偽典サクラ大戦 ~我は花咲く木とならむ~ 改訂版 作:出口豊志朗
神山誠十郎は軍へ再度の幻庵事件報告を日をまたいで終え、明朝、大帝国劇場に戻った。あくびを堪えながら劇場を見上げた神山は、ふと足を止める。支配人室に灯りが入っていたのだ。それならばと、その足で支配人室へ向かった彼を出迎えたのは、神崎すみれの謝罪の言葉だった。
「神山くん、あなたに謝りたいことがあるの」
彼女は開口一番そう切り出し、以前に神山に対してついた嘘――すみれ自身が幻都に赴いていたことを隠したことについてらしい。事情を聞けば、むしろ自分の迂闊さに顔が赤くなりそうだった。すみれにとってのつらい思い出に、知らぬとはいえあの緊迫した状況のなか土足で踏み込んだのだ。
「そんな、俺こそ無神経にあれこれ聞いてしまって……すいませんでした」
謝る必要もないのにと神山にすみれは微笑みを浮かべ、支配人席前のソファに座るよう促した。自身も机の上の紙束を手に取りながら向かいに座る。
「軍への報告、ご苦労様でした。改めて先方からお礼の電話があったわ」
世界華撃団大会、幻庵事変、各国歌劇団の合同ライブ、そして帝国歌劇団の新なる舞台の千秋楽まで。わずかな期間に人生を大きく揺るがすような出来事があった。流石のすみれも劇場スタッフ全員に二週間の休暇を言い渡したが、神山だけは軍から事変直後に行った報告の確認とのことで招聘され、戻ってきたのが休暇の折り返しである今日だった。とはいえすみれも支配人として、そして神崎重工重役としての仕事が重なり休みなどなかったようだ。
「この後、政府の高官と会議があるの。その前に神山くんに渡しておきたいものがあって」
言いながらすみれは手にしていた紙束を、神山に差し出した。受け取った彼の目に、仰々しく印刷された「放神記書伝 翻訳参版」なる文字が飛び込んできた。
「色々あって棚上げにしていたけれど、わたくしたちは真の敵、降魔皇についてなにもわかってないの。そのレポートを作成した調査機関はWLOFの介入で解体されたまま放置されているわ。何人かは行方不明になって再活動も難しいみたい」
「……それに詳しい話は改めてするけど、わたくしは幻都で幻庵以外にも崎姫と名乗る上級降魔と戦ったの。いえ、一方的にしてやられたのが本当のところね。そのうちに北斗七星の陣が発動し、仲間のおかげで幻都から脱出できた。その時にてっきり絶界の力で幻庵も崎姫も倒したものと思っていたのだけれど、幻庵が現れた。なら崎姫もこちらにいるかもしれない。だから、神山くんには休暇の後でいいから、降魔皇や崎姫について調べて欲しいの。わたくしは別件でしばらく動けそうにないから」
『別件』に神山はひっかかったが、 すみれの言葉は続く。
「このレポートは、かつての花組が戦った敵と大和という都市について書かれた稀覯本を分析したものよ。調査のとっかかりになると思うの。頼みましたわよ」
そこで竜胆カオルが支配人室に入ってきた。すでに出発の予定時刻を過ぎていると言う。すみれは立ち上がると、「残り一週間ほどだけど、神山くんも骨休めするのよ」と言い残して出かけて行った。
翌日、大帝国劇場二階奥の図書室。いつもならクラリッサ・スノーフレイク――クラリスが陣取っている席に、神山はひとり、こめかみを押さえながら座っていた。
「こういうの、苦手なんだよなぁ」
神山誠十郎は手にしていた書類の束を机の上にゆっくりと置いた。すみれから預かった『放神記書伝 翻訳参版』である。 彼女は休暇後で良いと言っていたが、特段気晴らしになるようなことが思いつかず、手持ち無沙汰を埋めるように書類を手にして一時間ほどが経つ。というのも、花組は今回の戦いで花組に希望を残して命を捧げた存在――さくらの母、ひなたの墓参りへ行っていた。そののま、さくらの実家に彼女と初穂は滞在、他の三人もそれぞれ帰省や観光などにでかけており、司馬は神山と入れ違いで無限についての報告で出かけていた。
