かつてそこには現在の人の種がこの地に生まれたばかりの頃、既に高い文明と文化を手にしていた種族が住んでいた。
 彼等は皆一様にたおやかな美しい容姿を持ち、自然を友と呼び、その恩恵を受けて穏やかに暮らしていたという。
 そして、その者達の澄んだ美しい声から紡ぎ出される言語(ルーン)は歌うような独特の音律を伴い、友である自然から自在にその力を引き出す事が出来たと伝えられていた。
 その伝説の中に生き、自然と共に暮らす心優しき()の種族を、後世の人々はこう呼んだ。
 ——自然の恩恵を受けし者(アルセリオン)——
 と……


 フレドリックは学び舎でその言語(ルーン)を修得した者だった。彼は旅の途中で知り合った剣士アインと共に、あるものを探してアルセリオンが各地に残した遺跡を巡っていた。
 その最中、一年程前から各地で噂されるようになった異形の獣——魔物(ディール)と出会い、二人は生死を掛けて戦うのだった。


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第1話

 抜けるような青空の下、樹々は何処までも鬱蒼と生い繁り、その深緑の懐の内に全てを抱き留めている。

 鳥達や動物の鳴き声、そして枝葉の間を渡る清風の囁きを子守歌に、それは静寂を友として深い眠りに身を委ね、在りし日の想い出を胸に、何時か再び自分を造り出した()の者達がこの地に訪れる事を夢想して、そこにひっそりと佇んでいた。

 かつてそこには、現在の人の種がこの地に生まれたばかりの頃、既に高い文明と文化を手にしていた種族が住んでいた。

 彼等は皆一様にたおやかな美しい容姿を持ち、自然を友と呼び、その恩恵を受けて穏やかに暮らしていたという。

 そして、その者達の澄んだ美しい声から紡ぎ出される言語(ルーン)は歌うような独  特の音律を伴い、友である自然から自在にその力を引き出す事が出来たと伝えられている。

 その伝説の中に生き、自然と共に暮らす心優しき()の種族を、後世の人々はこう呼んだ。

 ——自然の恩恵を受けし者(アルセリオン)——

 と……

 

 

 千年以上もの時を経て、密林の中に埋没しながらも樹々の根や枝葉の侵入を拒み、風雨による風化にも耐えて建てられた当時の姿を現世に留めるアルセリオンの民達が遺して行った建造物——遺跡の中に、一人の若者の姿があった。

 長身の、明るい茶色の髪をした二十代のその若者は、たった今磨き上げられたかのような白大理石の壁一面に彫られた美しい文様を、指でなぞりながら熱心に見入っていた。

 この世界のあちこちの地域でこれらの遺跡が発見された当初、壁の装飾として彫られたと思われていたそれは、後に一人の学者によってアルセリオンの民達の使っていた文字(ルーン)である事が判明し、今ではその解読も盛んにおこなわれていた。若者はその言語を正式に学んだ者だった。

 遺跡の中を回り、長い間壁に向かって一心不乱にルーンを読み耽っていた若者は、漸く最後の一行を読み終えると、落胆した様に溜息をついた。

「ここも、手掛かりはなしか……」

 前髪を片手で掻き上げ、壁に寄り掛かって力なくその場に座り込む。

 天井の明かり取りに開けられたクリスタル張りの穴から、うららかな陽射しが建物の中に射し込み、壁際に座る若者を優しく包み込んだ。

 暖かい陽溜りに(いだ)かれ、若者に口から思わず欠伸が漏れる。

 ——そう言えばこの三日間、壁とのにらめっこに夢中で、あんまり寝てなかったっけ……

 そう思うと余計眠くなってくる。

 ここにはもう用はないが、暇を持て余して何処かに行ってしまった連れが戻って来るまでここを発つ事は出来ない。それなら彼が帰って来るまでちょっと寝ていてもいいだろう。

 若者はそう勝手に結論づけると、襲い来る睡魔に抗うことなくその手に身を委ねた。

 

 

 ……

 …………

 あまり遠くない所で、誰かの言い争う声がする。

 一方は野太い男の声。そして、もう一方は——

「おい、フレドリック。このキンキン声は、お前のお姫様にモンじゃないか?」

 一緒に庭園に面した回廊を歩いていたオルトランが、明るい茶色の髪をした友人の脇腹を肘で(つつ)いた。

「ああ、ティアの奴、また何かあったらしいな」

 フレドリックは溜息をついた。

 この学院というより、一般的に学問を習う女性は非常に珍しかった。ここでも女学生は唯一人、ティア——エル・スティシアだけである。後は学生から教授、事務雑務員に至るまで男ばかりなのだ。つまり狼の中に迷える子羊が一匹状態だった。

