『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
階段は長かった。
下りているはずなのに、どこかへ上っているようでもあった。
足音が響く。
一人分ではない。
全員の足音。
だが、それとは別に、もう一つ音があった。
紙をめくる音。
ペン先が紙を擦る音。
硝子瓶の中で、液体が揺れる音。
呼吸。
細い呼吸。
誰かが、ずっとそこにいる。
そう思わせる音だった。
アレクセイは護符を確認した。
残りは少ない。
水星護符が二枚。
土星護符が一枚。
太陽護符が一枚。
火星護符はまだ残っている。
だが、使う気にはなれなかった。
拳を強くするための護符。
筋力を補う護符。
勝つための札。
今の自分には、重すぎる。
真澄が横に来た。
「顔色悪い」
「魔術回路がちょっと焼けてるだけだ」
「それを悪いって言うの」
「まだ歩ける」
「その言い方、舩坂さんに似てきた」
アレクセイは一瞬だけ黙った。
「それは……まずいな」
「かなりまずい」
後ろで舩坂が低く笑った。
「悪くない」
ヘレナが即座に睨む。
「悪いです」
舩坂は肩をすくめた。
歩いている。
走ってはいない。
銃剣も抜いていない。
ただ、歩いている。
それだけなのに、ヘレナは彼から目を離さなかった。
静馬も同じだった。
真澄に半ば監視されながら歩いている。
神降ろしは使っていない。
そのことが、彼の不機嫌を少しだけ深くしていた。
だが、歩けている。
壊れていない。
アレクセイは、その事実を胸の奥で確かめた。
全員いる。
まだ全員いる。
階段の先に、扉はなかった。
ただ、広い部屋があった。
地下の最深部。
観測塔の中心炉。
最初に見えたのは、本棚だった。
壁一面の本棚。
古書。
巻物。
紙片。
フィルム。
金属板。
ガラス管。
魔術礼装。
それらが、無数に並んでいる。
戦場の記録。
道場の記録。
手の形。
足の運び。
呼吸の間。
傷の位置。
死の瞬間。
勝利の構図。
敗北の角度。
あらゆるものが保存されていた。
中央には、大きな椅子がある。
椅子というより、医療器具に近い。
そこに、一人の男が座っていた。
痩せた男だった。
若くも見える。
老いても見える。
肌は白く、指は細い。
黒い長衣は魔術師のものだが、身体に合っていない。
まるで、衣服の方が彼を着ているようだった。
男はペンを置いた。
ゆっくりと顔を上げる。
目があった。
アレクセイは息を止めた。
怖い目ではなかった。
狂人の目でもない。
むしろ、疲れた目だった。
長い間、何かを見続けた者の目。
見すぎて、触れられなくなった者の目。
「ようこそ」
男は言った。
「ここが、観測塔の心臓だ」
誰もすぐには動かなかった。
クララが銃に手をかける。
シモは周囲を見ている。
黒田は男の立ち姿ではなく、座り方を見ていた。
園部は本棚を見ている。
植芝は、男を見ている。
アレクセイは、一歩前に出た。
「あなたが、観測者」
「そう呼ばれている」
「名前は」
男は少しだけ笑った。
「もう必要ない」
「必要ない?」
「名は、人に呼ばれるためのものだ」
一拍。
「私は、長く呼ばれていない」
アレクセイは返せなかった。
男は立ち上がろうとした。
だが、すぐに手を椅子の肘掛けへ置いた。
脚が動いていない。
いや。
動かせない。
ヘレナが目を細める。
医者の目だった。
「神経系の損傷?」
男はヘレナを見た。
「よく分かる」
「進行性?」
「生まれつきだ」
男は淡々と言った。
「魔術で補強している。礼装で代用している。神経を繋ぎ、筋肉に命令を流し、骨格を支えている」
一拍。
「それでも、この椅子から遠くへは行けない」
ヘレナは黙った。
舩坂も黙っている。
その沈黙は重かった。
観測者は続けた。
「私は道場の外にいた」
