偽典サクラ大戦 ~我は花咲く木とならむ~ 改訂版 作:出口豊志朗
大神一郎の長い一日
一
大神は一張羅のスーツに身を包み、病棟の扉をくぐった。私有林に囲まれ、外来も受け付けていない特殊な病院であることから、人の気配が少ない。案内用の表示も最低限ではあったが、あらかじめかえでから聞かされていたこともあり、大神は目当ての病室のドアを探し当てた。
ノックすると「どうぞ!」と元気のいい新次郎の声が聞こえた。扉を開くと、広い室内の真ん中にベッドが設えられ、その前に座った新次郎がこちらを見ている。
「おお、一郎も来たのか」
ベッドに横たわる女性──姉の双葉が首だけをこちらに向けて声をかけてきた。眼光こそ衰えてはいないが、その声は幻都のときのような覇気がない。もともと薄い色の肌は一層白く、シーツからはみ出している腕は、細かった。
双葉は降魔大戦初期に、藤枝かえでの依頼で二剣二刀を祓い清める儀式を行っているなかで、突如として昏倒した。二剣二刀に意識をもっていかれ、そうとは知らぬ大神たちと共に幻都に赴き、二人が生み出した霊体に意識を移して共に戦ったのだ。しかしその間、無情にも肉体は十年の歳月を重ねていた。
華撃団司令部は双葉の身柄を預かり、最新鋭の医療技術を駆使して回復に努めた。しかしまさか幻都に意識があるなどと思いもよらず、先日まで双葉の身体を生きながらえさせることしかできなかったのだ。このやけに広く、がらんとした部屋はその名残で、昨日までは様々な機器が並べ据え付けられていたらしい。
そうした事情を思い返しているうちに、新次郎は椅子を用意した。勧められるままに座るが、かける言葉が思い浮かばない。
「そう気にするな。長い間動いていなかったから、筋力や体力が衰えているだけだ。しばらくすれば元に戻る」
そう言うと、双葉は身体を起こそうと腕に力をいれた。即座に新次郎が身体を支え、手伝う。それまで見下ろしていた双葉の目線が同じ高さになると、弱っている印象が和らいだ。
「お医者さんが言うには、あと一週間もすれば歩くこともできるそうです。リハビリ自体は半年単位で考えないといけないみたいですが」
新次郎は努めて明るく振る舞う。息子がこうして気丈に振る舞っているのだ。弟の自分が落ち込んではいられない。大神は気を取り直し、改めて幻都での助力に対する感謝を伝えた。
「本当にお前は肩がこる奴だな。誰に似たんだろう?」
双葉の言葉に、幼少から修行の名目で無茶させられたトラウマのせいですよ、とは言えない大神だった。その恨みがましい視線を受け流し、双葉は話題を変えた。
「ところで、新くんから聞いたぞ。お前、新くんが紐育へ旅立つときに、アレを渡したそうだな」
「『向こうに行って耐え難い苦難にあったら、そいつを使え。だが、そのときまで決して開けるんじゃないぞ』。そう言って、渡してくれたんです」
双葉の質問に、新次郎は当時を思い起こして補足する。すると、双葉は肩を揺らして笑った。キョトンとする新次郎。
「アレはもともと、私が一郎に渡したものなんだ。それにしても一郎、渡すときの言葉まで同じにすることはないだろう」
「だからあのとき、一郎叔父は母さんから何かもらわなかったかを気にしてたんですね」
そうして、大河親子は声を揃えて笑った。大神は恥ずかしさで顔を伏せる。返す言葉もなく耐えているうちに、笑いが収まった。顔をあげると、双葉が慈しむような目で大神を見ている。彼女にはわかっているようだった。アレが何かを知っているということは、大神がそれを目にしたことに他ならない。
「一郎……お前にも耐え難い苦難があったんだな」
その言葉に、大神は胸の痛みを思い出す。あこがれた人との別れは突然で、続く運命も残酷だった。花組のみんなが居てくれたから前に進めた。その最後の一押しは、双葉に渡された餞別だった。大神は双葉の心遣いに感謝しようとしたが、彼女は無言で首を振り、手の所作でその言葉を留めた。
