数日後。
店の休みの日。澄が朝から家の手伝いを終えて一息ついていると、縁側の外から声がした。
「澄ー!」
見れば、こいしがいつもの帽子を揺らしながらこっちに走ってきた。
「迎えにきたよ!」
「……早い」
「行くって言ったでしょ?」
こいしは楽しそうに笑い、澄の手を引いた。
「今日は地霊殿に行く日!」
⸻
人里を離れ、人気の少ない場所まで来たところで、澄は思わず足を止めた。目の前には、大きな縦穴が口を開けていた。地面にぽっかりと空いた、底の見えない闇。
風が下から吹き上がり、ひゅうと音を立てる。
「……深い」
思わず本音が漏れる。
「ここから地底に行くの?」
「うん!」
こいしは当然みたいに頷いた。落ちたら普通の人間は即死だろう。澄は穴を覗き込み、それからこいしを見る。
「……どうやって?」
「こうやって」
次の瞬間、こいしはひょいと澄の体を抱き上げた。
「……え」
気づいた時には、澄はこいしに抱えられていた。いわゆる、お姫様抱っこだった。
「しっかりつかまっててね!」
「ちょ、待っ――」
言い終わる前に、二人の体がふわりと浮き、そのまま穴の中へ落ちるように降りていった。風が耳元を抜けていく。澄は反射的にこいしの首へ腕を回した。
「……こわい」
「だいじょうぶだいじょうぶ!」
こいしは妙に楽しそうだった。しばらく降りていくと、穴の壁際に何かが見えた。木桶のようなものが、宙に浮かんでいる。
「……あれ、なに」
澄が目を凝らす。桶の中から、小さな少女がひょこりと顔を出していた。
丸い目で、きょろきょろと辺りを見回している。けれど、こちらには気づいていないようだった。
「キスメだよ」
こいしが気軽に言う。
「桶に入ってる子」
「そのままなんだ」
「うん、そのままだよ」
キスメはしばらく周囲を見回したあと、不思議そうに首をかしげ、また桶の中へ引っ込んだ。
「……かわいい」
澄が思わずそう呟くと、こいしは少しだけ口を尖らせた。
「ふーん」
「…なに」
「別にー」
そう言いながらも、こいしはどこか面白くなさそうに視線を逸らす。いつもの明るい調子のままなのに、ほんの少しだけ拗ねているようだった。
澄はその顔を見て、なんとなく首をかしげる。
⸻
やがて足元に地面が見え、二人は軽やかに着地した。
「ついた!」
「……生きてる」
澄は小さく息を吐く。そして、澄の手をこいしが自然に握った。
「こっちこっち」
「…ん」
「繋いでると、見つかりにくいから」
こいしは軽い調子で言う。その瞬間、周囲の空気がふっと遠のいた気がした。澄の存在が、少し薄くなったような感覚。これが、こいしの能力なのだろうか?
