『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
十秒。
その言葉だけで、部屋の温度が変わった。
『観測記録の外部流出を確認』
冷たい通信音声。
聖堂教会側の代行者。
『十秒後、塔ごと焼却する』
アレクセイは顔を上げた。
「待て!」
返答はない。
代行者にとって、これは交渉ではなかった。
神秘が漏れる。
人の手に余る記録が外へ出る。
ならば焼く。
それだけだ。
観測塔の中心炉は、白い光を噴き上げている。
さっきまで空の英雄殻を満たしていた霊基残響。
戦闘ログ。
宝具波形。
死の記録。
勝利の記録。
敗北の記録。
それらが束になり、地下から外へ逃げようとしていた。
霊脈を通って。
山を抜けて。
京都を越えて。
どこかへ。
誰かの手へ。
アレクセイは床に手をついた。
儀礼再演魔術の光はまだ残っている。
水星の青。
土星の黒。
太陽の白金。
だが、細い。
あまりに細い。
全員を帰すための道。
観測霊基を霊脈へ返す道。
それだけで、アレクセイの魔術回路はすでに焼け始めていた。
ここからさらに、外部流出を止める。
代行者の焼却を止める。
中心炉の暴走を止める。
全部。
足りない。
絶対に足りない。
植芝が横に立つ。
「息を吐け」
「吐いてる暇がないです」
「吐かんと吸えん」
アレクセイは一瞬だけ目を閉じ、息を吐いた。
肺が震えている。
怖い。
死ぬかもしれないからではない。
誰かが帰れなくなるかもしれないから。
クララが通信礼装を叩く。
「教会側、応答して!」
雑音。
返答なし。
ライネスの声が一瞬だけ割り込んだ。
『こちらで交渉している! でも長くは――』
通信が切れる。
エイノが霊脈の流れを読む。
「記録が上へ向かっている」
真澄が札を展開する。
「方位を塞ぐ。北方水気、閉鎖。中央土気、固定」
札が燃える。
だが、中心炉の流出は止まらない。
黒田が本棚の崩落を斬り払う。
園部が結界を一点へ絞る。
シモは銃を構えない。
撃つ対象がない。
ボブも同じだ。
相手がいない。
敵がいない。
ただ、戦争の記録だけが外へ逃げようとしている。
その時。
轟音がした。
遠い。
だが近い。
地上ではない。
空でもない。
この地下空間のさらに奥から。
アレクセイは、その音を知っていた。
心臓が凍る。
爆撃機の音。
急降下する鉄の音。
いや。
違う。
あれはもっと歪んでいる。
羽音とエンジン音と呪詛が混ざった音。
機械に霊を宿した音。
クララが振り返る。
「まさか」
中心炉の壁が割れた。
そこに格納庫のような空間が現れる。
黒い骨組み。
壊れた翼。
半分焦げた機体。
Ju87。
スツーカ。
ただし、完全な機体ではない。
機械降霊術で無理やりつなぎ合わされた残骸。
エンジン部分には、観測塔の霊基残響が絡みついている。
翼には術式。
胴体には血のような赤い線。
片脚を失った鳥が、まだ飛ぼうとしているようだった。
その機体の上に、男がいた。
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル。
霊基は半壊している。
身体の輪郭も不安定。
それでも、彼はそこにいた。
戦場そのもののような圧力。
第一部で撤退したはずの反英雄。
アレクセイの喉が鳴る。
「ルーデル……」
ルーデルは笑っていなかった。
顔には、何の感情もない。
ただ、操縦桿を握っている。
その横。
機体の外部装甲に、別の男の身体が埋め込まれていた。
ヴィクトール・シュタインベルク。
半身を機械に接続されている。
片目は礼装化されたレンズ。
腕からはケーブル。
胸には、観測塔の術式が食い込んでいる。
生きている。
だが、生かされている。
ヴィクトールは、かすかに笑った。
「……最悪だな」
その声には、かつての冷酷さが残っていた。
だが今は、それ以上に屈辱があった。
観測者が言った。
「君の機械降霊は優秀だった」
ヴィクトールの目が観測者へ向く。
「褒めているつもりか」
