『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
朝稽古は、長くは続かなかった。
アレクセイの足が、四歩目で止まったからだ。
倒れたわけではない。
膝をついたわけでもない。
ただ、身体がそれ以上を拒んだ。
植芝盛平は、それを見て頷いた。
「今日はそこまでじゃ」
「……早くないですか」
「早いのも稽古じゃ」
「便利ですね、本当に」
「うむ」
アレクセイは息を吐き、地面に座った。
冷たい土の感触が、妙にありがたかった。
勝者なし。
聖杯なし。
願いなし。
けれど、朝はある。
その事実だけが、やけにはっきりしていた。
しかし、朝が来たからといって、すべてが残るわけではない。
最初に変化に気づいたのは、エイノだった。
彼は森の方を見ていた。
その隣で、シモ・ヘイヘの輪郭が、少しだけ薄くなっていた。
「シモ」
エイノが呼ぶ。
シモは自分の手を見た。
指先が、朝の光に溶けるように透けている。
驚いた様子はなかった。
ただ、そういうものだと受け入れていた。
「時間だ」
シモは短く言った。
エイノは立ち上がった。
「まだ、森は完全には戻っていない」
「戻る」
「確認してからでも」
「戻る」
シモは同じ言葉を繰り返した。
そこに慰めはなかった。
だが、不思議と冷たくもなかった。
エイノは少しだけ黙る。
それから、土に指を置いた。
ルーンを刻む。
ᚱ。
旅。
そして、もう一つ。
ᛉ。
守り。
彼は小さな木片を取り出し、その二つを刻んだ。
「これは、持っていけないな」
シモが言った。
「分かっている」
エイノは木片を、自分の掌に置いたまま言う。
「だから、こちらに置く」
シモは頷いた。
銃を肩にかける。
その姿は、森に溶ける直前の影のようだった。
「撃つことを教えたわけではない」
エイノが言う。
「撃たないことも、教えたつもりはない」
シモは森を見たまま答えた。
「守る場所を見ろ」
一拍。
「撃つかどうかは、その後だ」
エイノは木片を握った。
「コッラーは」
言葉が途中で止まる。
シモは、ほんのわずかに顔を向けた。
「落ちない」
それだけだった。
白い息はない。
雪もない。
朝の森だけがある。
シモ・ヘイヘの輪郭は、木々の間へ薄れていった。
最後まで、銃声はなかった。
エイノは、しばらくその場に立っていた。
やがて、木片を懐にしまう。
森の方へ一礼した。
次に消え始めたのは、ボブ・マンデンだった。
「おっと」
彼は自分の手を見て、軽く笑った。
「俺もか」
クララ・ウィンチェスターは、銃の整備をしていた手を止める。
「早いわね」
「美人との別れはいつだって早いもんさ」
「最後までそれ?」
「最後だからだろ」
ボブは帽子を被り直した。
朝日の中で、その姿はどこか西部劇の終幕のように見えた。
けれど、そこに砂埃はない。
酒場もない。
決闘場もない。
ただ、京都の山の朝があるだけだった。
クララは立ち上がった。
「聖杯、取れなかったわ」
「ああ」
「家に戻ったら、面倒ね」
「だろうな」
「勝者なし。願望機能不成立。成果は観測塔の隠蔽協力と、撃たなかった弾丸の数」
「立派な戦果だ」
「皮肉?」
「本気だぜ」
クララは睨んだ。
ボブは笑っている。
だが、その笑いはいつもより少し静かだった。
「クララ」
彼が名を呼ぶ。
クララは口を閉じた。
ボブはホルスターから一発の弾を抜いた。
弾丸ではない。
空薬莢だった。
撃った後のもの。
けれど、そこには弾痕ではなく、小さな傷がついている。
雪原で、彼が撃たなかった時。
決闘場が成立しなかった時。
その後に拾っていたものだった。
