『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』   作:牛☆大権現

54 / 57
託す

 中心炉の奥で、最後の記録が開いた。

 

 それは、戦闘記録ではなかった。

 

 剣の軌跡でもない。

 

 銃弾の角度でもない。

 

 宝具の波形でもない。

 

 白い光の中に浮かび上がったのは、一人の少年だった。

 

 細い身体。

 

 痩せた手足。

 

 窓の外から、道場を見ている。

 

 中では、子供たちが稽古をしていた。

 

 転ぶ。

 

 立つ。

 

 叱られる。

 

 また構える。

 

 笑う。

 

 泣く。

 

 また立つ。

 

 少年は、その全部を見ていた。

 

 窓の外から。

 

 杖を握ったまま。

 

 アレクセイは息を止めた。

 

 観測者は、椅子に座ったまま動かなかった。

 

 いや。

 

 動けなかった。

 

 ただ、目だけがその記録を見ていた。

 

「……見るな」

 

 掠れた声だった。

 

「それは、見るものではない」

 

 誰も答えなかった。

 

 中心炉は、彼の意思とは関係なく記録を吐き出している。

 

 塔が崩れかけている。

 

 保存されていたものが、順番にほどけている。

 

 だから、最後に残ったものが表へ出た。

 

 観測者自身の記録。

 

 少年は、窓の外にいた。

 

 道場の戸は開いている。

 

 だが、彼は入らない。

 

 いや。

 

 入れない。

 

 足が動かない。

 

 身体がついていかない。

 

 中の子供が振り返る。

 

 少年と目が合う。

 

 だが、すぐに師に呼ばれて戻っていく。

 

 誰も悪くない。

 

 誰も彼を追い払っていない。

 

 それでも、彼は外にいた。

 

 記録が変わる。

 

 病室。

 

 白い天井。

 

 積み重なった本。

 

 武術書。

 

 戦記。

 

 英雄譚。

 

 魔術書。

 

 少年は、寝台の上でページをめくっている。

 

 指は細い。

 

 時折、咳をする。

 

 それでも読む。

 

 読む。

 

 読む。

 

 動けない身体の代わりに、目だけが走る。

 

 記録がまた変わる。

 

 焼けた道場。

 

 崩れた梁。

 

 灰になった巻物。

 

 折れた木刀。

 

 誰かが泣いている。

 

 誰かが遺品を拾っている。

 

 少年だった男は、杖をついて立っていた。

 

 その手は、灰の中の紙片へ伸びている。

 

 だが、触れた瞬間、紙片は崩れた。

 

 黒い粉になって、風に消えた。

 

 観測者の唇が震えた。

 

「師は死ぬ」

 

 彼は言った。

 

「弟子は途絶える」

 

 記録の中で、男は灰を握りしめる。

 

「戦火は道場を焼く」

 

 次の記録。

 

 病床。

 

 自分の手が震える。

 

 筆を握れない。

 

 魔術刻印が脈打つ。

 

 礼装が神経へ命令を流す。

 

 それでも指は、思うように動かない。

 

「病は身体を奪う」

 

 観測者の声は、もう怒っていなかった。

 

 淡々としていた。

 

 それがかえって痛かった。

 

「では、誰が残す」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 黒田鉄山は、静かに記録を見ていた。

 

 園部秀雄も、目を伏せていた。

 

 シモ・ヘイヘは銃を下ろしている。

 

 ボブ・マンデンは帽子を取っていた。

 

 舩坂弘は、ヘレナに支えられたまま立っている。

 

 静馬は黙って拳を握っている。

 

 真澄は札を持った手を下ろしている。

 

 クララは、銃口を向けていない。

 

 ヴィクトールは床に倒れ、荒く息をしていた。

 

 誰も、観測者を簡単には否定できなかった。

 

 アレクセイも同じだった。

 

 記録は必要だ。

 

 それはもう、認めている。

 

 認めなければ嘘になる。

 

 人は死ぬ。

 

 場所は焼ける。

 

 記憶は歪む。

 

 身体は衰える。

 

 どれだけ美しく「人から人へ」と言っても、人がいなくなれば終わる。

 

 それは現実だった。

 

 観測者は、その現実を見すぎた。

 

 見すぎて、触れることをやめた。

 

 アレクセイは、膝をついたまま言った。

 

「記録は、否定しない」

 

 観測者が、ゆっくりと彼を見る。

 

「ならば、なぜ壊した」

 

「壊したんじゃない」

 

「空の英雄殻を消した」

 

「あれは記録じゃない」

 

