一本角の仮面はいらなくなったのだろう。

 

 すみれが部屋に視線を戻すと、白秋が作業台の目隠しから、拘束された写し身を引きずり出していた。

「言いつけ通りに殺さず、しかも離れた位置に置かないようやってくれたようだな」

「花組を巻き込まないでといったでしょう」

「お小言ならラチェットに言ってくれ。彼女の発案だ」

 白秋が笑う。

「二階の六人は?」

「斬るのも忍びなく、拘束して私の異界結界に投げ込んである」

 そういうと白秋は左手から一メートルほどの虚空を生み出した。なかには果ての見えない空間が広がり、拘束された六体の写し身が宙に浮いていた。

「本当にあなたは謎が多いわね」

 そこに再び足音が近づいてきた。部屋に飛び込んできたのは、かえでと加山だった。

ふたりは部屋のなかの状況が把握できずに混乱しているようだったので、すみれは安心させるよう笑顔で手を振った。そうしてゆっくりと部屋の奥に目をやる。自然、かえでと加山の視線もそちらへ誘導された。そこには、もはや痛みすら感じられぬほど憔悴した崎姫を、ラチェットが見下ろしている姿が見えた。ラチェット手にした物体は、赤い瓢箪だった。白秋が補足する。

「あれは、紫金紅葫蘆という」

西遊記で金角・銀角が持つ、呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう瓢箪だ。しかし実在するこの宝具は、返事をした相手の妖力やら霊力やらの特殊技能を吸い取る力を宿していた。そのうえ吸われた側は力を失ってしまう。能力を盗みつつ相手の力も削ぐという、強力なものだ。白秋の説明に、かえでが得心したようにうなずく。

「五年前にラチェットに譲ったのが、あれなのね」

 そこで、ようやくラチェットが口を開いた。

「崎姫、あなたの妖術――妖力や霊力を吸い込み、相手に与える力はこの程度の力なの?」

 ラチェットの声はわずかに震えている。何かを押し殺したような質問に、崎姫は朦朧として答える。

「妾には……精神に触れ操る力と写し身を造る力、そして妖力や霊力そのものを操る力がある……。じゃが、最後のはおまけ程度にしか使えぬ……」

 それが意味することは、崎姫の妖術奪取が幻都での霊力不足を補う光明と考えていたこと自体が誤りであり、振出しに戻ったということだ。

「なあ……千夜は、妾の妹はどこじゃ。どこを探してもみつからん……お主らが捕らえているのじゃろう?」

 かえでは身勝手な崎姫の質問に、しかし律儀に答えた。

「知らないわ。千夜というのはオフィサーAよね? 私たちが捕らえたオフィサーのなかにはいなかった」

「千夜は双子の片割れじゃ……そのせいか、妾と同じ妖術を使える。妖力と霊力の扱いなら、千夜が長けておる……お主らの狙いがそれなら、千夜を探すといい」

 喘ぎながら崎姫が言う。

「どうせ千夜ひとりでは、もはや大望は成せまい。だから……捕らえて力を奪ったら、妾と一緒に殺すがいい。あやつは寂しがりだからな。せめて黄泉路は共にしたいのじゃ。千夜の妖術を話したのは、その対価……」

 ラチェットは崎姫の身勝手な願いに憤りを覚えつつ、それでも希望が残っていることに安堵した。

「千夜はいつから姿を消したの? 最後に会ったのは?」

「千夜はあのとき……お前と闘ったあの日から行方知れずだ。妾と二手に分かれて幻庵様を邪魔するものを排除するために……」

 崎姫の言葉にラチェットと、かえでが肩を落とした。それだけでは、情報があまりにも少なすぎる。

「千夜の居場所の手がかりはまったくない。作戦としてはふりだしに戻ったようなものね」

 かえでが顔を伏せて呟く。その言葉の意味がわからないものは、この場にはいない。それぞれに悔しさをにじませる。と、それまで閉じていた崎姫の双眸が見開かれた。視線の先には白秋の顔があった。

「ああ、千夜ではないか……千夜、そこにいるのじゃな?」

 反射的にかえでと加山は飛びずさり、白秋と距離をとった。

「よく気づいたな――そのとおりだ」

 哀し気に目を伏せながら答える白秋に、かえでは銃を、加山は忍刀を無言で取り出して構える。緊張するふたりをよそに、すみれはツカツカと白秋に歩み寄ってその銀髪頭をはたいた。

「まぎらわしい言い方はおやめなさい。何を隠してるの?」

 白秋は頭をさすりながらため息をつくと、開けたままの異界結界を見た。すると、呪文が書き連ねられた包帯に身をくるまれた人のようなものが、ゆっくりと結界から漂ってきた。それは先だって天宮さくらたちが戦った銀蛾から変じた少女だった。