そのやりとりに気づいた新次郎は、話題を変えて双葉に尋ねる。
「母さん、どうして僕にはくれなかったんですか?」
その無邪気な問いに、双葉は相好を崩した。
「少し悩んだんだが……自分を信じて頑張って欲しいという想いは、生まれた時に伝えているからな」
新次郎は一瞬、戸惑っていたが答えに思い至ったのだろう。急に顔を伏せる。きっと、目を潤ませていることだろう。
しんじろ──しんじろう──新次郎……。
「さて、と。随分湿っぽくなってしまったな。たまにはこういうのも悪くはないが、もういいだろう。一郎も後が控えているんだろう?」
そういうと、双葉は新次郎に何事か伝えた。新次郎は言われた通りに、ベッド脇の棚から小さな風呂敷包みを取り出す。それを受け取った双葉がゆっくりとその結び目を解くと、中から二つの巾着が現れた。双葉はそれを両手に持つと、大神と新次郎に差し出した。
「私から、改めて送ろう。受け取ってくれ」
それは、見覚えのあるアレと同じものだ。戸惑いながら大神も新次郎もそれを受け取る。なぜ今? と、疑問に感じる。
「これはもともと二剣二刀の禊が終わったら、藤枝君から二人に渡してもらおうと用意していたものだ」
「でも僕には……」
新次郎は懐から、双葉から大神を経て受け取った袋を取り出した。肌身離さず持っているとは、と大神は苦笑した。
「違う違う。それはいつか生まれる、お前たちの子供に渡してくれ」
話の展開に動揺した大神と新次郎は、思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「なんだ、まだ腹をくくっていないのか? 幻都でも散々話したろう。それとも何か? ひとつじゃ足りないというのか?」
旗色が悪くなったところに、まるで助け舟のようにノックがした。これ幸いにと新次郎は立ち上がり、ドアを開いた。
そこに立っていたのは、ラチェットだった。
彼女は新次郎と大神に会釈しつつ、双葉のもとへ歩み寄る。
「はじめまして、双葉さん。ラチェット・アルタイルです」
白と青のストライプのスカートを摘まみ、優雅にお辞儀する。
「おお、君が新くんをオトコにしてくれた元隊長か!」
「ええっ? オトコって!」
「だって、星組着任早々に新くんを認めて、隊長権限を委譲してくれたんだろう? おかげで新くんが大きく成長できたんじゃないか」
「母さん、言い方……」
親子漫才を微笑ましく眺めながら、ラチェットは新次郎たちが手にした巾着袋を目ざとく見つけた。
「もしかして未来のお孫さんへの贈り物ですか?」
なんの説明もなしに状況を読み解くラチェットに、大神は驚いた。相変わらずの洞察力だ。
「幻都で星組の皆とお話しして、お眼鏡にかなう相手を見つけられたようですね。残念、出遅れてしまったわ」
「ラチェットさん、何を言い出すんですかっ!」
「ラチェットくん、そう結論を急ぐな。君の活躍も新くんから事細かに聞いているぞ。新くんのサムシングエルスを見出してくれたんだ。もちろん候補に入っているとも」
双葉が調子を取り戻すさまを見て、大神は安心した。ラチェットの登場で話題の中心が新次郎に移ったのを見計らって、大神は辞去することにした。
「今度顔を見せるときは、嫁さんのひとりやふたり、連れてくるんだぞ」
双葉の言葉に、屈託ない笑い声が室内に響き渡った。
二
大神が次に向かったのは、同じ病院の別棟である。といっても検査入院用の特別な施設で、病院というよりも清潔感のある飾り気のないホテルのような佇まいだった。
訪ねるは、米田一基。
長い潜伏生活中も可能な範囲で健康管理は行っていたが、なにぶん高齢である。念のためにとの周囲の要望を流石に押し切れず、不承不承検査を受け入れたとのことだった。かえでから聞かされていた部屋の前に立つと、ノックをする前に、