「保存しただけだ」
観測者は淡々と言った。
「通信塔システム。ドローン礼装。兵器への用途霊付与。戦場を都市へ展開する術式」
一拍。
「君の技術は、塔の外部転送機構に適していた」
ヴィクトールは笑った。
乾いた笑いだった。
「保存?」
彼の声が低くなる。
「違うな」
機体の内部で、術式が脈打つ。
「盗用だ」
クララが、わずかに反応した。
その言葉は、彼女にも刺さる。
観測者は気にしない。
「言葉の違いだ」
「魔術師にとっては違う」
ヴィクトールの片目が赤く光る。
「私の術式を、私以外の者が勝手に運用するな」
観測者は答えない。
ルーデルの機体が震える。
中心炉から流出しようとしていた記録が、機体へ集まっていく。
アレクセイは理解した。
これは脱出機構だ。
観測記録を外へ逃がすために、観測者はヴィクトールの機械降霊術を使っている。
そして、その核にルーデルを置いている。
ルーデルの第二宝具。
片脚の帰還飛行。
撃墜判定を覆し、致命的な状態からでも帰還する宝具。
それが、今。
戦争の記録を外へ帰還させる機構にされている。
「違う」
アレクセイは呟いた。
植芝が見る。
「何がじゃ」
「あれは帰還じゃない」
アレクセイは、白い帯を握った。
「あれは、戦場の持ち出しだ」
ルーデルの機体が滑走を始める。
地下の中心炉に、滑走路など存在しない。
だが、観測塔が作っている。
記録された空。
記録された戦場。
記録された急降下。
機体が現実の空間を削りながら前へ進む。
真澄が叫ぶ。
「外へ出る気!?」
エイノがルーンを刻む。
「霊脈の上昇流に乗る」
クララが銃を向ける。
「撃ち落とす!」
アレクセイが叫んだ。
「撃つな!」
クララの指が止まる。
「何で!」
「撃墜判定が入る!」
ルーデルの宝具が、撃墜を帰還に変える。
撃ち落とせば、むしろ外へ出る理由を与える。
シモも同じことに気づいていた。
銃口を下げている。
ボブが舌打ちした。
「また撃てねえやつかよ」
舩坂が一歩前に出る。
ヘレナが腕を掴む。
「駄目」
「空から来る」
「分かってる」
「あれは止めないと」
「分かってる!」
ヘレナの声が震える。
「でも、あなたが止める必要はない!」
舩坂は機体を見上げた。
空から殺す兵器。
地上で死なない兵士。
その二つが、また向かい合っている。
舩坂の指が銃剣へ伸びる。
ヘレナの手に力が入る。
舩坂は止まった。
止まった。
それだけで、ヘレナは息を止める。
「……歩くだけだ」
舩坂は言った。
「走らない」
「戦わない?」
「努力する」
「舩坂さん」
「……戦わない」
ヘレナは彼の腕を離さなかった。
アレクセイは中心炉を見る。
代行者の十秒は、もう過ぎているはずだ。
だが焼却は来ない。
外で、エルメロイ教室とライネスが猶予を稼いでいる。
長くはない。
ヴィクトールの声が、通信に割り込んだ。
『アレクセイ・フォン・クロウリー=アッシュボーン』
アレクセイは顔を上げる。
「ヴィクトール」
『喜べ。貴様に三十秒だけくれてやる』
「三十秒?」
『私の機械降霊術には、私だけが知る停止符号がある』
ヴィクトールの口元が歪む。
『観測者は保存したつもりだろうが、魔術師の術式は紙の記録ではない。癖がある。意地がある。仕込みがある』
観測者が眉を動かす。
「君は」
『黙れ、盗人』
ヴィクトールの声が鋭くなった。
『私の兵器を、私に無断で飛ばすな』
アレクセイは短く息を吸う。
「三十秒で何が止まる」
『機体制御の一部。外部転送翼。用途霊の同期』
「ルーデルは?」
『止まらん』
ヴィクトールは即答した。
『あれは止まる存在ではない』
ルーデルはまだ無表情のまま、操縦桿を握っている。
彼の霊基は壊れかけている。
なのに飛ぼうとしている。
帰ろうとしている。
戦場へ。
戦場を持って。
ヴィクトールが続ける。
『三十秒後には制御が戻る』
「十分だ」
『そう言うと思った』
「なぜ?」
『貴様は愚かだからだ』
アレクセイは少しだけ笑った。
「褒め言葉として受け取る」
