『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
塔が崩れた。
音は、爆発ではなかった。
泣き声に近かった。
石が割れる音。
術式が裂ける音。
本棚が倒れる音。
硝子管が砕ける音。
霊脈に縫い付けられていた記録が、一枚ずつ剥がれていく音。
観測塔は、叫ばなかった。
ただ、耐えきれなくなった身体のように、静かに崩れていった。
「上へ!」
真澄が叫ぶ。
「帰還路、北東へずれてる! 真っ直ぐ走ったら潰れる!」
彼女の札が飛ぶ。
中央土気。
北方水気。
東方木気。
崩れかけた白い道が、かろうじて形を取り戻す。
アレクセイは息を切らして走っていた。
腕の中には、黒い稽古帳。
薄い。
軽い。
だが、走るたびに胸の奥を叩く。
落とすな。
渡せ。
使え。
観測者の声が、まだ耳に残っている。
白い通路が揺れた。
天井から梁のような術式骨格が落ちてくる。
黒田鉄山が前へ出た。
刀は、もう抜かれている。
誰も抜いた瞬間を見ていない。
落下する梁が、まだ落ちきる前にずれた。
割れる。
砕ける。
道の左右へ散る。
「進んでください」
黒田の声は静かだった。
静かすぎて、崩壊の中でもよく通った。
「落ちてからでは遅い」
静馬が歯を食いしばる。
「何を斬ったんですか」
「落ちる前です」
「……相変わらず意味が分からない」
「分からなくていい」
黒田は前を見たまま言った。
「今は、足を止めないことです」
その言葉に、静馬は反論しなかった。
足を止めない。
だが、無理に届こうともしない。
真澄の横に立ち、彼女が札を貼る場所を空ける。
飛んできた破片を、身体神降ろしなしで弾く。
腕が痺れる。
肩が痛む。
それでも、彼は祝詞を口にしなかった。
「そこ、右!」
真澄が叫ぶ。
静馬は一歩だけ右へ入った。
人間の一歩。
神ではない。
それで足りた。
破片が彼の肩をかすめ、床に刺さる。
真澄の札は焼けずに済む。
「助かった」
「別に」
「痛い?」
「痛くない」
「嘘」
「今聞くな!」
そのやり取りの横を、園部秀雄が通る。
薙刀を構えたまま、走らない。
彼女は歩いているように見えた。
だが、不思議と誰よりも遅れない。
薙刀の柄が床を叩く。
一度。
二度。
三度。
そのたびに、帰還路の端が整う。
崩れた床板。
霊脈の裂け目。
剥き出しになった術式。
それらが、一瞬だけ道として扱える形になる。
「道場ではありませんね」
園部が呟いた。
だが、声には微笑みがあった。
「けれど、通すべき人がいるなら同じです」
修徳館の結界が、薄く広がる。
破片が逸れる。
爆風が弱まる。
マスターたちの足元だけが、わずかに沈まない。
クララが銃を片手に、ヴィクトールを睨んでいる。
「自分で歩ける?」
「歩けるわけがないだろう」
「偉そうに言うこと?」
「事実を述べている」
「腹立つわね」
ボブがヴィクトールを肩に担ぎ上げた。
「よし、荷物一丁」
「下ろせ、銃使い」
「いいぜ。ここで」
「担げ」
「素直で結構」
ヴィクトールは顔を歪めた。
だが抵抗する力はない。
機械降霊の接続を無理やり引き剥がされた身体は、血と火花をこぼしている。
ヘレナが一瞬そちらへ向かおうとした。
舩坂が彼女の肩を掴む。
「後でいい」
「でも」
「今治したら、あいつは喋る」
ヴィクトールがボブの肩で低く言った。
「聞こえているぞ」
舩坂は無視した。
「喋る余裕があるなら、まだ死なん」
ヘレナは苦い顔をした。
「判断が雑です」
「戦場では使える」
「ここは帰還路です」
「……なら、あとで診ろ」
ヘレナはそれ以上言わなかった。
代わりに、全員へ糸を飛ばす。
カドゥケウス・パッチワーク。
傷口を塞ぐ。
関節を固定する。