「おう、はいんな」
と呼びかけられた。中に入ると米田がこちらを見て笑っている。病室用の簡素な服装ではあるが、双葉とは違って椅子に座っているせいか不健康そうには見えない。出窓の脇に置かれた椅子に腰かけ、肘をついて大神を見る表情はいたずらっ子のようだ。
「ちょうどここからお前さんがえっちらおっちらやってくるのが見えたからな」
と早々に種明かしする。大神は笑いながら、米田の向かいにある椅子に座った。
「もう三日になる。メシは味が薄いし、酒は飲めねぇしで何の楽しみもねぇ。これじゃあ老け込んじまうよ」
そこからはひとしきりの米田の愚痴をネタにした笑いと、先ほどの双葉訪問の話で盛り上がった。さすがに喋りすぎたのか、米田が軽く咳ごむ。慌てて大神は室内を物色し、お茶を汲んだ。
「客にさせちまってすまねぇな。ありがとよ」
大神の差し出した湯飲みを受け取り、米田はゆっくりと喉を潤す。そして下ろした茶飲みのなかに視線を落としたまま、静かに本題に入った。
「今日、お前ひとりで来てもらったのは、分岐世界からの記憶について確かめたいことがあったからだ」
米田の話の中心となったのは、以前にラチェットが書き上げたというホルスの記憶──分岐世界での太正時代を描いた一連の作品についてだった。
「あの作品リストの中に、『KOUMA/降魔』というものがあった。対降魔部隊と降魔戦争について描く、と注釈があったが……あれについてお前は何か記憶を引き継いでいるのか?」
依然目線を上げない米田に向かって大神は、そのタイトルは発表はされたものの日の目を見なかったことを伝えた。米田の眼が大神に向けられ、一瞬うかがうような光を帯びた。が、すぐに邪気のない普段通りの眼差しに戻る。
「そうか……ならいいんだ。あの戦いを、誰も知る必要はない。知って背負う必要はねぇんだ」
それだけ言うと米田は茶を一息に飲み干して、湯飲みを出窓に置いた。そして、窓から見える森の緑に視線をやった。何と答えたものかと考えあぐねた大神も、それにならって眼下を見やる。そして、つづく米田の言葉にも大神は口を噤んだ。
「お前ぇたちが降魔阿頼耶識でサマエルを倒した直後、暴走を始めた若木から二剣二刀を守るため、剣の使い手の影が現れたと報告書にあったろう? あのとき、霊剣荒鷹からは真宮寺が、神剣白羽鳥からはあやめくんが、光刀無形からは山崎が現れたらしいな。
それがあいつらの魂でないっていうのは、まあ、いい。
でもよ、それならなぜ、神刀滅却から俺の影は出なかったんだろうなぁ──」
室内に再び静寂が戻る。風が出てきたのか、出窓に設えたカーテンがたなびく。木々の葉擦れの音が、やけに大きく聞こえる。
「すまねぇ。この齢にもなって後悔ってわけでもねぇが、二剣二刀の影として戦ったというあいつらの話を聞いて、ちょっと血がたぎったのよ。それだけのことだ」
そこで、大神は懐にある書簡の存在を唐突に思い出した。それは、先ほど双葉の部屋を出ようとしたときに彼女から預かった、米田宛のものだった。話題を変えようと大神はそれを差し出した。米田は予想だにしない書簡の登場に面食らっていたが、封を開けて困ったように眉をひそめた。
「まいったな……達筆で読めねぇよ。悪りぃが大神、読んでくれるか」
と、米田は文を大神に差し出す。ためらったものの、読めないのも問題だろうと大神は腹をくくる。
文は、不詳の弟である大神一郎の面倒を見てもらったことへの感謝が綴られていた。そして、まだ手先が思うように動かないため、書きなれたくずした文字であることの詫びが続いた。場合によっては一郎に読ませても構わないとまでの、気の使いようだった。
そして、ここからが本題だった。
『さて、前置きが長くなりました。
この度は米田様に感謝をお伝えしたく、筆を取った次第です。
