偽典サクラ大戦 ~我は花咲く木とならむ~ 改訂版   作:出口豊志朗

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断章 弐

「副支部長、本当にありました」

 天竺葵は抱えてきた鞄を、副支部長の机の上にそっと置いた。彼女の黒い着物と灰色の袴には埃やクモの巣らしきものがまとわりついているが、満足げにいつもの勝気な笑顔を浮かべている。

 副支部長は立ち上がり、机の上の鞄と天竺の顔とを見比べた。

「……本当に、あったのか」

 古びた革張りのそれは、一見して目立つものではない。だが、封書に記されていた場所へ赴き、指示通りの複雑な手順を踏まなければ、まず見つからなかっただろう。

「はい。文面に書かれていた通りでした」

 人気のない事務所には、二人の声しか響かない。

 幻庵事変以後、WLOF日本支部にはもはや副支部長と天竺しか残っていなかった。プレジデントGやオフィサーと交流が深かった支部長は、軍に連行されてから戻ってこない。同僚たちは世間からの誹謗中傷に耐えられず辞めていった。

壁面に並んだ書棚を埋め尽くしていた書籍や書類もすべて押収されている。そんな状況にあって、なお見つからずに保管されたものが見つかったのだ。副支部長は胃に痛みを覚えた。拘留中の支部長以外、誰一人として幻庵事変などにはかかわっていない。だがこの鞄は、WLOFの暗部との関りを予感させる。

 副支部長は机上の封書を開き、改めて中の便箋へ目を落とした。上背の高い天竺は副支部長の背後へ回り込み、文面を追う。

 最初の指示は、支部内のある場所から指定の鞄を見つけ出すこと。それは、すでに果たした。

 続く指示は、その鞄を持って、封書に記された場所へ向かうこと。そして、その役目を担うのは天竺である――そこまで明記されていた。

「駄目だ」

 副支部長は便箋を机に置いた。

「ここまで支部の内情を知っている時点で、まともな相手じゃない。警察へ届けるべきだ。少なくとも、きみを行かせる話ではない」

 天竺は鞄へ視線を落とした。

 封書の差出人は名乗っていない。だが、こんな場所に隠されたものの存在まで把握している以上、WLOFの、しかも幻庵事変に関わっている者であることは明らかだった。

「そうかもしれません」

 静かに答えながら、天竺は便箋を手に取り、もう一度文面を読み返した。

「ですが、だからこそ行く価値があります」

「天竺くん」

「ここまで知っている相手なら、ただ脅かしたいだけではないはずです。副支部長だと目立つからなのか、何かを確かめたいのか……いずれにせよ、こちらが無視して終わる話ではないのでしょう」

 副支部長は眉間を押さえた。

「危険だ」

「ええ」

「きみを名指ししているのも気に入らない」

「わたしもです」

 それでも天竺は、いつもの柔らかな笑みを崩さなかった。

「ですが、わたしを指名しているなら、わたしが行くのが一番早いでしょう」

「きみは……」

 副支部長は言いかけて、言葉を切った。

 天竺の目が、笑みとは裏腹に少しも揺らいでいないのを見たからだ。

「戻らなければ、警察へ届けてください。封書も、場所も、全部」

「最初からそうするべきだ」

「それで相手が姿を消してしまう方が問題です。あの事件に関わる人がまだいることがわかってしまったんですから」

 短い沈黙が落ちた。

 やがて副支部長は深く息を吐き、便箋から手を離した。

「……無茶はするな」

「はい」

 天竺は一礼し、鞄を抱え直した。

 罠であることは、わかっている。だが、自分の名を知り、支部の奥に隠されていたものの所在まで把握している相手を、このまま見過ごす気にもなれなかった。

 そうして彼女は、封書に記された最後の場所へ向かった。

 

 天竺は封書の指示に従い、馴染みのない建物へ辿り着いた。広くはないが、塀に囲まれた日本家屋である。正面の門は閉ざされていたが、文面には裏口から入るよう記されていた。

