アルセリオンの歌声   作:飛鳥 螢

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第 一 章  (とき)(かい) (こう)
~ 誰? ~


 澄み渡る蒼穹の下、開いた窓から初夏らしい爽やかな清風が吹き込む。

 後ろに手を組み、窓際に立っていたヴァルファンスは、開いた窓から黙然と外の風景を眺めやり、軽く溜息をついた。

 既に七十近い年齢で、銀灰色の髪に同色の見事な顎髭を蓄えた彼の威厳に満ちた横顔には、疲れたような憂いの色が見える。

 もう一度ヴァルファンスは溜息をつき、後ろを振り返った。

 そこには十代後半の少年が、何処となく不安そうな面持ちで立っていた。

 柔らかな少し癖のある蜂蜜色の髪に、澄んだ瑠璃色の大きな瞳をした女性が羨むような容姿の少年だ。その年頃の少年らしい平均的な身長と体格をしているものの、優しげな顔立ちからどうしても線の細そうな印象を受けてしまう。

 ヴァルファンスは窓辺を離れ、近くの重厚なオーク材の机の前にある椅子に座った。

「セルク」

 机上の書類の一部を手に取り、静かに少年の名を呼ぶ。

「はい、ヴァルファンス教授」

 蜂蜜色の髪をした少年は、澄んだ声で返事を返した。

術者(ルーサー)の資格試験、——いよいよ来週は実技の方じゃな」

「はい……」

「これで何回目じゃね?」

「え…と……」

 頭の中で指を折って数え、セルクはおずおずと答えた。

「——五回目…です」

「もうそんなになるか……」

 ヴァルファンスは眉間に皺を寄せた。

 ルーサーの資格試験は年に二回、半年ごとに行われる。今回で五回目ということは、もう二年以上も同じ試験に挑戦しているという事だ。

「す、すいません、教授」

 セルクはひたすら身を小さくして老教授に謝った。

「別に責めている訳ではないんじゃ、セルク」

 ヴァルファンスはふっと表情を和らげ、手に取った書類に視線を落とす。

「そもそもお前の年齢(とし)ならば、本来まだ基礎課程辺りを学んでいる頃なのじゃからな。それを考えれば、四、五回落ちた処でそう気にする事もあるまい。しかし——」

 と、言葉を切ってパラパラと書類を捲って目を通す。

 それにはセルクが過去四回受けたルーサーの資格試験での成績が記されていた。

 記述、実技の二つの科目がある資格試験は、どちらも一定以上の評価を得て初めて合格となる。

 セルクの場合、記述の方は文句のつけようもない程完璧なのに、何故か肝心の実技の方になると目も当てられない程惨憺たる結果になっていた。

「せめて実技で、普段の半分でよいから実力が出せておればな……」

 再びヴァルファンスは溜息をついた。

 若いが故、柔軟な感受性を持つセルクは類稀(たぐいまれ)な才能を持っていた。本来なら一般の学び舎を終了した十五歳位にこの賢智院(アルセルス)に入学する者が多い中、特別編入試験を受けて十歳の時に入り、基礎課程でも瞬く間にそれらを吸収して人の半分程の期間で専門学科に移ったのだ。

 そして、声質がアルセリオン達に似ているのか、それともセンスがいいのか、多分その両方だろう。一度コツを掴むと次々と難なくルーンを自分のモノにしていった。

 実技の時にその実力の半分、いやほんの一端だけでも発揮する事が出来れば、楽々合格できる筈なのだが、どういう理由(わけ)か試験になるとルーン一つ満足に唱える事ができなくなるのである。

 だが、セルクは五歳以上も年齢の違う者達と混じって勉学をしている割には、それ程物怖じなどしないし、記述の方を見る限りでは本番に弱いタイプとも思えないのだが……

 一度で受かると思っていたヴァルファンスは、一体何が悪いのか皆目見当もつかなかった。折角だからこの孫の様に歳若い教え子に、今度の実技試験の前に助言の一つでも与えてやりたい処だが、原因が判らぬままでは助言のしようがない。

 老教授がどうしたものやらと、教え子に言葉を掛けあぐねていると、コンコンと扉を叩く音がした。

 軽く片眉を上げ、ヴァルファンスは椅子から立ち上がった。

 今日はもう講義は終わっているし、他に尋ねて来る者もいない筈だが。と訝しがりながら扉を開ける。

「教授、お忙しい処申し訳ありません」

 くすんだ銅色の髪をした二十歳前半の若者が、出て来たヴァルファンスを見て深々と(こうべ)を垂れた。セルクと同じ老教授の受け持つ音韻言語(ルーン)学科の学生の一人である。