それは幻都にて二剣二刀が若木からの霊力吸収に耐えられなくなり、刀剣からそれぞれを守護する使い手たちの影があらわれたときのことです。
あのとき私の魂は、二剣二刀の意思により神刀滅却へ飛ばされました。『吸い取るくん』の影響度合いの差や、霊力を注ぐチームの霊力量とコンディションの差などが積み重なり、結果的に一番負担が大きかったからと判断したのでしょう。
私に求められた役割はすぐに理解できましたが、魂のままでは何もできません。せめて刀に宿る影を依り代に自身の霊体を作り上げなければなりませんでした。
神刀滅却といえば、弟である一郎が米田様より譲り受けた刀と知っていたので、まず私は一郎の影を探したのです。しかし弟が未熟なせいか、百歩譲って使い手となって日が浅いからか姿が見えません。とはいえ、影なら誰のものでも霊体の土台になれるものでもありません。一瞬、途方に暮れそうになった私の前に現れたのが──米田様の影でした。米田様は影でありながら、私が何に困っているのかを察したように、なんのてらいもなく私にその身を委ねてくださったのです。
そのおかげで、私は間一髪のところで霊体を得ることができ、巴里華撃団への助力にも成功しました。
このときは米田様の影に、ただただ感謝するばかりでした。
ですが先日、二剣二刀から解放されて自身の肉体に戻ったのち、幻都での作戦の全容を聞いたところでふと思ったのです。幻都で起きたことだけを聞いた米田様は、二剣二刀を使い手たちの影が守ったくだりを耳にして、どう思われるのだろうかと。真宮寺一馬様、藤枝あやめ様、山崎真之介様の名前は、米田様と共に降魔部隊として戦われた戦友であられたと伺っております。であればこそ、その場に米田様自身の影がないことに戸惑われないかと思い至り、取る物も取り敢えずこの文をしたためた次第です。
改めて申し上げます。あのとき神刀滅却をお守りできたのは、米田様が私に霊体となるためその身を預けてくださったからです。つまり、米田様と私は一心同体となってお三方と戦ったのです。どうか、そう受け取っていただけることを請い願うばかりです』
そこから続く重ねての感謝と、米田の健勝を祈る言葉で文は締めくくられていた。長い文を読み終えた大神は、恐る恐る書面から目をはがし、米田の様子をうかがう。
米田は目を伏せ、帽子のツバを下げるように右手を上げる。手が空をきり自分が着帽していないことに気づくと、苦笑するように肩を震わせた。だが、鼻をすする音で、そうではないのだろうと大神は察した。
しばらくして肩の震えがおさまると、米田は満足そうに吐き出した。
「そうか──俺はあいつらと一緒に……戦えたんだな」
米田は顔を上げ、出窓越しに青空を見上げた。そこには幻都を脱出した後に見せた喜びとは違う、安堵の色で満たされた。
「心のもやもやが晴れたぜ。双葉くんに礼を言わなきゃな」
言いながら米田は立ち上がると、大きく伸びをした。
「とても清々しい気分だ。こんなときは良い舞台を見たいもんだな──大神はこの後、大帝国劇場に行くんだろう? すみれに言っといてくれよ。次の花組公演、楽しみにしてるってよ」
米田は満面の笑みを浮かべて大神の肩をたたいた。大神もつられて笑顔になり、力強くうなずいた。
三
大神は病院から取って返し、銀座は大帝国劇場に向かっていた。郊外からの移動のため蒸気汽車を使った大神は、帝都中央駅に降り立つ。駅の改札を抜けて広間に出ると、背後から懐かしくも耳慣れた声が飛んできた。
「おお、モギリじゃねぇか! 久しぶりだな」
振り向くと、そこにいたのは団耕助だった。突然の再会に言葉を失う大神に、バツが悪そうに団が頭をかいた。
「おっと、はしゃいじまった。モギリだなんて……気を悪くしないでくれよ、大神さん」
そんなことはないと大神は首を振りながら、団に握手を求める。団はそれに応え、強く握り返してきた。今日は西村と武田はいないようだ。