 アレクセイは喉の痛みに耐えながら、言葉を選んだ。

 

「あれは、人間の代わりだった」

 

 観測者の目が細くなる。

 

「人間は、代わりにならないほど脆い」

 

「だからって、空の器に技を詰めても、人にはならない」

 

「人である必要があるのか」

 

 観測者の声が鋭くなった。

 

 最後の刃だった。

 

「技が残ればいい」

 

「違う」

 

「なぜ違う」

 

「技を選ぶのは、人だからだ」

 

 中心炉が小さく鳴った。

 

 アレクセイは、炉の中に残る光を見る。

 

 黒田が飛ぶ前を斬った記録。

 

 園部が型で命を通した記録。

 

 シモが撃墜せず接続だけを撃った記録。

 

 ボブが敵ではなく一瞬を撃った記録。

 

 クララが盗まれた術式を止めた記録。

 

 真澄が火を使わなかった記録。

 

 静馬が神を降ろさなかった記録。

 

 ヘレナが戦わせるために治さなかった記録。

 

 舩坂が突撃せず道を支えた記録。

 

 ヴィクトールが善意ではなく意地で術式を止めた記録。

 

 植芝が返すのではなく帰した記録。

 

 そして、アレクセイが勝利ではなく帰還を選んだ記録。

 

 そこに残っていたのは、技の完成形ではなかった。

 

 選択だった。

 

「あなたは」

 

 アレクセイは言った。

 

「技を残したかったんじゃない」

 

 観測者は黙る。

 

「技が選ばれる瞬間を、残したかったんだ」

 

 その言葉に、観測者の表情が消えた。

 

 怒りではない。

 

 否定でもない。

 

 ただ、言葉が届いてしまった顔だった。

 

 観測者は炉を見る。

 

 白い光の中に、いくつもの選択が浮かんでいる。

 

 撃つことができたのに、撃たなかった。

 

 届くことができたのに、届かなかった。

 

 治すことができたのに、治さなかった。

 

 斬ることができたのに、発つ前だけを斬った。

 

 燃やすことができたのに、火を封じた。

 

 戦えるのに、戦わなかった。

 

 勝てるのに、勝たなかった。

 

 そのすべてが、技だった。

 

 いや。

 

 技になる前のものだった。

 

 人間が、技を選ぶ場所。

 

 観測者は、かすかに笑った。

 

「……残っている」

 

 さっきと同じ言葉。

 

 だが、意味が違っていた。

 

「技ではない」

 

 彼は言った。

 

「選択が」

 

 中心炉が軋む。

 

 部屋の壁に亀裂が走る。

 

 外部流出は止まった。

 

 代行者の焼却も保留された。

 

 だが、観測塔そのものはもう限界だった。

 

 溜め込みすぎた記録。

 

 繋ぎすぎた霊脈。

 

 歪めすぎた儀式。

 

 それらが、自重で崩れようとしている。

 

 観測者は、震える手を中心炉へ伸ばした。

 

 アレクセイは叫んだ。

 

「何をする気だ!」

 

「後始末だ」

 

 観測者は答えた。

 

 その声は穏やかだった。

 

「完全記録を焼く」

 

 クララが息を呑む。

 

「全部?」

 

「全部ではない」

 

 観測者は、わずかに首を振った。

 

「宝具波形の完全記録」

 

 炉の中で、一つの巨大な術式が燃え始める。

 

「霊基残響の再演データ」

 

 白い人型の影が崩れる。

 

「観測霊基の量産式」

 

 無数の空の器が、光になって消える。

 

「空の英雄殻の中核式」

 

 中心炉の奥で、白い殻が砕けた。

 

「ルーデル機構の外部転送術式」

 

 焦げた翼の影が、音もなく燃える。

 

「戦闘最適化アルゴリズム」

 

 無数の線が、ばらばらにほどけて消えた。

 

 アレクセイは、立ち上がろうとした。

 

 真澄が支える。

 

「待って!」

 

 アレクセイは叫ぶ。

 

「それをやったら、あなたは」

 

「私も中核式の一部だ」

 

 観測者は淡々と言った。

 

「当然、残れない」

 

 ヘレナが前へ出ようとする。

 

 舩坂が止めた。

 

 ヘレナは振り返る。

 

「止めないで」

 

「止めに行くのか」

 

「患者よ」

 

「そうだな」

 

 舩坂は短く答えた。

 

「だが、今は医者を呼んでいる顔じゃない」

 

 ヘレナは観測者を見る。

 

 彼は救いを求めていなかった。

 

 許しも求めていなかった。

 