「カーテス、何か用かね?」

 若者に向かってヴァルファンスは尋ねた。

「ボルステス教授が、来週の合同講義の事で話があるので、至急研究室の方まで来て欲しいとおっしゃられています」

「おお、そうかね」

 と応え、ふとヴァルファンスは怪訝そうにカーテスを見た。

「——ところで確か君は、用があるとかで今日は午前中に帰った筈ではなかったかね?」

「ええ、実はそうなんですが……」

 カーテスは表情(かお)に疲労の色を浮かべて溜息をついた。

「講義室に忘れ物をして、取りに行く途中ボルステス教授に捕まってしまったんです。

 ——それで、今まで資料整理に付き合わされて、さっき、漸く解放されたワケで……」

 音韻言語学科のボルステス教授と言えば、人使いの荒さではこのアルセルス内で右に出る者はいなかった。

 近くに居れば他学科の学生だろうと構わず捕らえ、言い訳など一切耳を貸さず、人の良さそうな顔をして「何手間は取らせんよ」と、自分のペースに巻き込みコキ使うのである。

 人畜無害そうな愛嬌のある顔とは裏腹に、厚顔と身勝手が手を繋いで服を着ているような、とんでもない人物だった。その所為でボルステスの研究室に入りたがる学生はおらず、常に人手不足に陥っていた。

 それを知っている音韻言語学科の学生はもとより他学科の学生達も、ボルステスの近辺に近寄ろうなどという命知らずな真似はしなかった。

 が、幾ら用心深く注意していても、出会い頭にバッタリと会ってしまった場合は避けようが無く、ただもう不運としか言いようがない。今日のカーテスの場合がまさにそれだった。

「…——それはまた、災難じゃったな」

 同情を込めてしんみりとヴァルファンスは呟いた。

「ええ、でも今日中に下宿に帰れるだけ、まだマシですよ」

 力なく笑い、カーテスが応える。

 ボルステスに捕まった学生の中には、他学科にもかかわらず研究室に閉じ込められ、二日間徹夜続きで研究に付き合わされて家にも帰れなかったという不幸な学生もいた。

 それに比べれば昼食抜きの五時間くらいの資料整理など、遥かにマシな部類に入る。それだけで済んだのは不幸中の幸いと言えた。

「ああ、それともう一つボルステス教授から伝言が。ついでに借りていた資料を全部返したいそうです」

 思い出してそう言うと、これでやっと下宿に帰れる安堵感からか、カーテスは声を弾ませた。

「それでは、俺はこれで失礼します」

「待つんじゃ、カーテス」

 (いとま)を告げる教え子の腕を、ヴァルファンスはガシッと掴んだ。

「ボルステス教授は確かに資料を全て(・・)返すと言っておったんじゃな?」

「はい、そうですが……」

 腕を掴まれ途惑いながらカーテスが応えると、ヴァルファンスの深刻な表情が一転してにこやかになる。

「ならば、儂にも少し付き合ってもらいたいのじゃが、いいじゃろう?」

「え、えぇっ?」

 何処かボルステス教授の笑顔を彷彿とさせる老教授の笑みに、カーテスの顔が引き攣る。

 言うまでもなく返却される資料運びを手伝えというのだろう。老教授の背後に見える資料棚の空き具合から、ボルステスが今まで来る度に遠慮なく持って行った資料の量が知れる。それをヴァルファンスが一人で全部持って返るのは流石無理がある。

「——分かりました……」

 これも乗り掛かった舟というものだろう。仕方なさそうにカーテスが応える。

「おお、すまんのお」

 ホッとしてヴァルファンスがカーテスの腕から手を放すと、部屋の中から控えめな声がした。

「あ、あの、資料運びなら僕が手伝います」

 カーテスは用がある筈なのだ。これ以上付き合わせるのは酷だろう。

 そう思ってセルクは声を上げたのだが、彼に目を向けたカーテスは思わず微苦笑した。

「ありがとう、セルク。でも、資料運びは君にはちょっとキツいだろうからね」

 それに傍若無人なあの教授に捕まった時点で、今日の予定は全部諦めていた。

「うむ、量が量じゃからな。カーテスの方が一度で済ませられるじゃろう」

 何度もボルステスの研究室を行き来して、またなにやら思い付いた彼の参考資料集めや実験に付き合わされては堪らない。

「じゃからなセルク、すまんがそこの椅子にでも座って、暫く待っていてくれんかな」

「……はい、教授」

 自分がカーテスより遥かに非力だと自覚があるだけに、セルクはそれ以上何も言えずに素直に頷いた。

 扉を閉め、二人の足音が遠ざかるのを耳にし、セルクは傍にあった椅子に腰を下ろす。

 ——それにしてもボルステス教授も、用があるならここまで来ればいいのに。確かに同郷で気安くはあるんだろうけど、歳なんか十歳以上も違う大先輩のヴァルファンス教授を呼びつけるなんて、いい度胸しているなぁ……

 ボルステス教授の愛嬌のある髭もじゃな丸い大きな顔を思い出し、セルクは呆れると共にちょっぴり羨ましく思った。あのくらい度胸があれば、自分も実技試験で逆上(あが)がって失敗する事もないだろうにと。