「しっかし……十年ぶりだっていうのに、お前さんは全然老けないな。むしろ精悍さが増したみてぇだ。修羅場をくぐってきたんだな」
鋭いことをさらりと言う団に、大神はすみれから聞いた昏睡事件での活躍を思い出す。どこまで踏み込んで良いのやらと思案しつつも礼を口にする大神を、団はとぼけてみせる。
「なんの礼かは知らねぇが……俺はいつだって、花組さんのファンとして恥ずかしくない生き方をしているだけさ」
言いながら団は手にした扇子を開いてあおぐ。そこには大きく『生涯♡花組』の文字が輝いていた。
「ところでよ……」
声を潜めた団は、扇子で口元を隠しながら大神の耳元で囁く。
「あの映像──帝都・巴里・紐育歌劇団が一堂に会したライブ、見たぜ。お前もちゃっかり出てたな。
世間じゃあ花組さんの姿が十年前から変わってねぇから、消息不明になった当時のものだと言われているようだが、大神さんがその様子なら……」
そこで言葉を止め、意味ありげに笑う。大神は、団にならすべてを語っても良いのではないかと思い始めている。
「安心しな、何も聞かねぇよ。俺が言いたいのはな、俺たちはどこかの空の下で花組さんが幸せにやっている、そう確信しているってことだ」
扇子をおさめた団は、大神から離れて咳ばらいをした。
「おっと、これ以上は野暮が過ぎるな。会えて嬉しかったぜ。そうだな……武田風に言うなら『アディオス、アミーゴ!』だ」
それだけ言うと、団はこちらの返事も待たずに背を向けて、帝都中央駅の改札に入っていった。思わず大神は、その後ろ姿に向かって一礼した。
団を始めとする花組を応援してくれるファンたちの力が今回の勝利を呼び込んだことを、大神はあらためて実感したのだった。
四
大神は、大帝国劇場支配人室のソファに腰をかけつつも、困惑していた。隣にはすみれが座り、手にしたタオルで大神の首筋から顔を拭きあげている。
「あらあら、なかなか汗がおさまりませんわね。遅れると連絡されていたのだから、急いで来なくてもよろしかったのに」
当初の予定では大帝国劇場前でさくらと合流し、支配人室を訪れることになっていた。しかし蒸気汽車が遅延したことと、団耕助との再会もあって遅刻は確定的だった。それをさくらに伝え、先方を待たせるのも悪いからと先に行かせることにした。今日はさくらと天宮の非公式の顔合わせを目的としていたので、そのまま大神が到着する前に別室で歓談は始められているとのことだった。
「それにしても何とお呼びしたものかしら。軍に復帰されたわけではないですから中尉はおかしいですし、帝国華撃団の総司令は私……かといって元総司令というのも嫌味のよう。いっそ、出会った頃を思い出して〝少尉〟というのも新鮮かしら」
タオルを動かしながら、大神の呼び方について一人悩むすみれ。そうこうするうちに、ようやく汗が落ち着いてきたようだ。
「これで少しはましになったかしら……あら」
タオルをテーブルに置いて振り向いたすみれは、目線を大神の首元に落として顔を寄せる。至近距離まで近づく顔に動揺しつつすみれの名を呼ぶが、構わず彼女は大神のネクタイを手に取り、ゆっくりと締めなおしていった。
「せっかくの男ぶりが台無しですわよ」
手を回し襟裏まで整えてくれるのだが、これではまるで抱擁されているようである。大神の頭が朦朧としてきたところで、扉が開く音がした。
「え──!」
大神が首を向けると、そこには襟付きのベストに赤いネクタイをした美丈夫が立っていた。まずいところを見られたと動揺している大神以上に、彼は狼狽えている。
「あら、神山くん。早かったのね」
すみれはといえば焦るそぶりもなくネクタイの角度を検めつつ、神山に脇にある椅子を持ってくるよう促した。神山はぎこちない動きで言われるままに椅子を手に取り、大神とすみれが座るソファの前に腰を下ろした。