部屋の壁に映像が浮かぶ。
幼い少年。
細い身体。
窓の外。
道場の中では、子供たちが稽古している。
転ぶ。
立つ。
打つ。
受ける。
笑う。
怒られる。
また立つ。
少年は、外から見ている。
手には杖。
脚は細い。
目だけが、異様に熱い。
「中へ入りたかった」
観測者の声は静かだった。
「だが入れなかった」
映像が変わる。
古い病室。
本。
英雄譚。
戦記。
武術書。
魔術書。
少年は寝台の上で読み続ける。
「走れないなら、読むしかなかった」
また映像が変わる。
若い男。
杖をつきながら、焼けた道場の前に立っている。
灰。
折れた木刀。
焦げた巻物。
「師は死ぬ」
観測者が言った。
「弟子は途絶える」
次の映像。
戦場。
泥の中で、誰かが倒れている。
若い観測者が手を伸ばす。
届かない。
「戦火は技を奪う」
また映像。
病床。
自分の手が震えている。
ペンを落とす。
「病は身体を奪う」
映像が消えた。
観測者は全員を見た。
「では、誰が残す」
誰も答えなかった。
アレクセイも答えられなかった。
観測者は、悪魔のようには見えなかった。
正しいことを言っていた。
少なくとも、その一部は。
「黒田鉄山」
観測者は黒田を見る。
「あなたの神速は、人が見て真似できるものではない。記録がなければ消える」
黒田は何も言わない。
「園部秀雄」
次に園部を見る。
「あなたの積み重ねは美しい。だが積み重ねた者が死ねば、何が残る」
園部は静かに目を伏せた。
「シモ・ヘイヘ」
白い死神を見る。
「あなたの技は祖国を守った。だが次の世代が忘れれば、また誰かが死ぬ」
シモは答えない。
「ボブ・マンデン」
観測者の目が移る。
「あなたの一瞬は、映像で残る。だが映像は筋肉を残さない。間を残さない。恐怖を残さない」
ボブの笑みは消えていた。
「舩坂弘」
観測者は続ける。
「あなたの戦闘続行は、異常だ。だが異常だからこそ、記録しなければならない」
舩坂は低く言った。
「俺みたいなのを増やす気か」
「増やしたいわけではない」
観測者は即答した。
「失いたくないだけだ」
「同じことだ」
舩坂の声は冷たかった。
観測者は少しだけ眉を動かした。
しかし怒らない。
最後に、彼は植芝を見た。
「植芝盛平」
その名だけ、少し違う響きだった。
敬意。
憧れ。
妬み。
その全部が混じっている。
「あなたの合気は、記録に最も向かない」
植芝は目を閉じている。
「力ではない。速度でもない。筋力でもない。相手との関係そのものだ。だからこそ、私はあなたを見たかった」
観測者は少し身を乗り出す。
「何度も崩された」
「何度も記録した」
「だが届かない」
彼の声に、初めて感情が混じった。
「なぜだ」
植芝は目を開けた。
「お前さんは、相手を見ておらん」
「見ている」
「違う」
植芝は静かに言った。
「測っておる」
観測者の手が止まる。
「測るのは悪いことではない」
植芝は続ける。
「だが、測るだけでは、人はおらん」
沈黙。
その沈黙を破ったのは、クララだった。
「でも」
全員が彼女を見る。
クララは銃を下げたまま、観測者を見ていた。
「保存そのものは、罪じゃない」
アレクセイは驚いて彼女を見る。
クララは視線を逸らさない。
「私の家も、奪った技術を“伝統”と呼んできた」
彼女の声は硬い。
「だから、あなたのやったことを肯定する気はない。でも、失われるものを残したいという一点だけなら、理解できる」
観測者はクララを見た。
初めて、少しだけ表情が緩んだ。
エイノが続ける。
「忘れられた技で、守れた命もある」
短い言葉。
だが重い。
「記録は必要だ」
アレクセイは、胸の中で何かが沈むのを感じた。
そうだ。
記録は必要だ。
誰かが覚えていなければ、消える。
人から人へ、という言葉は美しい。
