人の疑いを消す方法は、二つしかない。
一つは、疑う理由そのものを潰すこと。もう一つは、疑いに対して、もっと退屈な答えを与えてやることだ。
前者は難しい。一度芽生えた関心を根こそぎ抜き取るには、相手の記憶に手を入れるしかない。だが後者なら、相手の側から勝手に納得してくれる。人は矛盾を嫌う生き物だ。目の前に一つでも筋の通った説明が転がっていれば、それ以上は掘らない。
松下千秋には、後者を渡す。
問題は、それをオレの口から言ってはいけないという点だった。説明された答えは疑われる。自分で見つけた答えだけが、その人間にとっての真実になる。
朝のホームルーム前、教室の窓際。松下は今日もノートを広げていた。オレは自席に着く前に、鞄の口をわずかに開けたまま、机の脇に立てかけた。
中身が完全に見えるわけではない。だが、角度によっては、上部に押し込まれた紙袋の口から、中身の一部が覗く。ケヤキモールの雑貨店のロゴが入った、なんの変哲もない紙袋だ。
三十秒ほど、意味のない動作で時間を潰す。教科書を出し、ノートを重ね、鞄の位置をわずかにずらす。
袋を最初から目立たせては意味がない。露骨に見せられたものを、人は情報として受け取らない。半分だけ隠れていて、覗こうと思えば覗ける。その塩梅でなければ、拾ったという感触が生まれない。
その間に、松下の視線が一度だけ動いた。オレの顔ではなく、机の脇へ。ほんの一瞬、瞬き一つ分の時間。それから彼女はノートに視線を戻し、シャープペンシルを動かし始めた。
ペンの動きは止まらなかった。表情も変わらない。だが、そこから数秒間、書かれた文字の間隔がわずかに広がったのを、オレは見ていた。
十分だ。
この女は、こちらが見せようとしたものを、見せられたとは思わない。自分が偶然拾ったものだと認識する。それが厄介であり、同時に、利用しやすい性質でもあった。
「清隆」
隣の席から声がかかった。幸村が参考書から顔を上げている。
「昨日の小テスト、平均が思ったより低かったらしい。次の範囲、櫛田あたりが勉強会を提案してくると思うが」
「そうか」
「参加するのか」
「気が向いたらな」
幸村はそれ以上を聞かず、視線を紙面に戻した。この男との会話は、必要な情報だけが最短距離で行き交って終わる。無駄がないという一点において、オレにとっては最も過ごしやすい相手だった。
「……ああ、それと」
一度閉じかけた口を、幸村がもう一度開いた。
「先週頼まれた件だが、あれ以降、向こうから何か言ってきたことはない。俺の方からも触れていない」
「そうか」
「必要なら言え。それだけだ」
余計な確認をしない代わりに、報告だけは正確に置いていく。使い勝手という言葉で括るには少し失礼な、律儀さだった。
昼休みの廊下は、三日前より確実に空気が変わっていた。
Aクラスの生徒が二人、こちらへ向かって歩いてくる。町田と、その半歩後ろを歩く森重だ。
「だから、あの日の組み合わせを最初に確認したのは誰なんだって話をしてるんだ」
「俺じゃない。俺は当日、聞かされた通りに動いただけだ」
「じゃあ誰が最初に知っていた? 誰かが先に知っていたから、あの順番になったんじゃないのか」
町田の声には、明確な苛立ちが混ざっていた。詰問というより、答えの出ない問いを繰り返す側の疲弊に近い。
森重は答えなかった。答えの代わりに、手元の生徒手帳を開き、何かの日付を指でなぞっている。おそらく体育祭当日の予定表だろう。自分の記憶が正しいことを、紙の上で確かめようとしている。
その仕草を見て、町田がわずかに眉を寄せた。信じていない相手が証拠を探す姿は、疑う側にとって、それ自体が新しい疑いの種になる。
数日前まで、この二人は同じ方向を向いて旧Cクラスを疑っていたはずだった。今は、互いの記憶の食い違いを潰し合っている。