 ただ、焼くべきものを焼いていた。

 

 クララが銃を下ろしたまま言う。

 

「完全記録を消したら、あなたがやってきたことは残らないわよ」

 

「残らない方がいいものもある」

 

「それは逃げじゃない?」

 

 観測者は、クララを見る。

 

「君の家も、そうだったのだろう」

 

 クララの顔が強張った。

 

「奪ったものを、伝統と呼んだ」

 

 観測者は言った。

 

「私は、保存と呼んだ」

 

 一拍。

 

「同じ穴だ」

 

 クララは反論しなかった。

 

 銃を握る手に、少しだけ力が入った。

 

 ヴィクトールが床で笑った。

 

「自覚が遅い」

 

「そうだな」

 

 観測者は素直に認めた。

 

「遅すぎた」

 

 ヴィクトールは顔をしかめた。

 

 罵るつもりだったのだろう。

 

 だが、言葉が出なかった。

 

 観測者は中心炉へさらに手を伸ばす。

 

 炎が強くなる。

 

 白い炎。

 

 熱はない。

 

 だが、記録だけを焼く。

 

 アレクセイは一歩踏み出した。

 

 足が震える。

 

 真澄が支える。

 

「無理」

 

「行く」

 

「なんで」

 

「帰るために戦った」

 

 アレクセイは観測者を見る。

 

「なら、あの人だけ置いて帰れない」

 

 真澄の手が一瞬だけ緩む。

 

 アレクセイは歩いた。

 

 一歩。

 

 膝が崩れそうになる。

 

 もう一歩。

 

 視界が白い。

 

 魔術回路は焼けている。

 

 立っているだけで痛い。

 

 それでも、手を伸ばす。

 

「あなたも帰れ!」

 

 観測者は、ゆっくりと顔を向けた。

 

 その顔に、驚きがあった。

 

 怒りではない。

 

 嘲笑でもない。

 

 本当に、驚いていた。

 

「私に?」

 

「そうだ!」

 

「どこへ」

 

 アレクセイは答えに詰まった。

 

 観測者は小さく笑う。

 

「私には、帰る場所がない」

 

「そんなこと」

 

「ある」

 

 観測者は遮った。

 

「道場には入れなかった」

 

 炎が、古い道場の記録を焼く。

 

「病室には戻りたくない」

 

 白いベッドが消える。

 

「協会には属さなかった」

 

 本棚が崩れる。

 

「教会には裁かれるだけだ」

 

 聖印めいた監視術式が砕ける。

 

「弟子もいない」

 

 空の稽古場が消える。

 

「友もいない」

 

 通信ログが燃える。

 

「私は、誰にも教えられなかった」

 

 その言葉だけが、部屋に残った。

 

 アレクセイは、何も言えなかった。

 

 観測者は笑っていなかった。

 

 泣いてもいなかった。

 

 ただ、自分の事実を述べただけだった。

 

 植芝が、ゆっくりと前へ出た。

 

 アレクセイの横を通る。

 

「先生」

 

 アレクセイは言った。

 

「止めないんですか」

 

 植芝は、観測者を見ていた。

 

「あれは今、稽古を終えようとしておる」

 

「でも」

 

「稽古の終わりには、礼をする」

 

 植芝は中心炉の前に立った。

 

 観測者が彼を見る。

 

「何を」

 

 植芝は、深く礼をした。

 

 誰も動かなかった。

 

 観測者も動かなかった。

 

 地下の中心炉。

 

 崩れかけた観測塔。

 

 焼かれていく完全記録。

 

 その前で、植芝盛平は、観測者に礼をした。

 

 許したのではない。

 

 救ったのでもない。

 

 認めたのでもない。

 

 ただ、稽古の終わりに礼をした。

 

 観測者は、その意味を理解できなかったように見えた。

 

 しばらく、彼はただ植芝を見ていた。

 

 それから、自分の手を見た。

 

 細い手。

 

 震える指。

 

 武を記録し続けた手。

 

 誰にも技を渡せなかった手。

 

 その手を、ぎこちなく膝の上へ置く。

 

 彼は、頭を下げようとした。

 

 身体が動かない。

 

 椅子の礼装が軋む。

 

 神経補助が火花を散らす。

 

 それでも、観測者は頭を下げた。

 

 形は崩れていた。

 

 美しくなかった。

 

 型にもなっていなかった。

 

 だが、人間の礼だった。

 

 植芝は顔を上げる。

 

「今からでも、礼はできる」

 

 観測者の唇が震えた。

 

 何かを言おうとした。

 

 だが、その前に咳き込んだ。

 