「これをやる」
「空薬莢?」
「撃った証拠じゃない」
ボブは彼女の掌にそれを置いた。
「撃たずに済んだ後に、残ったものだ」
クララは薬莢を見る。
軽い。
何の魔力もない。
家宝でもない。
礼装でもない。
でも、妙に手放しがたかった。
「次に銃を抜く時」
ボブは言った。
「相手を見るんだ」
「それは決闘の話?」
「人生の話さ」
「気障」
「褒め言葉として」
「褒めてない」
「最後くらい褒めろよ」
クララはしばらく黙った。
それから、薬莢を握りしめる。
「……あなたの早撃ちは、綺麗だったわ」
ボブの笑みが、少しだけ止まった。
「そいつは」
一拍。
「効くな」
彼の輪郭が、朝日に溶けていく。
最後に、ボブは帽子のつばを指で弾いた。
「じゃあな、お嬢」
「クララよ」
「知ってる」
ボブ・マンデンは笑ったまま消えた。
銃声はなかった。
決闘もなかった。
クララは空薬莢を懐にしまい、しばらく空を見ていた。
その横で、園部秀雄が静かに薙刀を立てた。
真澄は気づいて、顔を上げる。
「ランサー?」
「はい」
園部の声は、いつも通り穏やかだった。
だが、彼女の足元の霊基は、少しずつ薄くなっている。
真澄は立ち上がった。
「まだ、私は」
「はい」
「何も、ちゃんと教わってないんですけど」
「いいえ」
園部は微笑んだ。
「十分です」
「十分じゃないです」
「十分でないと分かることが、十分です」
真澄は顔をしかめた。
「それ、ずるいです」
「稽古とは、そういうものです」
園部は薙刀を真澄へ差し出した。
真澄は一瞬、受け取ろうとして。
手を止めた。
受け取れない。
サーヴァントの武器だ。
現世に残るものではない。
園部も分かっている。
だから、薙刀ではなく、柄の持ち方だけを示した。
「手を」
真澄は自分の手を出した。
園部は、その指の位置を直す。
親指。
小指。
力を入れすぎない。
握るのではなく、通す。
「守る時ほど、強く握らない」
園部が言う。
「強く握ると、手が遅れます」
「……はい」
「型は、命を縛るものではありません」
一拍。
「命が逃げる道を、先に作っておくものです」
真澄は、教えられた手の形を見た。
こんなもの。
外から見れば、ただの握り方だ。
でも、きっと違う。
ここに、朝がある。
繰り返しがある。
誰かが誰かへ渡したものがある。
「ランサー」
「はい」
「明日から、朝稽古します」
園部は少しだけ目を細めた。
「よろしいですね」
「でも、一人だと続かないかもしれません」
「では、誰かを起こしましょう」
真澄の視線がアレクセイへ向いた。
アレクセイは思わず顔をそむけた。
「今、目が合ったよね」
「合ってない」
「合った」
「魔術回路が焼けてるから視界が」
「嘘つき」
園部は静かに笑った。
その笑いも、薄れていく。
真澄は慌てて向き直った。
「ありがとうございました」
言葉にすると、急に足りなくなった。
もっと言うべきことがある気がした。
でも、出てこない。
園部は頭を下げた。
「こちらこそ」
「何がですか」
「朝を見られました」
真澄は唇を噛んだ。
園部秀雄は、薙刀を構えたまま、朝の光に消えていった。
最後まで、姿勢は崩れなかった。
残った真澄は、自分の手の形を見つめる。
そして、何もない空間へもう一度だけ礼をした。
黒田鉄山の退去は、さらに静かだった。
静馬は気づいていた。
だが、気づかないふりをしていた。
黒田の輪郭が薄くなっている。
刀の鍔が、朝日に透けている。
それでも、彼はいつも通り立っていた。
「セイバー」
静馬はようやく言った。
「はい」
「勝てませんでした」
「はい」
「届きませんでした」
「はい」