「さて、こちらが大神一郎さん。あなたにとっては先輩ね」
大神の肩に手を置きながら、すみれが大神を紹介した。
「そして、こちらが神山誠十郎くん。少尉と同じ海軍出身でしてよ」
続いて正面の美丈夫に手を向け、大神に説明する。すみれの落ち着きぶりに慌てているのも馬鹿らしくなり、ふたりであいさつをかわす。
「この程度で動揺しないでください。私の方が恥ずかしくなるじゃありませんか。それに、おふたりとも女性には慣れてらっしゃるでしょう? なんといっても隙あらば花組の入浴を覗いてらっしゃったんだから……」
「そそ、そんなことしていませんよ!」
神山が即座に否定する。大神も、それは分岐世界のゲームの話だと強弁する。
「なんでもそう言えば誤魔化せるとお思いになって? たしかに私たちが気づいてとっちめた、ということはなかったけれど、うまく逃れていた場合は……結局のところ本当かどうかは私たちにはわからないことですわ」
すみれは首を横に振る。ひとしきり大神と神山の弁明に付き合ったあと、ころころと笑いながらすみれは矛先を収めた。
「さて、わたくしはさくらさんたちを呼んできますわ。少尉、神山くんには一通りの説明をしたうえで、レポートも渡しています。全て知っている前提でお話しいただいて結構です」
それだけ伝えると、すみれは立ち上がる。と、そこで思い出したように大神の耳元に顔を寄せ
(そうそう、お話し通り天宮家鍛冶小屋のくだりだけは説明もレポートからも除いていますのでご心配なく)
と伝え、颯爽と司令室をあとにした。
彼女に翻弄された親近感からふたりは互いの眼を合わせると、苦笑をかわす。大神はそのまま、神山たち新生花組の設立から世界華撃団競技会の好成績、幻庵事件解決までの道のりへと話題を移し、その健闘をねぎらった。一方の神山も、降魔大戦にはじまる幻都再封印までの大神たちの奮闘を讃える。
「ところで……」
と、神山は話題を転じた。
「華撃団隊長の先達として、何かアドバイスはありますか?」
新生花組の軌跡を充分把握していると見て取った神山は、率直に教えを請うた。大神は改めて神山の姿を見る。ちょうど自分が帝国華撃団花組隊長になったのと同じ年代だろう。周りに先輩はおらず、相談しようにも同じような体験をしている同僚もいない。様々な苦労、試行錯誤を重ねてきたことが察せられた。真剣な眼差しを向ける神山に、大神はひとつ、質問を返した。
『花組隊員のことが好きか』と。
虚を突かれたような表情ののち、神山は真剣な表情で返した。
「俺にとって花組の皆は、家族です」
力強く晴れやかな言葉だった。
大神は大きくうなずいた。神山もそれにならう。どうやら充分伝わった……いや、充分わかっているようだ。
華撃団に降りかかる試練は、いつだって困難なものだ。これまでの当たり前を乗り越えて襲い掛かってくる。それに対抗するのに必要なのは、つらい場面で耐え続けることができる、仲間との強い絆なのだ。
と、そこで扉が開いた。すみれにつづいてさくら、天宮さくらが入ってくる。大神と神山は立ち上がり、それぞれに挨拶する。大神はさくらの、神山は天宮さくらの傍らに立って視線を交わしたあと、再び歓談を始めたのだった。それを優しく見守るすみれの眼差しを感じながら。
五
大神は賑わう夜の八丁堀を駆けていた。
そこかしこで酔客がふら付いているのをかわしつつ、目指す店へと急ぐ。遅くなるとは予告していたが、大帝国劇場での歓談が盛り上がり二時間は待たせていることになる。目印にと聞いていた大衆酒場が見えたところで路地に入ると、雑居ビル前に立てられた看板が目に付いた。目当ての店名が記されている。