 すでに日は傾き始め、路地は闇を孕んでいる。

 しかし彼女は躊躇わずに踏み込み、指示通り、裏口脇に設けられた数字のボタンを押した。かちりという音とともに扉が開く。体を滑り込ませると、背後で音もなく扉が閉じた。

 裏庭の先にある家屋の裏口を抜けると、内には灯りが点々と置かれていた。

 まるで、自分を導くように。

 灯りを辿って進んだ先は、板張りの広間だった。中央には洋机とソファが据えられ、和館の内部であるにもかかわらず、そこだけ妙に異質な空気を帯びている。

「天竺さんね。急な依頼に応じてくれて助かったわ」

 すぐ脇から声がして、天竺ははっと振り向いた。

 視線の先には、黒い中折れ帽にサングラス、黒のパンツスーツの女性が立っていた。呼び声が滑らかな日本語だったので、金髪の西洋人であることに天竺は驚いた。

「警戒するのは無理もないけれど、まずはそれを預からせて」

 天竺はわずかにためらいながらも、抱えてきた鞄を差し出した。

 女はそれを受け取ると、重さだけを測るように手の中でわずかに動かす。それで満足したのか、中身を確かめようともせず机の上へ置いた。

「私のことはホルスと呼んでちょうだい。細かい話はこれからするわ」

 そう言って、ホルスはソファへ目をやった。

「立ち話もなんだから、座りましょう」

 促されるまま後に続こうとして、天竺はふと足を止めた。この板張りの広間の片面は襖が幾枚も並んでいたのだが、そのうちの閉まり切っていない襖の隙間から、人影が見えたのだ。

 中には黒髪の少女が、座敷に敷かれた畳の上、乱れのない姿勢で静かに座している。打掛めいた重みのある和装は、舞台衣装じみた華美さではなく、むしろ古びた格式そのものをまとっているように見えた。

 天竺は思わず息をひそめた。

 美しい、と感じるより先に、この場の主はあの女なのだと理屈抜きに悟らせるものがあった。端正に座っているだけなのに、見てはならないものを見たような圧が、そこにはあった。しかも妙だった。微動だにしていないはずなのに、こちらの肌ばかりが、針の先でなぞられるように粟立った。

 天竺が目を凝らすより先に、ホルスが振り返ってやわらかく笑った。

「気にしなくていいわ。ただ――彼女に似た人を見たことがあるかしら、髪の色が銀色だから目立っていたはず。日本支部や世界華撃団大会向けの臨時オフィス、どこでもいいわ」

 その言い方は穏やかだったが、逆らわせないものを含んでいた。

 天竺は恐る恐る視線を座敷の少女に向けた。年のころは十四、五ぐらいか。改めてみると釣り目の三白眼と透き通るような白い肌が印象的である。しかしオフィスで見かけるには若すぎるし、思いつくところはなかった。申し訳なくそれを伝えると、ホルスは「構わないわ。気にしないで」とさらりと言うと襖から離れてソファに腰を下ろし、向かいを手で示す。

「そんなに固くならなくていいのよ」

 天竺は促されるまま腰を下ろした。

 鞄を運ばせ、得体の知れない人影を見せ、それでもなお平然としているこの女が何者なのか。警戒は解けない。だが、ここまで来てしまった以上、聞くべきことは聞かねばならなかった。

 ホルスは帽子に手をかけ、ゆっくりと外した。続いてサングラスも外す。

「改めまして。こうして会えてうれしいわ、天竺さん」

 その顔を見た瞬間、天竺は息を呑んだ。

 顔立ちも立ち居振る舞いも、かつて憧れていた人の一人に、あまりにもよく似ていたからだ。

 その反応を見て、ホルスは口元だけで笑った。

「よくラチェット・アルタイルに似ていると言われるの。あなたも、そう思う?」

「……失礼しました。帝国歌劇団のファンでしたから。ラチェットさんのことも写真だけですけど目にしたことがあります」

「そう。帝国歌劇団の」

 ホルスはそれだけ繰り返し、わずかに身を乗り出した。

「では、訊いてもいいかしら。どうしてあなたは、舞台の側ではなく、今ここにいるの?」

 天竺は少し迷った。

 だが、相手は最初から自分のことを調べている。そのうえでこうして呼び出したのだ。今さら取り繕っても意味はないように思えた。

「花組に憧れていたんです。乙女学園を目指していました。でも、降魔大戦で全部なくなってしまった。別の養成学校へ進んではみたんですけれど、その頃にはもう、演劇に向き合うこと自体が苦しくなっていて……」