「それでいい、みたいな顔をしないでください」
黒田は少しだけ静馬を見た。
「いいとは言っていません」
「じゃあ何ですか」
「始まった、という顔です」
静馬は眉を寄せる。
「始まった?」
「届かなかった場所を、覚えているでしょう」
静馬は黙った。
覚えている。
観測霊基の刃が鼻先を通ったあの半歩。
神を降ろさず、届かなかった一歩。
届かなかったから、壊れなかった。
壊れなかったから、今ここにいる。
「それを忘れなければ、稽古になります」
「結局、稽古ですか」
「はい」
黒田は刀の柄に手を置いた。
「一つだけ、残しましょう」
「刀ですか」
「残りません」
「でしょうね」
「ですから、型を」
黒田は、ゆっくりと立った。
神速ではない。
無足でもない。
見える動き。
誰にでも見える速度。
左足を置く。
右足を寄せる。
肩を下げる。
手を添える。
抜かない。
ただ、抜く前の姿勢。
「これは、斬る型ではありません」
黒田が言う。
「斬らないで済む位置を知るための型です」
静馬は目を逸らさずに見た。
速さはない。
派手さもない。
だが、分かった。
ここに、あの神速の入口がある。
いや、神速そのものではない。
神速へ届かない者が、壊れずに立つための入口。
黒田は構えを解く。
「一日一度で構いません」
「少なすぎませんか」
「続けるなら十分です」
「続かなかったら」
「また始めればいい」
静馬は言葉を失った。
黒田の身体がさらに薄くなる。
「セイバー」
「はい」
「俺は、英霊に届けますか」
黒田は、ほんの少し考えた。
そして答えた。
「届かないまま、立てます」
静馬は苦笑した。
「答えになってない」
「今のあなたには、こちらの方が必要です」
「……でしょうね」
黒田は静かに頭を下げた。
静馬も、ぎこちなく頭を下げる。
黒田鉄山は、その礼を見届けて消えた。
刀の音はしなかった。
斬撃も残らなかった。
ただ、静馬の足元に、抜く前の立ち方だけが残った。
ヘレナ・ヴァイスマンは、舩坂弘の霊基が薄れていることに、最初から気づいていた。
だから、手が止まらなかった。
包帯を巻く。
傷を見る。
縫う必要のない場所まで確認する。
もう意味がない処置を、意味がないと分かりながら続ける。
舩坂は黙っていた。
やがて、ヘレナが言った。
「まだ治せます」
声は小さかった。
「霊基の剥離なら、固定できるかもしれません。短時間なら。完全じゃなくても、少しなら」
舩坂は彼女を見る。
「ヘレナ」
「まだ、手はあります」
「ヘレナ」
「私は医者です」
「そうだな」
「患者を見捨てるわけにはいきません」
「そうだな」
「だから」
舩坂は、彼女の手首を軽く掴んだ。
強くはない。
止めるだけの力だった。
「もう、治さんでいい」
ヘレナの顔が歪んだ。
「……命令ですか」
「頼みだ」
「ずるいです」
「そうか」
「ずるい」
ヘレナは、握っていた包帯を落とした。
「私は、壊れた人間は全員患者だと思ってました」
「ああ」
「今も思っています」
「いいことだ」
「でも」
彼女は舩坂を見る。
「患者が、戦場から降りることも、治療なんですね」
舩坂は少しだけ笑った。
「医者の言うことは難しいな」
「あなたが言わせたんです」
「そうか」
舩坂の輪郭が薄くなる。
彼は立っていない。
座っている。
銃剣も持っていない。
戦場へ戻る姿ではない。
朝の山で、ただ座っている。
それだけのことが、ヘレナにはひどく眩しかった。
「舩坂さん」
「何だ」
「帰れますか」
舩坂は朝日を見る。
その顔は、戦場を見ている顔ではなかった。
「今度はな」
ヘレナは唇を噛む。
涙は出なかった。