 が、この子羊は中々気が強く、ちょっかい出されたら怯えて縮こまるような大人しい性格ではなかった。

 入試の時、広い院内で迷子になっている受験生のエル・スティシアを助けてやって以来、色々と世話を焼いている内に何となく彼女の保護者に収まってしまったフレドリックは、このテの騒ぎの仲裁に何時も奔走していた。

 その友の様を見て、オルトランはまるで姫を護る騎士の様だと揶揄(からか)い、彼女の事をお姫様呼びするのが常だった。

 それが解っているフレドリックは、何時もそこだけ綺麗にスルーしている。

「悪いが先に行って、席を取っててくれ」

 仕方ないとばかり、手にしていた本と筆記用具を友人に押し付け、フレドリックは回廊からひらりと庭園に飛び降りた。

「お、おい。午後の講義に間に合わなくなるぞ」

「その時は、お前がうまくやってくれ」

 慌てるオルトランに片手を挙げてそう応え、フレドリックは言い争う声を辿った。

 声は右手奥にある大講堂の方から聞こえてきている。声の調子からして、段々険悪になってきているようだ。

 庭園を横切り、大講堂の横手から正面の方に出る。そこにフレドリックのよく見知った二人の男女の姿があった。

 綺麗な蜂蜜色の髪をした、一見大人しそうな感じの美しい女性——エル・スティシアと、男の方は自分と同郷で同い年のデフェルトだ。

「さっきの言葉、いい加減取り消さないとただじゃ済まないわよっ」

 自分より上背も幅も二回りは大きい、がっしりとした体躯のデフェルトに、エル・スティシアは憤然と言い放った。

「へえ、どう済まないって言うんだ?」

 完全に馬鹿にしきってデフェルトはにやにやと訊き返す。

「こう、するのよっ」

 言葉を、エル・スティシアは行動で示した。

 つまり思いっ切り目の前の男の左(すね)を蹴りつけたのだ。

 これは痛い。

 見ていたフレドリックも思わず表情(かお)を引き()らせる。

 脛を押さえ、デフェルトは声もなくその場にうずくまった。

「どう? さっきの言葉取り消す気になったかしら?」

 エル・スティシアはうずくまる男を見下ろして畳み掛ける。

 それに憎悪に燃える双眸で応え、デフェルトは痛みを堪えて立ち上がった。

「——っの、アマっ!」

 猛然と眼前の小生意気な女に殴り掛かる。

 だが、エル・スティシアは咄嗟に動く事が出来なかった。

 ——殴られるっ

 棒立ちのまま、エル・スティシアは思わず目を瞑った。

 デフェルトの拳が白磁の顔面を捉える。

 その刹那、

 エル・スティシアの腕を、ぐいっとフレドリックが引っ張った。

 標的を失った拳は虚しく空を切り、勢い余ってデフェルトはたたらを踏んだ。

 が、何とか踏みとどまり、ギッと余計な手出しをした男に鋭い視線を叩き付ける。

 それをフレドリックはあっさりと受け流した。

「やあ、デフェルト。暫く会ってなかったけど、元気だったかい?」

 エル・スティシアを自分の後ろに避難させ、にこやかに自分と同郷の男に声を掛ける。

「フレドリック、貴様——っ」

 左脛の仇討ちの邪魔をされたデフェルトは、いきり立って昔馴染みに詰め寄った。

「そこを退けっ! その生意気な女に礼儀ってモンをきっちり教えてやるっ」

「それはこっちの科白(せりふ)だわっ」