痛みを少しだけ遠ざける。
だが、戦えるようにはしない。
走り切れるだけ。
倒れずに帰れるだけ。
それだけに絞る。
「無茶をしたら切ります」
ヘレナが言った。
静馬が振り向く。
「何を?」
「補助を」
「怖いな、この医者」
舩坂が少しだけ笑った。
「いい医者だ」
ヘレナはその言葉を聞こえないふりをした。
白い通路の後方で、銃声がした。
一発。
シモ・ヘイヘ。
彼は最後尾にいた。
崩壊から逃げながら、撃っている。
敵を撃っているのではない。
追ってくる記録の欠片。
外へ漏れようとする細い術式片。
壁に残った観測塔の目。
それらだけを、正確に撃ち抜いていた。
撃てば死ぬ相手ではない。
だが、撃たなければ道が読まれる。
シモは一発ずつ、帰還路を隠していく。
エイノがその近くでルーンを刻む。
ᛁᛋ。
氷。
熱を奪う。
ᛉ。
防護。
背後の霊圧を逸らす。
ᚱ。
旅。
道を示す。
彼の声は小さかった。
「森ではない」
刻まれたルーンが、白い床に薄く光る。
「だが、帰る道なら読める」
シモは頷いた。
短く。
それだけで、二人の役割は定まった。
シモが消す。
エイノが読む。
後ろから迫る崩壊は、彼らのすぐ背後まで来ていた。
ボブが振り返る。
「白いの、遅れるなよ」
シモは答えない。
だが、次の銃声が返事だった。
天井の術式眼が割れる。
ボブは笑う。
「いい返事だ」
通路が大きく揺れた。
足元に亀裂が走る。
アレクセイの身体が傾いた。
稽古帳が腕から滑りかける。
彼は反射的に抱き締めた。
その瞬間、身体が前へ倒れる。
「アレクセイ!」
真澄の手が伸びる。
だが、その前に植芝が袖を掴んだ。
強く引くのではない。
方向を少し変えただけ。
アレクセイの身体は、倒れずに横へ流れた。
足が床につく。
呼吸が戻る。
「すみません」
「謝る暇があるなら歩け」
「はい」
「帳面は」
「あります」
「ならよい」
植芝は、それ以上何も言わなかった。
叱られたわけではない。
励まされたわけでもない。
ただ、歩けと言われた。
それで十分だった。
前方で、白い道が途切れていた。
階段が崩れている。
上へ続くはずの帰還路が、途中で空洞に落ちている。
その向こうに、出口の気配だけがある。
霊脈の上昇流。
外の空気。
遠い夜明け。
だが、道がない。
真澄が札を投げる。
届かない。
札は空洞の中で燃え尽きた。
「距離が足りない!」
クララが舌打ちする。
「飛べる人?」
静馬が神降ろしの祝詞を口にしかける。
真澄が見た。
静馬は口を閉じた。
「……言ってない」
「言いかけた」
「言ってない」
黒田が空洞を見た。
「斬れませんね」
「何がですか」
アレクセイが息を切らしながら問う。
「距離です」
黒田は淡々と言った。
「斬れたら便利でしたが」
ボブが笑う。
「意外と冗談言うんだな」
「冗談ではありません」
「そこが怖いんだよ」
園部が薙刀を床に立てる。
「橋を作るには、支点が要ります」
エイノがルーンを刻む。
「反対側には届かない」
真澄が歯を噛む。
「こっち側だけで固定すると、重さに耐えられない」
その時、舩坂が前に出た。
ヘレナがすぐに腕を掴む。
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってます」
「歩くだけだ」
「今度は信じません」
舩坂は空洞を見た。
崩れた階段。
途切れた道。
下は白い炎と暗闇。
「俺が支点になる」
「駄目」
ヘレナの声は即答だった。
「落ちたら終わりです」
「落ちなければいい」
「そういう問題じゃない!」
舩坂はヘレナを見た。
その顔に、戦うための熱はなかった。
「突っ込まない」
彼は言った。
「立つだけだ」
ヘレナの手が震える。