『褒めていない』
ヴィクトールの身体から火花が散る。
機械降霊術の線が、彼自身を焼いている。
それでも、彼は笑った。
『行くぞ』
次の瞬間。
機体の術式が乱れた。
ルーデルの機体が大きく揺れる。
翼の外部転送陣が一部停止する。
中心炉から機体へ流れ込んでいた記録の奔流が、細くなる。
観測者が叫んだ。
「ヴィクトール!」
『私の名を呼ぶな』
ヴィクトールは歯を食いしばる。
『貴様に呼ばれる筋合いはない』
三十秒。
アレクセイは護符を展開した。
水星はもう限界。
土星は残り少ない。
太陽護符は半分燃えている。
火星護符がまだある。
攻撃の札。
だが、使わない。
アレクセイは火星護符を見た。
赤い札。
勝つための力。
それを破った。
真澄が目を見開く。
「アレクセイ!?」
「火星は、戦いの星だ」
アレクセイは破った火星護符を床へ撒く。
「でも、戦争だけじゃない」
赤い光が床へ広がる。
「帰るための勇気にもなる」
植芝が小さく頷いた。
アレクセイは立ち上がった。
膝が震える。
喉に血の味がある。
それでも、声は出た。
「全員、聞いてください」
誰も返事をしなかった。
だが、全員が聞いていた。
アレクセイはルーデルの機体を見た。
撃てば撃墜判定になる。
斬れば破壊判定になる。
落とせば帰還飛行が成立する。
倒すほど、外へ出る。
勝つほど、戦争が帰ってくる。
だから。
「勝たないでください」
クララが目を見開く。
静馬が顔をしかめる。
ボブが口元を歪める。
アレクセイは叫んだ。
「倒すな! 落とすな! 壊すな!」
ルーデルの機体が加速する。
中心炉の床が滑走路へ変わっていく。
アレクセイは白い帯を握り締めた。
「帰すために使ってください!」
一瞬。
誰も動かなかった。
次の瞬間。
全員が動いた。
最初に動いたのは黒田鉄山だった。
刀を抜いた音はない。
ただ、ルーデルの機体が一瞬だけ前進を失った。
斬ったのは機体ではない。
翼でもない。
車輪でもない。
観測塔が滑走路として定義した、発進の初動。
飛ぶという現象が始まる、その前。
そこにあった術式の芽を、黒田は斬った。
「飛ぶ前を斬りました」
静かな声。
ルーデルの機体が火花を散らす。
だが止まらない。
すぐに観測塔が次の初動を生成する。
黒田が二度目を斬る。
三度目。
四度目。
見えない抜刀が、発進のたびにその前を殺していく。
続いて、園部秀雄が薙刀を構えた。
彼女の足元に、古い道場の床が重なる。
朝。
冷えた空気。
一振り。
また一振り。
千本。
ただ敵を斬るためではない。
型を積むための朝稽古。
「一振り目」
薙刀が、流出する記録の束を撫でた。
斬らない。
細くする。
「二振り目」
外へ向かう霊基残響の流れが、わずかに逸れる。
「三振り目」
園部の宝具が開く。
直心影流。
一千本の朝稽古。
振るほどに、精度が増していく。
だが、それは殺傷の精度ではない。
外へ漏れる記録を、帰還路へ沿わせる精度。
流出を流出のままにしないための型。
さらに、園部の背後で別の気配が立ち上がる。
修徳館。
道場。
女たちの声。
守るための武。
マスターたちの足元に、薄い結界が張られる。
爆風が逸れる。
破片が落ちる。
クララの頬を狙った金属片が、紙一枚分だけ外れる。
園部は言った。
「型は、命を通すためにあります」
その声に、真澄が札を広げる。
「中央土気、固定!」
帰還路の中心が沈む。
土が道を覚える。
「北方水気、流出冷却!」
上へ逃げようとする霊脈が冷える。
「東方木気、再生補助!」
折れかけた帰還路が伸びる。
一瞬、南方火気の札が真澄の指に触れた。
火。
燃やせる。
焼ける。
流出も、機体も、記録も。
だが真澄は、その札を使わなかった。
懐へ戻す。
「南方火気、封」
戦火には寄せない。
それが、彼女の選択だった。
静馬はその横に立つ。
身体神降ろしの祝詞が、喉まで上がっていた。
三分。
使えば届く。
神域の身体なら、落ちてくる破片も、術式の反動も、真澄へ向かう衝撃も受け止められる。