書類には写本の写真と、そのページの翻訳、解釈が合わせて書いており、神山でも読むことは簡単だった。しかし書かれている内容のスケールが大きく、また研究過程で不明確な個所も多いため断片的な情報の集まりのようなもので、順序だてた理解が難しいのだ。断片の中からあるていどのまとまりをかいつまむと、
・大和は東京湾に、四〇〇年前まで存在していた国の名。当時は隣の武蔵国(後の江戸・帝都)以上に栄えていた
・大和では、国を支配する北条一族のひとり、北条氏綱が『降魔実験』なるものを行っていた
・『降魔実験』とは、魔界のエネルギーの蓄積とそれの放出を行う霊子櫨という兵器の開発を指している
・霊子櫨から魔界のエネルギーを放つ、即ち『降魔』による『放神の儀』で日本支配の力を得ることが目的である
・しかし実験の失敗による聖魔城の暴走により、大和の地は 魔の力に汚染された
・それを隠蔽するために北条氏綱によって『河川浄化の法』が行われ、大和は海下に封印された
・その時の犠牲者たちの怨念が魔の力と融合して具現化した
姿が後の降魔である
・大和の封印は四百年後に解け、完成した霊子櫨が世を滅ぼす
そして最新の版に追加されたのは、『北条氏綱こそが記書伝の別項に記された降魔皇と呼ばれる存在とみて間違いない』ということであった。その先は曖昧なままだ。つまり今、神山の手元にあるのは、専門家ですら持て余してきた厄介な代物というわけだった。
神山はもう一度、書類の束へ視線を落とした。
「そりゃあ専門家が研究中のものを、興味本位で読んだぐらいじゃわからないよな」
すみれの言う降魔皇の正体は北条氏綱、ということはすでに分かっている。つまり北条氏綱自体が謎の存在なのだろう。実際、図書室の歴史書を何冊か当たってみても、北条氏綱の名は見当たらない。北条そのものへの記述すら乏しく、調べるほどに足場がなくなっていく。雲をつかむような話に神山がため息をついた瞬間、図書室の扉が勢いよく開かれた。
「隊長、ここにいたのか」
声の主は初穂だった。後ろにはさくらもいる。
「ああ、お帰り。でも戻りは明日の予定と聞いていたけど」
「今日は初穂の家に泊まる予定だったんですけど、いろいろと気になることがあってまっすぐ帰ってきました。下でこまちさんから誠十郎さんが帰ってるのを聞いて、相談しようと探してたんです」
さくらは言いながら神山の座る机の前に立つと、一冊の和綴じ本を差し出した。そして、その本に至る不思議な出来事について初穂と二人、話し始めたのである。
*
あれだけの騒動があってから初めての帰省にも関わらず、父、鉄幹の態度はいつもと変わらなかった。それでも「よくやったな、みんな」と労いの言葉は心なしか震えていたように思う。
さくらは挨拶もそこそこに花組のみんなで、ひなたの眠る墓参りに出かけた。
(お母さん、ありがとう。これからもがんばるね)
誰もが心に抱く想い。だが、その重さや覚悟には並々ならぬものがある。他の面々も、あらためて帝都の平和を守ることを墓前で誓ったのだった。
墓参りが終わると、初穂以外の三人はそれぞれの目的地へと向かっていた。帰宅した二人を迎えたのは、鉄幹が用意した質素な、それでも都会では味わえない滋味の効いた心安まるものだった。
それから数日、さくらと初穂はあてどなく山野を巡った。特に歴史的建造物や名勝はなかったが、このところの慌ただしさからの開放感は格別だ。二人は歌劇団のこと、華撃団のこと、昔の思い出、これからのことなどを思いつくまま口にする。それだけで大いに気分転換になった。
山の夜は早い。冬ともなれば尚更だ。いよいよ翌日には帝都に戻る夜、さくらの部屋に初穂が二人分の寝床を用意したところで、鉄幹はさくらに鍛治小屋に来るよう言い残して自分はさっさと行ってしまった。
「初穂は先に寝てていいからね」
「ああ、そうさせてもらうよ」
いささか疲れを感じていた初穂は、風呂に浸かった温もりが冷めぬ間にと言葉に甘えた。
さくらが母屋から出て裏手の鍛治小屋に向かうと、金床台の前に座っている鉄幹が、何かを風呂敷に包んでいるところだった。
「お父さん、どうしたの?」