 ムッとしたエル・スティシアが安全地帯から顔だけ出し、すかさず言い返す。

「年上の癖に、言っていい事と悪い事の区別がつかない人が、他人に礼儀を教えてやるだなんてお笑い(ぐさ)だわ」

「何だとぉ!」

「まあまあ」

 自分を挟んで互いに息巻く二人を宥め、フレドリックは時計塔の方に注意を促した。

「ほら、そろそろ午後の講義が始まる時間だけど、行かなくていいのかい?」

「何っ!?」

 デフェルトは慌ててこの賢智院(アルセルス)のシンボルタワーである蒼い時計塔の針を見る。

 確かに後三分弱で午後の講義が始まる。

 デフェルトの次の講義は、時間に煩いバンクシア教授だった。しかも講義室はここから一番遠い場所だ。必死に走って三分で辿り着けるかどうか——

 こんな女に構っている場合じゃない。

 サーっと血の気が引いたデフェルトは、気の利いた捨て科白(せりふ)を吐く間もなく、痛む左足を引きずって走り出した。

「やれやれ……」

 それを見送り、フレドリックは肩を竦めて溜息をついた。

「——で、原因は何なんだい?」

 自分の後ろで走り去るデフェルトに向かって、思いっ切り舌を出している三歳年下の元気の良過ぎる被保護者に訊く。

「講義の後、ウズベィク教授にこの間出したレポートを返されて、その時基礎はもう十分だから、来週までに来学期から受ける専門学科を決めてくるようにって言われたの」

 舌を出すのを止め、得意気にエル・スティシアが応える。

「へぇ、凄いな。三年で専科に進むなんて、随分頑張ったんだな」

 フレドリックは感心した。

 このアルセルスは、元々この地の先住民であるアルセリオンの民達が残していった、優れた文明文化を研究する目的で造られた学院だった。今実際に人々の生活に役立っている正確に時を刻む時計、ガラスの製法、下水道の工法、そして汚水処理の方法などは、皆ここでその仕組みを研究解明した結果であった。それが後に、それらの研究者を育成する学び舎へと変わっていったのである。

 ここで学ぶ学生達はそれらに興味がある者達が(つど)い、まずその基本であるアルセリオンの民達が使っていた文字(ルーン)の読み書きを習い、それから自分が研究したい学科へと進むのだ。

 だが、そのルーンが曲者だった。母子音合わせて百近くある上、名詞、動詞、修飾語の組み合わせによって、その都度変則的に母子音が変化するのである。その一つ一つ覚えるだけでも気が遠くなるのに、そこに文法が加わると眩暈がするほど複雑怪奇な代物となり果てるのだった。

 このアルセリオンの言葉は、まさに学生泣かせの厄介な言語なのである。

 けれどそれさえクリアしてしまえば、何時でもすぐに専門学科に進む事が出来るので、学生たちはそれを修得するのに皆必死になった。とはいえ、デフェルトの様に何年やっても足踏み状態の者も少なくなかった。フレドリックもそれを修得するのに五年近く掛かったが、エル・スティシアはそれを三年で終了したのである。

「そうよ、寝る間も惜しんで頑張ったのよ」

 もっとも厄介な母子音の変化や文法の簡単な覚え方とか、色々と彼に教えて貰って随分助かったけど……

「それをあいつったら、色仕掛けで進級をモノにしたんだろうって言ったのよ。その挙げ句、入学の時だって女だから点を甘くしてもらったんだろうって。でなきゃここに女が入れる筈がないって——」