地下階段の前で大神は呼吸を整え、薄暗いなかを降りていく。突き当りにはコンクリート肌のビルに似つかわしくない、一枚板の扉があった。控えめに彫られた店名の下には、OPENと書かれたプレートがドアノブにかけられている。安堵しながら大神が扉を開くと、バーカウンターのみの狭い店内が見渡せた。十席のうち、一番奥の席だけが空いている。その隣に座る赤いシャツに白いスーツ姿の男──加山雄一が、控えめに手を上げていた。大神は狭い通路を、身体を壁に沿わせながら進んで加山の横に腰かける。謝罪し、軽く事情を説明しようとしたが、加山はそれを遮る。
「気にするな、大神。遅れるとは聞いていたしな」
言いながら手にしたロックグラスを回すと、カラリと氷が崩れる音が響いた。まるでそれが合図だったかのように一瞬客席が静まるが、またガヤガヤと話し声が戻った。巴里にいたころ、エリカが『天使が通りましたね』と表現していたことを思い出す。もう何時間も待たせていたので随分飲んでいるのだろうと尋ねると、加山は笑いながら再びグラスを回した。氷水で薄まった琥珀色の液体が、薄暗い店内のキャンドルの灯りを反射する。
「もう五杯目だが、問題ない。飲んでみるか?」
大神は、席について注文もしていないことを気にしたが、初老のマスターはこちらに視線も向けない。ならば、とグラスを受け取って口にした瞬間、予想外の味に吹き出しそうになった。それを見て加山が笑う。
「驚いたろう? 香りづけはしているが、ただの水だよ。任務中で酔ってはいけないときに出してもらっている」
任務、という言葉を周りもはばからずに言う加山に怪訝な視線を向けると、再び加山が愉快そうに笑う。
「さすがに気づかれなかったな。ここは月組の拠点のひとつなのさ。マスターも、ここに並んでいる客も、全員月組の隊員だ」
その言葉を待っていたのか、一同は一斉に大神を見ると、一礼し、また思い思いに話し始めた。そこでようやくマスターが近づき、無言のままワイングラスを二人の前に並べた。
「今日は、飲んでもらいたい酒がある。お前、なんでもいける口だろう? 付き合え」
マスターが大神の目の前に、黒みがかったワインボトルを静かに置く。ラベルには見たこともない仏蘭西語の単語が並ぶ。目を引いたのは年数だ。
「一九〇二年。俺たちの生まれた年度だ。お前は早生まれだから、そういう表現で許してくれ」
加山の説明が終わると、マスターは再び瓶を手に取って手早くコルクを抜くと、大神のグラスに注ぎ始めた。驚いたのはその色だ。大神の知る赤ワインと言えば濃い赤だが、グラスに溜まっていく液体はオレンジに近い色味をしている。大神が目を奪われている間に、加山のグラスも満たされていく。
加山はグラスの脚を摘まみ、「何に乾杯する?」と聞いてきた。一瞬、降魔大戦に始まる十年の記憶が蘇ったが、大神は首を振ると、一言伝えた。
「いいじゃないか、新たな門出に相応しい」
目じりにしわを寄せながら加山はグラスを目のあたりまであげる。大神もそれにならった。
『未来に』
ふたりの声が重なった。思わず笑みを浮かべながら、大神はワイングラスを口元に移した。そのワインは色だけでなく、香りも特徴的だった。イメージにある果実や花のようなものでなく、燻ぶった香気、落ち着いたものだ。味のほうも赤ワイン独特の渋みが少なく、甘みと酸味が舌の上で踊る。これは旨い。大神の反応に加山は満足しつつ、自分も口に含む。
「美味しいだろう? 迫水さんに感謝しないと」
そうして、彼は用意した酒の由来を聞かせる。
「このワインは、迫水さんが俺たちのために用意してくれたんだ。十年前に──」
*
加山と迫水がこの店を訪れたのは、プレオープンのことだった。降魔大戦終息からしばらくして加山の元に訪れた迫水は、華撃団司令部の現状を伝えるとともに、自身を好きなように使ってくれと言ってきた。ちょうど各地の月組拠点とはコンセプトの違う、市中の表と裏のあわいにまぎれこむようなものを考えている最中だった加山は、それを迫水に任せたのだった。