舩坂は続けた。
「前に出るためじゃない」
一拍。
「後ろを通すためだ」
ヘレナは何も言えなかった。
舩坂は、銃剣を抜かなかった。
代わりに、崩れた階段の端へ立つ。
足を開く。
瓦礫へ手をかける。
崩れかけた術式骨格を、背中で受ける。
身体から、宝具の気配が立ち上がった。
不死身の分隊長。
倒れない兵士。
だが今は、敵陣へ向かうためではない。
道になるために。
「園部さん」
舩坂が言う。
「お願いします」
園部は頷いた。
薙刀を横へ流す。
修徳館の結界が、舩坂の背を支点に広がる。
真澄が中央土気をそこへ打ち込む。
エイノが旅のルーンを重ねる。
アレクセイは残り少ない土星の光を伸ばす。
固定。
拘束ではなく、橋の固定。
白い道が空洞の上へ細く伸びた。
細い。
揺れる。
人一人ずつしか通れない。
だが、道だった。
ボブがヴィクトールを担ぎ直す。
「お先に」
「落とすなよ」
「落としたら軽くなる」
「貴様」
ボブが渡る。
クララが続く。
シモとエイノは最後尾を見たまま動かない。
黒田が先に渡り、向こう側で落下物の初動を斬る。
園部が橋の揺れを薙刀の柄で整える。
真澄が札を貼る。
静馬が彼女の横で支える。
ヘレナは舩坂の背を見ていた。
「舩坂さん」
「行け」
「後から来ますよね」
「行く」
「本当に」
「行く」
「走らないで」
「橋の上では無理だ」
「そういう意味じゃない」
舩坂は少しだけ笑った。
「分かってる」
ヘレナは渡った。
最後に振り返る。
舩坂はまだ立っている。
白い炎が彼の背後まで迫っている。
だが、前へ出ない。
ただ立っている。
アレクセイは、その姿を見た。
死なない兵士ではなく。
帰すために立つ男。
観測塔が記録できなかったものが、そこにあった。
アレクセイが橋へ足をかける。
その時、通路の奥で轟音がした。
背後の道が完全に崩れる。
シモとエイノが、まだこちら側にいた。
「シモ!」
クララが叫ぶ。
シモは返事をしない。
エイノがルーンを刻む。
白い炎が迫る。
シモは銃を構えた。
撃つ先は、炎ではない。
崩れた天井の一点。
彼が撃った。
落石が軌道を変え、橋の手前へ落ちる。
即席の足場。
エイノがそこへ旅のルーンを刻む。
「行ける」
シモが頷く。
二人は走らない。
必要な速度で動く。
落石。
足場。
橋。
向こう側。
最後の一歩で、足場が崩れる。
シモの身体が沈む。
エイノが腕を掴む。
引き上げるには足りない。
ボブが手を伸ばす。
届かない。
その瞬間、白い帯の端が伸びた。
アレクセイの手から。
魔術ではない。
ただ、帯をほどいて投げた。
「掴め!」
シモが帯を掴む。
アレクセイは引いた。
無理だ。
筋力では足りない。
火星護符はもうない。
強化もない。
だが、植芝の手がアレクセイの背に添えられた。
黒田が帯の揺れを斬るように静める。
園部が橋の沈みを支える。
静馬がアレクセイの腰を掴む。
真澄が土気を足元に打つ。
クララが落ちてくる破片を撃つ。
ボブが空いている手で帯を取る。
ヘレナがアレクセイの腕の筋を補強する。
舩坂が橋を支えたまま歯を食いしばる。
全員で引いた。
シモの身体が上がる。
エイノも一緒に転がり込む。
誰も拍手しない。
誰も笑わない。
シモはただ短く言った。
「助かった」
アレクセイは息も絶え絶えに答える。
「どういたしまして」
ボブが笑った。
「白い死神を帯で釣るとはね」
シモはボブを見た。
「次は撃つ」
「冗談だって」
橋が軋む。
舩坂の膝が沈む。
ヘレナが叫ぶ。
「舩坂さん!」
「行け!」
「もう全員渡った!」
舩坂は一瞬だけ動きを止めた。
「そうか」
「そうかじゃない! あなたも!」
舩坂は橋から手を離した。
その瞬間、支点が崩れる。
彼の足元が抜けた。
