火遊びはよくない   作:竹藪焼けた

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漸く本編でございます。長くて申し訳ない…。
駄文ですが、読んでもらえる人が少しでもいるのなら。
それはとっても、嬉しい事ですね。

そう言えば、最近巷では〈曇らせ〉というのが流行っているらしいですね。
私もちょっと書いてみたさあります。


五話

 

男は一人、暗くなった駅前を歩く。

向かう先は、皐の住む学生マンションからほど近くのコインランドリー。

彼女は二人の予定が合う日に、いつもここに呼び出していた。

 

朝に錘をつけたような気分になりながら、男は必死に歩みを進める。

一度、本当に急な予定で意図せず約束をぶっちぎったことがあるのだが。あれは実に危なかった。

 

【日付が変わるまでに連絡返して】

【連絡を返さなかったら本当にやるから。覚悟しといて】

 

そんな淡白な、けれど恐ろしげなメッセージが届いていて。

肝が冷えたというものだ。

 

それ以来、仕事が立て込んだときはなるべくあらかじめ連絡を入れるようにしている。皐は陰湿で偏執的だが、理由さえあれば許容してくれる。…まぁだからといって、男が彼女を許容するのは無理な話なのだが。

 

さらに言うのなら、別に許容するからと言って許すわけでもなし、男は罰と称して高いものを買わされ、ただでさえ少なくなった金が余計に減ってしまった。

 

まぁ、買ってもらったものを見て、柔らかく微笑む皐の顔を見て。

こんなふうにお金を使うのも悪くないなとか考えたりもしたが。

男はそんな自分の思考を、そっと胸の奥にしまっておいた。

 

 

男はそんな、色々なことを考えながら、そのままスマホを閉じて歩く。

…皐に、イロの事がバレてはいけない。

もしもバレれば本当に大惨事になるに決まっている。

 

何が起こるかは正確に予測できるわけではないが…きっと想像もしたくない展開が待ってるはずだ。

二股とかそんな生ぬるい話ではないのだし。

 

当然ながら、今日起こったイロとの事件について、皐に助けを求めるわけにはいかない。だって、助けを求めたとして。

それが自分の助けになるとは思えなかったから。

 

仮にあり得ない事だが、もし本当に奇跡が起こって、皐のおかげでイロとの関係がどうにかなったとしよう。

 

でも、そうなったとしても。

皐とのこの拗らせた関係はなんら変わってないわけで。

あの子の執着から解き放たれるわけではないのだ。

 

その時点で論外だった。

男にとって、目指すは自由。誰にも束縛されず、奔放な生活を続ける事を目指す。目標は高く持ちたかった。

 

男は諦めの悪いクズだった。彼は脅迫され、自分の立場が失われる崖っぷちになっても、決して自分が逃げ出す道を探すのをやめようとはしない。彼はどうにかして、あの忌々しい二人の少女との関係を断ち切ろうと計画する。

 

その関係が、己の過去由来のものだとしても。

それがなんだというのだろうか。過去の過ちが自身に凶器として迫り来るなら、なんとしてでも逃げ切ってやろう。

 

そんな気概が男にはある。

男は過去について朧げにしか覚えていない。

人間、記憶の中の自分は美化しがちなもので、なぜ自分がこんな羽目になっているのか、彼は若干納得がいっていなかった。

 

もしも、全てを。正確に思い出した時ならば、彼は懺悔しようとするのかもしれない。或いはひどい罪悪感に襲われるかもしれない。

しかし、今は殆ど覚えていないのだ。

 

男にとってイロは、昔面倒を見た家庭教師先の子供に過ぎず、皐に至っては、そもそも過去に関わりがあったことすら思い出せていない。

だから彼は、自身が被害者であるかのように感じていた。

 

 

 

…しかしまぁ、起こってしまったものはしょうがない。

まだ詰みではない、ここからどうにか…逆転する術を見つけ出そう。

そんなことを考え。男は打開策を探していた。

危うい事態は更に悪化したが、それでも男は諦めるつもりはなかった。

 

だが。今日のところは打開策についてを深く考える余裕はない。

イロの魔の手を間一髪で凌ぎ切ったが、まだ皐がいる。

差し迫る問題を乗り切り、これからどうするかは。

このコインランドリーをどうにかしてからだろう。

 

