『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
中心炉の奥で、最後の記録が開いた。
それは、戦闘記録ではなかった。
剣の軌跡でもない。
銃弾の角度でもない。
宝具の波形でもない。
白い光の中に浮かび上がったのは、一人の少年だった。
細い身体。
痩せた手足。
窓の外から、道場を見ている。
中では、子供たちが稽古をしていた。
転ぶ。
立つ。
叱られる。
また構える。
笑う。
泣く。
また立つ。
少年は、その全部を見ていた。
窓の外から。
杖を握ったまま。
アレクセイは息を止めた。
観測者は、椅子に座ったまま動かなかった。
いや。
動けなかった。
ただ、目だけがその記録を見ていた。
「……見るな」
掠れた声だった。
「それは、見るものではない」
誰も答えなかった。
中心炉は、彼の意思とは関係なく記録を吐き出している。
塔が崩れかけている。
保存されていたものが、順番にほどけている。
だから、最後に残ったものが表へ出た。
観測者自身の記録。
少年は、窓の外にいた。
道場の戸は開いている。
だが、彼は入らない。
いや。
入れない。
足が動かない。
身体がついていかない。
中の子供が振り返る。
少年と目が合う。
だが、すぐに師に呼ばれて戻っていく。
誰も悪くない。
誰も彼を追い払っていない。
それでも、彼は外にいた。
記録が変わる。
病室。
白い天井。
積み重なった本。
武術書。
戦記。
英雄譚。
魔術書。
少年は、寝台の上でページをめくっている。
指は細い。
時折、咳をする。
それでも読む。
読む。
読む。
動けない身体の代わりに、目だけが走る。
記録がまた変わる。
焼けた道場。
崩れた梁。
灰になった巻物。
折れた木刀。
誰かが泣いている。
誰かが遺品を拾っている。
少年だった男は、杖をついて立っていた。
その手は、灰の中の紙片へ伸びている。
だが、触れた瞬間、紙片は崩れた。
黒い粉になって、風に消えた。
観測者の唇が震えた。
「師は死ぬ」
彼は言った。
「弟子は途絶える」
記録の中で、男は灰を握りしめる。
「戦火は道場を焼く」
次の記録。
病床。
自分の手が震える。
筆を握れない。
魔術刻印が脈打つ。
礼装が神経へ命令を流す。
それでも指は、思うように動かない。
「病は身体を奪う」
観測者の声は、もう怒っていなかった。
淡々としていた。
それがかえって痛かった。
「では、誰が残す」
誰もすぐには答えなかった。
黒田鉄山は、静かに記録を見ていた。
園部秀雄も、目を伏せていた。
シモ・ヘイヘは銃を下ろしている。
ボブ・マンデンは帽子を取っていた。
舩坂弘は、ヘレナに支えられたまま立っている。
静馬は黙って拳を握っている。
真澄は札を持った手を下ろしている。
クララは、銃口を向けていない。
ヴィクトールは床に倒れ、荒く息をしていた。
誰も、観測者を簡単には否定できなかった。
アレクセイも同じだった。
記録は必要だ。
それはもう、認めている。
認めなければ嘘になる。
人は死ぬ。
場所は焼ける。
記憶は歪む。
身体は衰える。
どれだけ美しく「人から人へ」と言っても、人がいなくなれば終わる。
それは現実だった。
観測者は、その現実を見すぎた。
見すぎて、触れることをやめた。
アレクセイは、膝をついたまま言った。
「記録は、否定しない」
観測者が、ゆっくりと彼を見る。
「ならば、なぜ壊した」
「壊したんじゃない」
「空の英雄殻を消した」
「あれは記録じゃない」
アレクセイは喉の痛みに耐えながら、言葉を選んだ。
「あれは、人間の代わりだった」
観測者の目が細くなる。
「人間は、代わりにならないほど脆い」
「だからって、空の器に技を詰めても、人にはならない」
「人である必要があるのか」
観測者の声が鋭くなった。
最後の刃だった。
「技が残ればいい」
「違う」
「なぜ違う」
「技を選ぶのは、人だからだ」
中心炉が小さく鳴った。
アレクセイは、炉の中に残る光を見る。
黒田が飛ぶ前を斬った記録。
園部が型で命を通した記録。
シモが撃墜せず接続だけを撃った記録。
ボブが敵ではなく一瞬を撃った記録。
クララが盗まれた術式を止めた記録。
真澄が火を使わなかった記録。
静馬が神を降ろさなかった記録。
ヘレナが戦わせるために治さなかった記録。
