――コツ、コツ。
静かな廊下に、靴音が近づいてくる。澄ははっとして身を起こしかけた。
「……こいし、誰か来たよ」
「んー」
こいしは澄の上に乗ったまま、動こうとしない。
「……どいて」
「やだー」
困っているうちに、足音の主が視界へ現れた。肩ぐらいの桃色の髪。落ち着いた佇まい。胸元には、こいしと同じ目。澄は、その胸元の奇妙な目を見て、ふと昔の話を思い出した。
(第3の目って言うんだっけ)
人里で妖怪のことを聞かされた時、さとり妖怪には“第三の目”というものがあるのだと、誰かが言っていた。今、自分の前にあるそれを見ながら、澄はぼんやりと思った。
けれど、こいしと違って、その瞳は静かに開かれていた。どことなく顔立ちも似ている。澄はすぐに気づいた。
(…こいしのお姉ちゃん)
その女性は、床に倒れた澄を上から覗き込む。澄はぼんやり考える。
――今、心読まれてるのかな。
その瞬間、女性はわずかに目を見開いた。
「……驚きました」
静かな声だった。
「心を読まれても、恐れない人間がいるなんて」
やっぱり読めるんだ。そう思っていると、女性は視線をこいしへ向けた。
「こいし、どいてあげなさい」
「お姉ちゃん!」
こいしはぱっと顔を上げ、今気づいたみたいな声を出すと、すぐに澄の上から退いた。姉の言葉はちゃんと聞くらしい。澄は体を起こしながら、なんとなく微笑ましく思った。
「まったく……」
女性――さとりは小さくため息をつく。
「どれだけ帰ってこなかったと思っているのですか」
「えへへ」
「えへへ、ではありません」
少し厳しい声だった。
けれど、その奥には安堵が滲んでいる。ずっと心配していたのだろう。こいしは悪びれもせず笑う。
「わかったよー。これからはちゃんと帰る」
「本当でしょうね?」
「たぶん!」
「……はあ」
さとりはまたため息をついた。それから、澄へ向き直る。
「失礼しました」
丁寧に一礼する。
「古明地さとりです。この子の姉をしております」
澄も慌てて頭を下げた。
「……雨宮澄です」
改めて見る第三の目は、こいしのものとは違って、静かにこちらを見つめている気がした。さとりは少しだけ口元を緩める。
「あなたは、妖怪を恐れないのですね」
「……そうかな」
「いえ」
さとりは穏やかに続ける。
「恐れより、好奇心の方が勝っている。そういう心です」
澄は少しだけ目を丸くした。
……ほんとに読めるんだ。
「怖いですか?」
さとりが問う。
澄は首を振る。
「……全然」
さとりはじっと澄を見つめたあと、ふっと笑った。
「どうやら、本当のようですね」
それから視線をこいしへ移し、少しやわらかな顔になる。
「こいしがお世話になっているようですね」
「……いや」
澄はこいしを見る。
「よく食べ物、横取りされます」
「ちがうもん!」
こいしがすぐ否定する。
「澄が食べるの遅いからだもん!」
「……人の団子なのに」
「置いてある方が悪いの!」
「理不尽……」
言い合う二人を見て、さとりは静かに笑った。その笑顔には、ほっとしたような色があった。
仲良くしている。こいしが、ちゃんと笑っている。
それを見るだけで、十分だったのだろう。
さとりは、せっかく来てくれたのだからと、地霊殿の中を案内してくれることになった。館の内部は、外から想像していたよりずっと華やかだった。
高い窓には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、差し込む灯りが床や壁に淡い色彩を落としている。
赤、青、金、緑。
歩くたびに景色の色が変わり、まるで館そのものが呼吸しているみたいだった。
「……すごい」
澄が思わず漏らすと、さとりは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。古い館ですが、気に入っているんです」
案内の途中でも、三人はたくさん話した。この館には怨霊たちも住み着いていて、悪戯好きの子たちにはよく困らされること。
お燐は甘えたがりで、叱ってもすぐ膝へ乗ってくること。
もう一匹――霊烏路空というペットがいて、力仕事は得意だが少し抜けていること。
「お空は今、お仕事中ですね」
「またあとで来るよー」
こいしが楽しそうに補足する。澄は初めて聞く話ばかりで、歩きながら何度も周囲を見回した。地底の館。妖怪たちの暮らし。怖い場所だと思っていたのに、不思議なくらい温かい。