けれど、人が死ねば終わることもある。
戦争で道場が焼ければ。
病で身体が失われれば。
弟子がいなければ。
継承は途切れる。
観測者の言葉は、間違っていない。
完全には。
アレクセイは一歩前へ出た。
「記録は必要だ」
その言葉に、観測者が顔を上げた。
笑った。
疲れたような、嬉しそうな笑みだった。
「ようやく」
彼は言った。
「ようやく、一人は理解した」
アレクセイは続けた。
「でも」
観測者の笑みが止まる。
「記録を、人間の代わりにするな」
沈黙。
部屋の空気が変わった。
観測者の目から、わずかな温度が消える。
「綺麗事だ」
彼は言った。
「そうかもしれない」
アレクセイは認めた。
「でも、あなたのやっていることは記録じゃない」
「何だと」
「人間を、技の器にしてる」
アレクセイは観測霊基の白い残骸を思い出す。
合気に似たもの。
狙撃に似たもの。
戦闘続行に似たもの。
神速に似たもの。
どれも技に見えた。
だが、誰もいなかった。
「あなたは技を残したいんじゃない」
声が震えた。
怖かった。
目の前の男が怖いのではない。
彼と自分が似ていることが怖かった。
「あなたは、英雄を手元に置きたいんだ」
観測者の顔が強張った。
アレクセイは止まらなかった。
「自分が届かなかったものを、記録という形で所有したい」
「黙れ」
初めて、観測者の声が低くなった。
アレクセイの足がすくむ。
だが、横に真澄がいる。
後ろに植芝がいる。
全員がいる。
だから続けた。
「僕もそうだった」
観測者の目が細くなる。
「名門の血があれば、認められると思ってた」
アレクセイは笑えなかった。
「英霊を召喚すれば、勝てると思ってた」
植芝は何も言わない。
「勝てば、自分に価値があると思ってた」
声が喉に引っかかる。
「でも、それじゃ帰れない」
観測者は立ち上がろうとした。
身体が揺れる。
椅子の礼装が彼を支える。
部屋の壁が脈打つ。
「帰る」
観測者は呟いた。
「またそれか」
声に、嫌悪が混じる。
「帰る、帰る、帰る」
壁の本棚が震える。
硝子管が鳴る。
「帰る場所がある者の言葉だ」
アレクセイは息を呑んだ。
観測者の目が、初めて燃えた。
「私は帰れなかった」
部屋の床に術式が走る。
「道場にも」
一本目の線。
「戦場にも」
二本目。
「英雄の物語にも」
三本目。
「誰かの弟子にも」
四本目。
「誰かの仲間にも」
部屋全体が鳴動する。
ヘレナが舩坂を支える。
真澄が札を構える。
黒田と園部が前に出る。
シモが銃を構え、ボブが右手を下げる。
植芝は動かない。
観測者は笑った。
泣いているようにも見えた。
「ならば、私は帰る場所そのものを作る」
中央炉が開く。
白い光。
中に、空の器が浮かんでいた。
人型。
先ほどまでの観測霊基よりも、明らかに密度が違う。
顔はない。
だが、胸の中心に穴がある。
空洞。
そこへ、壁の記録が流れ込んでいく。
黒田の初動。
園部の積算。
シモの遮蔽。
ボブの決闘。
舩坂の死亡判定遅延。
ルーデルの対防御概念特攻。
そして、植芝の攻撃反応の外形。
アレクセイは息を失った。
「まさか……」
観測者は言った。
「英霊ではない」
一拍。
「英雄でもない」
白い器が、ゆっくりと降りてくる。
「座には繋がっていない」
床に足が触れる。
「だが、記録はある」
空の器が立つ。
「空の英雄殻」
全員が構えた。
観測者は、静かに告げた。
「人間を超えた、完全な継承だ」
その瞬間。
空の英雄殻が消えた。
黒田が反応する。
金属音。
園部が薙刀を入れる。
シモが銃口を動かす。
ボブの右手が揺れる。
舩坂が一歩出かけ、ヘレナに止められる。
アレクセイには何も見えなかった。
ただ、結果だけが来た。
壁の本棚が切断される。
クララの頬に血が走る。
真澄の札が裂ける。