さくらは寝巻きの上に羽織ったカーディガンの首元を寄せながら、向かいに置かれて腰掛けに座った。風呂敷包みの握りを確かめて満足した鉄幹は、それをさくらに差し出した。反射的にさくらはそれを受け取る。さほど重いものではない。小振りで細長い形状から、脇差のように思えた。
「帰りに東雲神社に寄るんだろう? なら、これをある人に渡してくれ」
「誰に? それに東雲神社のことなら、初めから初穂に渡せば良かったんじゃないの? それとも内緒にしないとけない?」
さくらの最もな質問に、鉄幹の返事は要領を得なかった。
「これを東雲家に俺から託すのは筋違いだ。だから初穂にも、まだ話さないでくれ」
言いながら鉄幹は懐から小袋を取り出し、再びさくらに差し出した。受け取るさくらの鼻腔に柑橘系の、しかし蜜柑ほど甘くなく柚子ほど鼻を刺す香りでもない。布越しに中身を探ると大きさは梅の実ほどか。さくらの戸惑いを見て、鉄幹はわずかに笑みを浮かべた。
「開けたらいい。橘の実が入っている。少し特別なものでな、それを持っていれば迎えが来ると思う」
「来なかったら?」
「その時は、宮司――初穂の親父さんに渡してくれ。『鉄幹が預かって欲しいと言っていた』とでも言えば悪いようにはせんだろう……さあ、夜も更けてきた。もう休みなさい」
それだけ言うと鉄幹は立ち上がり、鍛治小屋奥の戸棚に向かった。もう少し具体的な説明が欲しいところだったが、どうやら鉄幹は話す気がなさそうだ。
「じゃあ戻るね。お父さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
帰省から数日、毎日交わす挨拶ではあるが、それでもさくらは暖かい気持ちになった。
翌日早朝に二人は出発したが、蒸気汽車の速度をもってしても東雲神社に着いたのは昼を少し過ぎたところだった。とは言え汽車で鉄幹とさくらが並んで用意した弁当を食べていたので、体力も気力も充実している。東雲神社までの長い石段を息も切らさず登り切った二人は、目を合わせて笑った。
「毎日上り下りしてても疲れたもんだけど……」
「やっぱりわたしたち、鍛えられてるのね」
そこで、さくらはできるだけ自然に提案した。
「少し中を見て回りたいの。初穂は先に行っててくれる?」
車中で頭を捻って絞り出した言葉だった。
「ああ、わかった。アタシは先に行って皆んなに声をかけておくよ。気が済んだら母屋まで……覚えてるか?」
「大丈夫、じゃあ後で」
さくらは手を振ると、手水舎がある右手に歩を進めた。さっと手を清めると、懐の小袋を取り出した。それだけで清涼な甘い香りが漂う。そこで、さくらはこの香りを嗅いだころがあることを不意に思い出した。しかも場所はこの東雲神社だ。
「どこだろう……子供の頃のことだし、流石に思い出せないよう」
心細いことを口にしながらも、考える。東雲神社は階段を上がり切ったところに朱の鳥居がそびえ立ち、一面が石畳になっている。さらに正面に向かって続く石畳の両脇には建屋があり、新年やお祭りにはそこを開放して縁起物を渡したり、所蔵品のお披露目をししていた。その先に本殿があり、初穂たちが住まいにしている母屋は本殿向かって右側の奥にある。そこまで思い浮かべたところで、石畳を挟んで母屋側の建屋の裏にある東雲神社の名物を思い出した。
「そうだ、千年桜……」
東雲神社は二百年の長い歴史を持っているが、それを遥かに上回る千年の樹齢を重ねた桜がそこにあった。
「でもあっちだと桜の香りの印象が強いから……うん、反対に行ってみよう」
元より何の手掛かりもないのだ。小袋を提灯でも持つように前に突き出しながら歩く。そうして石畳脇の建物の裏まで来たところで、さくらは小袋から違和感を感じ立ち止まった。小袋を開け、中の橘の実に目を凝らす。間違いない。
「これは……霊力?」
先ほどまで懐に入れていても感じることのなかった霊力に、さくらは驚いた。まるで何かに反応したかのようだ。この霊力を頼りにすれば、と顔を上げたさくらは、目の前に不意に現れた人影に軽く悲鳴を上げた。
