「貴方は……誰? ここで何をしているの?」
漸くセルクの存在に気付いた女性が、さっき彼がルーンを唱えた時聞こえた、あの涼やかな声で訊く。
呆気に取られていたセルクは、ハッと我に返って慌てて応えた。
「え…あっ、ぼ、僕はセルク。
「ヴァルファンス教授?……」
謎めいた女性は、形の良い柳眉を
初めて聞く名なのだろう。考え込んでいるが、心当たりがないようだ。
「悪いけど、ウズベィク教授を呼んできて貰えないかしら」
「ウズベィク教授?」
今度はセルクが首を傾げた。聞いた事が無い名前である。
「あの、その教授は何処の学科の教授ですか?」
アルセルスの専門課程には音韻
「音韻言語学科よ」
「音韻言語学科って……」
簡潔に口にした女性の学科に、セルクは困惑した。
同じ学科でも余り面識のない教授はいる事はいるが、流石に名前は全て憶えている。だから他の学科の教授だと思ったのに、まさか音韻言語学科の教授だとは。
「あの、その教授は本当に音韻言語学科の教授なんですか? 僕聞いた事がないんですけど……」
「じゃあ、セルデス教授は? マルケイド教授でもいいわ」
少年の言葉に女性は眉根を寄せて更に別の教授の名を挙げてみたが、自分と同じ髪色の少年の表情からしていずれも知らないらしい。
どうしたものかと思い悩んでいると、今度はおずおずと少年が声を掛けて来た。
「あの、貴女は一体誰で、何処から入って来たんですか?」
先に質問されて今まで聞き損ねていたが、そこがまず肝心な処だ。
勇気を振り絞ってセルクが訊くと、女性は思わず目を瞬いた。
「あぁ、まだ言ってなかったわね。私の名はエル・スティシア。
「ルーサー……」
意外な言葉にセルクは呆然となった。
それはアルセルス独特の学士の称号だ。入学してしっかり学んだ者しか取れない筈の称号を、どうやってこの女性は取ったというのだろう。
「ええ、ウズベィク教授の研究室にいたんだけど……」
応えながらエル・スティシアは目の前の少年をじっと見た。
この歳頃ならまだ基礎課程を学んでいる頃だろう。それなのに専門学科の教授はまだしも、その担当の教授達の名を知らないなんて事があるのだろうか。窓から見える時計塔は間違いなくアルセルスのシンボルタワーである青の塔なのに、何かがおかしい。
ふと、手に持つ本の表題に視線を落とし、ハッとなる。
——まさか……
ある事に思い至ったエル・スティシアは、顔を強張らせて傍らに立つ少年に目を向けた。
「ねえ、セルク。ちょっと訊くけど、アルセルスは今年で創立何年かしら」
「え?」
今の会話の流れから、どうしてそんな事を訊くのか。予想外の質問にセルクは目を瞬かせた。
だが、エル・スティシアは真剣そのものだった。
「これはとても重要な事なの。お願いだから答えて」
ずいっとセルクに詰め寄る。
「え、えぇっと……」
年上の美人に迫られるという初経験にかあっと顔を赤めらせ、セルクは動揺しながらこの学院の創立について必死に思い出した。
——た、確かここが出来たのはアゼス歴三百五十五年で、僕が入って二年目に創立五百十年の記念式典をやったから……
「だ、大体五百十五年くらい…かな?」
「五百十五年………」
その答えにエル・スティシアは茫然となった。
全身の力が抜け、その場にぺたりと座り込む。
——そんな、私があの虚無の空間に囚われている間に三百年も経っていたなんて……
だからここの学生であるセルクが、ウズベィク教授達を知らなかったのだ。教授達だけでなく家族や友達、懐かしい人々は皆既に死んでしまっているのだから。
自分が考え無しに馬鹿な真似をしてしまった所為で、もう二度と会えない……
ポロリと瑠璃色の瞳から涙が零れ落ちる。
——えぇっ、なんで!?