 白い炎が、彼の椅子へ届いている。

 

 アレクセイが叫ぶ。

 

「まだ間に合う!」

 

 観測者は首を振った。

 

「間に合わない」

 

「勝手に決めるな!」

 

「君もよく知っているはずだ」

 

 観測者はアレクセイを見る。

 

「すべてを救うには、手は足りない」

 

 アレクセイは歯を食いしばる。

 

「それでも伸ばす」

 

「そうだ」

 

 観測者は頷いた。

 

「だから、君は私と違う」

 

 彼は中心炉の側面に手を入れた。

 

 炎の中から、一冊の薄い帳面を取り出す。

 

 黒い表紙。

 

 焼けていない。

 

 だが、古びている。

 

 観測者はそれをアレクセイへ差し出した。

 

「これは」

 

「最後に残すものだ」

 

「完全記録じゃないのか」

 

「違う」

 

 観測者は言った。

 

「完全に残せば、人は読まない」

 

 帳面のページが、風にめくれる。

 

 アレクセイは見た。

 

 そこに、完成された技はなかった。

 

 宝具の構造も。

 

 霊基の再演式も。

 

 戦闘最適化の算法も。

 

 どこにもない。

 

 あるのは、短い言葉と、空白だけだった。

 

 一歩目の足の置き方。

 

 呼吸の数。

 

 相手を見ること。

 

 礼。

 

 なぜ、その型を選ぶのか。

 

 次の行は、白紙。

 

 その次も、白紙。

 

 書かれているより、空白の方が多い。

 

「稽古帳……?」

 

 アレクセイが呟く。

 

 観測者は頷いた。

 

「余白があれば、人は稽古する」

 

 アレクセイは帳面を受け取った。

 

 軽い。

 

 あまりにも軽い。

 

 この男が集めた膨大な記録に比べれば、笑ってしまうほど軽い。

 

 でも、手の中に重さが残った。

 

「これを、どうしろと」

 

「残すな」

 

 観測者は言った。

 

 アレクセイは目を見開く。

 

「え?」

 

「保存するな」

 

 観測者は続けた。

 

「使え」

 

 炎がさらに強くなる。

 

 観測者の椅子の脚が崩れる。

 

「誰かに渡せ」

 

「書き足せ」

 

「間違えろ」

 

「破れ」

 

「汚せ」

 

「失くすなとは言わない」

 

 一拍。

 

「失くしたら、また始めろ」

 

 アレクセイは、帳面を握りしめた。

 

 観測者は少しだけ息を吐く。

 

「私は、それができなかった」

 

 白い炎が彼の下半身を包む。

 

 痛みはあるはずだった。

 

 だが、彼は顔を歪めなかった。

 

「私は、残そうとした」

 

 声が薄くなる。

 

「残すことだけを考えた」

 

 アレクセイは近づこうとする。

 

 植芝が手で制した。

 

 アレクセイは叫ぶ。

 

「先生!」

 

「見るのじゃ」

 

 植芝の声は静かだった。

 

「これは、あの男の選択じゃ」

 

 観測者はアレクセイを見ている。

 

「君は」

 

 声が途切れる。

 

 それでも続ける。

 

「残すのではなく」

 

 一拍。

 

「帰せ」

 

 アレクセイは、帳面を胸に抱いた。

 

「どこへ」

 

 観測者は、少しだけ笑った。

 

 今度は、確かに笑っていた。

 

「人へ」

 

 中心炉が大きく鳴った。

 

 天井から破片が落ちる。

 

 園部の結界が受け止める。

 

 黒田が大きな梁の初動を斬る。

 

 真澄が叫ぶ。

 

「崩壊が来る!」

 

 エイノが霊脈を読む。

 

「下が閉じる。上へ逃げるしかない」

 

 クララがヴィクトールの腕を掴む。

 

「立てる?」

 

 ヴィクトールは血を吐きながら言った。

 

「誰に言っている」

 

「重傷者に」

 

「なら立てん」

 

「素直で結構」

 

 ボブが肩を貸す。

 

「お姫様抱っこがよかったか?」

 

「殺すぞ」

 

「元気じゃねえか」

 

 シモは最後尾へ回っている。

 

 舩坂はヘレナに睨まれながら、崩れた床を支えている。

 

「走らない」

 

「分かってる」

 

「支えすぎない」

 

「……努力する」

 

「舩坂さん」

 

「支えすぎない」

 

 静馬は真澄の前に立つ。

 

 神降ろしは使っていない。

 

 真澄は彼の肩に札を貼る。

 

「走れる?」

 