視界に、彼女のいるコインランドリーが映る。

男は深呼吸をして、先生に呼び出しを食らった子供のような気持ちで、ゆっくりと中へ入っていった。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

中に入ると、ガコンガコンと洗濯機が回る音がする。

殆ど誰もいない、利用者は限りなく少ない、小さなランドリー。

奥のソファーには、足を組みながら退屈そうに漫画を読む少女がいる。

 

彼女は自動ドアが開く音と同時に、男に視線を投げかけて。

落ち着いた声で、話しかけてくる。

 

『…遅かったね、なんかあったの?』

『そっちの入学式、数時間前に終わってたみたいだけど』

 

皐は訝しむような目を向け、どこか問い詰めるような口調で問う。

 

なんで通ってもいない学校の予定を知っているんだろうか。

もしかしてうちの生徒のSNSでも監視してる?

 

そんなことを考え、男は心の中を見透かされているような気分になりながらも、今日の出来事がバレないように慎重に言葉を紡いだ。

 

あ、あぁ。入学式の後、先生同士で話し合いがあってな。

少し、時間がかかったんだ。

 

嘘ではない。全くもって嘘ではないし、むしろ遅れたのは本当にそれが理由。駅であったイロとの事件に関しては、そこまで遅れる原因にはなってないから。せいぜいあの問答は30分程度だから。

別に嘘はついてないよ。

 

男は内心、誰に対してなのかもよくわからない釈明をしながら言い張る。

 

『へぇ…そうなんだ…』

 

けれど、彼女は納得する様子を見せはしなかった。

だが、これはいつもの事だと男は自分に言い聞かせる。

まぁ言ってしまえば。考え過ぎ、と言うやつだ。

 

皐は基本的にダウナーで主張しないタイプだ。実際に男の務める学院にも割といる。低燃費で、自分のやりたいことに対して以外は活力を出さない子。

 

そして、それ故の愛想の無さや、纏う雰囲気が、納得していないように見えるだけで。

男に警戒感を抱かせるだけなのだろうと。彼は自分に説明した。

 

ここで変に挙動不審になる方が、自分にとってよくないだろうと。

そう言い聞かせ、男は毅然とした態度を取り繕った。

 

しかし、そううまくはいかない。

 

『…ちょっといい?』

 

彼女はゆっくりと立ち上がると、男の首筋に顔を近づけようとする。

思わず、男が一歩下がると。

 

『…なんで逃げんの?』

 

皐は、不愉快そうに、眉を顰めていってくる。

いやそりゃ引くでしょ、そんな急にパーソナルスペースに入ってこないでもらえます?

 

せめて理由を説明してもらえませんかね。

男は少し困惑しながら、なるべく風波を立てないようにやんわりと伝える。

 

少女は、ぶっきらぼうに。

男に向かって訝しむような目をしながら男に言い返す。

 

『…なんかアンタから香水みたいな、甘い匂いがする気がするんだよね』

『ちょっと嗅がせて、もしかしたら気のせいかもしれないし…』

 

甘い匂い…甘い匂い?

男には心当たりがあった。そう、つい先ほど。具体的に1時間くらい前。自分の首筋に密着していた人物がいたことを思い出す。

 

それ絶対気のせいじゃないですね。

やべ、どうやって誤魔化そう。

 

男は心臓をバクバクと鼓動させながら、どうしようか必死に思案する。

そして、焦った彼は一芝居打つことにした。

 

あ、あぁ!さっきまで乗ってた電車が満員でさ!

その時後ろにいたOLの香水の匂いがついたのかもな!

結構密着してたし!

 

嘘である。

別に満員じゃなかったし、後ろにOLなんていなかった。

 

焦る様子を隠しもせず、そう言い訳する。

するとその言葉を聞いた皐は目を丸くした後、冷ややかな目を向けてくる。

 

『…別に理由聞いてないんだけど、と言うか満員電車で後ろが男性か女性かいちいち覚えてるんだ』

『…お兄さん。なんか焦ってない?』

 

…むしろ逆に怪しまれてしまった。

男は落ち着いて、誤魔化す算段をまた考える。

 

逆にこう言う時は、自分の誤魔化しを認めた方がいい。

そう、自分は脅迫されているのだ。だから疑われた時には誤魔化すのは変なことではない。

 

…仕方ないだろう?