 思い出すだけでも、ふつふつと怒りが込み上げてくる。

「こんな酷い侮辱受けたの、生まれて初めてだわ」

 わなわなと身を震わせ、エル・スティシアはぐっと拳を握り締めた。

「う~ん、それは確かに酷いな……」

 フレドリックは眉を(ひそ)めた。

「試験は全て公平に行われているんだし、第一ウズベィク教授はどちらかって言うと、もっとこうグラマラスな美人の方が好み——」

 と、そこまで言ってフレドリックは、自分に向けられたエル・スティシアの突き刺すような冷ややかな視線に、はたと気付いた。

「あ、いやっ、その——」

 しまった。つい口が滑った。と思っても後の祭りだった。エル・スティシアの軽蔑に満ちた冷淡な眼光は既に氷点下まで下がっていた。

 男って結局それよね——と。

 自分の好みは違うと言いたかったが、とても聞いて貰えそうになかった。

「そうだ、ティア。今日はもう講義はないんだろ?」

 わざとらしく咳払いして、すかさず話題を変える。

「ええ、それが何か?」

 そう応えたエル・スティシアの口調は、やけにつんけんして刺々しい。

 ——やっぱり相当ご機嫌斜めだな……

 フレドリックは苦笑して言葉を継いだ。

「それじゃ、専科への進級祝いにこれから何処かに行かないか? 何でも奢るよ」

「え? でも貴方は?」

 エル・スティシアは一瞬怒りを忘れ、三歳年上の先輩を見た。

「この後、午後の講義があるんじゃないの?」

 その他にも色々忙しいような事を昨日言っていたように思う。

「ああ、それなら——」

 ちらりとフレドリックは塔の時計を見た。

 既に講義は始まっている。今から行ってもあの気難しいラウレル教授の機嫌を損ねるだけだ。

「本と筆記用具が代わりに受けてくれるさ」

 と、にっこりと答える。

「不真面目ねぇ」

 呆れてエル・スティシアは講義サボリの現行犯を見返した。

「私、専科は貴方と同じ学科を取るつもりなの。そんな事やってると、私が先に術者(ルーサー)の資格取っちゃうわよ」

「そりゃまた大きく出たな」

「当然、なんたって夢が掛かってるんですからね」

「何時かアルセリオンの民達に会って、話をしたいっていうアレかい?」

「そうよ、だから彼等の言葉を完璧に身に付ける為にアルセルス(ここ)に入ったんですもの」

 胸をそびやかせ、エル・スティシアは昂然と言う。

 男に混じって彼女がこの学院に入った理由が、時空を越えて異世界に去って行ったと伝えられる伝説と化したアルセリオンの民に会い、話をしたいとは。

 さっきのデフェルトが聞いたらまた馬鹿にしそうな、いかにも少女趣味な動機である。だが、らしいと言えばらしいのかもしれない。

 ——相変わらずだな……

 くすっとフレドリックは笑みを零した。

「——と、言う理由(わけ)で……」

 どういう理由なのか、いきなり話を元に戻し、エル・スティシアは小首を傾げてフレドリックに念を押す。

「何でも奢ってくれるって、ホント?」

「あ、ああ……」

 唐突過ぎる話題の転換にフレドリックは途惑った。思わず頷く。

 それを見て、にっこりとエル・スティシアは微笑(わら)った。

 どうやら機嫌は直ったらしい。が、フレドリックがホッとできたのも束の間だった。

「じゃぁ、『カルセオラ』のフルコース、お願いね」

 片目を瞑って口許に悪戯っぽい笑みを浮かべ、エル・スティシアは軽やかに身を翻す。

「はぁ? ちょ、ちょっと待てよ、ティア」

 フレドリックは焦った。

 「カルセオラ」と言えば、この街でも最高級の部類に入る店だ。仕送り学生の身でそんな所でフルコースなど食べたら、明日から確実に生活出来なくなる。いくら何でも奢ると約束したとはいえ、それだけは勘弁してほしい。

 慌ててフレドリックはエル・スティシアを追い掛けた。

 ——懐かしい想い出の一場面(ワンシーン)……

 そして、(とき)は巡る。

 幸せだった頃の、記憶をなぞって——

 

 

「……ルシア・エル・ティア——

 優しく呟きながら、フレドリックは抱き締めた。

 その途端、悲鳴と共に力一杯拒絶された。

「うわっ、馬鹿っ、やめろ——っ!」

「ティア……!?」

 その声にハッと我に返り、フレドリックは自分の腕の中を見た。

 そこには蜂蜜色の柔らかな髪に菫色の瞳を持つ女性ではなく、冴えた銀の髪に、腰に長剣を佩いた自分と同年代の若者が必死にそこから逃れようと抵抗していた。

 ——フレドリックの待ち人、連れの剣士のアインである。

「うわっ!」

 心底驚いてフレドリックは慌てて腕を開いた。

「な、な、なんでお前が!?」

「そりゃ、こっちの科白(せりふ)だっ」

 フレドリックの腕から逃れたアインが、ムッとして言い返す。

「起こそうと思って近づいたら、いきなり抱き付きやがって。俺は男に抱き締められて、キスされて喜ぶ趣味はないんだからなっ」

 きっぱりと言い切る。

「俺にだってないよ」

 当たり前だと言わんばかりに、フレドリックも言い返す。

「俺が抱き締めてキスしたのは、柔らかな体の可愛い女性()の筈だったんだ。間違ってもお前みたいな骨張ったガタイの男じゃないぞ」

「悪かったな」

 アインは憮然となった。

「しっかし、よくこんな所で眠れるな。最近森ン中は物騒だって言われてるってのに」

 ここ一年程、奇怪な噂が各地で同時に囁かれるようになっていた。夜になると今まで見た事も無いおぞましい異形の獣が森の中から突然現れ、人や家畜を襲ったりしていると。その化け物の姿は様々で、人々はそれらを称して「魔物(ディール)」と呼んでいた。

