廊下の向こうから現れた赤い髪の少女は、澄を見るなり目を丸くした。猫耳がぴんと立ち、細い2本の尻尾がふわりと揺れる。
「えっ、人間!? 珍しー!」
驚いた声が館の静けさに響いた。澄は少しだけ姿勢を正して、ぺこりと頭を下げる。
「……こんにちは」
「わ、ちゃんと挨拶された」
少女――お燐は楽しそうに笑った。
その横で、澄はちらりとこいしを見る。さっきまでそこにあった、不安そうな顔はもうどこにもなかった。いつもの、ふわふわと掴みどころのない空気。明るく笑って、何もなかったみたいなこいしに戻っている。
「こいし様!」
お燐は尻尾を揺らしながら駆け寄った。
「さとり様、すっごく心配してましたよ! またふらっといなくなるんだから」
「えへへー」
「えへへじゃないです!」
「このあと顔出しにいくつもりだよー」
こいしは悪びれもせず言う。お燐はやれやれと肩をすくめ、それから澄へ視線を戻した。
「……ん?」
澄がじっと見ている。
正確には、お燐の頭と後ろ。
猫耳。
そして揺れる尻尾。澄の目は、さっきからそこに釘付けだった。
「……気になる?」
「……うん」
素直だった。
お燐はくすっと笑う。
「触る?」
「……いいの?」
「いいですよー」
澄はおそるおそる手を伸ばす。
まず猫耳へ。指先がふわりと毛並みに触れた瞬間、耳がぴくっと動いた。
「……!」
澄の目が見開かれる。
次に尻尾。
そっと撫でると、さらさらと柔らかい毛が指を流れていった。
「……うおぉ……」
思わず漏れた声だった。
普段あまり感情を表に出さない澄らしくない反応に、目まできらきらしている。
「そんな喜ぶ!?」
お燐が吹き出し、こいしもけらけら笑った。
さっきまで廊下に残っていた重たい空気は、いつの間にかすっかり消えていた。
「改めまして、火焔猫燐です。お燐って呼んでくださいな!」
お燐は胸を張って名乗る。澄もぺこりと頭を下げた。
「……雨宮澄です」
「へえ、人里の子かあ」
「そうだよー」
こいしが澄の肩に軽く寄りかかる。
「私のおともだち」
澄はこいしを見て、少しだけ間を置いた。
それから、素直に頷く。
「……うん。ともだち」
こいしは一瞬きょとんとして、それからぱっと嬉しそうに笑った。
「えへへ」
「お二人はとても仲がよろしいんですね!」
お燐はそのやり取りを見て、にやにやと口元を緩める。
「さとり様のところに案内しましょうか?」
「だいじょうぶだよー」
こいしが先にこたえる。
「お姉ちゃんがどこにいるかくらい、わかるし」
「それもそうですね」
お燐はくすりと笑い、澄へ軽く手を振った。
「またあとで、お客さん」
「うん、また」
そうしてお燐と別れ、澄とこいしは二人で廊下を歩きだした。
長い廊下だった。
赤い絨毯の上に、二人分の足音だけが小さく響く。しばらく進んだところで、こいしがふいに立ち止まる。
「……やっぱり、お姉ちゃんに会うのやめない?」
あまりに突然で、澄は足を止めた。
「…なんで?」
こいしは背を向けたまま、小さく言う。
「お姉ちゃん、私と違って心が読めるから」
少し間があく。
「澄を、傷つけちゃうかもしれない」
澄は首をかしげた。
「…心読まれたくらいで、傷つかないよ」
「そんなの、わかんないよ」
こいしの声は珍しく強かった。
「知られたくないこと、誰にだってあるし」
「私はないよ」
「あるよ」
「ない」
澄は淡々と言った。
「別に、まずいこと考えてないし。へっちゃら」
こいしは何も返さない。ただ、そこから動かなかった。澄には今、こいしがどんな顔をしているのかわからない。けれど、心配している理由は、それだけではない気がした。