「これはこれは、驚かせてしもうたかの。すまんのう」
いつの間にか眼前には少し腰を屈めて杖をついた老人が立っていた。着古した藍染の紬の着物に、足元は履き慣れた草鞋という出で立ち――さくらの生家であればたまに見るが、この帝都ではあまり見ない古風な身なりである。
「あ、あのう……あなたは?」
「呼んだのはあなたでしょう? 私についてお聞きでない?」
「はぁ、お父さん……いえ天宮鉄幹の娘でさくらと申しますが、きちんと聞いてなくて……すいません」
いたたまれなくなり頭を下げるさくらに、老人は気を悪くした風もなく「鉄幹さんらしい」と、笑い声を上げた。
「鉄幹さんの娘さんということは、奉納刀をお持ちいただいたのですか?」
さくらは慌てて鞄から風呂敷包みを取り出した。やはり脇差なのだろう。奉納刀とは思わなかったが。老人は頷くと、背を向けて神社の敷地の外、森に向かって歩き出した。着いて来い、ということなのだろう。さくらは真昼というのにやけに暗く感じる森の獣道に足を踏み入れた。
「さくら! さくら〜っ!」
初穂は焦る気持ちのまま、さくらを呼んだ。自慢じゃないが、自分が大声を出せば神社のどこにいても聞こえるはずだ。しかしさくらからの返事はなく気配も感じられない。
さくらと別れてすぐに母屋へ向かった初穂だったが、家には誰もいなかった。立ち寄ることは伝えていたが、買い出しにでも出ているのだろうか。さくらのように滅多に帰れないような距離でもないため、初穂の場合は帰省と言っても大袈裟なものではない。「じゃあ、アタシもさくらに付き合うか」と、元来た道を辿りつつ彼女の姿を探したが、どうも見つからない。その時、不意に思い出したのだ。東雲神社本殿の右側にある森にまつわる不吉な話、神隠し。昔はその森に入った子供が消えて帰ってこなくなったことが度々あったらしい。東雲神社が建立されてからのことだったらしく、当時は神社のせいだと噂されたこともあったようだ。しかし建立に尽力した人物の人徳か権力かはわからないが神隠しと神社は別物と判じられ、以降も神隠しは続いたが神社に対する不信感には至らなかった。むしろ神社側でそのようなことは起きていないことから、二百年のうちに話が逆転して森の脅威を東雲神社が防いでいるとまで扱いが変わったと聞く。だが、近年でも神隠しは起きている。初穂も森に近づいた時は、親に尋常じゃない勢いで叱られたものだ。幸いここ十年ほどは数日で見つかっており行方不明者は途絶えているが、脅威自体がなくなったわけではないのだ。
「さくらが簡単にやられるわけがねぇ。一旦落ち着こう」
初穂は自分に言い聞かせるように言うと、鳥居の前で目を閉じる。さくらと別れたのはここ。そして手水舎に向かった。そう、森の方だ。長年過ごした場所だから、目を閉じていても多少は感覚で動ける。初穂は目を閉じたまま手水舎へ向かう。水がちょろちょろと流れる音が、近づくにつれ大きくなる。と、何か甘い香りを感じた。どこかで嗅いだことがある。初穂は目を開け、香りのする方角を確かめた。神社を囲う柵の向こうに森が見える。しかし彼女は焦らず、香りをゆっくり辿りながら、他の気配がないかを探る。柵を飛び越えると、低木が足にまとわりつき、見渡す先は闇から木肌が浮かび上がっている。違和感がある。
「こんな真っ昼間なのに、なんでこんなに暗いんだ?」
ある程度暗いのはわかる。だが森の入り口というのに、中に木漏れ日ひとつ射さないのは異常だ。初穂は無意識に両手を森にかざしていた。大帝国劇場の中庭にある巨大な霊子水晶の穢れを祓う要領で、前方の空間に自身の霊力を展開して推し進める。数歩先の所で抵抗を感じた。初穂は霊力を納め、正面の森に分け入る。しかし抵抗は感じない。ただ自分やさくらとは違う霊力をわずかに感じた。それを確かめると彼女は元の位置に戻り、先ほど見切った抵抗がある空間を見定めると、拳に霊力を込めて殴りつけた。
「オラァァァ!」