いきなり涙を流したエル・スティシアにセルクは仰天した。
ちゃんと答えた筈なのに何が悪かったのか。初対面の女性を泣かすというこれまた初体験にどうしていいか判らず、セルクは
そんな彼に気付かず、エル・スティシアは頬を涙で濡らしながら、手にする本をぼんやりと見詰める。
——やっと……やっとここまで戻って来れたのに……
あの時ルーン・レム・サークセラを唱えたのは、アルセリオンの民達が通った時空の道が本当に開くかどうか確認するだけで、彼等の後を追うつもりはなかった。
だから道が開いた時点で止めるつもりだったのに、一瞬扉の外でしたあの人の声に気を取られて道が開く前にルーンを途切れさせてしまった。
でもルーンはきちんと意味を成せば途中で途切れたとしても、そこから続けて最後まで唱え切れば効果は得られる。
けれどあの時それをする前に、いきなり光が弾けるように道が開き、そして物凄い勢いでその中に吸い寄せられてしまったのだ。
最後に見たのは、額に血を流し自分に向かって手を伸ばす彼の必死な
そして、光の奔流に呑み込まれた後、気が付けば研究室の一部と共に何もない空虚な暗闇の中にいた。
それからずっと、エル・スティシアはルーン・レム・サークセラを唱え続けた。
一緒にこの異空間に呑み込まれた部屋の一部の中にあった資料なども読み漁り、新たな道を開く為に努力した。どのくらい失敗し続けたか彼女自身ももう憶えていないくらいだ。
それでもエル・スティシアは諦めなかった。こんな形で終わりにしたくはなかったのだ。自分の夢も、懐かしい人達の許に戻る事も。
なのに、その結果がこれとは。今更だが後悔してもしきれるものではなかった。
頬を伝わる涙が、ポタリポタリと手に持つ本の表紙を濡らす。
それを拭うように、エル・スティシアは無意識に指で表紙に刻まれた文字をなぞった。
『
空間に関しては不完全ながらあの虚無の空間を脱してここまで戻って来られた。でも時に関しては——
そこまで考えて、エル・スティシアは不意に睨み付けるように表題の文字を見詰めた。
そう空間に関しては一応上手くいったのだ。ならば時に関しても何とか出来るかもしれない。自分の望むままに時と空間——時空を渡る事の出来るこのルーン・レム・サークセラを、今度こそ完璧に唱える事さえできれば。
——まだ諦めるには早いわ!
たとえどんなに絶望的でも、何処までも前向きで諦めの悪いエル・スティシアだった。流石自分の夢の実現の為に、男しかいないこの学院に女だてらに入学しただけの事はある。
ここに至るまでの事を頭の中で整理し、涙を拭って立ち上がるとエル・スティシアは近くでオロオロする少年に目を向けた。
「ねえ、セルク」
「は、はいっ」
いきなり名を呼ばれ、驚いたセルクは直立不動になって返事した。
「さっき、ルーンを唱える声が聞こえたのだけど、それは貴方なの?」
自分の
「う、うん」
確認するエル・スティシアに、セルクは素直に応えた。
「そう、それはどんなルーン?」
「えっと、そよ風を起こすルーンだけど……」
「そよ風を?」
部屋の床のあちこちに散らばる書類を見る限り、とてもそよ風が吹いた様に見えない。
足許にあったその書類の一つに目を留め、エル・スティシアは思わず疑わしそうな声を上げる。
「ええ、本当ならこんな風に強く吹かない筈なのに、途中貴女のルーンと重なって——って、何を見てるんですかっ!?」
その時の様子を語るセルクは、彼女がじっと書類の内容に目を通しているのに気付き、慌てふためいて床に落ちているそれを拾い上げた。
それは彼の過去のルーサーの資格試験の結果を記したものだった。
「貴方、その歳で専科の学生だなんて凄いわね。——でも、そよ風を起こすルーンなんて本当に唱えられるの?」
一応感心してみせたものの、エル・スティシアの瞳にはありありと疑惑の色が浮かんでいる。まあ、あの試験結果を見れば誰だってそう思うだろう。
「そ、それは——」
実技試験だと、試験官の教授達が自分をガン見する顔が怖くてルーンが唱えられない——とは、恥ずかしくて言えない。
「じゃあ、今ここでもう一度そのルーンを唱えてみてくれない?」
口篭もり視線を逸らす少年に、エル・スティシアは頼み込んだ。
今まで何の効果もなかったルーン・レム・サークセラと今回のそれの何処か違うのか、その原因を知る為にももう一度そのルーンを聞いてみる必要がある。
「ね、いいでしょう?」
「うっ……、うん……」
