神様とかムカつくんで斬っていいですか? 作:一般通過小説好キー
自室の薄暗がりの中、リンドウは煙草を深く吸い込み、天井に向けて紫煙を吐き出した。
煙が、ゆっくりと形を崩しながら薄闇に溶けていく。
体は任務明けの疲れでずっしりと重い。神機を振るった腕には鈍い疲労が残っているし、肩にはまだその重みが染みついているような気がする。だというのに、頭の中だけは嫌なほど冴えわたっていた。
こういう日はよくない。
余計なことを考える。
考えても仕方のないことを、ぐるぐると頭の中で転がしてしまう。
リンドウは煙草を咥えたまま、机の上に放り出した報告書へ視線を落とした。
今日の任務は、極東支部近郊に出現したアラガミ群の掃討だった。
規模としては中程度。大型一体に中型数体、小型多数。厄介ではあるが、第一部隊総出でなければどうにもならない、というほどの案件ではない。
普段なら二人ずつに分かれて、別々の任務へ放り込まれていたところだろう。何せこの支部はいつだって人手不足だ。使える戦力は、使えるだけ使われる。
だが、今日は珍しく第一部隊の予定が揃っていた。
しかも出現地点は居住区に近く、下手に時間をかけて取り逃がせば、面倒なことになる。なら、最初から全員で出て、さっさと潰す。
そういう判断だった。
そして、そんな中、あいつは相変わらず当たり前のように無茶をした。
(……あいつの悪い癖、余計酷くなってないか?)
脳裏に浮かぶのは、最近『極東のエース』なんて呼ばれ始めた、一人の小さな後輩の姿だ。
凛。
白い髪と金色の瞳を持つ、十二歳の少女。
見た目だけなら、まだまだ子供だ。少し背伸びした服を着ても、神機を担いでいても、ふとした瞬間に見える表情には年相応の幼さが滲む。
だが戦場では違う。
あいつは、誰よりも速く前へ出る。
誰よりも正確に敵の急所を断ち、誰よりも迷いなく危険地帯へ踏み込む。
それだけなら、優秀なゴッドイーターという言葉で済むのかもしれない。
問題は、その先だ。
凛は、恐怖を置き去りにしている。
普通なら一瞬足が竦む場面で、あいつは踏み込む。普通なら回避を選ぶ場面で、あいつは刃を差し込む。アラガミの爪が頬を掠める距離、牙が喉元に届きそうな距離、ほんの少し判断を誤れば命が落ちる場所へ、まるでそこが自分の居場所だとでも言うように身体を滑り込ませる。
合理的、ではある。
確かに、最短で仕留めるならそれが正しいのだろう。敵の攻撃が通り過ぎる瞬間、無防備になる部位へ刃を置く。動きの大きなアラガミほど、攻撃直後には必ず隙が生まれる。その隙を逃さず、最小の手数でコアへ届かせる。
頭では分かる。
だが、分かるからこそ腹が立つ。
正しすぎるのだ。
あいつの戦い方は、あまりにも合理的で、あまりにも完璧で、だからこそ自分の身体を勘定に入れていないように見える。
普通はそこに恐怖が入る。
痛みへの警戒が入る。
死にたくないという本能が、ほんのわずかに動きを鈍らせる。
けれど、凛にはそれが致命的に薄い。
自分の命を投げ捨てたいわけじゃないのだろう。そこはソーマとは少し違う。ソーマはどこか、自分が生きていることそのものに意味を見いだせずにいる節がある。自分の価値を低く見て、必要なら自分が壊れることも受け入れてしまう危うさだ。
一方で凛は、生きようとしている。
任務から帰れば馬鹿みたいに甘いものを食べるし、ソーマに絡んでは鬱陶しがられ、サクヤに叱られればしょぼくれる。食堂の新メニューには目を輝かせるし、リンドウが煙草を吸った時に咽れば、どこで覚えたのか分からない健康知識を並べ立ててくる。
生きること自体は、楽しもうとしている。
なのに、自分自身への執着がない。
自分が傷つくことだけは、驚くほど軽く扱う。
「……ったく、面倒なガキどもだ」
リンドウは天井に向けてぼやいた。
ガキども。
