蒼き氷刃の事件目録 ―探偵達と歩む非日常的な執筆生活― 作:凜々
二月の張り詰めた空気の中、米花町の街角には奇妙な噂が流れていた。
「夜な夜な、閉館後の美術館で中世の甲冑が歩き回っている」
そんなオカルトじみた怪談に目を輝かせたのは、毛利蘭だった。
「ねえ、お父さん、コナン君! 美術館に行きましょうよ!」
「おいおい、そんな客寄せの作り話に決まってるだろ……」
小五郎は新聞を広げたまま気だるそうに鼻を鳴らすが、蘭の拳が事務所の机をみしりと鳴らした瞬間、父子の返事は「はい、喜んで!」に統一された。
美術館の入り口へ到着すると、そこには見覚えのある人影があった。
「あ、朱里姉ちゃん!」
コナンが声をかけると、パンフレットを眺めていた不二朱里が顔を上げた。
「やあ、コナン君。蘭ちゃんに小五郎さんも。奇遇だね」
「朱里さんも例の『動く甲冑』を見に来たんですか?」
蘭の問いに、朱里は穏やかに微笑んで頷いた。
「ええ。実は今、ホラー作品の執筆を考えていてね。中世の呪いや怪奇現象といった要素が、良いインスピレーションになればと思って足を運んでみたんだよ」
一行が館内へ入ると、長い髭を蓄えた穏やかな老人が近づいてきた。館長の落合である。
「ようこそ、米花美術館へ。私が館長の落合です。本日は私自らご案内しましょう」
落合は、蘭が熱心に見入っていた『天使の休息』という絵画を、まるで我が子を慈しむように丁寧に解説してくれた。
しかし、その穏やかな空気は、職員の窪田が展示品の絵画を素手でぞんざいに扱った瞬間に一変した。
「こらあ! 何度言えばわかるんだ、素手で触るなと!」
落合の凄まじい怒声に、一行は思わず肩を竦める。そこへ、一人の男が傲慢な足取りで近づいてきた。現オーナーの真中である。
「相変わらずカビの生えたガラクタを大事にしているようだな、館長」
真中は鼻で笑い、一行に向かって言い放った。
「この美術館もあと10日で閉鎖だ。一ヶ月後には取り壊して、ここに立派なホテルを建てる予定でね」
「えっ……閉館しちゃうんですか?」
蘭が残念そうに声を落とすと、落合は沈痛な面持ちで語り出した。
「前オーナーの会社がバブル崩壊で倒産してしまいましてね……。美術館を存続させる条件で真中氏に譲渡したのですが、彼は約束を破ってここを売り払ってしまったのです」
真中が去り際、窪田が運んでいた飾り付け用の甲冑が大きな音を立てて床に転がった。だが、先ほど絵画の件であれほど激昂した落合は、甲冑が乱雑に扱われても一言も注意せず、無表情にそれを見つめているだけだった。
(……おかしいな。さっきはあんなに怒鳴ってたのに、なんで今は何も言わないんだ?)
コナンが抱いた違和感は、隣にいた朱里も共有していたようで、二人は顔を見合わせ、静かにその光景を記憶に刻んだ。
一行は『天空の間』『大地の間』『海原の間』と順調に回り、最後に立ち寄ったのは、先ほどまで立ち入り禁止の札が立てられていた第四の部屋『地獄の間』だった。部屋の正面には、甲冑姿の正義の騎士が悪魔を串刺しにする禍々しい大作『天罰』が掲げられている。
その時、静寂を切り裂くように、床へ湿った液体が滴る不気味な音が響いた。
「……っ!」
振り返った一行の目に飛び込んできたのは、喉元を剣で貫かれ、壁に磔にされたオーナー・真中の無惨な遺体だった。その死に様は、目の前の絵画『天罰』の構図をそのまま現実へと写し取ったかのようであった。
「蘭ちゃん、すぐに警察へ! 小五郎さん、ここは現場の保全をお願いします!」
朱里が鋭く促すと、小五郎はハッとして我に返り、「ああ、任せろ! 誰もここに入れるな!」と、周囲を制止して現場の仕切りを開始した。
間もなく、目暮警部率いる捜査一課が現場に到着した。
「毛利君……また君かね」
目暮警部は呆れ顔を見せながらも、すぐに表情を引き締め、犯行の瞬間を目撃した者がいないか確認を始めた。職員から地獄の間に防犯カメラが設置されていることを聞き、一同は管理室へと向かった。