再びずいっと迫って来たエル・スティシアにドキマギしながらセルクは頷き、慌ててくるりと背を向けた。真正面から見ていられると、一人でも実技の二の舞になりかねない。
セルクは何度も深呼吸を繰り返して心を落ち着かせ、背中に感じるエル・スティシアの視線を意識外に無理矢理追い出した。
「じゃあ、いきます」
と、一息ついて静かにルーンを唱え出す。
「—
再び友である自然に語り掛け、助力を乞う。
伸びやかな澄んだ声は何処までも透き通り、紡がれるルーンは美しい音律と共に部屋の中に広がり大気に溶け込んでいく。
そしてその全てを唱え終わると、不意に頬をくすぐる様にふわりと空気が動いた。
少し癖のある蜂蜜色のセルクの髪が軽やかに跳ねる様に揺れる。
一頻り自分を呼び出した友との密やかなふれあいを楽しんだ
「……凄いわね……」
想像以上の出来にエル・スティシアは思わず感嘆の声を漏らす。
それなのに何故あんな無残な試験結果が出てくるのだろう。内心で首を捻りながら、エル・スティシアはその結果に満足した。
「それじゃあ、もう一度同じものを唱えてみてくれる」
何とか無事唱えられたとホッとするセルクに更なる要求を突き付け、有無言わせずにやらせる。
そして今度は自分もそれに和するように、エル・スティシアは別のルーンを唱えた。
すると、さっきのセルク一人の時よりも広範囲に風が強く起こり、床に散らばる書類が宙を荒れ狂う。エル・スティシアがここに現れた時と同じか、それ以上に。
同時に部屋全体に霧が立ち込め真っ白になる。
エル・スティシアのルーンの効果だ。空気中の水分を少し蒸気に変える筈が、規模が予想以上に大きくなっている。
複数の術者によって同じルーンを唱え、それが重なり合って綺麗に和すると共鳴して相乗効果をもたらす事がある。つまりルーンの効果が増幅されるという事だ。
それぞれの効果が増幅されて現われた今回の現象も、違うルーンではあるが二つのそれが期せずして見事な調和をみせ、同じような効果を生んだと考えられる。
そのお蔭でエル・スティシアは、ずっと囚われていた虚無の異空間から出て来られたという訳だ。
「——やっぱり、私独りの詠唱では無理なのね……」
ルーンの効果の消えた部屋の中に立ち尽くし、エル・スティシアは肩を落とす。
研究室の資料を漁って色々と試して薄々そうではないかと思っていたのだ。けれどそうなるとこのルーン・レム・サークセラの力を十全に発揮させるには、何かルーンの力を増幅させる物が必要だという事だ。
エル・スティシアはパラパラと本を捲って最後のページを出した。
長々と何ページにも渡って書かれているルーン・レム・サークセラの最後の一文に視線を落とす。
そこには『——
あの虚無の空間から抜け出そうと何度もこれを唱えて気付いたのだ。最後にこの言葉を唱えるのは不自然ではないかと。実際ここだけ他と韻律が違っていた。
どうしてなのだろうとずっと疑問に思っていたが、漸くこの
「ねえ、セルク。一つお願いがあるのだけど」
「えっ」
今度は何?
ギクリとしてセルクは思わず身構えた。
全然状況が呑み込めないまま、突然現れた女性に問答無用で振り回され、精神的にはもう一杯一杯なのだ。それなのにまたお願いだなんて、今度は何をやらされるかと戦々恐々とするセルクだった。
そんな三百年後の後輩に、エル・スティシアは手にした本を自分と共に現れた机の上に置き、書棚にある一冊の本を手に取って開くとセルクにそれを見せる。
見開きの片面一杯に一輪の花が精密に描かれてあった。菱形をした青味がかった銀色の五枚の
見た事も無い綺麗な花にセルクが見入っていると、エル・スティシアはそれに付いて説明した。
「この花はファランスと言って、洞窟などの暗闇の中で花弁が銀青色に淡く発光する地中花なの」
透き通る様に薄い五枚の花弁は鉱物のように硬く、その花弁の一枚を震わせると他の花弁がその振動に共鳴して美しい音色を奏でると
そう、この花は
今までずっとルーン・レム・サークセラの一部だと思われていたこの
ルーン・レム・サークセラを唱えるには、ルーンに共鳴し力を増幅させるこの花が必要なのだと。でなければ本当の意味での時空の道は開かれない。
「この花がどうしても必要なの。だから貴方に取ってきて欲しいの」
「僕に取って来てって……、貴女は行かないの?」
欲しいなら自分で取ってくればいいのに。
そう思ったセルクにエル・スティシアは淋しそうに微笑んだ。
「それが出来れば一番いいのだけど……」
