アルセリオンの歌声   作:飛鳥 螢

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序  章  (とき) の 追 憶 ~時と空間に関する術(ルーン・レム・サークセラ)魔物(ディール)

 夜の(とばり)が降りたアルセルスには学生達の姿もなく、院内は昼間の活気ある騒めきが嘘のように静まり返っていた。

 その学院の一角、音韻言語学の研究室がある建物の二階の一室の扉が少し軋んだ音を立てて開いた。

「誰も…居ないわね」

 中に入ったエル・スティシアは、念の為手に持つ燭台で隅々まで部屋の中を照らして自分以外居ない事を確認した。

 今日はウズベィク教授の都合で研究室は使われていない筈だが、たまに下宿に戻るのを面倒臭がった学生が勝手に研究室に寝ていたりするのだ。

 それを確認するとカチリと扉の鍵を掛け、中央の机の上に燭台と一冊の古惚けた本を置いた。

 そして、少し窓を開ける。

 ひんやりとした爽やかな夜風がエル・スティシアの頬を撫で、室内の淀んだ空気を浄化していく。

 燭台の蝋燭の炎が風と戯れ、ちらちらと揺れ動いた。

 机の許に戻り、エル・スティシアはその上に置いた薄い本の表紙に視線を落とした。

 そこには金の飾り文字で「時と空間に関する術(ルーン・レム・サークセラ)」と書かれてあった。

 エル・スティシアはそっとその飾り文字を指でなぞった。

 ——そうして、心優しい美しきアルセリオンの民達は、遥か時空の彼方に旅立って行ったんじゃ……

 幼い頃、死んだ祖母から何度も聞いた、昔語りの中の一つが脳裡に鮮やかに蘇る。

 エル・スティシアはその話が大好きで、何度も繰り返して聞かせて貰ったものだった。そして、何時か後を追って時空を越えて彼等に会ってみたいと、真剣に思うようになっていた。

 だから親の反対を振り切って遠く故郷を離れ、女だてらにアルセリオン研究では最高峰と言われるこのアルセルスに入学したのだ。

 女に学問など必要ないという学院の男どもの嫌味や皮肉にも歯を食いしばって堪え、二年前やっとルーサーの資格も得たのである。

 後は彼等が時空の彼方に旅立った時使ったと云われる「ルーン・レム・サークセラ」を見つける事だけだった。

 けれどそれはまだ発見されていない為、自ら密林奥にあるというアルセリオンの遺跡に赴いて探さなければならない。

 とはいえ女の身で各地に点在するかなりの数の遺跡を回るとなると、どれだけの体力と時間が掛かるか分からなかった。

 それでエル・スティシアはそのルーンがありそうな遺跡のヒントを得る為に、この二年間ずっと王国随一の書籍量を誇るこの学院の図書館に通い詰めたのだ。

 その甲斐があって、先日ついに図書館の人目につかない片隅にひっそりと置いてあったこれを見つけたのである。

 最初その背表紙を見た時、切望する余りの目の錯覚なのではとエル・スティシアは思った。なにしろ「ルーン・レム・サークセラ」はまだ発見されていないと言われていたのに、目の前にそのものが本としてあったのだから、誰だって自分の目の方を疑うだろう。

 そして恐る恐るそれを手に取ったエル・スティシアは、その後貪るように中を読んで本物だと確信したのだ。

 後はこれに書かれてあるルーンを唱えれば道が開かれる筈だった。あの心優しい美しきアルセリオンの民達の許に自分を導いてくれる道が——

 ゴクリと喉を鳴らし、エル・スティシアはそれを手に取った。

 ふと、明るい茶色の髪をした先輩の顔が脳裡を過ぎる。

 これを手に入れた時、嬉しくて彼に見つけた事を知らせに建築学科の棟に行った。

 だが、フレドリックは忙しいらしく、話をする余裕もなかったのだ。本当は心細いからこの場に立ち会って欲しいと思っていたけど、彼も自分の夢の為に頑張っているのだからとぐっと我慢した。