そう、複数形だ。
凛だけじゃない。ソーマも同じだ。
あいつもあいつで、相変わらず自分を大事にするということが下手くそだ。それでも出会った当初よりはマシになった。少なくとも、凛と組むようになってから、周りを見る余裕は増えている。任務中の連携もよくなったし、以前のように無言で突っ込んでいったり、命令違反することも減った。
それでも、根っこのところは似たようなものだ。
自分を守ることが下手。
助けを求めることが下手。
誰かに踏み込まれることが、どうしようもなく苦手。
そんな二人がバディになった。
最初にその案を出したのは、確かツバキだった。
年齢も近くこれからの新しい時代を築くゴッドイーターとして、しっかりと連携力を鍛えてもらう、表向きにはそういう理由だった。
実際、よい判断ではあったと思う。
凛は異常なほど戦えるが、どこか危なっかしい。ソーマは実力こそ高いが、他人との連携を嫌う傾向がある。それに身体の性質が近いことやどちらも支部内で孤立しやすい立場にいることもある。ならば、その二人を組ませることで互いに欠けた部分を補わせる。
言葉にすれば簡単だ。
だが、本当に上手くいくかどうかは別問題だった。
何せ、片方は他人を遠ざけることに慣れすぎた少年で、もう片方は他人の懐へ無遠慮に飛び込むくせに、自分の中心だけは絶対に触らせない少女だ。
リンドウとしては噛み合うわけもなし、きっとどこかで空中分解するだろう、そう思っていた時期もある。
実際に、初めの頃など、凛がソーマに話しかけては無視され、逃げられ、舌打ちされ、それでもめげずに絡みに行くという、見ているだけで胃が痛くなるような光景が繰り返されていた。
凛が本気で落ち込んでいる日を見た時には冷や汗をかいたものだ。
『リアルだとダメなタイプはメールとかチャットならって思ってたのに……全然メールも読んでくれない……あれ、僕、もしかして嫌われてる……?』
食堂の隅でそう呟きながら、凛がジャイアントトウモロコシを無心で齧っていた時には、流石のリンドウも少しだけソーマを締めるべきか悩んだ。
もっとも、送ったメールの1通を見せてもらった内容が『ソーマは脳筋』だったと後で知った時には、締めるべき相手がどちらなのか分からなくなったが。
それでも、最近は変わってきた。
ソーマは凛の話を完全には無視しなくなった。鬱陶しそうにしながらも返事はするし、任務中には凛の動きを気にかけるようになった。凛が妙な無茶をしそうになれば、短い言葉で止めることもある。
凛の方も、ソーマといる時は少しだけ違う顔をする。
いつもの張り付いた笑顔ではない。
支部内で見せる、誰に対しても分け隔てなく向ける明るい仮面とも少し違う。
ソーマにからかわれてむっとしたり、冷たく返されて本気でしょぼくれたり、逆にソーマが少しでも優しさを見せると、分かりやすく嬉しそうにする。
そんな年相応の少女らしい一面が見える。
少なくとも、リンドウにはそう見えた。
それが本当の意味での素なのかは分からない。
凛は器用だ。必要なら、自分がどう見えるかまで計算して振る舞える子供だ。
それでも、ソーマといる時の凛には、ほんの少しだけ隙がある。
その隙が、リンドウには救いのように思えた。
「……バディにして正解だったのかもな」
煙草の灰が落ちる。
リンドウは灰皿に灰を落としながら、今日の任務で見た二人の姿を思い返した。
凛が前へ出すぎた時、ソーマが短く「下がれ」と言った。
凛は一瞬だけ不満そうな顔をしたが、結局その指示に従った。
それだけのことだ。
だが、以前ならあり得なかった。
凛は命令には従う。隊長や上官の指示には素直だ。だが、戦場で自分が必要だと思ったことに関しては、かなり強引に押し通す癖がある。
その凛が、ソーマの一言で下がった。
それを本人に言えば「たまたまですよ」なんて言うだろう。