何もない空間で拳が止まるが霊力を込め続ける。するとそこからガラスにヒビが広がるような音が響き、眩い光と共に空間の抵抗がなくなった。光に眩んだ目が慣れてくると、森に漂っていた異様な闇が晴れ、見慣れた普通の森へと変貌していた。正面には獣道が続いている。
「おっしゃ、この先だな。待ってろよ、さくら!」
初穂は開いた左手のひらに右の拳をポンと打ちつけ気合を入れ直すと、獣道に足を踏み入れた。
さくらの目の前には、観音扉の棚の上に神社の屋根をつけたような小ぶりの祠があった。この周囲だけ茂みが途切れ、木漏れ日は祠の姿をくっきりと浮かび上がらせている。屋根は石でできており、日が射さない裏面は厚い苔に覆われている。扉、壁は元の茶色味が抜け落ち灰化しており銀鼠色だ。要所要所に据えられた青銅の金具は白濁した青緑色の粉を吹いたようなサビが浮かんでいる。さくらがその祠に目を奪われている間、案内した老人は何も言わずに彼女を見守っていた。と、遠方からガラスが割れるような音がしたかと思うと、『待ってろよ、さくら!』と初穂の雄叫びが響き渡った。これまで身を潜めていた野鳥が、一斉に羽ばたき大空を舞う。戸惑うさくらが老人を見るが、彼は頷くだけだ。そうこうするうちに初穂が現れた。
「さくら、無事だったか!」
「え、うん。大丈夫……よ?」
初穂の危機感がわからないさくらは、戸惑いながら答える。初穂は老人に気づくと、
「お前が神隠しの正体か? とっちめてやる」
と、鼻息荒く歩み寄る。穏やかならぬ雰囲気にさくらは初穂の腕を取り、「待って初穂。落ち着いて」と宥める。老人は初穂の剣幕を意に介さず、口を開いた。
「これで役者が揃いましたな。お伝えしたいことがございます。こちらに座りませんか」
祠のそばに三つの小岩が腰掛のように並んでおり、老人はさっさと座る。毒気を抜かれた初穂はさくらと顔を見合わせ、結局それに倣った。
千年桜はご存知でしょう。ええ、東雲神社の境内にあるものです。
あの桜は少なくとも九百年前の文献には、樹齢百年を超える桜として取り上げられています。桜に限らず長く存在するものには精霊が生じるといわれますが、千年桜にもある時からそうした存在が生まれ、この地を災いから守っておりました。そうです、本当に千年なのですよ。ええ、偶然と言われればそれまでですが、降魔大戦で帝都の大半が焼け野原になりましたが、幾つもの自社仏閣は炎上を免れていたでしょう? 東雲神社もそうした力に守られていたわけですな。大昔から桜の霊威守られていることを感じた人々は多く、千年桜を境内に収めた神社をつくろう、と言う話になったのが二百年前。それが東雲神社の始まりです。
さてお二人は左近の桜・右近の橘、と言う言葉をご存知ですか? ええそうです、京都御所の。御所から見て左に桜、右に橘を植え、神聖な場所を清め護っているのです。桜には魔除け、橘には繁栄や不老長寿という意味合いもありましてな。それで当時の人たちは洒落っ気を出して千年桜に対となる橘をここに植えたのです。知らなかった?そうでしょうとも、そうでしょうとも。桜は千年と生きるものもありますが、橘は長くても六十年です。当時植えられたものも百年ほどで枯れてしまいました。その時に新たに植える話も出たのですが、どうしても千年桜との釣り合いが気になるということで、こうして祠にしたのです。
老人の語りに、初穂は驚いていた。神社の縁起にご祭神と千年桜については書かれていたし、自分もその程度のことは聞かされていた。しかし橘については初耳だったのだ。さくらも初穂の様子から察したようで、老人は重要なことを伝えようとしていることを実感し背筋を伸ばした。語りは続く。