疑いというのは、外に向けている間はまだ健全だ。標的が定まっているうちは、集団の結束はむしろ強まる。だが外側を探って何も出てこなかったとき、その視線は必ず内側へ折り返す。今がその段階だった。
オレは足を止めず、二人の脇を通り過ぎた。彼らはオレの存在に気づいてすらいない。
角を曲がったところで、壁にもたれかかっている神室と鉢合わせた。彼女は缶のブラックコーヒーを持ったまま、廊下の先を眺めている。町田たちの声は、まだかすかに届いていた。
「……あれ、いつまで続くのかしら」
独り言に近い調子だった。オレに向けられた言葉かどうかも怪しい。
「さあ」
「坂柳に言っても、興味なさそうに笑うだけだし。あんたたちのクラスは平和でいいわね」
神室はそう言って缶を傾け、それきりオレを見なかった。
彼女は苛立っている。だがその苛立ちの矛先は、噂の出所ではなく、取り合ってくれない自分のクラスのリーダーに向いている。これも予定通りだった。オレが最初に置いた一言は、もうどこにも残っていない。残っているのは、彼ら自身が育てた不信だけだ。
教室に戻ると、堀北が黒板の前で何かを書き写していた。次の小テストの範囲だろう。
「綾小路くん。少しいいかしら」
「なんだ」
「Aクラスの様子を、どう見ている?」
唐突な問いだった。だが表情に含みはない。純粋にクラス運営上の関心として聞いている。
「揉めているように見えるな」
「そうね。原因は分からないけれど、あちらが内側を向いている間は、こちらへの干渉も減る。悪い状況ではないわ」
「そうだな」
「ただ」
堀北はチョークを置き、こちらを見た。
「ああいうものは、収まるときに必ず外へ向く。誰かのせいにしないと終われないから。そのとき矛先がどこへ向くかだけは、見ておいた方がいい」
正しい読みだった。彼女は原因を知らないまま、その後に起きることの形だけを正確に言い当てている。
「覚えておく」
オレは短く答え、自席へ戻った。
放課後、ケヤキモール。
雑貨店の棚の前で、オレは小さな紙袋を手に取った。中身は、ひまわりの種の詰め合わせだ。野鳥用と札の貼られたその商品は、この一ヶ月ほどで急激に売れ行きを伸ばしているらしく、棚の一区画がまるごとそれに占領されていた。
会計を済ませ、袋を提げて店を出る。
中庭のベンチには、いつも通り坂本がいた。周囲には数え切れないほどの鳩とカモメが集まっている。彼が右手を軽く上げると、その群れが一斉に静まり返った。指揮者が指揮棒を構えた瞬間の、オーケストラのような静寂だった。
「綾小路君」
坂本はオレに気づくと、姿勢を崩さないまま、わずかに首を傾けた。
「わざわざお運びいただいたのですか。恐縮です」
「ついでだ。棚にあったから買ってきただけだ」
「そのついでが、彼らの冬を支えます」
坂本は紙袋を受け取ると、封を切らずに指先で軽く弾いた。中の種が、袋の内側で乾いた音を立てる。
「……少々、湿気を含んでいますね」
「わかるのか」
「音が違いますので」
彼はそう答えると、袋を陽の当たるベンチの端に置き、角度を三度ほど傾けた。ただそれだけの動作だった。
「三十分ほど置けば、最良の状態に戻ります。彼らに出すのは、それからにいたしましょう」
鳩たちは誰一人として袋に近寄らなかった。餌が目の前にあるにもかかわらず、彼らはベンチの周囲に整然と留まり、まるで開演を待つ観客のように、静かに待機している。
一羽だけ、若い個体が数歩前に出た。
坂本は視線すら向けなかった。ただ、膝の上に置いた指を、一度だけ小さく折り曲げた。
それだけで、その一羽は元の位置に戻った。
命令されたようには見えなかった。叱られたようにも見えない。強いて言うなら、その場の作法をあとから思い出したような、自発的な引き際だった。
オレは何も言わずにその光景を眺めた。
一ヶ月前なら、この場面で胃の奥が重くなっていた。今は何も感じない。理解を諦めるというのは、思っていたよりも快適な状態だった。
