蒼き氷刃の事件目録 ―探偵達と歩む非日常的な執筆生活―   作:凜々

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第2話:アイドル密室殺人事件

 

「こんばんは。……あ、もしかしてお邪魔だったかな?」

 

 

探偵事務所の重いドアが開き、夜の湿り気を孕んだ風と共に、一人の女性が顔を出した。

栗色の豊かな髪を高い位置でまとめ、清潔感のある白いシャツに、動きやすそうなデニムのパンツスタイル。手にはヘルメットを抱えている。

 

「ええっと、どちら様でしょうか……?」

 

テレビの前で絶叫していた小五郎に代わり、蘭が不思議そうに玄関へ歩み寄る。夜分に訪ねてきたこの見知らぬ女性は、ライダースーツを完璧に着こなし、驚くほど涼やかで知的なオーラを纏っていた。

 

「初めまして。私は不二朱里。阿笠博士のところで仕事を手伝っているライターだよ。博士に頼まれていた届け物を持ってきたんだけど……コナンくん、いるかな?」

 

朱里はふわりと微笑み、奥でソファに座っていたコナンに視線を送った。

 

「あ、朱里お姉さん!」

「やあ、コナンくん。これ、私の姉から預かってきたお菓子だよ。皆で食べてね」

 

朱里が室内に入り、照明の下でその顔がはっきりとあらわになった瞬間、蘭の動きが止まった。その端正な顔立ち、そして何より、無造作に立っているだけなのに一切の隙がないその立ち姿。蘭の脳裏に、空手部の主将から聞かされた「ある伝説」がフラッシュバックする。

 

「あの……失礼ですけど、不二さんって、もしかして……杯戸高校空手部OBの、『蒼き氷刃』と呼ばれた不二朱里さんですか!?」

 

蘭の驚きを含んだ声に、朱里は少しだけ意外そうに目を細めた。

 

「おや、私のことを知ってくれているんだね。確かに高校は杯戸だったけれど……その名前で呼ばれるのは、なんだか照れるなぁ」

 

「やっぱり! 私、帝丹高校空手部の毛利蘭です! 不二さんのインターハイでの決勝戦、ビデオで何度も拝見しました。まさかこんなところでお会いできるなんて、感激です!」

 

蘭の瞳が、尊敬の念でキラキラと輝く。

中学・高校と全国を制覇し、氷のような冷静さで相手を制圧した不二朱里。空手に打ち込む蘭にとって、彼女は教科書に載る偉人のような存在だった。

 

(……ええっ!?)

 

コナンは隣で目を見開いた。

(あの博士の知り合いが、そんなにすごい空手家だったのか……? 昼間の服装や会話から、バイクに乗っているアクティブな人だとは思ってたけど……)

 

「ガハハハ! いやあ、これまたとびきりの美人がやってきたもんだ! 私は当探偵事務所の主、毛利小五郎です。いやあ、お姉さん、ぜひゆっくりしていってください!」

 

それまでテレビにかじりついていた小五郎が、手のひらを返したように鼻の下を伸ばして朱里の手を取ろうとする。

 

「ちょっとお父さん! 恥ずかしい真似はやめてよ!」

 

蘭が鋭い声でたしなめるが、朱里は気にする様子もなく「賑やかなお父さんだね」と穏やかな微笑みを崩さなかった。

 

朱里がお裾分けの菓子をテーブルに広げ、蘭が淹れたお茶を囲もうとした、その時。

 

 

『ピンポーン!』

 

静寂を切り裂くような、どこか切迫したインターホンの音が鳴り響く。小五郎が「こんな夜更けにどこのどいつだ」と毒づきながらドアを開けると、そこには深く帽子を被り、サングラスで顔を隠した女性が立っていた。

 

「……助けてください。私、誰かにつけられているんです」

 

その女性が帽子とサングラスを取ると、あらわになったのは国民的アイドル、沖野ヨーコその人だった。

 

「よ、よよよ、ヨーコちゃーーん!?」

 

小五郎の鼻の下が地面に届かんばかりに伸びる。一方で、蘭は「ええっ、本物!?」と唖然とし、コナンは「またこれかよ……」と言わんばかりのジト目を向ける。そんな対照的な一家の様子を、朱里は「ふふ、本当に賑やかな事務所だね」と、困ったような、それでいて楽しそうな苦笑いを浮かべて見守っていた。

 

事務所に招き入れられたヨーコは、青ざめた顔で誰かに監視されている不安を語り始めた。同行していたマネージャーの山岸栄一が、重々しく口を開く。

「彼女は今、大事な時期なんです。ですから、内密に調査をお願いしたい」

 

小五郎は二つ返事で快諾し、さっそく現場であるヨーコの自宅マンションへ向かうことになった。

 

 

「蘭、ボウヤ、お前らも来い! ヨーコちゃんの家に行けるんだぞ!」

「あ、あの、お父さん。不二さんは……」

 

蘭が申し訳なさそうに朱里を振り返る。だが、朱里はすでにヘルメットを手に取り、軽やかな動作で立ち上がっていた。

 

「気にしないで、蘭ちゃん。アイドルの日常に潜む影なんて、ライターとして少し興味があるかな。私もついて行ってもいいかな?」

 

「もちろんです! 不二さんがいてくれたら心強いです!」

 