「走れる」

 

「神降ろしは?」

 

「使わない」

 

「本当に?」

 

「使わないって言ってるだろ!」

 

「よし」

 

 アレクセイは、まだ観測者を見ていた。

 

 白い炎の中で、観測者の輪郭が薄くなる。

 

 彼はもう中心炉の一部に戻りつつあった。

 

 完全記録と一緒に。

 

 彼が積み上げた狂気と一緒に。

 

 彼が間違えた保存と一緒に。

 

「アレクセイ!」

 

 真澄が叫ぶ。

 

「走って!」

 

 アレクセイは一歩だけ前に出た。

 

 手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 炎が壁のように立つ。

 

 観測者は、その向こうで首を振った。

 

「行け」

 

「名前を」

 

 アレクセイは言った。

 

「あなたの名前を教えてください」

 

 観測者は少しだけ目を見開いた。

 

 長い沈黙。

 

 崩壊の音の中で、彼は口を開いた。

 

 だが、その声は炎に飲まれた。

 

 聞こえなかった。

 

 アレクセイは叫ぶ。

 

「もう一度!」

 

 観測者は、もう一度言おうとした。

 

 だが、今度も音にならなかった。

 

 それでも、彼は笑った。

 

 名は、人に呼ばれるためのもの。

 

 彼はそう言っていた。

 

 最後に、その名を呼ぼうとした相手がいた。

 

 それで足りるのか。

 

 足りないのか。

 

 アレクセイには分からない。

 

 観測者の手が、ゆっくりと上がる。

 

 礼。

 

 崩れた礼。

 

 ぎこちない礼。

 

 それから、白い炎が彼を包んだ。

 

 中心炉の奥が閉じる。

 

 最後の記録が閉じる。

 

 観測者の姿は、消えた。

 

 アレクセイは帳面を握ったまま立っていた。

 

 真澄が彼の腕を掴む。

 

「行くよ!」

 

 彼は頷いた。

 

 声は出なかった。

 

 背後で、中心炉が完全に崩れ始める。

 

 塔が鳴いている。

 

 保存された記録が焼けている。

 

 だが、すべてが消えたわけではない。

 

 アレクセイの手の中に、一冊の薄い帳面がある。

 

 完成された技はない。

 

 宝具の秘密もない。

 

 英雄の複製法もない。

 

 あるのは、余白。

 

 足を置く場所。

 

 呼吸。

 

 礼。

 

 問い。

 

 なぜ、その型を選ぶのか。

 

 アレクセイは、それを胸に押し当てた。

 

 植芝が横に来る。

 

「重いか」

 

 アレクセイは首を振った。

 

「軽いです」

 

「なら、落とすな」

 

「はい」

 

「重すぎるものは、人に渡せん」

 

 アレクセイは、ようやく小さく息を吐いた。

 

 真澄が叫ぶ。

 

「本当に崩れる!」

 

 黒田が前を見る。

 

「道はあります」

 

 園部が頷く。

 

「通します」

 

 シモが最後尾で銃を構える。

 

「後ろは見る」

 

 ボブがヴィクトールを担ぎ直す。

 

「じゃあ、走るか」

 

 ヘレナが舩坂を睨む。

 

「走らない」

 

 舩坂が言う。

 

「全員が走るなら歩くわけにはいかん」

 

「じゃあ早歩き」

 

「戦場で早歩きか」

 

「帰還路で早歩きです」

 

 舩坂は少しだけ笑った。

 

 静馬が真澄の横に立つ。

 

「行けるか」

 

「誰に言ってるの」

 

「俺に言ってる」

 

 真澄は一瞬だけ彼を見て、それから札を構えた。

 

「じゃあ、行くよ」

 

 アレクセイは最後に一度だけ振り返った。

 

 中心炉は白い炎の奥に消えていく。

 

 観測者はいない。

 

 名前も聞こえなかった。

 

 だが、礼だけは残っている。

 

 崩れた、不格好な、人間の礼。

 

 アレクセイは頭を下げた。

 

 短く。

 

 それから前を向く。

 

 塔が崩れる。

 

 帰還路が揺れる。

 

 誰かが叫ぶ。

 

 誰かが走る。

 

 誰かが支える。

 

 誰かが撃たずに守る。

 

 誰かが斬らずに通す。

 

 誰かが治しすぎずに歩かせる。

 

 誰かが神を降ろさず、人間のまま立つ。

 

 アレクセイは帳面を抱えて走った。

 

 勝つためではない。

 

 残すためでもない。

 

 託されたものを、人へ帰すために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。