静馬が床へ転がる。
そして、アレクセイの目の前に、白い腕があった。
植芝の手が入る。
受けない。
ぶつからない。
ただ、軌道を変える。
白い腕は、アレクセイの横を通り過ぎた。
床が砕ける。
観測者の声が響く。
「どうだ」
空の英雄殻の表面で、術式が切り替わる。
初動隠蔽。
積算補正。
遮蔽利用。
認識先行射撃。
死亡判定遅延。
対防御概念特攻。
攻撃反応カウンター。
同時ではない。
切り替え式。
だが速い。
危険すぎる。
「人は死ぬ」
観測者が言う。
「師は死ぬ」
空の英雄殻が再び動く。
園部の薙刀が受け流す。
しかし、その背後から銃声。
ボブが撃つ。
白い器は、舩坂のように倒れず進む。
「ならば、器に残せばいい」
観測者の声は震えていた。
「人がいなくても、技は残る」
アレクセイは護符を握る。
だが、使えない。
何を使えばいい。
火星で強化しても届かない。
土星で縛っても破られる。
水星で読んでも速すぎる。
太陽で鼓舞しても、相手には心がない。
空の英雄殻が、植芝へ向く。
攻撃の構えではない。
受けの形。
合気の外形。
植芝が目を細める。
「なるほど」
「キャスター?」
「あれは、ようできておる」
アレクセイの背筋が凍った。
「認めるんですか」
「形はな」
植芝は一歩出る。
「じゃが」
空の英雄殻が動く。
植芝も動く。
二つの影が交差する。
今度は、植芝がわずかに後退した。
初めてだった。
アレクセイの胸が跳ねる。
観測者が笑う。
「届いた」
植芝の袖が裂れていた。
血はない。
だが、触れた。
空の英雄殻は、確かに植芝へ届き始めている。
観測者の声が昂る。
「見たか」
彼は叫ぶ。
「記録は届く!」
誰も答えない。
空の英雄殻の表面で、再び術式が切り替わる。
今度はルーデルの特攻記録。
防御概念を食う劣化再演。
真澄の結界が一瞬で削られる。
「きゃっ!」
静馬が彼女を庇おうとする。
神降ろしの光が漏れる。
真澄が怒鳴る。
「禁止って言った!」
「今は!」
「今も!」
静馬は歯を食いしばり、光を消す。
代わりに、半歩下がる。
真澄の前に、壊れない位置で立つ。
園部がそこへ薙刀を重ねる。
黒田が初動を斬る。
シモは撃たない。
ボブも抜かない。
ヘレナは治療術式を走らせかけ、止める。
舩坂は一歩出かけ、座るように膝を落とす。
それでも、空の英雄殻は止まらない。
強すぎる。
いや。
強いのではない。
止まらない。
選ばない。
迷わない。
だから速い。
だから怖い。
アレクセイは気づいた。
違う。
迷わないから強いのではない。
選べないから危ういのだ。
空の英雄殻が黒田へ向かう。
剣士には剣。
園部へ向かう。
長期戦には積算。
シモへ向かう。
遮蔽物には狙撃。
ボブへ向かう。
距離には決闘。
舩坂へ向かう。
壊れた敵には戦闘続行。
植芝へ向かう。
攻撃には反応。
全部、正しい。
だが、全部バラバラだ。
守るべきか。
殺すべきか。
退くべきか。
待つべきか。
撃つべきか。
撃たないべきか。
その場その場で、最も効率のいい記録を選んでいるだけ。
そこに、帰るという方向がない。
アレクセイは息を吸った。
「先生」
通信は繋がらない。
それでも、口から出た。
「壊すな、でしたね」
誰にも届かない声。
でも、自分には届いた。
彼は水星護符を抜く。
解析ではない。
再解釈。
次に土星護符。
拘束ではない。
固定。
最後に太陽護符。
自己鼓舞ではない。
道を照らす。
真澄が気づく。
「アレクセイ、何する気」
「帰る道を作る」
「今?」
「今しかない」
空の英雄殻がこちらを向く。
観測者が言う。
「また小細工か」
「そうです」
アレクセイは認めた。
「僕は英雄じゃないので」
護符を床へ貼る。
中心炉の術式が反応する。
熱い。
魔術回路が焼ける。
膝が折れそうになる。