ところが祠にしたときに、この聖域にあるものを封印したいということで、建立したものの大っぴらにはしなかったんです。しかも人目につかないよう結界まで用意しました。そうです、神隠しというのはこの結界に迷い込んだ者たちのことです。いえいえ、別にその者たちの精気を吸ってたわけではありません。近年では皆さん生きて戻っていったでしょう? 昔は飢えや病で死ぬ者が多く、そうした人たちが偶然結界内に迷い込み、そのまま亡くなって還らなかったと、ほれ、初穂さんの岩の下に骨が埋まって……ほほほ、冗談です。祠の守り主が別の場所で丁寧に弔っておりましたので、ここには残っていませんよ。はい、守り主ですね。実は代々の東雲神社の神主がその役目を果たしていたのですが、先々代、初穂さんの曾祖父にあたる人が事故で亡くなった折に、こうしたことを引き継ぐ書物の存在を知るものが居なくなったのです。あの時は色々と重なりまして……。はい、ご明察です。私は橘の精霊ですよ。永らくこの地を見守っております。どうぞ、お見知りおきを。そうです、さくらさんが持っている橘の実は私が霊力で作り出したものです。結界を行き来するため、あとは……それは後程にしましょう。跡を継いだ初穂さんのお祖父さんに守り主の話をするか迷ったのですが、我々は自分たちから人間に働きかけることを善しとしません。何かの縁が生まれることを待つことにしました。とまあそういうことで祠の守り主が居なくなり、色々と不都合がありました。中でも最も大きいのが結界の要となるものの寿命です。ようやく本題ですな。
老人は立ち上がると、さくらに手を差し伸べた。薄々気づいていたので、さくらは風呂敷包みをそのまま老人に手渡した。老人が包を丁寧に解くと、中から白鞘――柄や鞘に装飾や漆塗りのない、剥き出しのまま拵えた脇差だった。風呂敷は手早く折り畳んでさくらに返し、老人は鞘を払い刀身を検めた。
「流石は鉄幹殿。十年振りとは思えぬ見事な出来。白鞘にされたのは初心に帰られたということでしょうか」
さくらは無意識に腰元の天宮國定へ手をやった。老人はすでに刀身を鞘に戻し、そのまま祠へ歩を進めると、無造作に観音扉を開いた。老人越しにさくらと初穂が見たものは、刀架の上に寝かせて置かれた脇差――白い柄巻きに黒光りする鞘だった。そしてその奥には古びた木の鏡台の上に設られた曇りひとつない神鏡だった。
老人は無言で供えられた脇差を抜き取り、代わりにさくらから受け取った白鞘の脇差を置いた。彼は振り返り、古い脇差の鞘から刀を抜いた。
「うわっ」
初穂は思わず声を上げた。その刀身は黒く濁っているように見えたのだ。
「鉄幹殿は数十年前に東雲神社に訪れた折に、私の存在に気付きました。結界が弱まっていたのもありますが、あれは天性のものでしょう。そして結界の要となる脇差に力がないことを見て、毎年新しいものを拵え、東雲神社への神具の納品のついでに奉納してくださっていたのです。ちなみにこの刀身を鍛えるときに、先程の橘の実を混ぜてもらい、霊力を高めているのです。霊力で作った実ですから、何年でも保ちます」
「お父さんが東雲神社へ毎年通っていたのは、そんな理由があったんだ」
さくらはため息をつくようにつぶやいた。
「はい。しかし……お辛いことがあったのでしょう。この十年はお越しになられず、最後に収められていた脇差もいよいよ役目を果たせなくなりそうだったのですが……心境の変化が……いえ、立ち入った話はやめましょう。とにかくありがたいことです」
初穂は言葉もなかった。鉄幹とさくらの来訪は、ただの神具の納品だけでなく、結界を守る意味もあったのだ。そこで大事なことに初穂は気づいた。
「それで、結局この結界は何を封印してるんだい?」
「これは呪物や宝具のような危険なものではありません。ですので……望まれるならご自身で封印を解き、その目で確かめてください。それを解く鍵はさくらさんの刀、天宮國定――絶界の力なのです」
「え……?」
突然話の中心に自分が据えられ、さくらは言葉を失った。
「どうしてそこで絶界が出てくるんだよ」
代わりに初穂が問いただす。
「それは偶然とも必然とも……あえていうなら縁でしょうか。そもそも絶界の封印は強力なものなので、重要なものには良くその秘術が用いられたのです。ただ、今回は封印したものが絶界と無縁というわけではないので」
そこで、ようやく気持ちの整理がついたさくらが口を挟んだ。
「必要なら封印を解きますが、それはそもそも解いて良いものなんですか?」
さくらはまっすぐに老人の目を見る。老人は目を逸らしたように見えた。しかしさくらにはわかった。