ヘレナの顔から血の気が引く。
だが、舩坂は落ちなかった。
黒田の斬撃が、落下の初動を一瞬遅らせていた。
園部の結界が、背中を押していた。
真澄の土気が、足裏に残っていた。
アレクセイの土星の光が、道の端を固定していた。
舩坂は、その一瞬を使って跳んだ。
着地。
膝をつく。
前へ転がりそうになる。
ヘレナが受け止めた。
受け止めきれずに、二人で倒れた。
「走らないって言いましたよね!」
「跳んだ」
「同じです!」
「違う」
「違いません!」
舩坂は、少しだけ息を吐いた。
「帰っただろ」
ヘレナは言葉を失った。
それから、彼の額を軽く叩いた。
「まだです」
舩坂は黙って頷いた。
まだ帰っていない。
そうだ。
まだ、外ではない。
橋が完全に崩れた。
背後の白い炎が、通路を飲み込む。
もう戻れない。
前だけ。
全員が走り出す。
道は狭い。
壁は崩れる。
空気が薄い。
霊脈が乱れ、重力が横へずれる。
足を取られる。
視界が歪む。
それでも、道は続いている。
アレクセイの帰還儀礼。
観測者の稽古帳。
真澄の方位。
エイノのルーン。
園部の結界。
黒田の初動。
シモの後方警戒。
ボブの笑い。
クララの銃声。
ヘレナの糸。
舩坂の背。
静馬の一歩。
ヴィクトールの悪態。
植芝の足。
それらが、細い道を道にしていた。
前方に、鳥居が見えた。
黒い鳥居。
鞍馬山へ入る時に通ったもの。
だが、形が崩れている。
半分は白い炎に焼かれ、半分は霊脈に沈んでいる。
その向こうに、夜の山がある。
外。
地上。
帰る場所。
真澄が叫ぶ。
「出口!」
だが、鳥居の前に最後の壁が落ちてきた。
観測塔の外殻。
巨大な記録板。
そこには、無数の技の断片が刻まれている。
剣。
銃。
薙刀。
爆撃。
狙撃。
合気。
戦闘続行。
決闘。
神速。
それらすべてが、最後の蓋のように道を塞ぐ。
アレクセイは息を呑んだ。
壊せば通れる。
だが、壊せば最後の記録が散る。
外へ漏れる。
焼却が再開されるかもしれない。
黒田が刀に手をかける。
園部が薙刀を構える。
シモが銃を上げる。
クララも。
ボブも。
静馬の喉に祝詞が上がる。
舩坂が一歩出る。
アレクセイは叫んだ。
「壊さない!」
全員が止まる。
アレクセイは帳面を抱えたまま前へ出た。
壁を見る。
最後の記録。
観測者が消しきれなかった断片。
技の残骸。
アレクセイは手を伸ばす。
水星はない。
土星もほとんどない。
太陽も燃え尽きた。
火星は破った。
残っているのは、自分の魔術回路と、稽古帳だけ。
彼は帳面を開いた。
白紙。
足の置き方。
呼吸。
礼。
なぜ、その型を選ぶのか。
アレクセイは息を吸った。
そして、壁に向かって礼をした。
誰も何も言わなかった。
植芝だけが、隣に立った。
同じように礼をする。
黒田が刀を納めた。
園部が薙刀を下ろした。
シモが銃を下げた。
ボブが帽子を取った。
クララが銃口を床へ向けた。
舩坂が立ち止まった。
ヘレナがその隣に立った。
静馬が祝詞を飲み込んだ。
真澄が札を下ろした。
エイノがルーンを閉じた。
ヴィクトールだけが、ボブの肩の上で呻いた。
「……馬鹿げている」
だが、それ以上は言わなかった。
アレクセイは言った。
「お借りしました」
声はかすれていた。
「持っていきません」
一拍。
「人へ帰します」
壁の記録が震えた。
斬撃でも、銃撃でも、術式でも動かなかったものが。
礼で、揺れた。
植芝が静かに言う。
「稽古は終わりじゃ」
壁に、細い隙間が開いた。
破壊ではない。
退去。
記録板が左右へずれる。
道ができる。
鳥居の向こうから、夜風が入った。
本物の風だった。
湿った土の匂い。
木の匂い。
遠くの虫の音。
鞍馬山の空気。
