『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
朝が来た。
ゆっくりと。
山の端から、青い光が滲んでくる。
夜を押し退けるのではなく、傷口に布を当てるように、静かに広がっていく。
鞍馬山は、そこにあった。
木々は折れている。
地面には亀裂がある。
鳥居の一部は欠けている。
山道も、何箇所か沈んでいる。
だが、山は残っていた。
街も残っている。
空も。
朝も。
誰かが作った疑似霊場ではない。
観測塔に記録された朝でもない。
本物の朝だった。
アレクセイは、地面に座り込んだまま、それを見ていた。
腕の中には、黒い稽古帳がある。
薄くて、軽い。
なのに、手放す気にはなれなかった。
真澄が隣に座っている。
彼女は札を何枚も膝の上に広げ、焦げたもの、まだ使えるものを分けていた。
指先が震えている。
それでも、作業は正確だった。
「寝たら?」
アレクセイが言うと、真澄は横目で見た。
「あんたに言われたくない」
「僕は座ってる」
「倒れてるのと大差ない」
「厳しいな」
「優しくしたら調子に乗るでしょ」
アレクセイは言い返そうとして、やめた。
返す言葉がなかった。
少し離れた場所で、ヘレナが負傷者を診ている。
最初に捕まったのはヴィクトールだった。
「拒否する」
「拒否権はありません」
「私は敵だぞ」
「患者です」
「魔術師だ」
「患者です」
「貴族だ」
「患者です」
ヴィクトールはしばらく黙った。
それから、心底不愉快そうに言った。
「……その分類は強すぎる」
ヘレナは返事をせず、彼の胸に食い込んだ機械降霊の残骸を切り離していた。
完全に治す気はない。
戦えるように戻す気もない。
ただ、生きて帰れる状態にする。
その線引きが、彼女の手つきを変えていた。
舩坂弘は、すぐ横に座っている。
立とうとはしていない。
それだけで、ヘレナはときどき彼を見る。
舩坂は気づいているのに、気づかないふりをしている。
「立ちませんよね」
ヘレナが言った。
「今はな」
「今後もです」
「それは約束できん」
「できます」
「強いな」
「医者なので」
舩坂は少しだけ笑った。
「いい医者だ」
ヘレナの手が止まる。
彼女は何か言おうとして、言わなかった。
代わりに、舩坂の包帯を少しきつく巻き直した。
「痛い」
「患者の態度が悪いので」
「そうか」
「そうです」
黒田鉄山は、折れた鳥居の前に立っていた。
刀は納めている。
その横で、神代静馬が座っている。
立とうとしたのを真澄に止められ、さらに黒田に「座るのも稽古です」と言われてから、彼は不機嫌な顔で座っていた。
「納得してません」
静馬が言う。
黒田は鳥居を見たまま答える。
「何にですか」
「勝者なしです」
「そうですか」
「聖杯戦争ですよ」
「はい」
「最後に残った陣営が勝つんじゃないんですか」
「普通は」
「じゃあ、これは何なんです」
黒田は少しだけ静馬を見る。
「普通ではなかった」
静馬は黙った。
反論できなかった。
普通の聖杯戦争なら、こんな朝は来なかった。
全員が一箇所に座り込んで、怪我人を数え、誰が勝ったのか分からないまま空を見上げることなど、ない。
黒田は言った。
「届かないことを悔しがれるなら、まだ稽古になります」
「慰めですか」
「稽古です」
「……またそれか」
静馬は視線を逸らした。
しかし、立たなかった。
その近くで、園部秀雄が真澄に薙刀の柄の握り方を見せていた。
教えているというより、確認している。
真澄は札を分ける手を止めていない。
それでも、目だけで園部の手元を追っている。
「朝稽古に、勝者はありません」
園部が言った。
真澄は少しだけ眉を上げる。
「聖杯戦争なんですけど」
「それでも、朝は来ました」
「……そう言われると、返しにくいです」
「返さなくてよろしいのです」
園部は静かに微笑む。
「残れば、次があります」
真澄は黙って、焦げた札を一枚折った。
折って、懐にしまった。
捨てなかった。
シモ・ヘイヘは、森を見ていた。
銃は膝の上に置かれている。
構えてはいない。
エイノがその隣で土に触れている。
観測塔の残滓が、まだ霊脈にかすかに残っている。
だが、森そのものは戻っていた。
偽物の雪ではない。
記録された白ではない。
湿った土。
朝露。
鳥の声。
エイノは小さく言った。
「落ちなかった」
シモは頷いた。
「守れたなら、それでいい」
それだけだった。
ボブ・マンデンは、帽子を顔に乗せて仰向けになっている。
クララはその横で、銃の整備をしていた。
弾倉を外し、薬室を確認し、布で銃身を拭く。
手つきは丁寧だった。
「勝者なし、願いなし、記録なし」
クララが呟く。
「うちの家が聞いたら卒倒するわ」
ボブは帽子の下から言った。
「でも弾は残った」
「弾?」
「次に撃たないための弾さ」
クララは手を止めた。