舩坂が突撃せず道を支えた記録。
ヴィクトールが善意ではなく意地で術式を止めた記録。
植芝が返すのではなく帰した記録。
そして、アレクセイが勝利ではなく帰還を選んだ記録。
そこに残っていたのは、技の完成形ではなかった。
選択だった。
「あなたは」
アレクセイは言った。
「技を残したかったんじゃない」
観測者は黙る。
「技が選ばれる瞬間を、残したかったんだ」
その言葉に、観測者の表情が消えた。
怒りではない。
否定でもない。
ただ、言葉が届いてしまった顔だった。
観測者は炉を見る。
白い光の中に、いくつもの選択が浮かんでいる。
撃つことができたのに、撃たなかった。
届くことができたのに、届かなかった。
治すことができたのに、治さなかった。
斬ることができたのに、発つ前だけを斬った。
燃やすことができたのに、火を封じた。
戦えるのに、戦わなかった。
勝てるのに、勝たなかった。
そのすべてが、技だった。
いや。
技になる前のものだった。
人間が、技を選ぶ場所。
観測者は、かすかに笑った。
「……残っている」
さっきと同じ言葉。
だが、意味が違っていた。
「技ではない」
彼は言った。
「選択が」
中心炉が軋む。
部屋の壁に亀裂が走る。
外部流出は止まった。
代行者の焼却も保留された。
だが、観測塔そのものはもう限界だった。
溜め込みすぎた記録。
繋ぎすぎた霊脈。
歪めすぎた儀式。
それらが、自重で崩れようとしている。
観測者は、震える手を中心炉へ伸ばした。
アレクセイは叫んだ。
「何をする気だ!」
「後始末だ」
観測者は答えた。
その声は穏やかだった。
「完全記録を焼く」
クララが息を呑む。
「全部?」
「全部ではない」
観測者は、わずかに首を振った。
「宝具波形の完全記録」
炉の中で、一つの巨大な術式が燃え始める。
「霊基残響の再演データ」
白い人型の影が崩れる。
「観測霊基の量産式」
無数の空の器が、光になって消える。
「空の英雄殻の中核式」
中心炉の奥で、白い殻が砕けた。
「ルーデル機構の外部転送術式」
焦げた翼の影が、音もなく燃える。
「戦闘最適化アルゴリズム」
無数の線が、ばらばらにほどけて消えた。
アレクセイは、立ち上がろうとした。
真澄が支える。
「待って!」
アレクセイは叫ぶ。
「それをやったら、あなたは」
「私も中核式の一部だ」
観測者は淡々と言った。
「当然、残れない」
ヘレナが前へ出ようとする。
舩坂が止めた。
ヘレナは振り返る。
「止めないで」
「止めに行くのか」
「患者よ」
「そうだな」
舩坂は短く答えた。
「だが、今は医者を呼んでいる顔じゃない」
ヘレナは観測者を見る。
彼は救いを求めていなかった。
許しも求めていなかった。
ただ、焼くべきものを焼いていた。
クララが銃を下ろしたまま言う。
「完全記録を消したら、あなたがやってきたことは残らないわよ」
「残らない方がいいものもある」
「それは逃げじゃない?」
観測者は、クララを見る。
「君の家も、そうだったのだろう」
クララの顔が強張った。
「奪ったものを、伝統と呼んだ」
観測者は言った。
「私は、保存と呼んだ」
一拍。
「同じ穴だ」
クララは反論しなかった。
銃を握る手に、少しだけ力が入った。
ヴィクトールが床で笑った。
「自覚が遅い」
「そうだな」
観測者は素直に認めた。
「遅すぎた」
ヴィクトールは顔をしかめた。
罵るつもりだったのだろう。
だが、言葉が出なかった。
観測者は中心炉へさらに手を伸ばす。
炎が強くなる。
白い炎。
熱はない。
だが、記録だけを焼く。
アレクセイは一歩踏み出した。
足が震える。
真澄が支える。
「無理」
「行く」
「なんで」
「帰るために戦った」
アレクセイは観測者を見る。
「なら、あの人だけ置いて帰れない」
真澄の手が一瞬だけ緩む。
アレクセイは歩いた。
一歩。
膝が崩れそうになる。
もう一歩。
視界が白い。
魔術回路は焼けている。
立っているだけで痛い。
それでも、手を伸ばす。
「あなたも帰れ!」
観測者は、ゆっくりと顔を向けた。
その顔に、驚きがあった。
怒りではない。
嘲笑でもない。
本当に、驚いていた。
「私に?」
「そうだ!」
「どこへ」
アレクセイは答えに詰まった。
観測者は小さく笑う。
「私には、帰る場所がない」
「そんなこと」
「ある」