真澄が支えようとする。
アレクセイは首を振る。
「支えないで」
「倒れる」
「倒れない位置にいる」
そう言って、半歩下がる。
自分が作った帰還路の上に。
黒田が斬った初動。
園部が止めた間合い。
シモが撃たなかった射線。
ボブが抜かなかった決闘。
ヘレナが治さなかった手。
舩坂が座った膝。
静馬が届かなかった一歩。
それらを繋ぐ。
戦闘記録ではなく。
勝利記録でもなく。
帰還儀礼として。
アレクセイは声を絞る。
「儀礼再演魔術」
床に生命の樹が浮かぶ。
十のセフィラ。
線。
経路。
配線図。
けれど、それは人を上へ導く神秘ではない。
地下から外へ。
戦場から道場へ。
道場から朝へ。
塔から帰還へ。
そう意味を変える。
「《リチュアル・リプロダクト》」
太陽護符が燃える。
白い光が、中心炉の底へ伸びた。
観測者の顔が変わる。
「何をしている」
「退去儀礼の再演」
アレクセイは言った。
「サーヴァントが現界を終える流れを、観測霊基の解体と帰還路へ読み替える」
「できるはずがない」
「普通は」
アレクセイは笑えなかった。
「でも、ここはあなたが作った塔です」
観測者の目が見開かれる。
「聖杯戦争の召喚、戦闘、退去。その全部を記録している」
一拍。
「なら退去も、記録している」
中心炉が軋む。
空の英雄殻の動きが止まる。
完全には止まらない。
だが、切り替えが遅れる。
黒田が入る。
初動を斬る。
園部が入る。
積算を千本目へ行かせない。
シモが撃たず、射線を閉じる。
ボブが銃を抜かず、決闘条件を殺す。
ヘレナが治さず、舩坂を立たせない。
静馬が届かず、真澄を守る。
植芝が、最後に前へ出る。
空の英雄殻は、植芝へ攻撃反応カウンターを選ぼうとする。
だが、攻撃が来ない。
植芝は攻めない。
守らない。
倒さない。
ただ、両手を合わせる。
礼。
稽古の始まりと終わり。
空の英雄殻が、完全に止まった。
選択できない。
戦闘ではない。
攻撃ではない。
防御でもない。
勝敗でもない。
礼。
その意味を、空の器は持っていない。
アレクセイは叫んだ。
「今!」
床の生命の樹が光る。
水星が走り、土星が固定し、太陽が道を照らす。
空の英雄殻の身体が、白い粒へほどけ始める。
観測者が叫ぶ。
「やめろ!」
その声は、初めて悲鳴だった。
「それは私の継承だ!」
アレクセイは歯を食いしばる。
「違う!」
魔術回路が焼ける。
視界が白くなる。
それでも叫ぶ。
「それは、誰の弟子でもない!」
空の英雄殻が、膝をつく。
植芝はその前に立っている。
礼をしたまま。
やがて、白い器は崩れた。
破壊ではない。
消滅でもない。
霊脈へ返っていく。
記録の残響として。
技の形ではなく、問いとして。
中心炉が大きく鳴った。
観測者の椅子が揺れる。
本棚が崩れる。
硝子管が割れる。
保存されていた記録が、部屋中へ溢れ出す。
外へ流れようとしている。
クララが叫んだ。
「外部流出!」
エイノがルーンを刻む。
「止まらない」
真澄が札を投げる。
「霊脈へ流れる!」
その時。
外周から通信が入った。
知らない男の声。
冷たい声。
『観測記録の外部流出を確認』
代行者。
『十秒後、塔ごと焼却する』
アレクセイは顔を上げた。
観測者は崩れた椅子に座ったまま、笑っていた。
泣いているようにも見えた。
「ほら」
彼は言った。
「結局、残らない」
中心炉の奥。
記録の奔流が、光になって渦を巻く。
アレクセイは、もう立っているのがやっとだった。
だが、まだ終わっていない。
記録は必要だ。
でも、人間の代わりにはならない。
その答えを、まだ形にしていない。
植芝が隣に立つ。
「アレクセイ」
「はい」
「最後の稽古じゃ」
アレクセイは、焼けるような喉で息を吸った。
そして、中心炉へ向き直った。