 実際今夜は上手く道が開くかどうか試すだけで、アルセリオンの民達に会いに行くのはそれが確認できてからだ。彼にはその時話せばいい。

 ——大丈夫、何度も読み返して練習したんだから……

 エル・スティシアはぱらりと本を開き、そこに書かれてあるルーンを正確にゆっくりと自分の声で紡ぎ出していった。

 

 

 院内の暗い庭園の中をランプの光を頼りに二人の人影がゆっくりと歩いていた。

 ランプの光を受けてぼんやりと闇に浮かぶ姿は年老いた老人と、まだ若く引き締まった体付きの若者だった。

 老人の方は見事に禿げ上がった頭が月光の光を弾いて暗闇の中に満月のように浮かび上がり、若者は明るい色合いの茶色い髪を闇に沈ませていた。

 エル・スティシアがルーサーの資格試験に合格した際、危うく絞め殺されそうになったウズベィク教授とフレドリックの二人である。

「遅くまで付き合わせて悪かったのぉ、フレドリック」

「いえ、教授。どうせついでですから」

 両手一杯に建築関係の本を抱え、フレドリックはランプを持って一緒に歩く恰幅のよい恩師に愛想良く応えた。

「……しかし、一体何処にいったのやら、あれだけ探しても見つからんとはのぉ……」

 ウズベィクは溜息をついて、夜空を仰いだ。

 月の光に霞ながらも、ちかちかと無数の星が瞬いている。

「一体何を探していたんです?」

 余程大事な本らしいが、ひたすら恩師が出し散らかした本を書棚に片付けていたフレドリックは、何をウズベィクが探していたのか知らなかった。

「『ルーン・レム・サークセラ』を記した本じゃ」

「それって、まさか、あのアルセリオンの民達がこの地から姿を消した時に使われたと云われる、時空に関するルーンですか?」

 フレドリックは驚いて禿げ頭の恩師を見返した。

「でも、それはまだ発見されてなかったんじゃ……」

「表向きはな。じゃが本当は当に発見されておったんじゃよ。ただ、あれは自然の事物に働き掛ける他のルーンと違って、時空そのものに影響を与えるものじゃからな。まかり間違えば空間がずたずたに裂けて、この世そのものが消滅しかねん物騒なルーンでな」

 夜風で冷えた禿げ頭を撫で、ウズベィクは応えた。

「——どうも発見された時、欠けた部分があったらしくてな、完全な形のものが何処かにある筈なんじゃが、そっちの方はまだ見つかっておらんのじゃ。だから発見されたのは伏せてあったんじゃよ。本来なら図書館の一般図書と一緒に置いておける書ではないんじゃ」