白秋はその身を抱えると、崎姫の眼前に横たえる。銀色の髪を左右に結わえ、崎姫同様、陶器のように白い肌をしている。その肌に透けているのは、毛細血管の網。しかしその色は黒く染まっており、まるで肌一面にひびが入っているようにも見えた。白秋は崎姫に千夜の姿が見えるようにと、身体を起こしてやった。

「幻庵葬徹が幻都を召喚したあの日、崎姫とラチェットが戦っていた同刻のことだ。私はある上級降魔と決着をつけて幻都に向かっていたのだが、そこで偶然、千夜と遭遇したんだ。

 なんとか千夜を無力化することはできたが、戦いの最中に見せた仲間への執着が不憫でとどめを刺すのがためらわれた。とはいえ暴れられても困るから、力を封じてこの結界に閉じ込めていたんだ」

白秋の説明を聞いているのか聞いていないのか、崎姫は譫言のように千夜の名前を呼び続ける。白秋は千夜の左手の袖をまくり上げた。そうして露になった左腕に嵌められた金色の腕輪を外す。「これで千夜の妖術は元通りだ」と補足し、白秋はラチェットを見る。

ラチェットは紫金紅葫蘆を手にし、千夜の耳元に口を寄せ、彼女の名を呼んだ。何度も辛抱強く呼んだ。しかし、返事はおろか、わずかな反応も見せない。白秋は崎姫の身体をすみれに預けると、千夜の身をくるんだ包帯をゆっくりと外していく。少しでも千夜の力を取り戻そうとしているのだろう。その様子を見ていた崎姫は、震える声で提案をした。

「……その瓢箪を貸してくれ。妾の呼びかけなら応えるかもしれない……おまえたち、幻都に向かうのだろう? なら、そこまで妾たちを連れて行ってはくれまいか。

もはや滅びる身なれば、せめて彼の地の仲間たちを感じながら果てたいのじゃ。四百年を共にした家族じゃからな。千夜もそう思うじゃろう?」

 ラチェットはなにも言わず、紫金紅葫蘆を崎姫の手に包み込ませた。

「ふたりで戻ろう。父様や氏時叔父、芳春様に浄心も待っていよう……千夜、聞こえるか? 千夜?」

 するとそれまで何の反応も示さなかった千夜がわずかに身じろぎ、か細げな声で「はい」と答えた。それを合図に、千夜の身体からわずかばかりの妖力の塊が浮かび上がり、紫金紅葫蘆の中に消えていった。再び動かなくなった千夜に、崎姫は呼びかける。千夜……ああ千夜……。

 すみれは無言で崎姫の手から紫金紅葫蘆を抜き取ると、わずかに残る自身の霊力を込め始めた。千夜の妖術をもちいて霊力を妖力に変質させ、千夜と崎姫に注ぎ込んでいく。すると徐々に崎姫の表情が和らぎ、千夜も呼吸音がわずかに大きくなった。

「君たちはひとまず異界結界に留まってもらうよ。なに、ときどきこうやって妖力を流し込むから、少しは楽になるはずだ」

 そういうと、白秋は千夜と崎姫を異界結界に収め、虚空を閉じた。

「これで、この作戦は一件落着でよいかしら?」

 すみれは、かえで、加山、白秋、そしてラチェットを順に見ていく。力強くかえでがうなずく。

「ええ、WLOF残党はこれで全員拘束。そして二都作戦終結に必要な妖力霊力の変換と授受をあやつる能力も手に入った。あとは幻都の封印を……」

 そこでかえでは言葉を切った。加山とラチェットも口をつぐむ。幻都に行くならば、まだ必要なものがあった。すみれは何かを悟ったように、ため息のような笑いをこぼした。そして、加山の背中を思い切り叩く。

「さあ、加山さん。作戦が終了したんだったら、恒例のアレ、仕切ってくださらない?」

 その場の空気を一変させるように、明るく振る舞うすみれ。

「僕でいいんですか? 隊長でもないし、今回はほんとに役に立ってないんですよ」

「いいからいいから、こっちはもう、疲れ果てて早く眠りたいんですから」

 しばらく悩んでいた加山だが、気持ちを切り替えたのか、明るい表情で声をあげた。

「それでは行きますよ! 勝利のポ~ズ!」

『決めっ!』

 すみれ、ラチェット、かえで、加山、そして戸惑いを隠せない白秋までをも巻き込み、十年ぶりの決め台詞が響き渡った。

 

 

    四

 