けれど、リンドウにはそうは思えなかった。
凛にとってソーマは、もうただの同僚ではない。
ソーマにとっても凛は、ただの鬱陶しい同僚ではない。
お互いがお互いの楔になり始めている。
その事実は、喜んでいいのだろう。
喜んでいいはずなのに。
「……それでも、足りねぇんだよな」
リンドウは小さく呟いた。
なぜなら、凛はまだ話さない。
自分のことを。
過去のことを。
時折見せる、あの暗い表情の理由を。
そしてその何かによって凛は恐れ、隠し、自身を追い込んでいく。
こちらが踏み込もうとすれば、するりと逃げる。
冗談で誤魔化し、甘いものの話にすり替える。ソーマの変なところを報告し始める。サクヤの新しい制服が似合っていたとか、榊博士がまた徹夜していたとか、どうでもいい話題を次々と差し込んで、こちらの足を止める。
十二歳の子供がやる誤魔化し方じゃない。
きっと本人は上手く隠せているつもりなのだろう。
だが、リンドウやツバキには筒抜けだった。
いや、リンドウたちだけではない。タツミやハルオミ、サクヤなどあいつと関わりをもったやつらはみんな気にしている。
『凛、最近ちょっと無理してませんかね』
『あいつさ、良く笑ってる時ほど怖い顔してることあるんすよ』
タツミとハルオミ、あの二人は凛にとって数少ない同期だった。
タツミは真っ直ぐで面倒見がよく、ハルオミは軽薄に見えて妙に人の機微に敏く上手く立ち回る。どちらも凛のことをよく見ていた。
そして、見ていたからこそ気づいたのだろう。
凛がいつも大丈夫なわけじゃないことに。
大丈夫なフリをしているだけの日があることに。
ハルオミがグラスゴーへ転属してから、凛はまた少し静かになった。
表面上はいつも通りだ。
送別会では笑っていたし、ハルオミが未練たらたらで旅立つ姿には呆れた顔もしていた。タツミとも相変わらず軽口を交わしている。
だが、ふとした瞬間に目が遠くなる。
誰もいない方向を見て、何かを考え込む。
呼びかければすぐ笑う。
笑顔が上手くなればなるほど、その奥にあるものが見えなくなる。
今日の任務帰り。
珍しく凛が寄り道をすることもなく、さっさと自室へ帰ってしまった。
リンドウがツバキの今日の報告書の手伝いをし、くたくたになりながらアナグラ内の居住区画の廊下を歩いていた時のことだった。
凛の部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていた。
この辺の部屋は古い設備も多い。自動で閉まる扉だが、最後まで閉まり切らなかったのだろう。呼びかけようとして──リンドウは足を止めた。
隙間から見えたのは、ベッドの上で小さく丸まった姿だった。
白い髪がシーツに広がり、薄暗い部屋の中でそこだけぼんやりと浮かび上がって見える。ひょっとすると、小さな天使が横たわっているようにも見えた。
だが、その姿は綺麗というより、痛々しかった。
凛は刀を抱いていた。
神機でもなんでもない、ただの刀。
鉄でできた、古びた武器。
抱き枕にするには硬すぎる。冷たいだろうし重いはず、そんなものを抱えていては寝心地も良くないだろう。
それでも凛は、それを絶対に離さないと言わんばかりに抱きしめていた。
小さな指が鞘にかかっている。
身体を丸めるようにして、刀を胸元へ引き寄せている。
僅かに瞼が震え眉が顰められていた。
その様子から。もしかしたら夢の中でも、まだ戦っているのかもしれない。もしくは見たくもない何かを見て、必死に耐えているのかもしれない。
(……あんな小さい体で、何を抱えて走ってんだか)
リンドウは声をかけるのをやめた。
見てしまったことを悟らせてはいけない気がした。
あれはきっと、凛が誰にも見せたくない姿だ。
だから、扉をそっと引いて僅かに空いた隙間を閉じた。
その場を離れてからも、脳裏にあの姿が焼き付いて離れてくれない。