 もっとも何度もこうやって遺跡調査で森の中に入っているが、今までそんな獣に二人は出会った事はなかった。まぁ、ただの噂に過ぎないだろうが、それでも用心するに越したことはない。

「だから、お前がこうやって付き合ってくれてるんだろ」

 頼りにしているよ。と、フレドリックはにっこり笑って連れの剣士の肩をポンと叩く。

 ——たく、こいつは……

 アインは調子のいい呑気な連れを横目で見やり、溜息をついた。

 と、呆れ顔が不意に真剣なものになった。

 身構え、何かを探る様に周囲を窺う。

「どうした?」

 アインのただならぬ様子に、フレドリックが怪訝そうに声を掛ける。

 それを口に指を当てて黙らせ、アインは腰の長剣を抜き放って構えた。

 周りは何時の間にか暗くなり、天井の明かり取りから射し込んでいた暖かな陽溜まりも既になくなって少し肌寒くなっていた。

 突如、けたたましい音と主に頭上の明かり取りのクリスタルが粉々に砕け、黒い塊が次々と降って来た。

「——っ!?」

 咄嗟に二人は跳び退(すさ)り、それを避けた。

 驚きに目を(みは)る。

 天井より床に降り立ったそれは、見た事も無い醜悪な姿形のおぞましい獣だった。これが話に聞くディールという奴なのだろう。

「噂をすれば影ってか……」

 ——ったく、招かざる客ほど図々しく大勢で押しかけてきやがる。

 アインは苦々しく舌打ちした。

 ディールの咆哮が遺跡の中に響き渡った。

 手前の奴が一斉に襲い掛かる。

 ディールの鋭い爪が銀髪の剣士の顔面に迫った。

 さっと身を引き、それに空を切らせると、アインは剣を一閃させる。

 襲って来た一匹を斬り飛ばし、返す刃で別の一匹を屠る。

 血飛沫が大理石の床を赤黒く染め、その上に醜悪なディールの体躯が転がった。

 その仲間の屍を踏み付け、別の奴が銀髪の剣士に跳び掛かる。

 それを袈裟懸けに斬り捨て、アインは次の獲物に視線を走らせた。

「くっ……」

 フレドリックは手にした短剣で、辛うじてディールの一撃を受け止めた。

 が、凄い力だ。

 受け止めた短剣がディールの長い鋭利な爪と共に、じりじりとフレドリックの方に押し戻される。

 そこへ、別のディールが襲い掛かって来た。

 一匹で手一杯のフレドリックには、それを躱す事は出来ない。

 ——()られるっ

 フレドリックは観念した。

 絶叫が、遺跡の中に木霊した。

 薄暗闇の中、ドウっと白い床に黒い塊が倒れる。

「フレドっ!」

 剣でディールを薙ぎ倒し、アインは連れの名を呼んだ。

「ああ、大丈夫だ」

 壁に寄り掛かり、フレドリックはホッと息をつく。

 その足許に異形の獣の屍が二匹転がっている。間一髪、アインが駆け付けて斃してくれたのだ。

「お前のお蔭で助かったよ」

「礼を言うのはまだ早いぜ」

 肩越しにフレドリックに応え、アインは剣を構えて前方を見据えた。

 そこには無傷のディールがまだ十匹以上いた。こいつ等を斃さない限り、本当に助かったとは言えない。

「……アイン、暫く時間を稼いでくれ」

 そう言うと、連れの返答も待たずフレドリックは目を閉じ、静かに何かを唱え出した。聞く耳に心地よい澄んだテノールの、歌うような音律を伴った不思議な言葉を。

「——太古より共に在りし我が友よ(ファム・ル・シル・エル・フレト)その力を我に貸し与え賜え(セラ・エル・ファラーナ)……」

 それは、この遺跡の壁に刻まれている文字、自然の力を操るというアルセリオンの民の言語(ルーン)だった。

 一体連れが何をする気なのかと訝りながらも、アインは襲い来るディール相手に奮闘した。

 だが、それにも限りがある。

 ディールの鋭利な爪に皮膚が裂かれ、血が滲む。

 そろそろ独りで防ぐのも限界だった。

 ふっと、ルーンを唱える声が途切れる。

「アイン、下がれっ」

 異形の獣と闘う連れにそう叫び、同時にフレドリックは強い意志を込めて一つのルーンを口にした。

ハルシース・ラル

 その声を受けて、大気が動いた。

 激しく逆巻いて竜巻の形に姿を変え、次々と異形の獣達を呑み込むと、そのまま天井の明かり取りの穴から遥か上空へと姿を消した。