アレクセイの膝が崩れかける。
真澄が支える。
「あと少し」
「はい」
「帳面」
「あります」
「じゃあ行く」
全員が鳥居をくぐった。
一人ずつ。
黒田。
園部。
シモ。
ボブ。
クララ。
エイノ。
静馬。
真澄。
ヘレナ。
舩坂。
ヴィクトールを担いだボブ。
最後に、アレクセイと植芝。
鳥居を抜けた瞬間、音が変わった。
崩壊の音が遠ざかる。
白い炎が見えなくなる。
地下の圧迫感が消える。
夜の山道。
冷たい空気。
木々の影。
遠くで、鳥が鳴いた。
夜明け前の鳥だった。
誰もすぐには喋らなかった。
全員が地面に座り込んだ。
ある者は膝をつき。
ある者は倒れ。
ある者は空を見上げ。
ある者は銃を抱えたまま目を閉じた。
アレクセイは、最後に振り返った。
黒い鳥居の向こうで、地下への入口が崩れていく。
だが、山は崩れなかった。
鞍馬山は、そこにあった。
観測塔だけが、地の底で閉じていく。
真澄が座り込んだまま言う。
「人数」
誰も動けない。
それでも、彼女は言った。
「数えて」
アレクセイは顔を上げる。
数える。
黒田。
園部。
シモ。
ボブ。
クララ。
エイノ。
静馬。
真澄。
ヘレナ。
舩坂。
ヴィクトール。
植芝。
自分。
全員。
全員いる。
観測者だけがいない。
アレクセイは、帳面を胸に抱いた。
「帰った」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
植芝が横で言った。
「まだじゃ」
アレクセイは顔を上げる。
「え」
「家に着くまでが帰還じゃ」
アレクセイは一瞬、何も言えなかった。
それから、笑った。
声にならない笑いだった。
身体の力が抜ける。
真澄が慌てて支える。
「ちょっと!」
「すみません」
「すみませんじゃない!」
「帰ったら怒られます」
「今怒ってる!」
アレクセイはそれを聞きながら、空を見た。
夜が薄くなっている。
山の向こうに、少しだけ青が差していた。
朝が来る。
誰かが残したものではない。
記録された朝でもない。
本物の朝。
アレクセイは、稽古帳を抱え直した。
軽い。
けれど、落とさない。
人へ帰すために。
遠くで、聖堂教会の通信が鳴った。
『対象区域の神秘濃度、低下を確認』
一拍。
『焼却処理を中止する』
クララが仰向けに倒れた。
「助かった……のよね?」
ボブが帽子を顔に乗せる。
「たぶんな」
ヴィクトールが低く言う。
「私は助かっていない」
ヘレナが起き上がる。
「なら黙ってください。今から診ます」
「断る」
「患者に拒否権はありません」
「横暴だな」
「医療です」
舩坂が小さく笑う。
シモは森を見ている。
エイノは土に触れている。
黒田は刀を納めたまま、鳥居へ礼をした。
園部もまた、静かに頭を下げた。
静馬は真澄の隣で座り込み、もう立とうとはしなかった。
真澄はそれを見て、何も言わずに札を一枚貼った。
固定。
座っていられるように。
アレクセイは目を閉じた。
瞼の裏に、白い炎が残っている。
観測者の礼が残っている。
聞こえなかった名前が残っている。
完全な記録はない。
でも、問いは残った。
なぜ、その型を選ぶのか。
アレクセイは息を吐いた。
植芝の声がした。
「明日は稽古じゃな」
アレクセイは目を開ける。
「明日?」
「今日か」
「休ませてください」
「休むのも稽古じゃ」
「それなら得意です」
「嘘をつけ」
夜明け前の山で、誰かが小さく笑った。
それは勝利の笑いではなかった。
生きて外へ出た者たちの、疲れた息だった。
それでよかった。
アレクセイは稽古帳を抱え、まだ暗い空を見上げた。
帰った。
でも、終わっていない。
帰った者には、次の朝がある。
その朝をどう使うか。
それが、託された問いだった。