二年前。
贖罪の街の教会で抱き上げた時、あの体はまるで中身が空っぽなんじゃないかってくらいに驚くほど軽かった。
砂埃にまみれ、傷だらけで、今にも消えてしまいそうだった。腕の中に収まったその体温が、ひどく頼りなくて、リンドウは妙に焦ったのを覚えている。
あの時の凛には、いつ消えてもおかしくない儚さがあった。
だからこそ、本当はゴッドイーターになんてもんにはならず、安全な居住区でひっそりと、子供らしく生きてほしかった。
けれど、現実はそうならなかった。
凛はゴッドイーターになった。
戦うことを選んだ。
というより、戦う以外に自分の居場所を見つけられなかったのかもしれない。
今の凛は、支部内ではいつも明るくて、人懐っこい笑顔を振りまいている。
誰よりも任務に出て、誰よりも戦果をあげ、誰よりもNornへの情報提供を惜しまない。努力家で、一見すれば理想的な後輩だ。
けれど、さっき見たあの姿は違った。
誰にも見せない場所で、誰にも聞こえないように息を殺して、ただ刀だけを抱きしめていた。
あの刀が何なのか、リンドウは正確には知らない。
ただ、贖罪の街で初めて見つけた時から、凛はずっとあれを手放さなかった。
神機でもない。
アラガミを殺すための武器として見れば、今の戦場では役に立たないただの鉄の塊だ。
それでも、凛にとっては違うのだろう。
あれはきっと、あいつがここまで歩いてくるために必要だったものだ。
誰かとの繋がり。
帰れない場所の名残。
失くしたくない過去。
あるいは、自分がまだ自分であるための最後の楔。
何であれ、十二歳の子供が夜中に抱きしめて眠るには、少し重すぎるものだ。
「……ったく」
リンドウは短く息を吐いた。
煙草の先で、赤い火がじり、と揺れる。
凛は笑う。
明るく、軽く、何でもないように。任務の後でも、怒られた後でも、心ない言葉をぶつけられた後でも、あいつは笑う。笑って、誤魔化して、周りを安心させようとする。
それが腹立たしい。
子供なら、もっと分かりやすく泣けばいい。
怖いなら怖いと言えばいい。
嫌なら嫌だと喚けばいい。
無理なら無理だと、誰かの袖でも掴めばいい。
けれど凛は、それをしない。
いや、たぶん、できないのだ。
そうする前に、笑う方を選んでしまう。
誰かに心配されるくらいなら、自分がいつも通りでいればいい。
誰かに踏み込まれるくらいなら、自分から騒いで話題を逸らせばいい。
誰かが傷つくくらいなら、自分が前に出ればいい。
そうやって、あいつは自分の痛みを後回しにする。
それが癖になっている。
いや、癖というには、あまりにも根が深い。
あの笑顔の裏に何があるのか、リンドウにはまだ分からない。
だが、何もないわけがないことだけは分かる。
二年前、贖罪の街で抱き上げた時から。
旧ロシアで、仄暗い瞳をしたまま戻ってきた時から。
そして今日、刀を抱いて丸まっている姿を見てしまった今となっては、もう見なかったことにはできない。
「……手ぇ離したら、どっか飛んでっちまいそうなんだよな、あいつ」
凛は強い。
たぶん、自分が思っている以上に強い。そしてこの支部の誰よりも、理不尽に耐えることに慣れている。
けれど、強いから壊れないわけじゃない。むしろ、強い奴ほど折れる時は静かに折れる。音もなく誰にも気づかれないまま、気づいた時にはもう手遅れになっている。
リンドウは、それをよく知っている。このくそったれな世界では、そういう奴を何人も見てきた。
だから、あいつを一人にしちゃいけない。
踏み込みすぎれば逃げられる。かと言って、遠くから見ているだけでは、何かがあった時、きっと間に合わない。
なら、どうする。
答えなんて出ない。
出ないが、それでも大人として、先輩として、何もしないという選択肢だけはない。
凛が笑えなくなる前に。