観測者は遮った。
「道場には入れなかった」
炎が、古い道場の記録を焼く。
「病室には戻りたくない」
白いベッドが消える。
「協会には属さなかった」
本棚が崩れる。
「教会には裁かれるだけだ」
聖印めいた監視術式が砕ける。
「弟子もいない」
空の稽古場が消える。
「友もいない」
通信ログが燃える。
「私は、誰にも教えられなかった」
その言葉だけが、部屋に残った。
アレクセイは、何も言えなかった。
観測者は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、自分の事実を述べただけだった。
植芝が、ゆっくりと前へ出た。
アレクセイの横を通る。
「先生」
アレクセイは言った。
「止めないんですか」
植芝は、観測者を見ていた。
「あれは今、稽古を終えようとしておる」
「でも」
「稽古の終わりには、礼をする」
植芝は中心炉の前に立った。
観測者が彼を見る。
「何を」
植芝は、深く礼をした。
誰も動かなかった。
観測者も動かなかった。
地下の中心炉。
崩れかけた観測塔。
焼かれていく完全記録。
その前で、植芝盛平は、観測者に礼をした。
許したのではない。
救ったのでもない。
認めたのでもない。
ただ、稽古の終わりに礼をした。
観測者は、その意味を理解できなかったように見えた。
しばらく、彼はただ植芝を見ていた。
それから、自分の手を見た。
細い手。
震える指。
武を記録し続けた手。
誰にも技を渡せなかった手。
その手を、ぎこちなく膝の上へ置く。
彼は、頭を下げようとした。
身体が動かない。
椅子の礼装が軋む。
神経補助が火花を散らす。
それでも、観測者は頭を下げた。
形は崩れていた。
美しくなかった。
型にもなっていなかった。
だが、人間の礼だった。
植芝は顔を上げる。
「今からでも、礼はできる」
観測者の唇が震えた。
何かを言おうとした。
だが、その前に咳き込んだ。
白い炎が、彼の椅子へ届いている。
アレクセイが叫ぶ。
「まだ間に合う!」
観測者は首を振った。
「間に合わない」
「勝手に決めるな!」
「君もよく知っているはずだ」
観測者はアレクセイを見る。
「すべてを救うには、手は足りない」
アレクセイは歯を食いしばる。
「それでも伸ばす」
「そうだ」
観測者は頷いた。
「だから、君は私と違う」
彼は中心炉の側面に手を入れた。
炎の中から、一冊の薄い帳面を取り出す。
黒い表紙。
焼けていない。
だが、古びている。
観測者はそれをアレクセイへ差し出した。
「これは」
「最後に残すものだ」
「完全記録じゃないのか」
「違う」
観測者は言った。
「完全に残せば、人は読まない」
帳面のページが、風にめくれる。
アレクセイは見た。
そこに、完成された技はなかった。
宝具の構造も。
霊基の再演式も。
戦闘最適化の算法も。
どこにもない。
あるのは、短い言葉と、空白だけだった。
一歩目の足の置き方。
呼吸の数。
相手を見ること。
礼。
なぜ、その型を選ぶのか。
次の行は、白紙。
その次も、白紙。
書かれているより、空白の方が多い。
「稽古帳……?」
アレクセイが呟く。
観測者は頷いた。
「余白があれば、人は稽古する」
アレクセイは帳面を受け取った。
軽い。
あまりにも軽い。
この男が集めた膨大な記録に比べれば、笑ってしまうほど軽い。
でも、手の中に重さが残った。
「これを、どうしろと」
「残すな」
観測者は言った。
アレクセイは目を見開く。
「え?」
「保存するな」
観測者は続けた。
「使え」
炎がさらに強くなる。
観測者の椅子の脚が崩れる。
「誰かに渡せ」
「書き足せ」
「間違えろ」
「破れ」
「汚せ」
「失くすなとは言わない」
一拍。
「失くしたら、また始めろ」
アレクセイは、帳面を握りしめた。
観測者は少しだけ息を吐く。
「私は、それができなかった」
白い炎が彼の下半身を包む。
痛みはあるはずだった。
だが、彼は顔を歪めなかった。
「私は、残そうとした」
声が薄くなる。
「残すことだけを考えた」
アレクセイは近づこうとする。
植芝が手で制した。
アレクセイは叫ぶ。
「先生!」
「見るのじゃ」
植芝の声は静かだった。
「これは、あの男の選択じゃ」
観測者はアレクセイを見ている。
「君は」
声が途切れる。
それでも続ける。