それから、呆れたように息を吐いた。
「気障」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてない」
「みんなそれ言うな」
クララは少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
その時、アレクセイの通信礼装が鳴った。
壊れかけている。
音は割れ、映像は出ない。
だが、声は届いた。
『聞こえるか』
ロード・エルメロイⅡ世の声だった。
アレクセイは背筋を伸ばそうとして、痛みに顔をしかめた。
「聞こえます、先生」
『無理に姿勢を正すな。音で分かる』
「そんなことまで分かるんですか」
『君は見栄を張る時、呼吸が浅くなる』
真澄が横で小さく笑った。
アレクセイは聞こえないふりをした。
Ⅱ世の声は、疲れていた。
おそらく、徹夜で教会や協会側と交渉していたのだろう。
『結論から言う』
全員が、少しだけ静かになった。
『この聖杯戦争に勝者はいない』
朝の空気が止まった。
静馬が顔を上げる。
クララも。
ヘレナも。
ヴィクトールさえ、薄く目を開けた。
アレクセイは、稽古帳を抱く手に力を込める。
「勝者なし……」
『正確には、勝者判定機構が機能していない』
Ⅱ世は続ける。
『観測塔が儀式核に寄生し、戦闘・召喚・退去の流れを記録装置として利用していた。その中核が崩壊し、さらに君の儀礼再演魔術が敗者退去の術式を帰還儀礼へ読み替えた』
一拍。
『結果、願望機能は不成立。最後の一騎を決める判定も発生しない』
誰もすぐには喋らなかった。
遠くで鳥が鳴いた。
Ⅱ世は、少しだけ声を低くした。
『聖杯戦争としては、何一つ成し遂げていない』
静馬が拳を握る。
クララが目を伏せる。
ヴィクトールが薄く笑う。
だが、Ⅱ世は続けた。
『だが』
通信の雑音の向こうで、彼の煙草を探すような気配がした。
『全員生きている』
沈黙。
それは、喜びではなかった。
少なくとも、すぐに笑える種類のものではなかった。
全員が疲れていた。
痛かった。
失ったものもある。
観測者は帰らなかった。
願いも叶わない。
勝者もいない。
それでも。
誰も殺し合いを再開しようとはしなかった。
アレクセイは、稽古帳を見た。
白紙の多い帳面。
足の置き方。
呼吸。
礼。
なぜ、その型を選ぶのか。
彼は小さく息を吸った。
「それでいいです」
通信の向こうで、Ⅱ世が黙った。
『……君がそれを言うのか』
「はい」
『本当にか』
「はい」
アレクセイは顔を上げた。
朝日が木々の間から差し始めている。
「勝ってない」
一拍。
「でも、帰ってきました」
真澄が隣で、彼を見る。
何か言いたそうだった。
けれど、今は何も言わなかった。
Ⅱ世は長く黙っていた。
やがて、深いため息が通信に乗った。
『最悪の成績だな』
アレクセイは少しだけ肩を落とす。
「はい」
『魔術師としては』
アレクセイは顔を上げる。
Ⅱ世は続けた。
『だが、生徒としては悪くない』
誰も茶化さなかった。
アレクセイも、すぐには返せなかった。
胸の奥が熱くなる。
勝者なし。
願いなし。
聖杯なし。
それでも、その言葉は残った。
通信に、ライネスの声が割り込む。
『兄上にしては甘い採点だね』
『黙れ、ライネス』
『こちらの処理を報告しておくよ。京都市内の隠蔽は進行中。文化財保護区域の封鎖、局地的地盤沈下、電波障害、山中での小規模崩落。筋書きはそのあたりで押し通す』
クララが空を見上げる。
「よく通るわね、それ」
『通すんだよ。魔術師と教会と行政書類の醜い合わせ技でね』
ライネスは軽く笑った。
『聖堂教会側は焼却を中止。ただし観測塔残滓の監視は続行。君たちは速やかに移動しろ、とのことだ』
Ⅱ世の声に戻る。
『サーヴァントの霊基維持も長くない』
空気が、少しだけ変わった。
アレクセイは植芝を見る。
植芝は朝日を見ていた。
その横顔は、いつもと変わらない。
けれど、変わらなさすぎることが怖かった。
『願望機能は閉じた。魔力供給も不安定になる。各サーヴァントは順次退去するだろう』
ヘレナの手が止まる。
舩坂は黙っている。
クララは銃を拭く手を止めた。
ボブは帽子を顔から外した。
静馬は黒田を見ない。
真澄は園部を見ないようにしている。
シモは森を見ている。
エイノは土に触れている。
退去。
帰る。
サーヴァントたちが、本来の場所へ帰る。
それが正しい。
正しいはずだった。
だが、正しいことが寂しくないとは限らない。
通信の向こうでⅡ世が言った。
『アレクセイ』
「はい」
『聖杯は空になる』
「空に?」
『破壊ではない。願望を叶える器としては起動せず、残った機能は退去処理だけだ。君が作った帰還儀礼が、そのまま最後の処理になる』
一拍。
『君は聖杯を得なかった』
「はい」
『だが、聖杯に呑まれもしなかった』
アレクセイは目を閉じた。