小五郎たちがタクシーに乗り込む中、朱里は自分のバイクで後を追うことにした。夜の米花町をライムグリーンの閃光が駆け抜ける。不二朱里の愛車、Ninja ZX-6R。高回転のエンジン音が宵闇に溶けていく。タクシーの窓からその背中を見ていたコナンは、(不二朱里……。蘭が顔色を変えるほどの空手家で、バイク乗り。博士の知り合いにしては、ずいぶんアクティブな人だな)と感心していた。

 

 

ヨーコの住む高級マンションに到着し、彼女が震える手で鍵を開け、ドアを押し開ける。

その直後、廊下に突き抜けるような悲鳴が響き渡った。

 

「キャーーーーッ!!」

 

小五郎とコナンが部屋になだれ込む。朱里もヘルメットを脱ぎ、急いで室内に足を踏み入れたが、その瞬間に視界に飛び込んできた光景に、思わず息を呑んだ。

 

「……っ」

 

冷房が異常なほど効きすぎている室内の中心。血まみれの男がうつ伏せで横たわり、その背中には一本の包丁が深々と突き刺さっている。

「蒼き氷刃」として畳の上で数多の強敵と対峙してきた朱里だったが、本物の殺人現場を目にするのはこれが初めてだった。その凄惨な現実に、彼女は強く顔をしかめ、一歩後退りする。

 

「蘭! すぐに警察へ電話だ!」

 

小五郎の鋭い指示が飛ぶ。蘭が震える手で通報に向かう中、朱里は痛ましそうに被害者を見つめ、そっとコナンの肩に手を置いた。

 

「コナンくん、こっちにおいで。……あんまり見ないほうがいいよ」

 

朱里は優しく、だが守るようなトーンでコナンを現場から遠ざけようとした。彼女はあくまで一人のライターであり、善良な市民だ。探偵のように現場を観察することもなく、ただ突然の悲劇に戸惑い、幼い子供の心を案じていた。

 

 

 

 

間もなくして、目暮警部率いる捜査一課が到着した。捜査が進む中、関係者の聴取が始まる。

 

「さて、沖野さんと山岸さんはいいとして……。そちらの女性、君は?」

 

目暮警部に名前を問われ、朱里は名刺入れから一枚のカードを差し出した。

「私は不二朱里。阿笠博士の知人で、今回はライターとしての好奇心から同行させていただきました」

 

目暮警部が受け取った名刺。そこには【マルチリンガル・ライター 不二朱里】という肩書きの横に、小さく別の名前が添えられていた。

 

「な、なんだって……。君、このペンネームは……『蒼氷(あおい)』か!?」

 

「ええっ!?」

小五郎と蘭、そして山岸マネージャーまでが驚きに目を見開いた。

 

「『蒼氷』って、あの……海外のルポルタージュや短編小説で有名な、あの作家さん!?」

蘭が驚愕して朱里を見つめる。

 

「……照れるなぁ。有名だなんて、ただの書き手だよ。今日は博士の届け物のついでに、つい好奇心でついてきちゃったんだけど……こんなことになっちゃうなんてね」

 

朱里は困ったように微笑んだ。空手のレジェンドであるだけでなく、若くして知的な「蒼氷」としての顔も持つ彼女の正体に、一同は驚きを隠せない。コナンも、(おいおい、博士の知り合いはどいつもこいつも規格外かよ……)と、呆れを通り越して感心していた。

 

 

 

捜査は混迷を極めたが、コナンは現場に残された不自然な状況から、ついに真実へと辿り着く。

小五郎が偶然ひっくり返った拍子に、コナンは小五郎の声を使って推理を披露した。

 

「……この事件は、殺人ではありません。自殺です」

 

被害者の藤江明義は、ヨーコの元恋人だった。彼女への未練と誤解から、氷の中に包丁を立て、自ら背中から飛び降りることで、「密室殺人」に見せかけた最期の嫌がらせを彼女に残そうとしたのだ。

 

真実が明かされ、ヨーコは泣き崩れた。

犯人がいない、救いのない結末。朱里は、悲しみに沈む部屋を静かに見つめていた。

 

「……なんて、悲しいお話なんだろう」

 

中性的な、どこか寂しげな響き。

「愛が執着に変わる時、物語はいつもこうして、冷たい氷のように固まってしまうんだね」

 

朱里はコナンの方を向き、そっとその頭を撫でた。

「コナンくん。君、おじさんの隣ですごく頑張ってたね。……怖い思いをさせて、ごめんね」

 

その慈しむような言葉に、コナンは「ううん! 僕は大丈夫だよ、朱里お姉さん!」と、子供らしく笑ってみせた。朱里にとって、コナンはまだ「事件現場に居合わせてしまった賢い子供」に過ぎない。その瞳には、疑念ではなく、純粋な労わりだけが宿っていた。

 

夜明け間近の米花町。朱里は愛車に跨り、ヘルメットのシールドを下ろした。

 

「じゃあね、コナンくん。蘭ちゃんも、また空手の話を聞かせて。……次は、もっと明るいお話で会いたいな」

 

ライムグリーンの旋風が、夜の終わりを告げるように走り去っていく。

不二朱里という「蒼き氷刃」が、江戸川コナンの物語にそっと寄り添った、長い夜が終わった。

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