出そうになったが、出さなかった。
代わりに、包帯の端を結んだ。
最後の一巻き。
戦わせるためではない。
立たせるためでもない。
座って帰すための包帯。
「治療終了です」
ヘレナは言った。
舩坂は頷いた。
「世話になった」
「二度と来ないでください」
「それは難しいな」
「患者として、です」
「なら、努力する」
「努力じゃなくて約束してください」
舩坂は少しだけ困った顔をした。
それから、真面目に頷いた。
「約束する」
ヘレナは目を閉じた。
舩坂弘は、座ったまま消えていった。
最後まで、立ち上がらなかった。
ヘレナは、空になった包帯の端をしばらく握っていた。
やがて、それを丁寧に畳んだ。
アレクセイは、そのすべてを見ていた。
何も言えなかった。
言葉にしてしまえば、何かを削ってしまう気がした。
残ったサーヴァントは、植芝盛平だけになった。
そのことに気づいた瞬間、アレクセイの胸が冷えた。
植芝は、何事もなかったかのように立っている。
朝日を受けて、白い髭が光っている。
けれど、その輪郭もまた、ほんのわずかに透け始めていた。
アレクセイは見ないふりをしようとして、できなかった。
「キャスター」
「うむ」
「まだ、ですよね」
「まだじゃな」
「どれくらい」
「分からん」
「そうですか」
植芝はアレクセイを見た。
「怖いか」
アレクセイは即答しなかった。
以前なら、怖くないと言った。
名門の魔術師として。
マスターとして。
弟子として。
格好をつけた。
でも今は。
「怖いです」
「うむ」
「でも、嫌ではないです」
「そうか」
「帰るんですよね」
「うむ」
「なら、見送ります」
植芝は少しだけ笑った。
「見送るのも稽古じゃ」
「先生、それで全部済ませようとしてませんか」
「便利じゃからな」
アレクセイは笑った。
笑えた。
そのことに、自分で少し驚いた。
サーヴァントたちは帰っていった。
それぞれの場所へ。
それぞれの在り方で。
勝者としてではなく。
敗者としてでもなく。
帰る者として。
朝日は、もう山の上に出ていた。
アレクセイは懐の稽古帳に触れる。
薄い。
軽い。
でも、そこには空白がある。
シモが残した、守る場所を見るという言葉。
ボブが残した、撃たない弾。
園部が残した、握りすぎない手。
黒田が残した、抜く前の立ち方。
舩坂が残した、立ち上がらない強さ。
それらを書き留めたいと思った。
だが、今すぐ書く気にはなれなかった。
まだ、朝の中に置いておきたかった。
真澄が隣に来る。
「残ったね」
「何が」
「宿題」
アレクセイは稽古帳を見た。
「そうだな」
「書くの?」
「たぶん」
「最初のページ、何にする?」
アレクセイは考えた。
勝者なし。
帰還。
礼。
いくつも言葉はある。
けれど、どれも少し違う。
彼は植芝を見た。
老人は、朝日の中で静かに立っている。
まだ消えていない。
まだそこにいる。
なら、最初のページはまだ書けない。
「明日決める」
アレクセイは言った。
真澄は少しだけ笑った。
「先延ばし?」
「余白だ」
「便利な言葉覚えたね」
「稽古だからな」
「うわ、うつってる」
アレクセイは笑った。
笑いながら、少しだけ泣きそうになった。
だが泣かなかった。
まだ、見送る者が残っている。
植芝盛平が、こちらを見た。
「アレクセイ」
「はい」
「もう一歩じゃ」
アレクセイは息を吸う。
身体は痛い。
魔術回路も焼けている。
それでも、立てる。
彼は立ち上がった。
勝つためではない。
認められるためでもない。
帰る者を見送るために。
そして、帰った者が残したものを、人へ渡すために。
朝の山道に、二人分の足音がした。