 鶴雲館を出るころには、空が白み始めていた。積もる話はあるが、日を改めて集合することだけを決めてその場は解散となった。

すみれは身支度を整えて支配人室に戻った。戦いの疲労感、多くの再会がもたらす高揚感、停滞した状況が大きく前進したという達成感から、頭も体も休息を欲していた。それを席でのわずかな仮眠で誤魔化し、急ぎの仕事だけ済ませて凌いだ。

 途中、カオルが支配人室を訪れたが、特に何も問いただすこともなく用件だけ済ませて出て行った。薔薇組の琴音から、昏睡していた人たちが目を覚ましたとの連絡が入ったらしい。精神的なダメージを訴える者はおらず誰もが早々に社会復帰できそうだとのことで、すみれはその安堵感でついに居眠りをしてしまったほどだ。

 そうして、そろそろ帰宅しようかと思ったところで、ドアがノックされた。入ってきたのは白秋だった。

「あら、会うのは三日後という約束でしょう?」

「ちょっと頼まれてね、ある方をお連れした」

 すみれは怪訝そうな表情を浮かべながら席を立ち、それでも何かの予感に突き動かされるように机を回って扉の手前まで小走りする。

 白秋が大きく扉を開くと、そこに立っていたのは着物姿の米田一基、その人であった。

 白秋に促され、米田はゆっくりとした足取りで部屋に入る。白秋は後ろ手に、そっと扉を閉める。

「……すみれ、久しぶりだな。お前ぇの活躍は、全部聞いているよ」

 前よりも少し背が縮んで見えるが、声のハリは変わりない。

「米田さん!」

 慌てて近寄るすみれより先に、米田はその場に手をついて頭を下げた。

「今更どのツラ下げてお前に会ったもんだって話だが……この通りだ、すまねぇ」

 突然の謝罪にすみれは戸惑う。白秋は腕を組んで目をつむり、我関せずを態度でしめした。

「謝ってすむようなことじゃないこともわかっている。この十年、すべてをお前ひとりにおしつけて、そして孤独にさせちまった。俺は最低な……」

 どんどん話を進める米田を、すみれは膝をついて肩に手をやって、身体ごと顔を起こさせる。間近に見る米田の顔は、十年分の労苦の跡が刻み込まれているようだった。声の強さで忘れそうになるが、そもそも歳はすでに八〇、傘寿なのだ。

すみれは一度咳ばらいをし、明るい調子で話し始めた。

「あらあら米田さん? まあ軍においては中将まで上りつめ、そのうえ劇場支配人の経験までおありの御大人ですけど、だからと言って役者ができるものでもございませんでしょう?」

 きょとんとする米田。しかし構わずすみれは続ける。

「ですから帝劇からの通信で『しくじっちまったぁ~』なんて三文芝居聞かされて、ずっと笑いをこらえるのに必死でしたのよ。それにくらべてわたくしの演技、素晴らしかったでしょう? レベルの違う相手でも芝居を成り立たせ、しかも周りを魅せる、やはりトッ……プスタァ。オーホッホッホ」

 口元に手を添え、いつも以上の高笑いを披露する。白秋は目を開けて、扉の外を気にした。が、再び目を閉じる。

「さあ米田さん、お座りになって」

 すみれは米田の脇に手を差し込み、そばのソファーまで導いた。そして、自分は隣に座る。

「また生きてまたお会いできるなんて、こんなに嬉しいことはございませんわ」

「すみれ……」

 米田はすみれの名を口にして顔を上げたが、また伏せる。

「俺はよ、おめぇを花組のみんなを娘みたいに思ってる。そしてその娘のお前ぇが育てた新しい花組のメンバーは……本人たちにゃあ迷惑な話だろうが、もう孫みたいなもんだ。なのにな、俺はそんな孫にひでぇお願いを……」

 すみれは米田の左手を両手で包み込み、手の動きで顔を上げさせた。しっかりと米田の眼を見ながら話を引き継ぐ。

「米田さん、わかっています。これから幻都へ向かうんですから、何が必要かなんてわかっていますよ。

でも大丈夫、わたくしがなんとかします。そんなに何でも責任を負おうとしないでください。娘、娘とおっしゃるけれど、いつまでも子供じゃありませんのよ」

 すみれの語尾がわずかに震えた。いや、肩も震えている。すみれの両目からは、とめどなく涙が流れていた。少し呼吸を整え、控えめに鼻をすすると、すみれは言葉をつづけた。

「だから、少しだけでも、お話ししましょう。お互い、十年分の物語を抱えているんですもの」

「ああ、ああ……」

 だが、しばらくは会話にならず、ふたりは肩を寄せ合って静かに泣いていた。

 再び気配を察した白秋は、すみれと米田の邪魔をしないよう扉から出る。すると、廊下に一振りの剣が立てかけてあるのが目に入った。

 それは天宮國定――帝剣であった。

 

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