モニターに映し出された映像には、衝撃的な光景が記録されていた。
暗がりのなか、重厚な金属音を立てて歩み寄る中世の甲冑が、真中の背後から容赦なく剣を振り下ろす。真中は絶叫を上げ、のたうち回りながらも壁の札を剥ぎ取り、何かを必死に書き残そうとして絶命した。
「……この映像、あの絵画『天罰』にそっくりですね」
朱里がモニターを指して呟くと、目暮警部も深く頷いた。
一方で、映像と現場を交互に見ていた蘭が、ある違和感を口にする。
「あの……地獄の間の通路の入り口に、さっきまであった立ち入り禁止の立て札がなくなっています」
目暮警部は顎に手を当てて推測した。
「犯行時刻はビデオの通り午後四時半ごろ……。犯人は、犯行の最中に他の客を寄り付かせないよう、あらかじめ札を立てて入り口を封鎖した上で、この凄惨な計画を実行に移したというわけか」
警察が真中の握りしめていた札を確認すると、そこには「クボタ」と震える文字で書かれていた。現場からは書き込みに使われたと思われるボールペンも発見され、警察は職員の窪田に容疑の目を向けることになる。
しかし、コナンはモニターを凝視したまま、真中の死の間際の驚愕の表情に、拭い去れない疑問を抱いていた。
管理室の重苦しい空気の中、コナンは食い入るようにモニターを凝視していた。その隣で同じく映像を見つめていた朱里が、ふと画面の一点を指さして囁いた。
「ねえ、コナン君。真中さん、札を取った瞬間に何かを見てひどく驚いて、それからボールペンを投げ捨てていないかしら?」
朱里の指摘に、コナンはハッとして映像を見直した。確かに真中は、札を剥がした直後に目を見開いて絶望したような表情を浮かべ、その後、手近にあったペンを投げ出していた。
コナンは警察が回収した真中の札を改めて詳細に確認した。そこには「クボタ」という文字の上から、何度もペン先で紙をグリグリとえぐったような、激しい擦り跡が残されていた。
(……おかしい。さっき現場で見つけたボールペンは、ペン先が出ていなかったんだ)
死の間際の切迫した状況で、わざわざペン先を引っ込めてから捨てる余裕などあるはずがない。さらにコナンは、死体が磔にされた壁の周囲も思い出していた。
(そういえば、あの場所にかかっていた絵画には、返り血が一滴も付いていなかった……)
犯人は真中を殺害する際、あらかじめ展示されていた絵画を一時的に外していたのだ。それほどまでに美術品を慈しみ、汚れることを嫌う人物。そして、窪田に仕事を押し付けてアリバイを奪うことができた人物――。
「えーん、館長さん! トイレどこ? 地図書いて!」
コナンの子供らしい芝居が、落合に決定的なボロを出させた。落合は地図を書こうとペンを取り出そうとして、一瞬その手を止めた。そのペンが「書けない」ことを、実際に紙に当てる前から知っていたのである。
それを見ていた朱里が、静かに、しかし鋭く問いかけた。
「……なぜ書かないのですか、館長?」
すかさず、コナンが追い打ちをかける。
「そうだよ、どうして書けないペンを持っているの?」
落合が絶句する中、それまでの状況証拠を整理していた小五郎が、目を見開いて声を上げた。
「そうか! これは窪田さんが書いたものではなく、初めから書かれていたんだ! 真中さんは自分の名前を書き残そうとしたんじゃなく、犯人があらかじめ用意した偽のメッセージを必死に消そうとしていたんだな!」
「……お見事です、小さな探偵さんと、鋭い観察眼をお持ちのお嬢さん。それに毛利探偵も」
落合は穏やかな笑みを浮かべ、すべてを自白した。
「私は、悪魔になってしまったのですよ……」
連行される間際、落合はコナンに「坊や、トイレはもういいのかい?」と優しく問いかけ、去っていった。
事件後、小五郎の活躍により美術館は存続が決定した。
「わっはっは! 俺のおかげだな!」
調子に乗る小五郎の横で、朱里はコナンの頭を優しく撫でた。
「名探偵君、お疲れ様。……この物語の結末は、少しだけ切ない琥珀色だね」
コナンは小さく頷き、夕日に染まる美術館を静かに見上げた。