無実の罪で疑われて、それで人生終了なんてごめんだからな。

それっぽい理由を述べたくもなるし、焦りもするさ。

…正直言って、本当にそれくらいしか心当たりがなかったから。

 

 

男は少し呼吸を整え、冷静なフリをして皐月にそう伝える。

 

 

『ふーん…まぁ…いいか』

『どっちにしろ、お兄さんは仕事あったし…この5時間くらいで浮気は難しい…かな』

 

皐は納得した様子ではなさそうだったが、とりあえず今日のところは見逃してくれるようだ。…助かった。

男が内心安堵していると。

 

『ちょっとごめん…少しじっとして』

 

男がほっと目を閉じた一瞬、皐は一歩。男の胸元に飛び込み、男の首に自分の顔を寄せる。

彼女から香る優しい匂いが男の鼻に届き。皐の柔らかな体が触れた。

男は思わず飛びのこうとするが、彼女の腕が男の背に絡みつき、動けなくなってしまう。

 

まるで抱き合うような姿勢の中、皐は男の首元に顔を近づけて。

そして、緊張で動けなくなっている彼を尻目に、少し鼻を鳴らすと。

 

『…うん…石鹸みたいな感じ…かな。だいたい…覚えたかも』

『ごめん、お兄さん。もういいよ』

 

そんなことを言って、男の背から手を離した。

なんだったんだ一体…そんなことを思いながら、彼は皐を問いただす。

 

少女は特に悪びれる様子もなく、彼の質問に対して答えた。

 

『ん?…あぁ。香水の匂いを覚えてたの。…お兄さん、この香り。電車で偶然ついた香りだって言ってたね』

『今回は信じてあげるよ、初犯だし、証拠もないから』

 

…こいつ全然疑ってるじゃん。納得してなさそうだと思ってたけど。

でも、それがさっきの行動とどう繋がるんだ?

男がそう思うと、皐は続けるように理由を説明する。

 

『…けど、もしまた…貴方から同じような、この石鹸みたいな香水の香りがしたら…それは少し…おかしいでしょ?』

『…アタシもそこまで香水に詳しい方じゃないし。これを浮気の証拠だなんて言うつもりはないよ』

 

『でも、何度も何度も…香水をつけないはずの貴方から。この匂いがしたら。…その時は、ちゃーんと理由を教えてもらうから、そのつもりでいてね』

 

…光の失せた、薄ら寒い眼を向けられ。

男は思わず唾を飲む。

 

なるほど、つまりまた似たような匂いを纏ってたら覚悟しとけよ、

と言う宣告ですかそうですか。

 

…どんな角度から咎められるかわかったもんじゃないな…。

そんなことを思いながら、男は首を縦に振る。

 

取り敢えず、後で家に帰る途中で携帯型の消臭剤を買おう。

そんなことを思った。

 

 

 

そんな問答を少しした後。

このままここで話し合っても、埒が開かないので。

男はさっさと本題に入ろうとする。

 

皐が男を呼び出す理由はいくつかあるが、大体は一緒の食事や欲求の解消が目的だ。まぁ後者の方は、皐ではなく男の欲求解消が建前なのだが。

 

正直、男は皐のことがあまり好きではない。

顔はとても綺麗だし、スタイルいいし、体の相性もいいんだが。

脅迫されてるので、あまり好きにはなれなかった。

そもそも、なんでこいつに好かれてるのかも分からないし。そんな相手を好きになる方が難しい。

 

だから、できることならあんまり会いたくはない。

だが、そんな男の思いとは裏腹に。

皐は男にこの短期間で何度も会うことを要求してきた。

具体的な数値を上げると、再会からいまに至るまでの半月で合計8回。

ほぼ2日に一回である。

 

その度に、何かを求めるような彼女に引っ張られ、共に食事をして…そうしてホテルで不埒な行為に走る。

やらない日もあるにはあったが、確かやった日の方が多かったような気がする。

 

それを既に、何回もやっていた。

 

そんな事情もあり、男はさっさと皐に一緒に行こうと言うのだが。

今日の彼女は少し様子が違っていた。

スマホを見て、何かを決めたような様子の彼女は、男にあることを言ってくる。

 

 