「……おい」

 その一部始終を呆然と眺めていたアインは、ぼそっと傍らの連れに声を掛けた。

「一体、何がどうなったんだ?」

「ああ、大気(シルス)に目の前のディール達を、何処かに連れて行ってくれと頼んだんだ」

 自分でやっておきながら、フレドリックも驚いたように応える。

 まさかこんな風になるとは思ってなかったようだ。床に倒れていたディール達の屍も綺麗さっぱり無くなっている。

「そういや、お前、前に術者(ルーサー)だとか言ってたよな」

「まあ、一応……」

「こんな凄い術があるんなら、何故もっと早く使わないんだっ」

 お陰で独りで戦わされて、一時はマジで危なかったのだ。

「そうは言っても、元々ルーンはこんな荒事に使うものじゃないんだ」

 声を荒げて詰め寄る連れを宥め、フレドリックは説明した。

 精神統一して正確に発音しなくては効果がないので、戦いながら片手間に唱えるのは無理なのだと。アインが時間を稼いでくれたからこそ出来たのだ。

 それに上手くいくかどうかは賭けだった。効果があったから良かったものの、失敗に終われば二人とも今頃命はなかっただろう。

「とにかく、他の奴等が来ないうちに急いでここを離れよう」

「そうだな」

 それにはアインも賛成だった。

 すぐさま遺跡を出て、密林の外を目指す。

「なあ、お前。何時までこんな遺跡巡りを続ける気だ?」

 これらの遺跡は人も通わぬ密林の奥深くにあるのが普通だ。旅の途中で知り合い、気が合って何となく付き合っているアインは、フレドリックが何の為にアルセリオンの遺跡を訪ね歩いているのか知らなかった。

 ディールの噂が本当だった以上、こんな事を続けていればこれからも奴等と鉢合わせする事になるだろう。今回は何とか凌いだが何時もそう上手くいくとは限らない。ただの学術調査の為だけなら、こんな命を張るような真似は止めた方がいい。でないと、本当に命を落とす羽目になる。

「目的の(ルーン)が見つかるまでだよ」

 夢を追い、不完全なルーンとも知らずに使って、自分の目の前で異空間に消えて行ったエル・スティシア。彼女を呼び戻す為にも、完全な形の「時と空間に関する術(ルーン・レム・サークセラ)」が是非とも必要なのだ。

 アインの言うことは判る。だが、これだけは止める訳にはいかなかった。

「でも、だからと言って、お前が無理に付き合う必要はないよ」

「何言ってんだよ」

 バンっとアインは明るい茶色の髪の若者の背中をどやし付けた。

「やっと旅に面白味が出て来たってのに、ここで降りたらただの馬鹿だぜ。お前が邪魔だと言っても、俺は絶対離れないからな」

「アイン……」

 意外そうにフレドリックは銀髪の剣士を見返した。

 さっきは本当に危ない処だった。安全な所に着いてからと手当てがまだな体の傷は、血は止まってはいるものの、痛々しくて見ていられない程だ。こんな目に会った後だし、元々アインには関係ないのだ。ここで降りると言われても恨みはしないのに、これからも付き合ってくれるというのか……

「但し、寝惚けて抱きつくのだけは止めてくれよ」

 アインがわざと(しか)めっ面をして見せて軽口を叩く。

「分かっているよ」

 こっちだって二度と御免だと苦笑して、物好きな剣士にフレドリックは応えた。

 ——ティア、何時か必ず君を呼び戻してみせる。そして、君にずっと言えないでいた一言を伝えよう。

君を愛している(ルシア・エル・ティア)』と——

 それだけが今のフレドリックの唯一の願い——夢だった。

 夜の(とばり)が、静かに二人の頭上に降りようとしていた。

 

                                〈夢追い人 了〉

 

 




 この短編は「アルセリオンの歌声」の番外編のようなものです。
 ここに出てくるフレドリック他数名は、本編である「アルセリオンの歌声」にも出てきます。
 本篇の方はまだここに出せる段階ではないので、取り敢えずこれを先に出しました。


 思うようなルーンのフォントが無く、最後はもうこれでいいやと決めました。

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