袋の中身が湿気を含んでいることを、この男は音だけで聞き分けた。三度傾ければ元に戻ることも、あらかじめ知っていた。ならば、日の当たる角度も、風の抜ける向きも、乾くまでの時間も、すべて座ったまま把握していることになる。
考えても仕方がない。オレは思考を打ち切った。
「綾小路君」
背を向けかけたオレに、坂本が声をかけた。
「最近、校内が少し静かすぎるようにお感じになりませんか」
「……そうか?」
「ええ。皆様、以前よりずっと穏やかにお過ごしです。ただ、静かすぎる水面というのは、底が見えないものでして」
彼は相変わらず微笑んでいるだけだった。含みがあるとも、ないとも取れる。
この男は、他人の悪意を悪意として認識しない。だからこそ、こちらの企みを見抜いた上で言っているのか、ただ天気の話をしているのと同じ調子なのか、判別する手段がない。
「気をつけるよ」
オレはそう返して、その場を離れた。
モールの二階通路から、ちょうど中庭が見下ろせる。
手すりの前に、松下が立っていた。
視線の先には、ベンチに座る坂本と、その傍らに置かれた紙袋がある。オレが渡したものだ。
彼女はしばらくその光景を眺めていた。それから、小さく息を吐くようにして、肩の力を抜いた。
「綾小路くん」
振り返らないまま、松下が言った。オレが階段を上がってきたことに、とうに気づいていたらしい。
「ケヤキモールに通ってたの、そういうことだったんだね」
「そういうこと、とは」
「坂本くんの、餌の買い出し。……あの人に頼まれたら、断れないもんね」
彼女は困ったような笑みを浮かべた。同情に近い表情だった。
「別に頼まれたわけじゃない」
「そう言うと思った。でも、頼まれてないのに毎日通ってるなら、そっちの方がもっと大変じゃないかしら」
的確な指摘だった。ただし、その的確さは完全に的外れな場所へ向かっている。
彼女は今、自分で見つけた答えに満足している。オレの不審な行動には、退屈で、少し気の毒な理由がついた。ここから先、彼女がわざわざオレの足取りを追う理由はもう存在しない。
「じゃあ、また明日」
松下は軽く手を振って、階段を降りていった。
オレはその後ろ姿を見送りながら、頭の中で一つだけ、消せない項目を残した。
彼女は「ケヤキモールに通っていた」と言った。オレは購買の裏手にも通っている。前回、彼女はその両方を並べて口にした。今回は、モールの件だけで納得している。
意図的に一方を伏せたのか、単に忘れたのか。
――どちらであっても、彼女の観察はまだ終わっていない。
その夜。
町田と森重は、互いの記憶を疑い合っている。神室の苛立ちは自分のクラスの内側に向いている。坂柳は依然として関心を示さない。
オレの側から追加で仕掛けたものは、何一つない。三日前に置いた一つの石が、まだ独りでに転がり続けているだけだ。
これでいい。手を加えれば加えるほど、痕跡は増える。最も安全な一手は、打たないという選択だった。
ただし、堀北の言葉は覚えておく必要があった。
内側を向いた疑いは、いずれ必ず外へ折り返す。誰かのせいにしなければ、人は終われない。そのとき、Aクラスが選ぶ標的が旧Cクラスであれば、オレの仕込みは完成する。逆に、こちらのクラスへ向いた場合は、面倒なことになる。
その分岐を決めるのは、おそらく坂柳だ。今は完全に興味を失っているが、無関心は永続しない。彼女がいつ顔を上げるか、そのときに何を見ているか。予測はできても、制御はできない。
窓の外では、いつもと同じ素振りの音が響いている。
袋を三度傾けただけで種の状態を整えた男と、その隣で退屈な答えに納得した一人の女子生徒。どちらも今日のオレにとっては、都合のいい結果だった。
ただ、坂本の言葉だけが、妙に耳に残っている。
静かすぎる水面。
オレはその意味を考えるのをやめ、明かりを落とした。