と、すっと目の前の少年の体に手を伸ばした。
「——っ!?」
セルクの瑠璃色の瞳が驚愕に大きく見開かれる。
エル・スティシアの手が自分の体に触れたかと思ったら、そのまま体の中を突き抜けてしまったのだ。
声にならない悲鳴を上げ、セルクは焦りまくってエル・スティシアから離れた。
手が減り込んだ胸の辺りを押さえ、伸ばされたままの彼女の手を見る。
胸には傷も痛みもなく、またエル・スティシアの手にも血は付いていない。
一体何がどうなったのか、理解の範疇を越えている。
「空間にズレがあるのよ」
大混乱に陥っているセルクにエル・スティシアは説明した。
姿が見えて話ができる。同じ場所にいる様に見えても、実は二人は全くの別空間に存在しているのだ。だから触れようとしても触れる事が出来ないのである。
あの時、エル・スティシアが窓の外に手を伸ばそうとして出来ずに諦めたのは、彼女が今いる空間がそこで途切れていたからだ。今の彼女が動ける範囲は共に異空間に引き込まれたウズベィクの研究室内だけだった。
確かによく見ると壁や建付けの書棚などが微妙にズレで二重に見える。
つまり、彼女は未だに異空間に囚われたままという事だ。
ここから出るには、やはり完璧なルーン・レム・サークセラを唱える必要がある。その為にもファランスの花は絶対に欠かせない。
「ここより私が出られない以上、貴方に頼むしかないの」
「でも僕、それが何処に生えているかも知らないし……」
「リンファリア遺跡の裏手にある洞窟の中よ。そこがファランスの群生地らしいわ」
尻込みする遥か未来の後輩にそう言うと、エル・スティシアは朗々とルーンを唱え出す。
「ファム・ル・シル・エル・フレト、セラ・エル・ファラーナ——」
「リ、リンファリア遺跡って、まさかアルセリオンの!?」
セルクが驚きの声を上げるが、エル・スティシアはそれに構わずルーンの詠唱を続ける。
「
「ちょっと待って、何を唱えてるの?」
何だか聞き覚えのないルーンに、セルクは不吉な予感が胸一杯に膨らんでいく。
その焦りの声に、唱える
「心配しなくて大丈夫よ。取って来るのにそんなに時間が掛からない様にするから」
「え?」
「ところで貴方タラスって村知ってるかしら? スターニス地方にあるのだけど」
「タラスは僕の故郷だけど……」
「そう、丁度良かったわ」
何が丁度良かったのか。リンファリア遺跡と自分の故郷に何の関係が?
全く脈絡のない事ばかり言うエル・スティシアに困惑するセルクを余所に、彼女は嬉しそうに言葉を継ぐ。
「じゃあ、頭の中に村の風景を思い描いて」
「え?」
「さあ、早く」
途惑うセルクを促し、しっかりと故郷の懐かしい景色を思い起こさせると、エル・スティシアは最後の
「——
次の瞬間。
何がなんだか分からないまま、セルクは掻き消すようにその場から姿を消した。
——これで、今度こそ完璧なルーン・レム・サークセラが唱えられる……
期待を胸にエル・スティシアはふうっと息をついた。
その耳に、ガチャリと扉の開く音が響く。
「セルク、待たせてすまなかったのう」
扉を開けながら、戻ったヴァルファンスが中にいる教え子に声を掛ける。
「思った以上にボルステス教授が溜め込んでおった——」
と、言い掛けた声を途切れさせ、ヴァルファンスは唖然として濃灰色の瞳を見開いた。
「教授、どうしたんですか? そこに居られると中に入れないんですけど」
開いた扉の前で棒立ちになる老教授に、資料の山を両手に抱えてついて来たカーテスが懇願する。
重すぎる手一杯の荷物を早く下に降ろしたいらしい。
だが、何かに気を取られているのか、ヴァルファンスからの反応がない。
どうしたのだろうと、カーテスは老教授の肩越しに部屋の中を覗き込み、これまた絶句して目を丸めた。
そこに居たのは歳若い学友ではなく、うら若き女性だった。それもセルクと同じ
まるでセルクが急に成長し、女性にでもなったかのようだ。
——そ…んな事……
有り得ないと頭で分かっていても、他人の空似というには余りにもそっくりな髪の色と瞳をしている。
だが、塞がっていた両手が空いたものの、カーテスは頬を抓るまでもなかった。
落とした重量級の資料の直撃を受けた足の痛みが、その女性がセルクかどうかは別として、目の前に在るのが紛れも無く現実のものだと教えてくれたからだ。
前回の後半部分です。
これで一応あらすじ部分は上げました。
この続きは……これから頑張ります。