だが、彼は祝詞を飲み込んだ。
神を降ろさない。
代わりに、一歩だけ入る。
真澄の結界の死角。
人間の身体で届く場所。
そこで、飛んできた破片を弾いた。
腕が痺れる。
骨が鳴る。
だが折れていない。
「三分の神様じゃなくていい」
静馬は歯を食いしばる。
「今は、人間の一歩で足りる」
真澄は何も言わなかった。
ただ、次の札を貼る位置を変えた。
静馬が守れる場所へ。
シモ・ヘイヘは、白い霊基残響の霧の中に沈んでいた。
雪ではない。
だが白い。
遮蔽はある。
ならば十分だった。
宝具。
白い死神。
観測塔の認識が、シモを見失う。
シモはルーデルを狙わない。
撃墜しない。
彼の銃口は、機体の下。
霊脈への接続ピンへ向いている。
一発。
銃声。
接続ピンが弾ける。
機体は落ちない。
だが、外へ向かう道が一本消える。
続けて、彼の足元に白い防衛線が広がる。
コッラーは落ちず。
防衛戦において、味方を支える陣地。
ここはもう、攻撃の場ではない。
帰還路を守る防衛戦だった。
視界が澄む。
銃を持つ者の手が震えなくなる。
足場が崩れにくくなる。
ボブが笑った。
「ありがたいね、白い死神」
彼は銃を抜いた。
抜いた瞬間、周囲の空気が変わる。
西部の町はない。
砂埃もない。
相手も人間ではない。
だが、一瞬はある。
外へ出るか。
内へ戻るか。
観測塔の外部転送術式が、判断を切り替えるその刹那。
ボブはそこを見た。
「相手が人間じゃなくてもな」
銃口が上がる。
「一瞬ってやつには、顔がある」
宝具。
一瞬の西部劇。
ただし決闘相手はルーデルではない。
外部転送術式。
逃げようとする一瞬。
ボブの銃弾が、その中心を撃ち抜いた。
転送陣の光が散る。
機体が大きく傾く。
クララが続いた。
空包呪弾。
銃声だけが、帰還飛行の発動音へ食い込む。
撃墜を告げる音を、退去を告げる音へずらす。
次に鉄弾。
機械降霊の用途霊を拒む弾。
翼に宿された兵器霊が、わずかに剥がれる。
最後に水銀弾。
回路を殺すためではない。
術式の温度を下げるため。
暴走した機械降霊が、一瞬だけ冷える。
クララは歯を食いしばった。
「記録は残す」
銃口を下げない。
「でも、盗んだまま飛ばすな」
ヴィクトールが血を吐きながら笑った。
『その通りだ、女』
「あなたに褒められたくないわ」
『褒めていない』
二人の声が重なる。
ヴィクトールの機械降霊が唸る。
彼は自分の身体を通して、塔に盗まれた術式へ逆流をかけている。
善意ではない。
贖罪でもない。
ただの怒り。
自分の術式を、自分以外の者に運用された怒り。
『マキナ・エヴォケーション』
ヴィクトールの片目が赤く燃える。
『用途霊、再定義』
兵器として宿された霊が、機体の中で軋む。
『飛行機能を一時剥奪』
翼が震える。
『転送機能を一時剥奪』
外部転送陣が薄れる。
『帰還機能は――』
ヴィクトールは歯を食いしばった。
『貴様がやれ、アッシュボーン!』
アレクセイは頷いた。
ヘレナはその間、舩坂を治していなかった。
治したい。
立たせられる。
戦わせられる。
彼なら、あの機体の前にも出られる。
それを彼女は知っている。
だから、しない。
彼女は全員の傷を見た。
黒田の袖口。
園部の腕。
真澄の指。
静馬の肩。
クララの頬。
ヴィクトールの胸。
舩坂の脚。
完全に治すことはできない。
戦える身体に戻すことも、今はしない。
歩いて帰れる身体にする。
それだけに絞る。
「カドゥケウス・パッチワーク」
錬金術の光が、細い糸になった。
傷を塞ぐ。
痛みを少しだけ鈍らせる。
骨を固定する。
だが、出力は上げない。
筋肉を強化しない。
戦闘続行へ寄せない。
「あなたたちは、戦うために治すんじゃない」
ヘレナは言った。
「帰るために治す」
舩坂が横で、落ちかけた瓦礫を受け止めた。
突撃ではない。
支えるためだった。
彼の足元に、宝具の気配が揺れる。
まだ死なせてもらえない。
発動すれば、彼はまた前へ出られる。
敵本陣へ。
死地へ。
だが、舩坂はそれを使わなかった。