「天宮國定、いえ帝剣に関わりがあること――例えば幻都、あるいはそこに封印されているものですか?」
そう、老人の目がとらえていたのは天宮國定だったのである。老人は口を閉ざす。さくらは老人から目を離し、初穂を見やった。初穂は大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。そして力強く頷く。さくらは笑顔を浮かべ、再び老人に目を向けた。
「わたしたちを導いてくれたこと、大事なことを伝えてくれたことを感謝します」
そこでさくらは一礼し、顔を上げるとともに腰の天宮國定を手にとった。
「わたしは封印を解きます」
老人は泣き笑いのような表情を浮かべ、祠の前から離れた。
「その鏡に帝剣の柄を当てるだけで封印は解けましょう。後のことはお任せします」
「この祠はどうなるんだ?」
「この祠自体は、千年桜と対になって東雲神社一帯を加護しています。これからも脇差を数年ごとに変えて貰えば大丈夫です。私が消えるわけではないので、必要なときに橘の実もお渡しできます」
「アタシが守り主になろうか?」
「それは、もし初穂さんが東雲神社の神主を継がれることになれば相談しましょう。それまでは鉄幹殿にお力添えいただきたく」
そのやりとりで、老人は笑顔を浮かべた。そしてさくらに目を向け頷く。さくらはそれを合図に、天宮國定の鞘を両手で持ち、ゆっくりと柄を差し出すようにして鏡面に触れた。すると鏡がゆっくりと浮かび上がり、鏡面の球体へと形を変えていった。さくらは刀を引き、腰に戻す。そして球体を両手で掴み胸元に抱えた瞬間、閃光がさくらと初穂の目を焼いた。
「さくら!」
「初穂!」
二人は目を閉じながら手で探り、触れた指先を辿って手を繋いだ。そのままの勢いで初穂はさくらを抱え込んだ。何かが襲ってきても二人で分かち合えるように。
初穂は何度か目をしばたたかせると、ようやく視界が戻ってきた。何も起きないことを確認して初穂はさくらから離れる。すると、さくらが一冊の和綴本を抱えていることに気づいた。さくらも遅れてそれに気付き、本の表紙を見る。
表紙に書名らしきものが書かれているが、読み取れない。すると宙から老人の声が響いた。
「それは北条記書伝という歴史から葬り去られた一族の記録、そして放神記書伝という預言書と対をなす稀覯本にございます。どうぞ、お役立てください」
それっきり、老人の声が聞こえることはなかった。慌てて周囲を見やるが、姿もない。
さくらは手にした北条記書伝を鞄に収めた。初穂は祠の扉を閉じる。そして二人並んで東雲神社へ向かった。
*
『北条記書伝』。
神山が求めていた北条にまつわる情報が降ってわいたように現れた。偶然にしてはできすぎているし、運命というには回りくどい。うすら寒いものを感じつつ、神山は差し出された北条記書伝を手にした。パラパラとめくるが、放神記書伝翻訳版のような解説などないので、まったく内容がわからない。ただ、何度か見ているうちに、氏綱、という文字が目についた。少し崩されているが、「氏」は画数が少ないので特徴さえわかれば文章から浮かび上がるように見えてきた。その中には氏綱だけでなく、氏時という名もあった。ふと思いついて「姫」という文字を探してみたところ、それらしいものがあった。その上の文字は「崎」と読めなくもない。
「さくら、この本は放神記書伝と対になっている、と橘の精は言っていたんだよな」
「はい。「ほうしん」という言葉になじみがなくて意味はわからなかったんだけど、「ほうじょう」と似てたので間違いないです。放神と書くんですね」
さくらは神山の手元の報告書を見て答えた。
「これは重大な発見だ。まずは北条記書伝を調べないといけないが……この手のことは月組が適任だな。ひとまずいつきくんに連絡を取ろう」
神山が言うと初穂が走って図書室を出ていった。さくらも後に続く。神山は再び北条記書伝のページを繰りながら、放神記書伝写本の写真で見かけたいくつかの言葉を確かめていた。