少し前の自分なら、負け惜しみにしか聞こえなかっただろう。
勝てなかった者への慰め。
聖杯を手にできなかった者への言い訳。
でも今は、違った。
聖杯を得なかった。
誰も壊してまで得ようとしなかった。
それでいい。
そう言える自分がいる。
アレクセイは、ゆっくりと頷いた。
「了解しました」
『しばらく休め。いや、休めと言っても休まないだろうから、少なくとも倒れるな』
「努力します」
『その返答は信用できん』
通信が切れた。
朝の音だけが残った。
しばらく、誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、真澄だった。
「あんた、勝ち損ねたね」
アレクセイは彼女を見た。
真澄は札を片付けながら、こちらを見ていない。
アレクセイは少しだけ笑った。
「ああ」
「悔しい?」
アレクセイは考えた。
悔しくない、と言えば嘘になる。
勝者になれなかった。
聖杯も得なかった。
名門の魔術師として、誇れる結果ではない。
でも。
「悔しい」
彼は言った。
「でも、嫌じゃない」
真澄がこちらを見る。
「変なの」
「自分でもそう思う」
「でも、負けてもない」
アレクセイは頷いた。
「そうだな」
真澄は小さく息を吐いた。
「じゃあ、まあ、いいんじゃない」
「雑だな」
「細かい話は先生たちがするでしょ」
「それもそうだ」
植芝が、ゆっくりと立ち上がった。
アレクセイは反射的に顔を上げる。
「どこへ」
「稽古じゃ」
アレクセイは固まった。
「今?」
「朝じゃからな」
「先生、僕は魔術回路が焼けていて、足も震えていて、全身が痛くて、たぶん肋骨も」
「立て」
「聞いてました?」
「聞いておる」
「なら」
「立てるか」
アレクセイは黙った。
立てるか。
戦えるかではない。
勝てるかでもない。
立てるか。
彼は地面に手をついた。
真澄が止めようとする。
植芝が首を振った。
アレクセイは立った。
ふらついた。
膝が笑う。
真澄がすぐ横に来る。
だが、支えない。
倒れたら支える。
それだけの距離で立っている。
アレクセイは稽古帳を懐に入れた。
落とさないように。
植芝は少し離れた場所に立つ。
朝露の残る地面。
崩れた鳥居の前。
勝者のいない聖杯戦争の後。
老人は、いつものように言った。
「何のために立つ」
アレクセイは息を吸った。
前なら、何と答えただろう。
勝つため。
認められるため。
証明するため。
クロウリー=アッシュボーンの名に恥じないため。
エルメロイ教室の生徒として。
魔術師として。
マスターとして。
そのどれも、嘘ではなかった。
でも今は。
「帰るために」
植芝は頷いた。
「では、一歩」
アレクセイは足を出した。
ただの一歩。
誰も倒さない。
何も斬らない。
魔術も使わない。
宝具もない。
左足を置く。
体重を移す。
息を吐く。
膝を緩める。
中心を探す。
地面がある。
朝がある。
隣に真澄がいる。
少し離れて、全員がいる。
帰ってきた者たちがいる。
アレクセイは、もう一歩出した。
植芝が見ている。
厳しくも、優しくもない目で。
ただ見ている。
黒田も見ていた。
園部も。
シモも。
ボブも。
クララも。
ヘレナも。
舩坂も。
静馬も。
真澄も。
ヴィクトールだけが、治療されながら顔をしかめていた。
「くだらん」
彼は言った。
ヘレナが包帯を締める。
「動かないでください」
「痛い」
「患者の態度が悪いので」
ボブが笑った。
クララも少しだけ笑った。
静馬が腕を組む。
「稽古って、あれだけですか」
黒田が答える。
「あれだけです」
「……地味ですね」
「続けると難しい」
園部が微笑む。
「朝稽古は、そういうものです」
シモは森へ目を戻した。
エイノは土に刻んだルーンを消す。
舩坂は、座ったままアレクセイを見ている。
ヘレナがそれに気づく。
「立ちませんよ」
「立たん」
「本当に?」
「今はな」
「今後もです」
「……善処する」
ヘレナはため息を吐いた。
それでも、少しだけ表情は柔らかかった。
アレクセイは三歩目を出した。
身体が痛い。
息が苦しい。
膝が震える。
でも、倒れない。
勝っていない。
負けてもいない。
ただ、帰ってきた。
そして、次の朝に立っている。
植芝が言った。
「悪くない」
アレクセイは息を切らしながら笑った。
「褒めてます?」
「もちろんじゃ」
「それ、本当ですか」
「疑うのも稽古じゃ」
「便利ですね、稽古」
「うむ」
朝日が、崩れた鳥居を照らした。
白い炎はもう見えない。
観測塔の入口も、ほとんど土に沈んでいる。
そこにあったはずの巨大な記録工房は、もう地上からは分からない。
残ったのは、少し欠けた鳥居。
荒れた山道。
薄い帳面。
そして、生きている者たち。
アレクセイは、もう一歩出した。
勝者なしの朝に。
願いの叶わなかった聖杯戦争の終わりに。
帰ってきた者として。
稽古を始めた。