代わりに、別の在り方を選んだ。
不死身の分隊長。
倒れない身体を、進むためではなく、通すために使う。
崩れかけた帰還路の支柱のように、彼は立った。
「突っ込むだけが分隊長じゃない」
瓦礫を受け止めながら、舩坂は低く言った。
「後ろを通すのも、仕事だ」
ヘレナはその背を治さない。
ただ、崩れないように包帯を巻いた。
植芝盛平が、最後に前へ出た。
壊れた爆撃機の前。
老人一人。
ルーデルは見ていない。
植芝を人として見ていない。
障害物として処理する。
機関砲が動く。
爆撃機の残骸が、無差別攻撃の術式を展開する。
植芝にとって、得意な相手ではない。
攻撃意思が薄い。
機械的で、自動的で、広域的。
守るべき者が多すぎる。
だから一人では無理だった。
だが、今は一人ではなかった。
黒田が初動を斬っている。
園部が命を守っている。
シモが位置を隠している。
ボブが一瞬を撃っている。
クララが発動音をずらしている。
真澄が方位を折っている。
静馬が死角を埋めている。
ヘレナが帰れる身体を保っている。
舩坂が道を支えている。
ヴィクトールが制御を奪い返している。
アレクセイが儀礼を組んでいる。
だから、植芝は立てた。
彼は両手を上げる。
攻撃ではない。
制止でもない。
稽古の前のように。
祈るように。
「宝具、開帳」
空気が変わる。
世界の中心が、老人の足元へ沈む。
「武産合気」
一歩。
機体の進む力が、わずかに逸れる。
「天地因果返し」
返す。
だが、敵へ返すのではない。
外へ逃がすのでもない。
攻撃の因果を、帰るべき場所へ戻す。
植芝は言った。
「返すのではない」
ルーデルの機体が軋む。
「帰すのじゃ」
アレクセイは儀式を組み直す。
ルーデルの宝具を殺すのではない。
撃墜を無効化するのでもない。
片脚の帰還飛行。
その意味を変える。
撃墜されても戦場へ戻る宝具。
それを。
片脚でも、帰ってよい。
もう戦場へ戻らなくてよい。
そう読み替える。
アレクセイの喉から血の味がした。
「儀礼再演魔術」
声が震える。
「《リチュアル・リプロダクト》」
生命の樹が再び床に浮かぶ。
今度は塔から外へ伸びない。
外へ出ようとする流れを、内へ折り返す。
霊脈の上昇流を、下降させる。
逃走ではなく、退去へ。
持ち出しではなく、返納へ。
アレクセイは叫んだ。
「帰還の意味を、書き換える!」
ルーデルの機体が震える。
空へ出ようとする軌道が歪む。
機体の鼻先が、わずかに下がる。
観測者が声を上げる。
「できるはずがない!」
「普通はできない!」
アレクセイは叫び返した。
「でも、この塔は記録してる!」
ルーデルの宝具も。
撤退も。
「帰れ!」の言葉も。
アレクセイが勝利より生還を選んだ瞬間も。
全部。
観測塔は記録している。
なら、使える。
アレクセイは自分の過去を、術式へ叩き込む。
最初の召喚。
老人への失望。
勝ちたいという焦り。
ルーデルへの恐怖。
「帰れ」と叫んだ喉。
舩坂の「生きて帰れ」。
ヘレナが治療を止めた手。
静馬が届かなかった一歩。
シモが撃たなかった銃口。
ボブが抜かなかった手。
黒田と園部の型。
植芝の礼。
全部を、帰還儀礼へ流し込む。
ルーデルの機体が傾いた。
だが、止まらない。
ルーデルは操縦桿を引く。
片脚の帰還飛行が発動する。
撃墜判定を覆す。
転倒を覆す。
墜落を覆す。
外へ。
戦場へ。
また戦争へ。
植芝が踏み込む。
アレクセイが叫ぶ。
「キャスター!」
植芝は機体の前に立った。
老人一人。
壊れた爆撃機の前に。
だが、もう老人一人ではなかった。
全員の一手が、そこへ繋がっていた。
ルーデルは見ていない。
植芝を、人として見ていない。
障害物として処理する。
機関砲が火を噴く。
黒田が発射の初動を斬る。
園部の結界が弾道を逸らす。
シモの白が標的認識を曇らせる。
クララの空包が発射音をずらす。
真澄の北方水気が砲身の熱を奪う。
静馬が真澄の前に立つ。
ヘレナが負傷者を倒れないだけに保つ。