少し進んだ先の岩陰に、一人の少女がいた。
黒と茶を基調にしたふくらみのある服を着ていて、腰には黄色い帯のような飾りが巻かれていた。一見すると愛らしい少女にしか見えない。あの少女も、私たちに気づいてないようだ。
「……あの子は?」
澄が小声で尋ねる。
「ヤマメ」
こいしも小さな声で答える。
「土蜘蛛だよ」
「つちぐも」
「うん。気づかれたら面倒だから、手は離さないでね」
どうやら、こいしと手を繋ぐことで気づかれなくなるようだ。
「……見つかったら食べられる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
こいしは楽しそうに笑う。
地底の町は、人里とはまるで違っていて、洞窟の中とは思えないほど広く、あちこちに灯りが揺れている。
和風の家が並んだ町並み。豪快な笑い声。そして、そこら中で酒を飲んで騒ぐ鬼たち。
大きな盃を掲げ、肩を組み、歌い、笑っている。
「すごい……」
澄は思わず足を止めた。見たことのない景色だった。知らない場所、知らない空気、知らない生き物たち。少し怖いはずなのに、それ以上に胸が弾んでいる。
「楽しそうだね、澄」
こいしが横から覗き込む。
「……うん」
澄は素直に頷いた。その反応を見て、こいしも嬉しそうに笑った。
やがて、大きな橋が見えてきた。その欄干に、一人の少女が座っている。金色の髪。どこか退屈そうな顔。
「……あの人は?」
「パルスィ」
こいしが答える。
「橋姫だよ。すっごく嫉妬深いけど、いい子だよ」
「嫉妬深いのに?」
「うん。嫉妬深いだけ」
よく分からなかった。
パルスィはこちらに気づく様子もなく、遠くを眺めている。二人はその横を、静かに通り過ぎた。
さらに奥へ進む。やがて、巨大な屋敷が姿を現した。重厚な門。広い庭。地底の中にそびえる、異様なほど立派な館。
澄は思わず見上げる。
「……ここが?」
「うん!」
こいしは胸を張って笑った。
「地霊殿とうちゃーく!」
ーーーーー
地霊殿の扉をくぐると、ひんやりとした空気が二人を包んだ。外から見ても大きかった屋敷は、中に入ると更に広く感じる。
ついさっきまでいた旧都は、酒盛りの笑い声と喧騒に満ちていた。鬼たちの怒鳴り声、盃のぶつかる音。
地底とは思えないほど賑やかで、熱のある町だった。けれど、その扉を一枚越えただけで、世界が変わる。
音が遠い。
外の騒がしさは厚い壁の向こうへ押しやられ、屋敷の中にはしんとした静けさが残っていた。長い廊下に足音だけが響く。空気は冷たく、まるで、賑やかな町の中にありながら、ここだけ切り離されているみたいだった。
「……広い」
澄が小さく呟く。
「でしょー?」
こいしは楽しそうに笑い、そのまま澄の手を引いて歩きだした。
ここへ来るまでにも、いろいろな妖怪を見た。
鬼。土蜘蛛。橋姫。
姿も空気もそれぞれ違う。それを思い出しながら、澄は何となく口にする。
「こいしは、どんな妖怪なの」
何気ない問いだった。けれど、その瞬間こいしの足が止まった。
さっきまでの軽い空気が、重くなる。澄はすぐに聞かない方がよかったことだと気づく。
「…やっぱり、いい」
言い直しかけた時。
「覚妖怪だよ」
こいしは振り向かないまま答えた。
「もう心なんて読めないけどね」
軽い口調だった。冗談みたいに、さらりと言う。けれど澄は、その名を知っていた。
人の心を読む妖怪。人にも妖怪にも忌み嫌われる、嫌われ者の妖怪。
人里でも、絶対にかかわってはいけない存在として語られている。思わず、澄は黙ってしまった。知っている話と、目の前のこいしがうまく結びつかなかった。
だんごを食べて、笑って、くだらない話をして。いつも隣にいる少女。その少女が、そんな妖怪だということに。
こいしはゆっくりと振り向いた。そこにあったのは、いつもの笑顔ではなかった。不安そうで、私の返事を怖がっているような顔。澄は、そんな表情のこいしを初めて見た。
「……やっぱり、嫌?」
「え」
「私が嫌われ者の妖怪なの」
声は明るいままなのに、どこか弱い。
「そういう顔、いっぱい見てきたし」
澄ははっとする。
自分は嫌がっているわけではない。怖がったわけでもない。
ただ、驚いていただけだった。
それなのに
こいしは、もう嫌われたと思っているみたいだった。
「ちが――」
嫌いになんてならない。そう言おうとした、その時。
廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「こいし様ー!」
明るい声とともに、赤い髪の少女がこちらに走ってきた。猫耳と、揺れるしっぽ。
「……あれ?」
少女は澄を見て、目を丸くした。
「人間?」