覚妖怪。
人の心を読む妖怪。
もし澄が、さとりと会って怖がってしまったら。嫌な顔をしたら。
その時、こいしまで一緒に嫌われると思っているのかもしれない。あるいは、澄が離れていくと。
「…こいし」
澄は静かに呼ぶ。
「私が、こいしのお姉ちゃんのこと怖がって、こいしのことも嫌いになるかもって思ってる?」
こいしの肩が、ぴくりと揺れた。
返事はない。それが答えみたいだった。さっきの私の反応で、不安にさせてしまったのかもしれない、澄は少しだけ息を吐く。さっき、言いそびれた言葉があった。
今ならちゃんと言える気がした。
「…私は、こいしのこと嫌いになんてならないよ」
こいしの背中が固まる。
「こいしは、私の大切な友達だから」
静かな廊下に、澄の声だけが落ちていく。
「どんな妖怪でも、周りに何を言われてても、関係ない」
私の横に座って、ほっぺいっぱいにだんごを詰め込む姿。くだらない話で、楽しそうに笑う姿。ふいに距離を詰めてきて、子供みたいに甘えてくる姿。さみしそうな顔を隠して、いつも平気なふりをする姿。
あの時のこいしは――。
人里で噂されるような、恐ろしい妖怪なんかじゃなかった。
誰かに見つけてほしくて、誰かに忘れられたくなくて、誰かに嫌われることを、誰よりも怖がってる。
ただの、少し不器用で、少し寂しがり屋で。
そして、とてもやさしい女の子。
「私がこいしを嫌いになることなんて、一生ないよ」
しばらく沈黙が続いた。やがて、こいしがゆっくり振り向く。その顔を見て、澄は少しだけ目を見開いた。
泣いていた。
声もなく、取り乱しもせず、ただ、静かに。透き通るみたいに綺麗に。涙だけが頬を伝っていた。次の瞬間だった。
「わっ――」
こいしが、勢いよく澄へ飛びついた。受け止めきれず、そのまま二人そろって倒れこむ。赤い絨毯が衝撃を和らげたとは言え、澄は思わず息を漏らした。
「……いたた」
「えへへ!」
こいしは澄の上に乗ったまま、楽しそうに笑っている。さっきまで泣いていたとは思えないくらい明るい顔だった。けれど、目元にはまだ涙の跡が残っていた。
「一生、嫌わないってほんと?」
顔を近づけて、こいしが覗き込む。
「うん、ほんと」
「なにがあっても?」
「うん」
澄は迷わずうなずいた。
「なにがあっても」
こいしはしばらく澄を見つめる。いつものぼんやりした視線ではなく、まっすぐで、確かめるような目だった。
「…こんなの、はじめて」
こいしが小さく笑う。
「澄と会ってから、私、なんだか変わっちゃった」
「…そう?」
「うん」
こいしは少し考えるように視線を揺らした。
「自分が自分じゃないっていうか」
「心を閉じる前の、昔の私に戻ったみたいなの」
その言葉は、冗談みたいに軽く言ったのに、どこか大切そうだった。
「澄は、すぐ私を見つけてくれる」
「…うん」
「ちゃんと、私のこと見てくれる」
こいしの手が、そっと澄の袖をつかむ。
「次の日も、その次の日も」
「私のこと忘れずに、こいし、またねって言ってくれる」
館の静けさの中で、こいしの声だけが柔らかく響く。
「…私」
少しだけ言葉を詰まらせて、こいしは澄の胸元へ額を寄せた。
「澄にだけは、嫌われたくない」
「離れたくない」
「ずっと……私のこと、見ていてほしい」
澄はしばらく何も言わなかった。ただ、その言葉の重さを静かに受け止める。それから、そっとこいしの背中へ手を回した。
「…うん」
短い返事だった。けれど、こいしには十分だった。こいしはまた、泣きそうな顔で笑った。