「夢の行き場をなくしたのね」

 ホルスの声は静かだった。

 憐れむでも、軽く慰めるでもない。ただ、その事実だけを確かめるような響きだった。

「それでWLOFへ?」

「……はい。世界華撃団連盟にいればいつか帝国華撃団が復活し、大帝国劇場も蘇るかもしれない。そのとき少しでも力になれればと思ったんです。馬鹿みたいでしょう、未練がましくて」

 自分で口にして、天竺はかすかに唇を引き結んだ。その言葉はあまりにみじめだった。

 しかしホルスは笑わなかった。

「馬鹿にしたりしないわ。失ったものの傍にいたいと思うのは、そんなにおかしなことじゃないもの」

 その一言に、天竺の肩から少しだけ力が抜けた。

 ホルスはその変化を待っていたように、間を置かず続ける。

「十年前、帝国華撃団も、巴里も、紐育も消えたと発表されたわよね」

「……ええ」

「歌劇団と華撃団が同じものだと知った時、つらかったでしょう」

 天竺はうつむいた。

 ホルスの声は穏やかだったが、その問いは十年かけて薄皮をかぶせてきた傷を、ためらいなく指でなぞるようだった。

「昔から噂はありました。でも、本当だったんだと知った時は……どう受け止めればいいのかわかりませんでした。舞台の上にいた人たちが戦っていて、そのまま行方も知れないなんて」

「なら」

 ホルスの黄金の瞳が、まっすぐ天竺を射抜く。

「華撃団は、本当は消えていないと言ったら?」

 天竺は顔を上げた。

「先の幻庵事変で現れた、あの幻の都市。あそこに彼女たちは囚われている。今もなお、封印の内側で戦っている――そう言ったら、あなたは信じる?」

 唐突な話だった。

 だが、笑い飛ばすことはできなかった。

 この女は、自分の名を知り、支部の奥に隠されたものの所在まで把握していた。そのうえで、いま最も聞きたかった言葉を差し出している。

「……まだ、戦ってるんですか」

 気づけば、そんな言葉がこぼれていた。

 自分でも驚くほど、すがるような声だった。ホルスは、ただ静かにうなずいた。

「ええ。今も」

 と、そこで天竺は我に返った。ホルスのペースで話が進んでいるが、根本的なことを自分は確認できていない。

「わたし、あなたを疑っています。幻庵事変に関係していて、また同じことを起こそうとしているじゃないかって。その鞄もそれに必要なものだから持ってこさせたのでは?」

 ホルスは心底楽しそうに笑い声をあげた。

「それは疑いもするわね。でも逆よ。私たちは幻庵の起こしたことには関わっていない。

 軍から隠れているのは、プレジデントGの側にいた者は皆、同じ意志で動いていたと見なされているから。けれど今は捕まるわけにいかないの。

 幻都に関する情報も、華撃団を救うための手立ても、こちらにはある。けれど軍がそれに耳を貸すとは限らない。だから、残ったわたしたちで動くしかないのよ」

 ホルスの言い分は、決して矛盾していない。だが証拠もない。それを知ってか知らずか、ホルスの黄金の瞳がまっすぐに天竺を射抜く。

「それを、あなたにも手伝ってほしい」

 天竺は膝の上で手を握りしめた。

 帝国歌劇団に憧れ、華撃団に夢を見て、その消失に打ちのめされた自分が、なお彼女たちが戦っていると聞かされて、何も思わないはずがない。

 けれど、その一方で理性が囁く。何か別の意図があるのではないか、と。そう考える自分がいるのに、胸の奥では、それ以上に強い何かが、痛むように脈打っていた。

 舞台のうえで見た、憧れの人たちの姿が脳裏に浮かぶ。華やかで、気高くて、まぶしくて、自分の夢そのものだった人たちの笑顔が頭をよぎった。その瞬間、言葉が紡がれた。

「わたしにも……何か、できることがあるんでしょうか」

 ホルスの笑みが深くなる。

「あるわ。だから、あなたを呼んだの」

 その言葉に、懐かしさとも、祈りともつかない熱が、一気に込み上げてくる。押し込めていた想いが、内側から扉をこじ開けようとしていた。

「――あ……」

 熱い。

 そう思った時にはもう、天竺の身体の内側から、何かがあふれ出していた。熱とも光ともつかない淡い揺らぎが、胸から喉へ、喉から指先へと駆け巡る。視界がかすかに滲み、身体がぐらりと傾いた。