あの刀だけを抱いて、誰にも見えない場所で震えることしかできなくなる前に。
馬鹿話でもいい。
飯に誘うだけでもいい。
ソーマと組ませるだけでもいい。
タツミに様子を見させるだけでもいい。
できることを、できる範囲で積み上げていくしかない。誰かを救うなんて、結局はそういう地味で泥臭いことの積み重ねなんだろう。
「そのためにも、博士から配給ビール券もっとねだっとかねぇとやってらんねぇよ……」
誰もいない部屋に、軽口だけが落ちた。
自分でも情けない誤魔化しだと思う。
けれど、そうでも言わなければ、胸の奥に溜まった重さをどう吐き出せばいいのか分からなかった。
煙草の煙が消えた後も、あの小さな背中だけは、しばらくリンドウの頭から離れてくれなかった。
事務机の上に積み上がった報告書の山を前に、雨宮ツバキはペンを止めた。
室内に響いていたのは、空調の低い駆動音と、紙をめくるわずかな音だけだった。時刻はとうに深夜を回っている。外では夜勤の整備班がまだ神機の調整に追われているはずだが、この部屋まではその喧騒も届かない。机上に置かれたランプの明かりだけが、報告書の白を淡く照らしていた。
任務報告書。
人員配置案。
補給申請。
新人教育の進捗確認。
負傷者の復帰予定。
そこに並んでいるのは、数字と事実だ。誰が出撃し、どのアラガミを討伐し、どれだけの損耗があり、次回以降どのような改善が必要か。隊長として、それらを軽んじるつもりはない。感情だけでは人は守れないし、現場は綺麗事だけでは回らない。数字にして、記録に残し、次へ繋げること。それは人の命を預かる者として当然の務めだった。
けれど、書類にはどうしても残らないものがある。
たとえば、任務後に凛が浮かべた笑顔の硬さ。報告の最中、ほんの一瞬だけ伏せられた金の瞳。ソーマに何か言われて頬を膨らませた時の、僅かにほどけた表情。そういうものは、どれだけ丁寧に報告書を書いたところで、数字にも項目にもならない。
だからこそ、ツバキはペン先を止めていた。
凛の単独任務について、制限を加えるべきか。
その一文を書くだけなら簡単だった。合理的に考えれば、答えは出ている。凛は強い。強すぎると言ってもいい。現場判断、身体能力、アラガミへの対応速度、どれを取っても同年代のゴッドイーターとは比較にならない。支部にとって、あの子は間違いなく貴重な戦力だった。
だからこそ危うい。
戦力として有用な者は、便利に使われる。これは悪意の話ではない。現場が逼迫すればするほど、確実に結果を出せる者へ任務が集中する。それがどれほど幼い子供であろうと、どれほど疲弊していようと、数字の上では「可能」と判断されてしまう。ツバキ自身、これまで何度もそういう判断を下してきた。必要だから。そうしなければ、もっと多くの人間が死ぬから。
その理屈を、ツバキは否定できない。
否定できないからこそ、苦しかった。
凛は、命令すれば出るだろう。危険だと分かっていても、必要だと言えば頷くだろう。むしろ、危険な任務ほど自分が行くべきだと笑うに違いない。あの子はそういう子だ。誰かが傷つく可能性があるなら、自分が先に傷つけばいいと思ってしまう。誰かが死ぬ可能性があるなら、自分がその死に近い場所へ立てばいいと思ってしまう。
それは優しさなのだろう。
だが、優しさだけで済ませるにはあまりにも痛々しい。
ツバキは、報告書の端を指で押さえた。紙はただ薄く、頼りなく、けれど一度そこに文字を書けば命令としての重みを持つ。自分の判断一つで、凛の任務は減らせる。危険な場所から遠ざけることもできる。少なくとも、単独で無茶をする機会は減るはずだ。
けれど、それは本当にあの子を守ることになるのだろうか。