 実を言うと五歳の頃大怪我をし、退屈していたベッドの上で読んだアルセリオンの民の話に惹かれ、以来友達と殆ど遊ぶことなく家に籠ってそれ関連の読書に明け暮れたセルクは、気が付いたら人前に出るのが苦手な、かなり人見知りする性格になってしまっていた。

 毎日顔を合わせる者ならば段々慣れてその限りではないのだが、頼る人が誰も居ないたった独りの状態で年に二回、いや試験の度に顔ぶれが変わるから一年以上も会わない試験官に大人数で注視されると、別にやましい事をする訳でもないのについ怯んでしまうのだ。その上じっと見詰められているとその視線に堪え切れず、頭の中が真っ白になってしまうのである。

 まさにルーサーの実技試験は、セルクにとって地獄以外の何ものでもなかった。普段面識のない試験官の教授達の前に立った途端思考と言語中枢が麻痺し、ルーンが一言も口から出て来なくなるのだ。その姿は殆ど蛇に睨まれた蛙である。

 ——ヴァルファンス教授は、四、五回くらい落ちても気にする事はないっておっしゃったけど、これがどーにかならない限り、十回どころか百回挑戦したって受からないかもしれない……

 灰白色の石造りの天井を見上げ、はぁっとセルクは溜息をついた。

 ——試験官の教授達があんなに怖い顔してじろじろ見なければ、簡単なルーンなら、何とか頑張って唱えられるかもしれないんだけどなぁ……

 自信なさげに心の中で呟き、セルクは視線を足許に落として目を閉じた。

 そして呼吸を整え、(おもむろ)に澄んだ伸びやかな声でルーンを唱え出す。

太古より共に在りし我が友よ(ファム・ル・シル・エル・フレト)その力を我に貸し与え賜え(セラ・エル・ファラーナ)……」

 それは流れるような美しい独特の音律(しらべ)を伴い、まるで歌を唄うが如く典雅な響きを有した言葉だった。アルセリオンの言語が美しく、正確に発音するのが難しいと言われる所以である。

我が望みたるは(エル・アルーラ)大気の柔らかな息吹(シルフィート・フレア)穏やかな風となりて(ラ・シル・セレント)その調べを奏でよ(レ・メルセレーラ)

『…——望し時空へと(アルス・サークセラ)我が身を導き賜え(エルミラ・セレステーナ)……』

 不意に、セルクのルーンに別のルーンが重なった。異なる二つのルーンは見事に調和し、一つのハーモニーを生み出して部屋の中に響き渡る。

 ——えっ!?

 ぎょっとして、セルクは周囲をキョロキョロと見回した。

 今彼の声に和したのは、涼やかな女性の声だったのだ。

 だが、扉は閉まったままだ。部屋の中には自分以外誰も居ない。

 第一この学院は創立以来女性の入学生は一人もいなかった。それに女性立ち入り禁止という訳ではないが、教授や事務員に至るまで男しかいない。学院内で女の人の声が聞こえること事態おかしな話だ。

「空…耳…だよね……」

 うそ寒そうに、そうセルクが呟いた時だった。

 突然、突風(かぜ)が部屋の中に湧き起った。

 ルーンが効力を発揮したのだ。が、セルクが唱えたのは、そよ風を起こすルーンの筈だった。間違ってもこんな激しい風を起こすものではない。

 重厚なオーク材の机上に置かれた書類を巻き上げ、部屋中に撒き散らす。

「うわっ」

 思わずセルクは腕で顔を庇った。

 一頻り部屋の中を荒れ狂うと、何事もなかったように唐突に突風が止む。

 後にはひらひらと空を舞う書類だけが残され、セルクは呆然とそれを見ていた。

 が、その瞳が不意に大きく見開かれる。

 舞い落ちる書類の向こう側に、意外な人物を見出したからだ。

 セルクに背を向けているので顔は分からないが、彼と同じ蜂蜜色した長い柔らかそうな髪を綺麗に結い上げ、古風なドレスを身に纏った気品のある女性だ。

 一冊の薄い本を手に、こちらもやや茫然としたように佇んでいる。

 ——誰? この女性(ひと)……

 一体何処から入って来たのか。セルクが唖然としていると、彼女は斜め横にあった窓の外に目を留め、歓喜に頬を染めて突進するような勢いで窓辺に近寄った。

 窓の外に手を伸ばそうとし、その直前でピクリと手を止めた。

 そして何度か躊躇(ためら)うように手を前に出し、やがて諦めたように手を降ろす。

 悄然と溜息をついて女性は窓に背を向け、そしてセルクと同じ澄んだ瑠璃色の瞳を大きく見開いた。

 歳の頃は二十歳前半だろうか。知的な整った顔立ちをしている。

 目が合った途端、全く見覚えがないのに何処かで会った事があるような無いような、そんな既視感(デジャビュ)をこの見知らぬ女性に感じてセルクは思わず息を呑んだ。




 時々無性に書きたくなるので、かなり不定期ですが上げていきたいと思います。
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