蒼き氷刃の事件目録 ―探偵達と歩む非日常的な執筆生活― 作:凜々
「……だめだ。あれから、あいつらの手がかりは何ひとつ掴めてないよ」
阿笠研究所のソファに深く腰掛け、江戸川コナンは小さく息を吐いた。
誘拐事件を解決して以来、毛利探偵事務所での生活には慣れてきたものの、自分を幼い姿に変えた「黒ずくめの男たち」に関する情報は一向に聞こえてこない。
「そう焦りなさんな、新一くん。いや、今はコナンくんじゃったな」
「焦るなって言われてもさ。……このままじゃ、どうしようもないよ」
コナンが子供らしくない口調で愚痴をこぼしていた、その時だった。
『――ピンポーン』
「おや、噂をすれば……いや、今日は彼女が来る日だったかな」
「彼女?」
首を傾げるコナンの前で、博士が玄関の鍵を開ける。
直後、軽やかな足音と共に、どこか浮世離れした穏やかな声が室内に響いた。
「こんにちは、博士。……あ、もしかしてお邪魔だったかな?」
現れたのは、栗色の長い髪を高い位置でまとめた、凛とした佇まいの女性だった。
ライムグリーンのラインが入ったライダースーツを完璧に着こなし、ヘルメットを脇に抱えて微笑む彼女の姿は、ひどく絵になる。
「いやいや、待っておったよ朱里くん! さあ、中へ入っておくれ」
コナンはソファから身を乗り出し、その女性――不二朱里を興味深げに眺めた。
彼女と阿笠博士の出会いは、少し前のことに遡る。
朱里が愛車のNinja ZX-6Rで遠出をしていた際、山道でエンジンの調子が悪くなってしまったことがあった。
途方に暮れていた彼女を救ったのが、たまたま学会で通りがかった阿笠博士だったのだ。
その場で鮮やかにメンテナンスを施してくれた博士にお礼をするため、後日彼女が研究所を訪れた際、さらなる縁が生まれた。
学会論文がドイツ語で、解読に手こずっていた博士を見かねた朱里が、さらさらとその場で翻訳を手伝ったのである。
以来、彼女は時折バイクのメンテナンスをしてもらう代わりに、博士が持ち込む洋書論文を翻訳するという、不思議な協力関係を築いていた。
しかし、彼女が訪れるのは決まって平日の日中。
隣家の工藤新一が学校へ通っている時間帯だったため、今日この時まで、二人の道が交わることは一度もなかったので、コナンは博士に年の離れた、しかも女性の友人がいるとは思わなかったのである。
「……で、博士。そっちにいる可愛いお客様は、誰なのかな?」
朱里はコナンに視線を向け、ふわりと微笑んだ。
その表情や言葉の端々に漂う空気感は、弟の周助に驚くほどよく似ている。
「あ、ああ。この子は江戸川コナンくん。わけあって、今日から毛利くんのところで預かることになってな」
「へぇ……江戸川コナンくん、か。素敵な名前だね。よろしくね、コナンくん」
朱里はコナンの視線の高さまで腰を落とし、優しく手を差し出した。
「……うん! よろしくね、朱里お姉さん!」
コナンは元気に子供を演じながら、その手を取った。
少し冷んやりとした、だがしなやかな指先。
(……阿笠博士の知り合いではあるが変な人じゃないだろうし、なんだか、仲良くなれそうだ)
コナンは、彼女から放たれるどこか掴みどころのない、それでいて包容力のある雰囲気に対し、純粋な好意を抱いていた。
対する朱里もまた、コナンを「少し大人びたところのある、聡明な子供」として捉えていた。
彼女が持つ「蒼き氷刃」としての鋭い感覚を持ってしても、この小さな少年がまさか薬で幼児化させられた高校生探偵だとは、微塵も疑っていない。
「博士、今日はブレーキの調整をお願いしてもいいかな? ……コナンくんも、もしよかったら一緒に見学する? 執筆の合間に食べるお菓子も、多めに持ってきたんだよ」
「わーい! お姉さん、ありがとう!」
朱里が差し出した激辛の柿の種を頬張りながら、コナンは彼女の隣を歩く。
まだ始まったばかりの非日常。
その険しい道のりに、不二朱里という「緑の旋風」が吹き込もうとしていた。