舩坂が崩れる床を支える。
ボブが次の一瞬を撃つ。
ヴィクトールが翼の制御を奪い返す。
そして、植芝の掌が、飛行の因果に触れた。
「帰るとは」
植芝の声が響く。
「また殺しに行くことではない」
ルーデルの霊基がわずかに揺れた。
アレクセイはその瞬間を見逃さなかった。
水星護符を最後の一枚まで燃やす。
宝具の意味に、言葉を通す。
「帰るっていうのは!」
喉が裂ける。
「戦場から出ることだ!」
機体の軌道が折れた。
外へ向かっていた帰還が、内へ返る。
観測記録の奔流が、ルーデルの機体から剥がれ始める。
外部流出が止まる。
代行者の通信が入る。
『流出、減衰』
まだ冷たい声。
『焼却猶予、継続』
アレクセイは膝をつきそうになった。
だが、まだ終わらない。
ルーデルの機体は暴れている。
片脚の帰還飛行は、まだ諦めていない。
ヴィクトールが叫ぶ。
『残り十秒!』
アレクセイは最後の太陽護符を燃やした。
視界が白くなる。
太陽は勝利を照らすものではない。
帰る道を照らすものだ。
白金の光が、中心炉から全員の足元へ伸びる。
道が見える。
出口ではない。
退去の道。
観測記録が、霊脈へ返る道。
サーヴァントが、現界を終える道。
人が、塔から出る道。
アレクセイは言った。
「帰れ」
かつてと同じ言葉。
だが、意味は違う。
あの時は、戦場から自分たちを守るための叫びだった。
今は。
「もう、戦場へ戻るな」
ルーデルの霊基が崩れ始める。
機体の翼が折れる。
だが落ちない。
落下ではない。
退去。
霊基残響が、中心炉へ戻っていく。
外へではなく。
上へではなく。
記録へ。
そして、霊脈へ。
ヴィクトールの機械降霊術が火を噴く。
彼の身体が機体から剥がれ落ちる。
クララが叫ぶ。
「ヴィクトール!」
ヴィクトールは床へ落ちた。
血を吐く。
だが、笑っていた。
「私の術式だ」
彼はかすれた声で言った。
「私が止めた」
誰も褒めなかった。
それでよかった。
ルーデルの機体は、白い光の中で消えていく。
最後に、操縦席の影だけが残った。
ルーデルは何も言わない。
ただ前を見ている。
そのまま、消えた。
戦争機械のように。
礼もなく。
悔恨もなく。
それでも。
もう外へは出なかった。
中心炉が沈黙する。
流出は止まった。
代行者の通信が入る。
『外部流出、停止』
一拍。
『焼却を保留する』
アレクセイは膝をついた。
今度こそ立てなかった。
真澄が支える。
「アレクセイ!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「……まだ、帰ってない」
彼は中心炉を見る。
観測者がいた。
椅子に座ったまま。
周囲の記録が崩れていく中で、彼だけが静かだった。
ヴィクトールが床に倒れたまま、観測者を睨む。
「負けたな」
観測者は答えなかった。
ただ、中心炉に残った記録を見ている。
黒田が、飛ぶ前を斬った記録。
園部が、型で命を通した記録。
シモが、撃墜せずに接続だけを撃った記録。
ボブが、敵ではなく一瞬を撃った記録。
クララが、盗まれた術式を撃ち落とさず止めた記録。
真澄が、火を使わなかった記録。
静馬が、神を降ろさなかった記録。
ヘレナが、戦わせるために治さなかった記録。
舩坂が、突撃せず道を支えた記録。
ヴィクトールが、善意ではなく意地で術式を止めた記録。
植芝が、返すのではなく帰した記録。
アレクセイが、勝利ではなく帰還を選んだ記録。
そして。
ルーデルの戦争を、外へ帰さなかった記録。
観測者の唇が震えた。
「……残っている」
アレクセイは顔を上げる。
観測者は言った。
「技ではない」
一拍。
「選択が」
中心炉が静かに鳴った。
崩壊は止まっていない。
だが、暴走は収まりつつある。
観測者はゆっくりと、震える手を中心炉へ伸ばした。
アレクセイは目を見開く。
「何をする気だ」
観測者は答えない。
代わりに、静かに笑った。
今度は、泣いているようには見えなかった。
「後始末だ」
中心炉の奥で、最後の記録が開いた。