数名のスタッフ──もちろん月組隊員だ──に迫水は店を任せながら、迫水は加山と共にカウンターに座った。
「幻都の件は、やはり時間がかかりそうですな」
グレイのスーツ姿の迫水は、バーカウンターの向こうに並ぶ酒瓶を眺めながら言った。感情をこめないよう注意を払っているが、それこそが迫水の感情の表れともいえた。
「あせっても仕方がありません。向こうは百年もつそうですから気長に行きましょう……と、日々自分に言い聞かせてますよ」
加山は自嘲気味に笑った。組織のトップとして気が抜けないなか、迫水は数少ない本音が話せる仲間だ。それに甘える。「ちがいない」と迫水も笑いながら、手元の鞄を引き寄せた。そして、中から一本のワインボトルを取り出す。
「加山隊長は、ワインは行ける口でしたか?」
「僕はなんでも飲みますよ。でも味の違いがわかるほどでは」
迫水はラベルを検めたあと、加山の前にそれを置いた。
「あなたと大神総司令は生まれ年は違えど同期と聞きました。このワインは、お二人が生まれた期に瓶詰めされたものです」
その説明を聞きながら、加山はボトルの首を掴んでラベルをしげしげと眺めた。確かに1902の文字が書かれている。
「日本酒やワインのような醸造酒は、適切に保管していれば瓶の中で熟成がすすんで角が取れ、深い味わいが楽しめるようになります」
「聞いたことはあります。なんでも条件を整えてやれば、百年でも楽しめるとか」
加山の返事に、少しだけ迫水は困ったような表情をうかべる。
「とはいえ何事にもピークはあります。このワインだと、今が最も味わい深い時期です。それでも──そこから積み重ねられる時間は、また別の意味を持つでしょう。
ですから、おふたりには再会の暁にこのワインを楽しんでいただきたい。この店で、完璧な保管状態で置いておきますので」
加山はその言葉に驚きの表情を浮かべた。と同時に、迫水が言わんとすることに、ようやく気づく。
「この拠点はいつでも放棄できるようにお願いしましたが」
「ええ、覚えてますよ。もちろんここに固執しすぎるつもりはありません」
迫水はカウンター向こうのマスターに目配せし、ボトルを下げさせた。マスターは素っ気なく、しかし細心の注意を払ってボトルを奥へと下げた。
「ですが、私は『鉄壁』と呼ばれたこともある人間です。
月組の流儀とは外れるかもしれませんが、こうした価値観のぶつかり合いが生むものもあるでしょう。これは、私のささやかな意地のようなものです」
その決意を宿した瞳に、加山は頼もしさを覚えた。
と、そこで再び迫水は鞄から別のボトルをとりだし、おもむろに栓を抜き始めた。マスターは何も言わずに加山と迫水の前にワイングラスを並べる。迫水はそれに手元のボトルを傾むけ、注ぎ込む。色味は赤みがかったオレンジ。
「あれ、迫水さん?」
戸惑う加山に迫水はいたずらっぽく笑うと、ボトルを立てた。それは先ほどと同じ銘柄、年のものだった。
「先ほども言ったでしょう。これは今が美味しさのピークだと。なら、今飲まない理由はありません。あなたにはこの味を覚えてもらって、大神総司令と飲むときに言ってあげてください。『このワインの美味しさはこんなもんじゃなかった。待たされた分だけ、ちょっと落ちたかな』とね」
ウインクする迫水に、加山は破顔一笑した。
*
それから十年が経っている。それでも大神にとって、このワインは生涯で一番の美味しさだった。それを伝えると、加山も力強くうなずいて言った。
「あのときもこのワインは本当に美味しかった。だがどうしてだろうな。今日のほうが旨いと、心から思うよ」
加山はそこで言葉をとめ、グラスのワインを心ゆくまで楽しんだ。大神もそれにならう。
こうして大神一郎の長い一日が締めくくられ、また新たな長い一日が始まるのだった。
後日譚 大神一郎の長い一日 了