凛は役に立てないことを怖がる子だ。いや、正確には、役に立てない自分に価値がないと思い込んでいる節がある。普段はそんな素振りを見せない。甘いものに目を輝かせ、リンドウに軽口を叩き、ソーマをからかい、ツバキに叱られては大げさに肩を落とす。けれど、その明るさの奥にあるものを、ツバキはもう知らないふりができなかった。
以前、任務後の廊下で凛を見かけたことがある。
薄暗い通路の隅、普段は人がほとんど通らない場所で、彼女は壁に背を預けて座り込んでいた。膝を抱え、顔を伏せ、押し殺したように呼吸を繰り返している。白い髪が肩にこぼれて、いつもの金の瞳は見えなかった。遠目にも肩が震えているのが分かった。
泣いていたのかもしれない。あるいは、ただ息を整えていただけかもしれない。
けれど、どちらであっても、人に見せるための姿ではなかった。
ツバキは声をかけようとして、足を止めた。隊長としてなら、声をかけるべきだったのかもしれない。体調の確認をして、必要なら医務室へ連れて行き、休養を命じる。それが正しい対応だ。
だが、その時の凛の背中は、正しさだけで触れてはいけないものに見えた。
あの子は、自分が弱っていることを知られたくないのだろう。心配されることさえ負担に感じてしまうのだろう。もしそこで声をかければ、凛はきっと振り返って笑う。「大丈夫です」と言う。そうして、その後はもっと上手く隠すようになる。もっと人目のない場所を選び、もっと綺麗に仮面を被るようになる。
それが分かってしまったから、ツバキは何も言わずにその場を離れた。
翌朝、凛はいつも通りだった。
「ツバキさん、おはようございます!」
廊下の向こうから駆け寄ってきた彼女は、昨日の夜のことなど欠片も感じさせない笑顔を浮かべていた。ツバキは一瞬だけ言葉に詰まり、それから「廊下を走るな」とだけ返した。凛は「はーい」と間延びした返事をして、えへへと笑った。
それだけだった。
それだけのやり取りなのに、ツバキは今でもその時の笑顔を覚えている。
よくできた笑顔だった。明るくて、柔らかくて、周囲に心配をかけないための形をしていた。だからこそ痛々しかった。あれは、子供が自然に浮かべる笑顔ではない。傷を隠すことに慣れた者の笑顔だった。
ツバキは、書類へ視線を戻す。
凛は強い。だから任務に出せる。凛は優秀だ。だから任せられる。凛は笑っている。だから大丈夫。
そう言い切ることは簡単だ。
けれど、その簡単な言葉がどれほど残酷かを、ツバキは知っている。強い者が傷つかないわけではない。優秀な者が苦しまないわけではない。むしろ、できてしまう者ほど求められ、期待され、使われる。そして本人もまた、それに応えようとしてしまう。凛は特にそうだ。誰かが困っていれば助けようとするし、誰かが傷つけば自分が前に出ようとする。危険な任務ほど、自分が行くべきだと考える。
それを優しさと呼ぶことはできる。
だが、ツバキには時折、それが自分を罰しているようにも見えた。自分が傷つくことで何かを償おうとしているような、自分が危険を引き受けることで誰かの死に追いつこうとしているような、そんな危うさがある。
「……私は、あの娘に何をしてやれるんだろうか」
小さく漏れた声は、静かな部屋に落ちてすぐ消えた。
答えは出ない。
リンドウとも話したしサクヤも気にしていた。タツミやハルオミからも、それとなく相談を受けている。
皆、凛が無理をしていることには気づいている。本人は上手く隠しているつもりなのだろうが、隠し切れていない。というより、関われば関わるほど、隠し方が上手いことそのものが痛ましく見えてくる。
けれど、誰も決定的に踏み込めない。
凛がそれを望んでいないからだ。
無理やりこじ開ければ、あの子はさらに奥へ逃げる。もっと綺麗に笑うようになり、もっと完璧に大丈夫な自分を作るようになる。そうなれば、今度こそ手が届かなくなる。
だから、支え方を間違えてはいけない。