『ねぇ、お兄さん。アタシ貴方の家に行きたい』

『いちいちホテルに行くのもお金が勿体無いから、連れてってよ』

 

 

その瞬間、男の思考が停止した。

そして、コンマ1秒。彼の思考に浮かんだのはちょっとした一言。

 

…嫌なんですけど。

 

 

男は心の底からそう思った。

 

 

何が嫌って、この子に自分の住所がバレるのが嫌だ。

一度これを許せば、これからこいつは家に直接来るだろう。

そうなったら、この子との縁はさらに深くまで絡みつき、余計に縁を切ることは難しくなる。

 

そんな危険性を孕む行為、できる限り行いたくなかった。

…男は心の中で深呼吸をする。どうにかして断らなければ、しかし…どうやって断ればいいんだこれ?

 

 

男は既に詰んでいるような気がしていた。

そもそも最初の時点で拒否権などなかったのだから、今もないのではなかろうか。

 

しかし、一応渋るそぶりだけは見せておく。

ま、まだ早いんじゃないか?

ほら、俺たち、交流を持ち始めて半月しか経ってないじゃん?

お互いのこともよく知らないのに、家に行くとか…さ。

 

男がそんなことを言うと、皐の視線は険しいものになる。

なんか…怒ってる?

 

え、これそんなに嫌なことかな?当たり前のことを言っただけだろう?

男にはよく分からなかったが、取り敢えず今の発言はこの子に不快感を与えるものだったらしい。最近の子って難しい。

 

『…7回』

 

ん?

男は聞き返す、その数字が何を意味しているのかはわからなかった。

 

『…アタシと貴方が体を重ねた回数。貴方はお互いをよく知らないって言うけど、十分な数字だと思うよ』

『少なくとも…これだけ体を重ねて。アタシを貪っておきながら、貴方のことよく知りませんは通らないんじゃない?』

 

そんな事を少女は言う。

…そんなものだろうか?

男は内心、よく分からなかった。彼は何人かの女性と交際する経験があったが、いまいちそのような距離感についてはつかみ損ねている。そもそも、彼は女性との交際が長続きした記憶がない。

 

だいたい振られるか、こっちから振るか。

多くの女性に、男は見限られ、見限ってきた。

 

そうして、彼は関係自体を求めることをやめ、売春に走るようになった。

金さえあれば、こうして面倒くさい関係を持たなくてもいい。

そんな想いから始めたのだが、結局こうなるのはなぜなのだろうか。

 

自分の因果は、どうにも思い通りにならないらしい。

不機嫌な様子の皐を見ながら、男は次の一手を思案するが。

彼が新しい手を打つ前に、さっさと彼女は次の手を打ってくる。

 

 

それは男にとってはどうしようもないものだった。

 

『…はぁ、アタシにこれ以上、脅させないでくれる?』

『出来るだけ、こういうことはしたく無いんだよね』

『お互いの為にならないから』

 

 

皐がこういう言い方をする時、それは暗に自分は引くつもりはない、というアピールである。

言ってしまえば脅迫。呑まなきゃ二人とも死ぬけどいいんですか?

という、自爆に近いものだ。

 

 

…こいつ、味を占めやがって。

男は皐に内心舌打ちをする。このカードを切られてしまうと、男にはなす術がない。

…仕方ない、受け入れるしかないか。

 

男は降参とでもいうように、両手を挙げて彼女の意志を通すことにした。

…家がバレるのは良くないが、ここで一緒に自爆する羽目になるのはもっと良くない。

それにみられて困るものがある訳でもないしな。

 

皐は男が肯定したのを認めると。

ソファーに置き去りにしているバックを持ち、男の横に並び立つ。

 

男はそのバックを見て腕を差し出す。

持つよ、そう言わんばかりに。

 

皐は男のその行動に、何か思うような表情を見せた後。

素直に自分のバックを男の腕に掛けた。

 

『…ありがと、いこっか』

 

そう、小さく呟いて。

二人は男の自宅に向かって歩き出す。

 

流石に消臭剤を買う勇気は出なかった。

別の日に買おうと男は思った。

 

 

そして、電車に数駅揺られ。

男の自宅である、アパートへとたどり着く。

 

 

そこから先はいつも通り。

特に何かが起こる事はない。

 

