河川敷ていいよね
河川敷を散歩した。
夕暮れの空は、今日を終わらせるのにちょうどいい色をしているのに、風だけがやけに忙しかった。川は思っていたよりも低い音で流れていて、耳に入ってくるものが少しずつ心の形を変えていく。
水門の横の階段に腰を下ろす。コンクリートがまだ昼の熱を薄く持っていて、太ももの裏にじんわり残った。近くの惣菜屋で買ったコロッケの紙袋を開けると、油とじゃがいもの匂いがふわっと立つ。隣のスーパーで買ったレモンサワーは、缶を握った指先にすぐ冷たさを移してきた。
ひと口かじる。衣がぱり、と小さく割れて、遅れて甘い湯気が口の中に広がる。炭酸が喉を抜ける。たぶん、これだけで十分なはずだった。夕暮れの空と、手のひらの冷たさと、口の中の熱さ。どれも、生活の正しい部品みたいだった。
イヤホンから、知らない曲が流れた。知らないのに、合っていた。風景にも、時間にも、今の自分の感情にも、ひどく正確に合ってしまった。合いすぎて、胸の奥のどこかが耐えられなくなったみたいに、急に涙が出た。
視界が霞む。霞んだ向こうで、都心の光が眩しい。遠いのに鋭く、きれいで、やさしくない。泣いている自分が光の方へ溶けていくんじゃなくて、むしろ置いていかれる感じがした。
私は何がしたいんだろう。これからどうしたいんだろう。なんでこんなに、ままならないんだろう。考えようとすると、どれも言葉にならないまま絡まって、ぐちゃぐちゃになった。
死にたい、と思う。だけどそのすぐ隣で、それ以上に強欲な声がする。あれがしたい、これがしたい。生きてるうちに、まだ取り返したい。まだ、取りに行きたい。
こんな仕事、と心の中で言いかけて、そこで止まった。仕事のせいにしたいのか、仕事だけのせいじゃないと思っているのか、どっちなのかすら分からない。缶の表面の水滴だけが、黙って指を濡らしていた。
家に帰って、椅子に座った。背もたれにもたれて、ふんぞり返るみたいに顎を上げると、喉の奥のところが少しだけ楽になる。音楽はまだ耳の中に残っていて、さっきの川の匂いと一緒に、部屋の空気を薄く掻き回していた。
机の上には、開きっぱなしのノートと、どうでもいい封筒と、書きかけのメモ。画面の隅に光る通知が、遠くで虫が鳴いてるみたいに主張している。いまは見ない。いま見たら、またあの階段に戻ってしまう気がした。
仕事は最悪だ。最悪、という言葉がぴったりはまる瞬間が確かにある。誰のためか分からない数字を揃えて、形式のための形式を整えて、送る相手の顔を想像しないまま送信する。終わったと思ったら、似たようなものがまた来る。紙の上の正しさが積み上がるだけで、自分の中の何かは減っていく。
でも、やりがいもある。そこが腹立たしい。やりがいがあるから、最悪がただの最悪で終わらない。たまに、たまにだけ、誰かの困りごとがほどける瞬間がある。人の時間が救われる瞬間がある。自分がいてよかった、という気配が、ほんの少しだけ部屋に差し込む。だから辞めきれないし、続けるだけでは足りない。
問題は、その“最悪”の成分が処理だけになると、私には合わない、ということだった。合わないものを毎日飲み込んで、合うものを週に一滴しか舐められないみたいな生活。舐めた一滴が美味しいから、余計に喉が渇く。
やりたいことはたくさんある。たくさん、あるのに、輪郭がない。輪郭がないから、たくさんあるように見えるだけなのかもしれない。椅子の脚が床に沈む感覚を確かめながら、私は音楽の次の曲を待った。次の曲が、私のやりたいことのどれかに、名前をつけてくれる気がした。
机の引き出しを開ける。ペンが数本、どれも中途半端に使いかけのまま転がっている。メモ帳の角が折れている。白い紙を見ると、胸の奥が少しだけ落ち着く。文章より先に、線がほしい。言葉になる前の感情を、線で捕まえたい。
私は一枚、紙を引っぱり出して、膝の上に乗せた。ペン先を出す音が小さく鳴る。それだけで、体のどこかが「よし」と言う。
何を描く?と問うと、答えはすぐに出た。
水門の横の階段。手の中の冷たい缶。コロッケの油。霞んだ視界の向こうの都心の光。あの光は綺麗で、遠くて、容赦がなかった。だから、まず光を描こうと思った。光の周りの闇を、ちょっと濃いめに塗ってやろうと思った。自分が置いていかれた感じを、ちゃんとそこに残したい。
最初の線は、思ったよりも震えた。震えたまま引いた線が、意外と悪くなかった。震えは、そのまま感情の輪郭になる。綺麗な線じゃなくていい。今日の線なんて、むしろ汚れていていい。
紙の上にできたものが何に見えるかは、まだ分からない。分からないまま、私はもう少しだけ暗い色を重ねた。都心の光は、きれいにするほど嘘になる気がして、わざと滲ませた。滲みが残るくらいで、ちょうどいい。私はうまくなりたいわけじゃない。ただ、今夜をここに置きたいだけだった。
スマホで写真を撮った。画面の中に入った途端、紙の上の滲みは別のものになる。部屋の光が平たくなって、線の震えだけがやけに正直に残る。私は明るさを少し下げて、コントラストをいじって、やめた。整えはじめると、ここに置きたかった「今夜」がどこかへ逃げていく気がした。
送信先の欄に、名前がひとつだけ表示されていた。指がそこに行き着くまでに、いくつも通り過ぎた。通り過ぎられる名前と、通り過ぎられない名前がある。理由はうまく言えない。言えないから、今夜の私はそこを選んだ。
文章を打ちかけて、消す。短すぎる。説明が多い。どれも違う。結局、私はいちばん卑怯で、いちばん正直な文を残した。
「今夜、これ描いた。ちょっとだけ見てほしい」
写真を添付して、送る。送信済みの表示が出た瞬間、胸の奥が一回だけ、遅れて跳ねた。返事が来るかどうかより、送ってしまったという事実のほうが、ずっと大きい。
送信済みの表示が、画面の中で小さく光っていた。私はスマホを伏せて、机の端に置いた。見るのをやめた、というより、預けた。今夜の私から、明日の私へ。
イヤホンの向こうで曲が続いている。さっき河川敷で私を泣かせたものと同じはずなのに、今は少しだけ違って聞こえた。部屋の空気が、わずかに整っている。
私は膝の上の紙をもう一度見た。何に見えるかはまだ分からない。分からないままでもいい、と初めて思えた。うまくなくていい。説明できなくていい。ただ、これを続けたい。
椅子から立ち上がって、引き出しを開ける。紙を一枚、追加で入れる。ペンを一本、取りやすい位置に戻す。たいした準備じゃない。でも、こういうことが決意の形をしている。
明日も仕事だ。最悪だけど来るなら来い、と思った。私は夜に、自分の仕事を残してある。
机の上の白は、まだ消えていなかった。