「じゃあ、何故教授は一般図書の書棚を探していたんです?」

 不吉な予感にフレドリックは顔を強張らせた。

「いやぁ、うっかりしておってな。この間しつこく催促されて借りていた本をまとめて返した時に、それも一緒にやってしまったようなんじゃ」

 はっはっはっとウズベィクは豪快に笑った。

「教授っ」

 笑っている場合じゃないでしょう。

 フレドリックはつい声を荒げた。

「それって、大事(おおごと)じゃないですか」

 禁書扱いの物騒なルーンの書が行方不明になっているのだ。それを知らずに誰かが使いでもしたら大変な事になる。

「うむ、じゃが見つけたとしても、未発見のルーンがそんな所にあるとは誰も本気にせんじゃろう」

 元教え子の杞憂をさらりといなし、ウズベィクは問題ないと言う。

「それにじゃ、あれは余程の根性がないと使えん程長ったらしいルーンでな。たとえ試しでも使おうと思うような物好きはおるまいよ」

「………」

 一人居る。

 フレドリックは気楽すぎるかつての恩師の言葉を心の中で否定した。

 もしその(ルーン)を見つけたら、どんなに困難だろうと唱え切ってしまう根性の持ち主の姿を思い浮かべる。

 何しろアルセリオンの民に憧れ、彼等の後を追う為に、女だてらに親の反対を押し切ってこの学院に入って来たくらいだから。

 そう考えると、エル・スティシアがその本の存在に気付く前に、何としても見つけなければならない。

 ——見つかるまで、当分図書館通いが続きそうだな……

 そんな事を思いながら、フレドリックは何気なく前方の棟を見た。

 こんな夜遅くに二階の外れの部屋に明かりが(とも)っている。

「教授、あそこは教授の研究室じゃないですか?」

「うむ、今日はあの本を探しに図書館に入り浸る予定じゃったから、研究室は閉めておいたのじゃが、誰かおるのかのぉ」

 研究室はそこを利用する者には鍵の置き場所を教えているので、用があって勝手に入った者がいても不思議ではなかった。

 研究熱心じゃのぉと、部屋の責任者は呑気に感心した。

 開いた窓から、微かに歌うような独特の音律を伴った声が漏れ聞こえてくる。

 誰かがルーンを唱えているのだ。こんな夜遅く、一目を避ける様に。

 それにこの声には聞き覚えがあった。

 フレドリックとウズベィクは、何となく嫌な予感がして思わず顔を見合わせた。

 早足に建物の中に入り、急いで研究室に向かう。

 扉越しに、朗々とルーンを紡ぐ澄んだ女性の声が聞こえる。

「これは『ルーン・レム・サークセラ』じゃっ」

 ウズベィクが血相を変えた。

 手にした本を投げ捨て、フレドリックが扉に飛びつく。

 が、開かない。鍵が掛かっているのだ。

「やめろっ、ティアっ!」

 乱暴に扉を叩き、フレドリックは叫んだ。

「そのルーンはまだ不完全なんだっ。空間がずたずたに裂けてしまうぞっ!」

 ふっと、ルーンを紡ぐエル・スティシアの声が途切れる。

 次の瞬間、

 部屋の中から悲鳴が上がった。

 同時に凄まじい衝撃が、廊下にいるフレドリックとウズベィクを襲った。

「っ!?」

 扉と共に吹き飛ばされ、二人は廊下の石壁に背中から叩き付けられる。

 フレドリックは血反吐を吐き、意識が遠退いた。

「フレドっ」

 エル・スティシアが叫ぶ。

 部屋の中で眩しい光が渦巻く様に溢れ、周りの物を吸い込みながら迫るそれから逃れるように、部屋の棚にしがみ付いて必死に廊下に倒れるフレドリックに手を伸ばす。

「ティ…アっ!」

 体に走る激痛に堪えて立ち上がり、フレドリックもよろけながら部屋の入り口まで辿り着き手を伸ばした。

 二人の指の先が微かに触れ合う。

 後もう少し。

 フレドリックはその手を掴もうと、更に手を伸ばす。

 その時エル・スティシアの背後で光が弾けた。

 そして、全てが消え失せた。

 渦巻く光も、何もかも。

 手を伸ばしたフレドリックの目の前で。

 研究室があった場所はまるで切り取られたかのようにすっぽりと失せ、何もない空間にただ月の光が降り注ぐだけだった。

「ティ…ア」

 有り得ない光景に、フレドリックは呆然となった。

 後少しで掴めたのに。彼女を助けられたのに届かなかった。

「ティア——っ」

 フレドリックの悲痛な叫びが、夜の静寂(しじま)を破って院内に木霊した。

 その夜を境に、エル・スティシアの姿を見た者は誰もいなかった。

 

 

 

 エル・スティシアの不完全なルーンによって、空間がずたずたに裂ける事はなかった。

 だが、その影響は世界各地に顕著に現れた。不完全なルーンにより歪められた空間の綻び目から現れた、この世界に存在し得ない異形の者達——魔物(ディール)によって……

 そして、誰もその原因(りゆう)を知る者が居ないまま永い時が流れた。

 人々はその忌まわしい存在を、無視できぬものとして「恐怖」の二文字の中に深く刻み込んでいった。

 




 これで番外編でのフレドリックが、危険を承知でアルセリオンの遺跡を巡り続ける詳細な理由が分かると思います。
 因みにこの時はまだディールが現れ始めたばかりなので数が少なく、ディールの襲撃もあの程度で済んでいますが、今後は空間の歪みをどうにかしない限り、どんどん増え続ける一方です。

 この後本編の方は番外編とは全く別に話が進んで行きますが、続きを書くのは今手掛けている方の話の進捗次第になると思います。
 興味のある方は気長に待って貰えると助かります。
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