二人で食事をして、お互いの身体を重ね合う。

何度やっても、そこだけは男にとって至福の時間だった。

やはり、綺麗な異性を抱くのは良い。

 

 

例え、それが自分にとって忌々しい人物でも。

貌と体は、内面とは関係ないのだから。

 

そうして、男は満足して眠りにつく。

自分の手を握る、偏執的な少女を置いてけぼりにして。

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 

コインランドリーのソファーに座って。

アタシは一人で漫画を読む。

待ち人からは遅れる連絡は来てない。だから、あと数分くらいで来るだろう。

 

…この半月、彼とは何度も相瀬を重ねた。

合計回数は8回。何度も相瀬を重ねたけれど。

あの男は、アタシの事を思い出すことはなかった。

昔つけてたストラップをこれ見よがしに見せたり、昔の思い出の曲を口遊んでも見たけれど。

 

結局、彼は気づくことはなかった。

…まぁ、当たり前ではあるのだけれど。

顔を見て思い出せないのに、そんなもので思い出せるわけがない。

 

 

…ただ、そうだとしても。

不満はやはり募っていく。その怒りは、その苛立ちは。

あの人に直接会い、身体を重ねることで発散していた。

 

ただ、身体を重ねる度、酷く倒錯した気持ちになる。

どれだけ近づこうと、彼はアタシを思い出さない。

どれだけ傍に居て、食事をしても。身体を重ねても。

昔の【破鐘 皐】はあの人の記憶から蘇る事はない。

 

あの人の目に映るのは。

大きくなった、今のアタシだけ。

 

川から引き摺りだされたアタシは…貴方の手で、救われたアタシは。

…貴方の記憶の、どこにもいないのだろうか。

それが酷く寂しく、とても空しい。

 

貴方と出会ったのは、貴方が今考えているよりもずっと前で。

あなたをずっと前から見ていた事を。

貴方自身で、気づいてほしい。

 

そう思うのは、傲慢なのだろうか。

 

 

…きっと、貴方がアタシを思い出した所で。

この状況は、好転する事はないのだろう。

そんな事は分かっている、貴方は思い出した所で、喉から小骨が取れた程度の反応しかしないのだろう。

 

だけど。それでも…思い出して欲しい。アタシの事を。

アタシと遊んだあの日々を、今のアタシに重ねて欲しい。

 

アタシが救われた、あの日々を。貴方の中で消さないで。

 

そんな事を考えていれば。

自動ドアの開く音がする。

 

今日は一歩、歩みを進めることにする。

逃げられない様に、逃がさないように。

より彼の懐に入り込むために、アタシは一つの提案を彼にすることを決めていた。

 

 

そうして、少しの問答とちょっとした攻防戦の後。

 

 

アタシは順調に家に入りこみ、貴方と一夜を共に過ごす。

眠る貴方を見ながら、握り返されることはない手を掴み思う。

 

 

貴方と体を重ねる度、貴方がアタシの事を新しく記憶する度。

記憶の中の貴方が、汚されていく。

楽しい記憶が、あのデュエットが。

今の貴方の、下卑た手つきに塗り替えられていく。

 

そこに悪意はない。

貴方はそもそも、今のアタシと昔のアタシを同一視できてないみたいだから。

これは一人芝居だ。

 

これは…独りよがりな苛立ちで、ちっぽけな我儘なのだ。

分かっていても、止められなかった。

 

 

ねぇ、お兄さん。

貴方からもらった、大事なギター見せれば、貴方の好きな曲を弾けば。

貴方は思い出してくれるだろうか。

そんな気持ちはあるけれど、それで思い出してもらえなかった時が。酷く怖くて。

まだアタシには、そんな勇気が出なかった。

 

…だから、今この瞬間は。

貴方の傍に居て、貴方と身を寄せ合っていることにする。

例え、貴方が…アタシの事を、よく分からない高校生としか認識してくれなくても。

 

それでも、その熱だけは。

あの時、川から引きあげられた時と同じように、アタシを温めてくれるから。

 

 

 

 

少女は男の寝顔を少し見ると、思考をやめて。そのままベッドに潜り込む。

既に眠ってしまった男を体を寄せて、指先を絡めて。

彼女はゆっくりと、眠りにつくのだった。

 

 

 

 

 

 




次回は出番のなかったもう一人のヒロインの出番です。
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