気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。
「ちょうど良い時間ですね」
さとりが足を止める。
「よければ、夕食もご一緒にいかがですか?」
澄は少し迷ってから、素直に頷いた。
「……いただきます」
案内された食堂の卓には、思わず目を見張るほど豪華な料理が並んでいた。煮物、焼き魚、汁物、色鮮やかな小鉢。湯気の立つ白いご飯。
「……多い」
思わず本音が漏れる。こいしが隣で笑った。
「いっぱい食べてねー」
どうやらお燐も一緒に食べるらしい。お空はまだ仕事が残っていて、あとから来るという。席につくと、当然のようにこいしが澄の隣へ座った。
お燐は向かい側から身を乗り出す。
「地霊殿はどうだった? なんにもないでしょー?」
からかうような口調だった。澄は首を振る。
「……そんなことない」
「ん?」
「動物もたくさんいるし、綺麗だし……楽しかった」
お燐は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
「へへ、そっかあ」
さとりはその様子を見ながら、静かに言った。
「あなたは、裏表のない方なんですね」
「……?」
「思ったことを、そのまま言えるのは良いことです」
澄には少し難しかったが、褒められているらしいことだけは分かった。そんな中、こいしがご飯を頬張りながら急に言い出した。
「澄も地霊殿に住もうよ!」
場が一瞬止まる。
「…何言ってるの」
「みんな澄のこと好きになるよ! お空だってすぐ仲良くなるし!」
「こいし」
さとりが呆れた声を出す。
「何を言っているんですか」
「えー、絶対楽しいと思うのに!」
澄は箸を置いて、淡々と言った。
「……なるわけないでしょ」
「えーっ!」
本気で残念そうな声だった。少しだけ笑って、澄は続ける。
「でも、たまに遊びには来るよ」
こいしがぴたりと止まる。
「……ほんと?」
「うん。さとりさんや、お燐にも会いたいし」
お燐がしっぽを揺らす。
「おっ、人気者だねえ」
「……お空って人にも、会ってみたい」
その言葉に、こいしの顔が一気に明るくなった。
「言ったね! 絶対だよー!」
「……うん」
にぎやかな夕食だった。気づけば緊張も消え、笑うことも増えていた。今日は、本当に充実した一日だった。
やがて帰る時間になると、こいしが当然のように立ち上がる。
「送ってくー」
「お願いします」
さとりとお燐に見送られ、二人は地霊殿をあとにした。あの巨大な縦穴の前に立った時、澄はまた少し身構えた。
「……これ、どうやって上がるの」
「ふふん、任せて」
こいしはあっさり澄を抱き上げた。
「えっ」
まさかお姫様抱っこで壁をよじ登っていくのだろうか
「しっかりつかまっててねー」
そのまま、ふわりと身体が浮く。
「……飛べるの!?」
「いまさら?」
こいしは笑いながら、そのまま縦穴を一気に昇っていく。暗い地底から、少しずつ地上の空気が近づいてくる。外へ出た頃には、空はもう夕闇に染まり始めていた。
町の灯りが遠くに瞬いている。風が頬を撫でる。その景色は、澄の胸に強く焼きついた。家の前に着くと、こいしはそっと澄を下ろした。
二人は向き合う。
「……今日は楽しかった」
澄が言う。
「送ってくれて、ありがとう」
こいしは少し照れたように笑った。
「こっちこそ、ありがとう」
「……嫌いにならないって、言ってくれて」
その声はやわらかかった。
「初めて、そんなこと言われたの」
そう言って、こいしはふわりと澄へ抱きついた。細い身体のぬくもりが伝わる。胸元に触れるこいしの体温が、やけにあたたかかった。しばらくそのままでいたあと、澄が小さく言う。
「……そろそろ帰らないと」
こいしは返事の代わりに、ぎゅっと少しだけ強く抱きしめた。それから、名残惜しそうに離れる。その顔は、少し寂しそうだった。
澄はそんなこいしを見て、やわらかく言う。
「またすぐ会えるから、そんな顔しないで」
こいしは少し黙ってから、こくりと頷いた。
「……うん」
「またね」
「うん、またね」
そうして別れ、澄は家へ入った。扉を開けた瞬間、奥から母の声が飛んでくる。
「澄! 帰るの遅い!」
「……ごめんなさい」
少し怒られながら、澄は今日一日のことを思い返していた。胸の奥が、まだ少しだけあたたかかった。