「残すのではなく」
一拍。
「帰せ」
アレクセイは、帳面を胸に抱いた。
「どこへ」
観測者は、少しだけ笑った。
今度は、確かに笑っていた。
「人へ」
中心炉が大きく鳴った。
天井から破片が落ちる。
園部の結界が受け止める。
黒田が大きな梁の初動を斬る。
真澄が叫ぶ。
「崩壊が来る!」
エイノが霊脈を読む。
「下が閉じる。上へ逃げるしかない」
クララがヴィクトールの腕を掴む。
「立てる?」
ヴィクトールは血を吐きながら言った。
「誰に言っている」
「重傷者に」
「なら立てん」
「素直で結構」
ボブが肩を貸す。
「お姫様抱っこがよかったか?」
「殺すぞ」
「元気じゃねえか」
シモは最後尾へ回っている。
舩坂はヘレナに睨まれながら、崩れた床を支えている。
「走らない」
「分かってる」
「支えすぎない」
「……努力する」
「舩坂さん」
「支えすぎない」
静馬は真澄の前に立つ。
神降ろしは使っていない。
真澄は彼の肩に札を貼る。
「走れる?」
「走れる」
「神降ろしは?」
「使わない」
「本当に?」
「使わないって言ってるだろ!」
「よし」
アレクセイは、まだ観測者を見ていた。
白い炎の中で、観測者の輪郭が薄くなる。
彼はもう中心炉の一部に戻りつつあった。
完全記録と一緒に。
彼が積み上げた狂気と一緒に。
彼が間違えた保存と一緒に。
「アレクセイ!」
真澄が叫ぶ。
「走って!」
アレクセイは一歩だけ前に出た。
手を伸ばす。
届かない。
炎が壁のように立つ。
観測者は、その向こうで首を振った。
「行け」
「名前を」
アレクセイは言った。
「あなたの名前を教えてください」
観測者は少しだけ目を見開いた。
長い沈黙。
崩壊の音の中で、彼は口を開いた。
だが、その声は炎に飲まれた。
聞こえなかった。
アレクセイは叫ぶ。
「もう一度!」
観測者は、もう一度言おうとした。
だが、今度も音にならなかった。
それでも、彼は笑った。
名は、人に呼ばれるためのもの。
彼はそう言っていた。
最後に、その名を呼ぼうとした相手がいた。
それで足りるのか。
足りないのか。
アレクセイには分からない。
観測者の手が、ゆっくりと上がる。
礼。
崩れた礼。
ぎこちない礼。
それから、白い炎が彼を包んだ。
中心炉の奥が閉じる。
最後の記録が閉じる。
観測者の姿は、消えた。
アレクセイは帳面を握ったまま立っていた。
真澄が彼の腕を掴む。
「行くよ!」
彼は頷いた。
声は出なかった。
背後で、中心炉が完全に崩れ始める。
塔が鳴いている。
保存された記録が焼けている。
だが、すべてが消えたわけではない。
アレクセイの手の中に、一冊の薄い帳面がある。
完成された技はない。
宝具の秘密もない。
英雄の複製法もない。
あるのは、余白。
足を置く場所。
呼吸。
礼。
問い。
なぜ、その型を選ぶのか。
アレクセイは、それを胸に押し当てた。
植芝が横に来る。
「重いか」
アレクセイは首を振った。
「軽いです」
「なら、落とすな」
「はい」
「重すぎるものは、人に渡せん」
アレクセイは、ようやく小さく息を吐いた。
真澄が叫ぶ。
「本当に崩れる!」
黒田が前を見る。
「道はあります」
園部が頷く。
「通します」
シモが最後尾で銃を構える。
「後ろは見る」
ボブがヴィクトールを担ぎ直す。
「じゃあ、走るか」
ヘレナが舩坂を睨む。
「走らない」
舩坂が言う。
「全員が走るなら歩くわけにはいかん」
「じゃあ早歩き」
「戦場で早歩きか」
「帰還路で早歩きです」
舩坂は少しだけ笑った。
静馬が真澄の横に立つ。
「行けるか」
「誰に言ってるの」
「俺に言ってる」
真澄は一瞬だけ彼を見て、それから札を構えた。
「じゃあ、行くよ」
アレクセイは最後に一度だけ振り返った。
中心炉は白い炎の奥に消えていく。
観測者はいない。
名前も聞こえなかった。
だが、礼だけは残っている。
崩れた、不格好な、人間の礼。
アレクセイは頭を下げた。
短く。
それから前を向く。
塔が崩れる。
帰還路が揺れる。
誰かが叫ぶ。
誰かが走る。
誰かが支える。
誰かが撃たずに守る。
誰かが斬らずに通す。
誰かが治しすぎずに歩かせる。
誰かが神を降ろさず、人間のまま立つ。
アレクセイは帳面を抱えて走った。
勝つためではない。
残すためでもない。
託されたものを、人へ帰すために。