「無理をしないで」

 ホルスがすっと身を寄せ、その肩を支える。

「大丈夫。怖がらなくていいわ」

 優しく宥めるような声だった。 天竺はその声に縋るように目を閉じる。だから最後まで気づかなかった。 ホルスの指先が、胸元から溢れようとしていた蒼く淡い光に触れたことに。いや、触れたのではない。摘んだのだ。春先の若芽を折り取るように、まだ柔らかく、傷つきやすいものを選り分けるように。

「――いい子」

 ホルスは微笑んだまま、摘み取った淡い光を掌の中に包み込んだ。その頃にはもう、天竺の意識は途切れていた。

 長い睫毛が頬に影を落とし、力を失った身体がホルスに預けられる。

 その時、奥の襖が音もなく開いた。

 黒髪の少女が、静かにこちらへ歩み出てくる。ホルスは表情を険しくし、非難がましく少女に声をかけた。

「崎姫、邪魔をしないでくれる?」

 崎姫はホルスの言葉を気にする風もなく、耳元に触れていた小さな呪具を外すと、それを指先で弄んだ。次の瞬間、部屋の空気そのものがぴんと張り詰める。呪具によって人の姿に馴染ませていた気配がほどけ、黒髪は金色へと変化した。

ただでさえ白かった肌は、陶器めいた質感を帯びてゆく。三白眼の目元には、血がにじむような朱がふわりと差し、つり上がった眼差しをいっそう際立たせた。さらに眉間から、白い一本角が静かに伸びる。そこに立っていたのは、もはや取り繕う気もない上級降魔としての崎姫だった。

「人は実に都合のよい生き物じゃ。失ったと嘆きながら、まだ戻ると囁かれれば、抗うことができぬ」

 冷ややかな声音には、嘲りと、わずかな愉悦が混じっていた。ホルスは肩をすくめ、意識を失った天竺を静かにソファへ横たえる。

「しかし上手いことやるのう。わらわは加減などできぬ。潰して終いじゃ」

 そう言って崎姫は、机に置かれていた鞄へ視線を落とした。天竺が運んできたそれを、妖力を用いて手元まで引き寄せる。留め具が勝手にはじけ飛び、ゆっくりと鞄が開いていった。

 中には、いくつもの小瓶が整然と収められていた。一本一本に小さなラベルが貼られ、その内には色とりどりの毛髪が封じられている。

「そういえば、人間のオフィサーは全員捕まったみたい。月組が動いたようね」

 しかしホルスの言葉は崎姫には届かなかったようだ。彼女は小瓶のひとつを摘み上げ、薄く口元を吊り上げた。

「千夜に心当たりがなかったのは残念じゃが……これでようやく」

 呟きはそれだけだった。

 だが、その声音には、長く待ちわびていた者だけが持つ執着と確信が滲んでいた。

 

    *

 

 崎姫が空間異動で別の隠れ家へ消えるのを見届けると、ホルスはソファにもたれている天竺を軽々と抱え上げ、奥の間の布団へ横たえた。彼女が戻らなければ、副支部長が動くだろう。しかしこの建物に、露見して困る痕跡は残していない。

 ホルスはかすかに寝息を立てる天竺を見やる。

「天竺葵。花の名を持つあなたには、花組はただの憧れではなかったのでしょうね。自分もまたその縁の中にいるのだと、そう思いたくなるくらいには」

 葵。あるいは天竺葵――ゼラニウム。そんな益体もないことを考えながら、ホルスは眠る天竺を見下ろして小さく息を吐いた。

「ただ……あなたの霊力では乙女組には届かなかったでしょう」

 声音に嘲りはない。ただ、乾いた事実だけを置くような言い方だった。

「でも、その想いは本物だった。だからこそ、芽になった」

 ホルスは天竺の額にかかった髪をそっと払う。

「大切に使わせてもらうわ」

 そう言い残し、音もなくその場を去った。

 

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