真正面から問い詰めることだけが救いではない。無理やり抱え込むことだけが保護ではない。あの子が自分から立ち止まれるように、弱音を吐いてもいいと思えるように、帰ってくる場所があるのだと何度でも分からせる。そのためには、周囲の大人が焦ってはいけないのだろう。
幸い、凛は一人ではない。
リンドウがいる。サクヤがいる。タツミがいる。遠くへ行ってしまったが、ハルオミも凛を気にかけている。そして、ソーマがいる。
ソーマとの関係は、ツバキにとっても予想外だった。最初はどうなることかと思った。互いに似た孤独を持つ二人を組ませることが、本当に良い方向に働くのか、不安がなかったと言えば嘘になる。だが、ここ数か月で二人は確かに変わった。凛はソーマに遠慮なく絡み、ソーマは鬱陶しそうにしながらも、以前より彼女を拒まなくなった。任務中も互いの位置を見るようになり、時には短い言葉だけで動きを合わせることさえある。
何より、二人でいる時の凛は、少しだけ笑い方が違う。
人前で被る明るい仮面ではなく、ソーマの不器用な言葉にむっとしたり、さりげない優しさに分かりやすく喜んだりする、年相応の少女らしい隙がある。ソーマの方も、表情こそ相変わらず不機嫌そうだが、凛を見る目には以前のような拒絶だけではないものが混じるようになった。
あの二人がお互いの楔になってくれればいい。
片方が沈みそうになった時、もう片方が少しだけ引き上げる。片方が自分を軽く扱いそうになった時、もう片方が苛立ちでも怒りでもいいから、それを止める。そんな関係になってくれれば、凛もソーマも、少しはこの世界に繋ぎ止められるかもしれない。
もちろん、それだけで全てが解決するとは思っていない。
ソーマもまた、不器用で危うい子供だ。あの二人に期待しすぎてはいけないし、背負わせすぎてもいけない。だからこそ、大人が見ていなければならない。リンドウが、ツバキが、榊博士が、サクヤが、周囲にいる者たちが、それぞれの距離で二人の背中を見ていなければならない。
ハルオミがグラスゴーへ行ってから、凛は少し寂しそうに見える。
本人に言えば、きっと否定するだろう。「ハルさんがいないとセクハラ被害が減って平和ですね!」などと笑って、いつもの調子で誤魔化すに違いない。だが、ツバキには分かる。あれも凛にとっては、数少ない同期の一人だった。ライバルとして、友達として、妹分として扱ってくれる、大切な相手だった。
その一人が遠くへ行った。
それだけのことで、あの子の中にある支えの一つは確かに細くなっている。
ならば、その穴の分だけ、こちらが気をつけてやらなければならない。
ツバキは再びペンを手に取った。
報告書の備考欄へ視線を落とす。そこに何を書くべきかは、まだ少しだけ迷っていた。命令で縛るべきか。信頼して任せるべきか。隊長としては、凛の単独任務を減らすべきだと分かっている。あの子の戦果は大きい。だからこそ、便利に使われる危険がある。戦力として有用だからと、危険な任務へ次々と投入されることもあり得る。
それは避けたい。
だが、過度に制限すれば、凛は自分が信用されていないと思うかもしれない。自分が役に立てないことを恐れるかもしれない。守るための鎖が、あの子にとって別の傷になるかもしれない。
守ることと、縛ること。
その境界は、時に酷く曖昧だ。
それでも、何もしないよりはいい。
ツバキは静かに息を吐き、備考欄に一行だけ書き足した。
『当該隊員の単独任務を当面制限することを提案』
ペン先が止まる。
それが守るための言葉なのか、縛るための言葉なのか、自分でも少しだけ分からなかった。
それでもツバキは、その一文を消さなかった。
凛がいつか、自分の弱さを弱さのまま差し出せる日まで。
少なくとも、大人である自分たちは、あの子が戻る場所を守り続けなければならない。
たとえ今は、仮面の裏側に手が届かなくても。